風塵社的業務日誌

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関東大震災の日に 2017

2017年09月01日 | 出版
8月下旬の蒸し暑く、日差しの強いある日。九段下の法務局まで弊社の謄本を取りに行かないといけなくなった。九段まで本郷3丁目からは歩いて30分弱といったところだろうか。自転車ならばさほどの距離でもないのに、その自転車はない。地下鉄を使えば、乗り換え、乗り換えとなり、かえって面倒くさいだけだ。したがって、歩いていくしかしょうがない。ところが、蒸し暑さのため、歩いていると額から汗が吹き出てくる。よかった、ハゲ頭でなくて。しかし、あふれる汗を拭いているうちにハンカチがグショグショになってくる。
今年の8・15は安国・ウォッチングに行かなかったので、九段下に行くのも久しぶりとなる。そこで、神保町から九段下交差点に差し掛かったら、同潤会アパート風(?)の古風な建物がすっかり更地になっていることには驚いた。そのなかに入ったことはないものの、概観からして昭和初期の建造物だったのだろう。せっかく戦火を潜り抜けたものなのだから、なんらかの保存の方法はなかったものだろうか。いささか残念な気持ちにはなる。そしておそらくは、原宿の表参道ヒルズのようにモダンな商業施設を造り、その一部に昔の名残をとどめることで、伝統を継続していますよ的な売り出し方をするのではないのだろうか。なんだかなあ、そういうあり方には違和感を覚えてしまう。
一方で、こうした小生の感慨は、「徒然草」で吉田兼好が皮肉に表現しているように、歳をとって毛が抜け落ちたみすぼらしいむく犬をありがたいと覚えるようなものなのかもしれないとも認識する。そして、現在の東京がオリンピックバブルにあることは現実であり、そのバブルの間に儲けるだけ儲けようとする人たちを批判することはできない。しかし、その方向が間違っていると指摘することはできるだろう。批判ではなく、ただのサジェスチョンなのだ(笑)。単純な話、いまは儲かっている人たちも、バブルがはじけたらどうするの?という過去の教訓を思い出せばそれで充分なのだから。
そういえば、もう30年近く前のことになるが、鶯谷にも同潤会アパートが残っていたように記憶している。そしてそれが、小生にとって初めて出会った同潤会アパートであった。確か、大きな団地群のなかを意味もなく自転車でぷらぷら徘徊していたら、突然にレトロな建造物に遭遇してしまい、なんとも絶句してしまったというような印象だったと思う。こんなところにまだ人が住んでいるのか、それとも何か意味のある建物なのか、という疑念が走ったというわけである。それで調べてみたら、関東大震災の被災者を収容するために造られた、当時としてはウルトラモダンな団地であるということを知ることになった。
同時に、当時の東京市では公園整備にも乗り出している。弊社の近くでは元町公園(本郷1丁目)がその典型なのであるけれど、なにかのときの避難先となる場所を公園として整備し、水場とトイレ施設を常用できるようにしている。こうした施策は後藤新平によるものなのだろうか。後藤の掲げた東京復興計画はあまりに規模が大きすぎて予算も足りず、ごく一部しか実行されなかったという内容の本を読んだ記憶があるけれど(書名は失念)、その政策的な評価はどうなのだろうか。いまは亡き鶴見俊輔氏にでも聞いてみるしかないことだろう。
単純な疑問として、後藤も国の復興予算が足りないことはわかっていたはずだ。そこで、彼が大風呂敷を広げようとしたその動機が何なのかを知りたいということである。鶴見氏のお名前を出したのは冗談にすぎないが、後藤新平に関してそれなりに本が出ていることは知っている。しかし、そこまで小生の読書が至ってないので、ご親切な方がいらっしゃればどの本が示唆的なのかご教示いただきたいということである。
そして、関東大震災には現在進行形中の二つのことが重なってしまう。一つは先ほどのバブルの問題にからむフクシマの復興の問題である。もう一つは、在日コリアンへのヘイト問題だ。後藤新平の復興処理もうまくいかなかったけれど、フクシマはさらなる惨状を呈しているわけである。放射能汚染の地下水が福島沖にダダ漏れ状態なのだ。小生は、福島・茨城沖での魚は食べたくない。オリンピックバブルで建築資材が沸騰なんて話は、ふざけるな!である。オリンピックなんて早々にやめて、目指すべきはダダ漏れ状態をどうにかすることだけではないかと主張したい(凍土壁なんて近々無意味になることだろう)。
そして次のヘイト問題だ。ネット上だと、どうしてこんなに一部の人は在日コリアンへの憎悪をむき出しにできるのだろうか。いや、われながらこの疑問形は論理的におかしい。「ネット上」なるものが、震災という非日常では殺戮に転化したというのが過去の事例であって、そこに向き合っていない。そして、「一部」といえるのかどうかという根本的な問題(つまり、おまえもだろという問いかけ)から目をそらした論理形式になっている。したがってそれは、ネットの特殊性に帰着できない問題なのだということになる。
ここで、小生が若いころ勤めていた出版社の社長が在日コリアンで、こいつが本当にいやな奴で、という話を展開しようかと思っていたのだけれど、面倒くさくなってきたので本日はここまで。

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