風塵社的業務日誌

日本で下から258番目に大きな出版社の日常業務案内(風塵社非公認ブログ)

福岡に行きたくない

2021年09月27日 | 出版
本年6月、福岡まで行かねばならない用事があった。それが終わったので、しばらくは福岡に行かなくてすみそうだと考えていた。最低でも向こう10年くらいは、行かなければならない必要性もないだろうということだ。そこで、もしかしたら、これが最後の福岡行きになるやもしれぬという気分で、福岡行をこのブログ上に記していた。ところが、それが完結する前に、来年もまた福岡に行かないといけないかもしれない、という状況に陥ってしまったのだ。おかげで、福岡について記すのがすっかりいやになる。
そして数日前、「今度の年末年始、福岡の実家に帰りたか」と妻が言い出した。「なにしに行くん。そりゃ、あんたが行くんはかまわんばってんな、わしまで行くこともなかろうもん」と応える。そして内心では、「年末年始にかみさんおらんと、静かでうれしいなあ。またジョギング三昧にでもしようかな」とひとりほくそえむ。ところが、小生のその心のうちを見透かしたように、「あんたも付いてくるに決まってるでしょ!」げな。エーッ、正月の福岡なんて、まったく行きたくない。
そもそも、福岡市の冬は寒いのだ。日本海側気候のため太陽のない街となるし、湿った北風がビュービューと容赦なく吹き付けてきやがる。そのうえ、美味いものがたいしてない。美味いか美味くないかは主観的なものであるから、ここは、小生の好きな食べものがたいしてないと表現すべきであった。そして、少しは改善されているとは思うものの、福岡市の水は臭くてまずい。これは絶対的な評価である。福岡市は1級河川に恵まれていないため、ため池ダムの水を飲料としているから(最近では海水の淡水化もしている)、しょうがないのだ。小生が東京に出てきたのが30年ほど前であったが、東京の水道水って美味いなぁと感じたくらいであった。そのまずい水が料理の基本となるのであるから、品がまずくてもいたしかたあるまい。そこをごまかすためなのだろうか、どの料理も過剰に甘くて小生の口にはあまり合わない。これは相対的な評価である。その福岡の年末年始に行って、食べたくもないおせち料理に箸を伸ばさなければならないとなると、苦行でしかないように感じてしまう。
という理由で、年末年始に妻が福岡に行くと言ったら、羽田までは笑顔で付いて行きたいものの、そこからは自由時間を満喫したいところである。そもそもが、友人宅などで夕飯をご馳走されることが、ガキのころから苦手であった。何度も記しているけれど、小生の場合偏食が激しいので、ご馳走などふるまわれても口に入れたくないものが多すぎた。その点お店ならば、口にするものを選択することができるけれど、相手が友人の母親ともなるとその逃げ場が最初からない。小生のきらいなものを笑顔で勧められるのは、拷問でしかなかった。それは、妻の実家といえども同じことである。
さらに、これまた何回も述べてきたが、加齢とともに新陳代謝も落ちている。若いころとちがって、夕食はさほど食べたくない。アルコールだけで充分となっている。そして最近、1日1食という人と出会うことが増えてきた。聞いてみると、夕食はとるけれど、朝昼は食べないということのようだ。その夕食時にアルコールも入る。要するに、酒を呑みながらジャカスカ食べる。空酒を夕食代わりにしている小生と、1日に晩飯1食とでどちらが体に悪いかという問題でもあるが、健康にさして関心のない小生にしてみれば、どうでもいいか。
最近仲間になったAさんという方がいる。彼は料理が得意で、Yさんから送られてきたシシトウを炒めさせたら絶品ものを作る。そのAさんも1日1食系なのだが、「せっかくいい腕をしているのに、なんで自炊しないんですか?」とたずねてみたら、「自分だけが食べるものに、この技術を使いたくない。料理というのは、やっぱり、みんなで食べてこそおいしいんです」げな。フ~ム、納得できるようなそうでないようなお答えだけれども、彼の言わんとしたいところもなんとなくわかる。彼の炒めたシシトウを、Iさんの持ってきたクラッカーと合わせて食べてみたら、なんとも絶妙な味わいであった。それを「おいしい」「おいしい」と複数で共有する空間に、Aさんはなんらかの価値の方向性を感じているのだろうと、勝手に想像する。別の言い方をすれば、それがAさんにとってのコミュニズム(共同体性)ということなのだろうか。
これまた以前に述べたことの繰り返しとなるが、朝日新聞の1面に鷲田清一氏が「折々のことば」なるものを毎日連載している。その一つに、「カンパニー」とは「com+pan」=「パンを共にする仲間」というのがあった。現在の新自由主義的な資本形態からはほど遠いものの、そもそもの会社のあり方とはそういうものであったのだ。そしてそのcomは、コミュニズムのコムである。鷲田氏にそこを指摘されて、小生など目からウロコの気分となった。
小生も関わるあるグループがある。そこにYさんが善意で送ってきたシシトウをAさんが調理し、Iさんの持ってきたクラッカーと一緒に食べ、その場にいる人々がおいしさに舌鼓を打つ。ここにコミュニズムの萌芽を見出すのは難しくはない。一方、そんなことは大昔からあったでしょという、至極真っ当なご意見も予想される。つまりコミュニズムとは、高度資本主義化する資本の増殖過程から生じる矛盾をマルクスが定式化し、それを実践としてレーニンが革命として示した云々というご理解だ。それを否定しないが、その場合のコミュニズムは共産主義とでもしておこう。小生が述べているコミュニズムは共同体性ということである。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (博多マン)
2021-09-27 23:39:52
2度とふくおかに来るな笑
返信する

コメントを投稿