風塵社的業務日誌

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団地住まい

2010年04月17日 | 出版
いまではすっかり忘れ去られた思想家に、橋川文三という政治学者がいる。学生のころ、書名はすっかり忘れてしまったのだけれど、テロリズムの資料集の解題を橋川氏が担当されていて、そこに「テロとは、人間という恐るべき動物が行う究極の自己表現である」というようなことを書かれていて(おぼろげな記憶なので、かなり不正確)、それがずっと気になっていた。確か、井上日召や226の青年将校の手記などを集めたようなものだったように記憶する。その後、大学の図書館にあった橋川文三全集(選集?)で『日本浪漫派批判序説』(1960年)の前半だけパラパラと読み、なんだか面白そうだなあとは思ったものの、そこで批判されている保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)や小林秀雄に関心もなく、彼らの本はほとんど読んだこともないので、そのまま現在に至っていた。
ところがどういう風の吹きまわしか、突然その『日本浪漫派批判序説』が読みたくなり、講談社文芸文庫版を購入して読むことにした。内容に関しては、まだ咀嚼できていないところが多く、いまそこに触れるつもりはないけれど、ある意味、感動的に読了した。それよりも、「初版あとがき」を読んでいたら、初版は未来社から刊行されたそうで、そこに松田政男さんへの謝辞が書かれていて、これには少しくビックリしてしまった。へー、松田さんは、この本も手がけられていたんだ。
ということで、昨夜は、松田さんほか6名で酒を飲む機会があったので、早速、『日本浪漫派批判序説』について聞いてみた。ところが店内がうるさく、こちらがなにかをたずねると、「エー、聞こえない!」と不機嫌そうに耳に手を当てるので、なんだか質問しにくい。それでも、
「あの本は、丸山真男さんの紹介とかで、お弟子さんの橋川さんの本を出そうということになったんですか?」
「いや、ちがう。当時、『同時代』という同人誌があって、それを主宰していたのが、ヤスオカ(?)先生という、もともと北園高校で教えていたかたで、ぼくはその時北園高校に通っていたんだ」
「ヘー」
「そのヤスオカ先生は、ぼくを停学にしたりとかでどうしようもないんだけれど、橋川さんのものはその『同時代』に連載していた。それで、当時の未来社も自転車操業で、次から次に新刊を出していかないといけない苦しい状況だった。ところが、同人誌連載のものではあまりに短すぎたんだよ。橋川さんもそれまで編集者をしていたから、そこで話し合って、『同時代』のものを1部、それまで発表されてきた同じようなテーマのものを集めてそれを2部にしよう、ということになったんだ」
「そういう経緯だったんですか。それで売れ行きはどうでした?」
「よく売れたと思うよ。その後、未来社からは増補版ということで、焼き直したものを出しているし。橋川さんとは、ぼくが未来社を辞めたあとも交流があって、亡くなるまで続いたんだよね。そういう人は珍しいなあ。吉本隆明とかは、ヘンな取り巻きがつくようになってから、そいつらと一緒に酒を飲むのがイヤで自然と離れちゃったしね」
「そうなんですか」
「ああ、橋川さんは、引っ越した先の団地にたまたま井上光晴が住んでいて、それで井上光晴のところに行くと橋川さんにも会い、その逆の場合もあって、それでよく会ったのかなあ」
「松田さんは、竹内好さんともお付き合いがあったんですか」
「竹内さんの『魯迅』はぼくが担当編集者だったよ」
「ヘー」
「ああいう戦中派、橋川さんとか、吉本とか大正生まれの人を戦中派と呼んだんだけど、その中で橋川さんは1、2歳、年齢が上だったんじゃないかなあ」
「フーン。竹内さんは売れ行きどうでした?」
「橋川さんのほうが売れたよ。竹内さんは魯迅の影響で国民文学ということを言うんだけれど、当時は人民文学という名称の方がかっこいいという雰囲気だったから、国民文学って言うと人気が落ちちゃうよね」
(以上、文責腹巻。酒を飲みながらの話を記憶だけで再現しているので、実証性が弱いことを明記しておきます)
帰りの電車の中で、『日本浪漫派批判序説』を取り出し、橋川氏の年譜を眺めていたら、松田さんの記憶が正確であることにビックリした。これでまた、松田政男への敬愛の念がより一層強くなるなんてことは、まったくありえない。それでも、十分に尊敬していますよ。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)
橋川 文三
講談社

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