ピカソ・マニマニア

ピカソの91年を 詩にしました。
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セザンヌにゃ敵わない

2022-11-30 21:56:24 | ピカソ
 



洗濯船での生活は 貧しいけれど 活気に満ちた日々でした。 新しい何かを求めて 詩人、画家、評論家、色んな人たちが ピカソのもとにやってきました。
そうそう マックス・ジャコブの肖像画の傑作を描いた モディリアーニも 一時期ここに住んでいました。


金銭的に余裕が出てきた ピカソとフェルナンドですが、少しづつ 生活にズレが生じてきます。 だんだん贅沢になっていくフェルナンドが 生来ケチなピカソの気に入りません。  
フェルナンドは 帽子道楽でした。 そうでした フェルナンドの実家は帽子屋、
捨ててきた筈の 過去でしたが。






          セザンヌにゃ敵わない



      ブラックが描いたのか
      ピカソが描いたのか


      セザンヌは言った

     『自然を 円筒、球、円錐によって扱う』

      誘発されたピカソが行き着いたのは
      徹底的にレアリズムを排斥した
     ”アヴィニョンの娘たち”

      ただ一人理解したブラックと
      新しい画法を模索すべく
      共同生活を始めたが

      対象を立方にし バラバラに平面化
      暗い同色遣いの
      縦に広がる二人の作品は
      友人達にも見分けが困難

      やっぱり遠近法は重要さ
      セザンヌにゃ敵わない


      ピカソが貼ったのか
      ブラックが貼ったのか

      建築業のブラックが
      お手のもの壁紙を絵に貼った
      ピカソも貼った

      籐椅子を表現するのには籐を
      新聞には新聞紙を 楽譜まで貼り
      貼って貼って貼りまくった パピエ・コレ
      そのものずばりのレアリズム!

      明るい色彩は戻ってきたが
      ピカソは何処へ行ってしまうのか


      1914年 ブラックは戦争に行った
      翌年 愛人が死に
      失意のピカソは キュビズムを離れる
      前線で頭部を負傷し帰還した
      ブラックのキュビズムはその後 低迷


      単純なまでに同じ題材を描き続け
      表現を昇華していった 

      そうさやっぱり
      セザンヌにゃ敵わない
      セザンヌにゃ敵わない





”アヴィニョンの娘達”を描いた時 ピカソの友人達は誰一人 この絵を認めませんでした。
マティスなど 怒り出した程です。  ブラックもそうでしたが 後に気持ちを
改め ピカソと行動を共にします。

フェルナンドと別れたピカソは エヴァという女性と知り合い たちまち恋愛関係になります。 この詩の中の愛人です。  病弱な彼女に ピカソは尽くし その死を看取ります。 絶対的に弱い立場の者には 優しいピカソです。
エヴァの肖像画は ありません。 パピエコレ、キャンバスに色んな物を貼っている最中の ピカソです。
エヴァは 肖像画の代わりに 絵の中に その名を残します。 
”MA JOLIE”(私の美しい人)   
”J‘AIME EVA”(私はエヴァを愛す)   等です。 


パピエ・コレ(貼り絵)は ピカソの父 ホセ・ルイスが 若い頃試みていたそうです。 ホセ・ルイスはなかなかの アイディアマンでした。 それがピカソの記憶の底に 残っていたのでしょう。  父親を無視したい、それに気づいた時の ピカソの焦りが 見えるようです。

天才は 一代では育たないのです。 しかるべき環境と教育 それに 本人の天分が必要。 モーツァルトだって ベートーベンだって そうですよね。




         風呼 でした    





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