そういえば最近は日本作曲家選輯を聴いてなかったな....と、ちょっと調べてみたら、前回の大澤壽人のディスクを取り上げたのが2007年の11月、かれこれ2年も空いてしまっていたことになる。このシリーズは音楽面はもちろんだが、知的歴史探究みたいな点でもおもしろく、決してお義理で聴いているような代物ではないのだが、ついつい置いてけぼりをしてしまう。当方が音楽的つまみ食いが過ぎてる故だろう、もっと時間が....いや、明晰な頭脳と記憶力が欲しい(笑)。さて、このディスクの主は須賀田礒太郎という人だが、もちろん始めて聞く人である。なんでも第二次大戦前の登場し、当時はかなり高い評価を得ていた人らしいのだが、戦後、音楽のトレンドが変わり、自身が1952年に亡くなっていることも手伝って、全く再評価されることなく忘れ去れてしまっていたらしい。従って、本ディスクのほとんどが世界初録音である。
収録曲は全部で4つ。1曲目の「交響的序曲」は1939年に作曲されたもので、先に取り上げた橋本の交響曲第1番、大澤の交響曲第3番と同じく、皇紀祝典2600年にちなんだ作品らしい。序奏部がついた単一楽章物となっていて、「紀元節」のモチーフを見え隠れさせつつ序奏部が進み、やがて祝典的な本編に入っていくという趣向である。序奏部は非常に長く(全体の半分はある)、純和風な趣を重厚だがやや焦点がないようなヒンデミット風なサウンドで表現し、アレグロの本編はやはりヒンデミットやショスターヴィチのようなモダンな軽快さがある音楽で、その頂点で「紀元節」が登場する仕掛けになっている。それにしても、この人に限らないが、当時の日本でこのような「機会音楽」がどのように扱われ、また聴いた人はどんな印象をもったのだろう。2曲目の「双龍交遊之舞」は1940年の作品で、これも皇紀祝典2600年にちなんで作曲されたものらしいが、国家的行事向けにやや気負ってつくられた感じの「交響的序曲」のスクウェアさに比べると、こちらは非常にシンプルな作品だ。日本的な雅楽を印象派、あるいはロシア、スラブ風のオーケストレーションで表現したといった趣だが、こうした音楽的傾向は、例えば伊福部先生もそうしたところがあったし、きっと戦前のトレンドだったのだろう。
3曲目のバレエ音楽「生命の律動」は戦後の1950年に作られた晩年の作品で、ストラヴィンスキーの三大バレーのボキャブラリーを使って、日本的な旋律や情緒を表現している作品になっている。第1部の不気味な序奏は「春の祭典」風、続く主部では「ペトルーシュカ」や「火の鳥」のような情景描写が現れる。続く、第2部、第3部も「春の祭典」的な導入から、「ペトルーシュカ」の情景風な音楽というパターンで進んでいく。もちろん、スラヴィンスキー的とはいっても、そこに表現されているのは日本的な淡泊な世界であり、肉食的なしつこさや凶暴さみたいなものは注意深く避けられている。特にリズム面はむしろ凡庸といいたい程まともである。とはいえ、ここまで似ていると、ちと物真似というかコピーみたいな感じがしてしまう。私のような素人が聴いてもそうなのだから、おそらく専門家が聴いたら感じるかと思ってしまうが、ライナーを読むと、「これはこれでポストモダン的作風の先取り」旨のことが書いてある、なるほど、そう聴けばおもしろいかもしれない。「東洋の舞姫」は1941年に作られたバレエ組曲からの一曲、これだけ初録音でないことからすると、昔からこれだけは有名なのかもしれない。曲は良くも悪しくも戦前の映画音楽かポピュラー・ミュージックみたいなムードがあって、そのエキゾチックな雰囲気は馴染みやすい世界を作っている。
収録曲は全部で4つ。1曲目の「交響的序曲」は1939年に作曲されたもので、先に取り上げた橋本の交響曲第1番、大澤の交響曲第3番と同じく、皇紀祝典2600年にちなんだ作品らしい。序奏部がついた単一楽章物となっていて、「紀元節」のモチーフを見え隠れさせつつ序奏部が進み、やがて祝典的な本編に入っていくという趣向である。序奏部は非常に長く(全体の半分はある)、純和風な趣を重厚だがやや焦点がないようなヒンデミット風なサウンドで表現し、アレグロの本編はやはりヒンデミットやショスターヴィチのようなモダンな軽快さがある音楽で、その頂点で「紀元節」が登場する仕掛けになっている。それにしても、この人に限らないが、当時の日本でこのような「機会音楽」がどのように扱われ、また聴いた人はどんな印象をもったのだろう。2曲目の「双龍交遊之舞」は1940年の作品で、これも皇紀祝典2600年にちなんで作曲されたものらしいが、国家的行事向けにやや気負ってつくられた感じの「交響的序曲」のスクウェアさに比べると、こちらは非常にシンプルな作品だ。日本的な雅楽を印象派、あるいはロシア、スラブ風のオーケストレーションで表現したといった趣だが、こうした音楽的傾向は、例えば伊福部先生もそうしたところがあったし、きっと戦前のトレンドだったのだろう。
3曲目のバレエ音楽「生命の律動」は戦後の1950年に作られた晩年の作品で、ストラヴィンスキーの三大バレーのボキャブラリーを使って、日本的な旋律や情緒を表現している作品になっている。第1部の不気味な序奏は「春の祭典」風、続く主部では「ペトルーシュカ」や「火の鳥」のような情景描写が現れる。続く、第2部、第3部も「春の祭典」的な導入から、「ペトルーシュカ」の情景風な音楽というパターンで進んでいく。もちろん、スラヴィンスキー的とはいっても、そこに表現されているのは日本的な淡泊な世界であり、肉食的なしつこさや凶暴さみたいなものは注意深く避けられている。特にリズム面はむしろ凡庸といいたい程まともである。とはいえ、ここまで似ていると、ちと物真似というかコピーみたいな感じがしてしまう。私のような素人が聴いてもそうなのだから、おそらく専門家が聴いたら感じるかと思ってしまうが、ライナーを読むと、「これはこれでポストモダン的作風の先取り」旨のことが書いてある、なるほど、そう聴けばおもしろいかもしれない。「東洋の舞姫」は1941年に作られたバレエ組曲からの一曲、これだけ初録音でないことからすると、昔からこれだけは有名なのかもしれない。曲は良くも悪しくも戦前の映画音楽かポピュラー・ミュージックみたいなムードがあって、そのエキゾチックな雰囲気は馴染みやすい世界を作っている。
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