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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー 交響曲第5番/バーンスタイン&ニューヨークPO

2007年02月11日 18時40分37秒 | マーラー+新ウィーン
 なんか、このところマーラーの5番の聴き比べにいそしむ毎日になってしまいましたが(笑)、マーラーの5番といえば個人的に忘れられないのは、私がこの曲を一番最初に聴いたバーンスタインとニューヨークPOの演奏。去年も書いたとおり、この曲についてはその後、様々な優れた演奏を聴いたせいで、あまり顧みることもなくなってしまっていた訳ですけど、やけに身振り手振りが大きく、ゴツゴツとして荒々しいまでに激しい演奏は、良くも悪しくも私の脳裏に焼き付いていていたことは確か。昨年のレビュウした時はそんな感触を楽しみたくて久しぶりに聴いた訳ですけど、CD化に際してどうもノイズリダクションをかけたらしく、ずいぶんおとなしい音になってしまっていて、すこしばかりがっかりしたものでしたが、今回は再び聴いてみたところやはり違和感が大きいです。

 私が聴いたLP盤の音はCBSらしい、やや躁病的といってもいいくらいハイ上がりな音なのに加え、楽器に近接したマルチマイク録音なのか、まるでオケのどまんなかで聴いているような感触があったものですが、CDの音はノイズリダクションのせいで(としか思えない)、残響はスポイル気味ですし、各楽器の輪郭がやや丸くなってしまっているんですね。まぁ、客観的に見ればこちらの方がオケの生演奏に近い感触なのかもしれせんし、ひょっとするとマスターの音もこちらの方が近かったりするのかもしれませんが、いかんせんLPの音質に慣れ親しんできた私にとって、この音はあまりに微温的というか「ぬるい音」にしか聴こえないんです。今回、一年ぶりに聴いてみた印象も、「絶対こんな音じゃなかったハズだぁ」という思いばかりが頭をかけめぐってしまい、聴いていて落ちつかないことしきりなのでした。誰もがいうことですが、CD化というのはクラシックに限らず、ロックでもジャズでもいつもリマスタリング万々歳という訳ではなく、マスターのヒスノイズを押さえようとノイズリダクションかけるのはクセもので、ノイズがなくなった分、音楽全体の鮮度が落ちてしまう....往々にこういうことがあるから油断できません(笑)。

 そんな訳で、「そんなら、私がLPの時に音に戻してやるぜ」とばかりに、Wavelabというスタインバーグ社の波形編集ソフトを使って、CD化に際して後退してしまった高域を復活させることにしました。復活....といっても、このソフトに同梱されたプラクインのEQを使うだけ、ヒスノイズあたりに該当する(と思われる)音域をぐっと持ち上げてやるだけです。初期の収録レベルが割と低目のCDだと音圧を上げるためにPouncherというプラグインを使ったりもしますが、このCDは比較的新しいのでEQを2箇所いじくるだけですませました。今、改めて出来上がったCDRを聴いていますが、60年代のCBSらしいあざといくらい冴えた、あの音が甦ってきて、「これだ、これだ」という感じ(笑)。なにしろざらざらとしたヒスノイズが聴こえてきますから....。厳密にいえば、もう少しいじるべきところはあるような気もしますが、こういうことをあれこれやるとドツボにはまるので、これで満足したいと思います。
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マーラー 交響曲第5番/クーベリック&バイエルンRSO

2007年02月10日 18時50分04秒 | マーラー+新ウィーン
 クーベリックの5番は確か初めて聴くものです。これまでメータ、ハイティンク、テンシュテットと同曲の演奏を聴いてきた訳ですが、個人的にはこれまでのところこれが一番違和感のないしっくりくる演奏という印象があります。マーラーはベートーベン流の「暗から明へ」という流れを持った交響曲を何曲作っていますが(他に第2、第7など)、この曲の場合、全体を大きく3部にわけた構成の明快さといい、全5楽章の感情の推移がごくごく自然に感得できるメリハリといい、マーラーとしては非常にわかりやすい部類の曲だと思いますが、ここでのクーベリックは主人公が葬送から冥府に至り、そしてやがて天上界へ解脱する....といった交響詩的な物語性はあまり重視せず、3楽章制(もしくは従来の4楽章制+1)の交響曲としてすっきりと演奏しているのがいいです。

 第1楽章から第3楽章までのダイナミズムやドラマチックさはほどほど、例えば第2楽章のグロテスクな第1主題など、続く哀切きわまりない第2主題を引き立たせるための、むしろ露払いのような形でさらりと演奏しているようすら聴こえるほどです。なんていうか、地獄の風景を見せることより、そこに遭遇した人間の恐怖感や畏敬の念をクローズアップしているとでもいったらいいか。私はこの第2楽章をふざけて「地獄巡り」と呼んだりもしているのですが、実はこの楽章の後半、大詰め近くで一瞬勝利の凱旋のような明るいムードに転じる部分があって(もっともすぐにかき消されるのですが)、このあたりその後の展開への伏線になっていたりするように感じたりもする訳ですけど、クーベリックだとこの明るさがひときわ印象的に感じたりもします。

 全体の中心をなす第3楽章は、クーベリックらしい東欧的なエキゾシズムを上品にかもしだしています。スケルツォのリズムを逆手にとったグロテスクさはほどほどで、先日取り上げた9番同様、トリオの田園的な部分になるとうわぁとばかりにクーベリックらしさを満開にします。ふたつめのトリオの美しさなど特筆ものでしょう。
 第3部を構成するふたつの楽章はやや早めのテンポで、これまたすっきりと演奏しています。アダージェットは官能的な美しさというよりは、ちょっとエキゾチックな天上の風景を見せつつも、緩徐楽章として性格をきっちりと押さえているという感じですし、最終楽章は主題が何度も回帰しつつ、大団円を迎えるロンド・アレグロ的な面を全面に出した演奏という感じがしました。

 ちなみにこの演奏は71年収録とのことですが、音質的にはバランスも良く(バイエルンのサウンドは極上ですし)、十分良好なものですが、全体の解像度やレンジ感のようなものは60年代のそれなのが惜しいところ。もう2,3年後だと、グラムフォンの音ももう一皮むけるんですが。
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マーラー 交響曲第5番/テンシュテット&ロンドンPO

2007年02月10日 00時28分05秒 | マーラー+新ウィーン
 テンシュテットのマーラーは、彼が売り出し中だった80年代前半、アナログ盤の頃からあれこれ聴いてますし、CD時代になってからもいろいろ買い込んだりもしてますが、正直に告白すると、何がいいのかさっぱり分からなかったんですよね。当初購入したのは、確か第5番のアナログ盤で、当時、廉価盤か中古盤ばかりを購入していた私がレギュラー・プライスの2枚組を購入したのですから、その期待度がわかります(笑)。しかし、実際聴いてみると、なにしろ音像がやけに遠いホールトーンを重視した録音に大きな違和感を覚えたのが致命的でした。とにかく音が遠いのに加え、ダイナミック・レンジを大きくとろうしたのか、第1楽章や第4楽章の冒頭の音量がやけに小さいのが、聴いていていらいらしてしまい、欲求不満になりがちだったのです。

 なにやら意味深で大きなドラマが展開していそうなのだが、それが眼前に迫ってこない、まるで対岸の火事のような他人事に感じるような音....に感じたのですね。これは次に購入した第7番も同様でしたし、CD時代になって少しは改善したかもと、期待して購入した5番から10番まで収めた各3枚組のセットを聴いてもあまり好転しませんでした。結局、私は「テンシュテットのマーラーは自分に合わない」と思うようになり、最近に至る訳ですが、今回5番のはしごをしている関係で、テンシュテットも折りにふれて聴いてます。
 今回聴いているのは最新のリマスターをほどこしたボックスセットですが、多少改善されているとはいえ、音質的な印象はほとんどかわりません。音がクリアになった分逆に混濁が目立つような気もします。ただ、メータとハイティンクという、個人的には決定盤というには、いささか躊躇するような演奏と平行して聴いたせいもあって、演奏そのものはなかなか良いものではないか?と多少思うようになってきました。

 まず、感じるのはマーラーの音楽が持つ、過剰な文学性や情緒のようなものを尊重しつつ、かなりモダンに表現されている点です。マーラーの音楽は70年代後半からそうしたところとは決別した、「あまり入れ込まない演奏」が主流になってきたように思いますが、テンシュテットはマーラーの世紀末的な情緒を全面に出しつつも、現代的な繊細さや端正な美しさ、そしてある種の軽さのようなものにも不足しないあたりが、80年代にあれほどもてはやされた理由だったのではないか思いました。実際、第1~3楽章あたりでは、テンポの設定や歌い回しにマーラーらしいエモーションを全面に出しつつも、楚々とした風情のようなものあって、相反する要素を違和感なくひとつの演奏として収束させているあたりはなかなかだと思いました。
 ただ、オケがいまひとつ機動性に欠けるというのは目をつぶるとしても、しつこいようですけど、なんとしても音質が自分の好みとあいません。この演奏をデッカ、あるいはフィリップスで収録したら、ひょっとすると大絶賛だったかもしれないと思うと、かえすがえすも残念ですね。
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マーラー 交響曲第5番/ハイティンク&ACCO

2007年02月07日 23時04分37秒 | マーラー+新ウィーン
こちらはハイティンクとアムスによる70年の演奏。マーラー指揮者としてハイティンクは日本での評価は今一歩地味なものがあるような気がするのですが、ヨーロッパではマーラー協会からメダルをもらったり、名誉会員になったりと高い評価を得ているようです。なにより60年代後半から70年代にかけて、ショルティより早くマーラー全集を完成させている訳ですし、ケン・ラッセルの映画「マーラー」ではこの全集からの音楽が使われていたりもしてますから、やはりあちらでは揺るぎないマーラー指揮者なんでしょう。もちろん、これもその全集からの一枚になります。

 内容は良くも悪しくもスタンダードな演奏という印象。前回とりあげたメータに感じたようなアレっと思うようなテンポ設定や妙な歌い回しなどひっかかるような違和感がなく安心して聴ける演奏なのですが、反面、ここは凄い、あすこはキレイだと特筆するところもないという感じなんですね。ある意味ではクーベリックに共通するような中庸の美徳のようなものが出た演奏ともいえますが、クーベリックのように端正な上品さだとか東欧的な叙情の美しさが際だっている訳でもなく、オケが女性的なアムスだけあって、その中庸さは良くも悪しくもクーベリック以上、まさに「プレーンなマーラー」としかいいようがない仕上がりです。このあたりをどうとるかは、リスナーの好みというべきでしょう。個人的には時に推進力が欠ける部分が散見し、流れがやや淀みがちなところが難点と感じないでもなかったです。
 音質は60年代フィリップスの典型的なパターンですが、ややハイ上がりでシンバルとかうるさいのが気にかかりました。
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マーラー 交響曲第5番/メータ&ロスアンジェルスPO

2007年02月06日 12時51分36秒 | マーラー+新ウィーン
 1月中旬くらいにクーベリックによるマーラーの第9番を聴いたあと、同曲をテンシュテットとロンドン・フィルの演奏で聴いて、そのまま彼の5,6,7番をつまみ食いしているうちに、久しぶり5番をあれこれ聴いてみたくなり、ここ2,3週間いろいろ聴いています。今回は日頃あまり聴かない人をということで、テンシュテットの他、クーベリック、ハイティンクの旧盤(ACCO)、メータの旧盤(LAPO)あたりを重点的に聴いていますが、今回はメータとロス・フィルの往年の演奏を取り上げてみたいと思います。

 記憶によればメータとロス・フィルといえば、60年代後半から70年代中盤あたりまで、デッカの看板スターであり(グラムフォンのアバドの対抗馬だったですよね、確か)、割と派手なレパートリー(後期ロマン派の大規模な交響曲、管弦楽曲中心)をデッカ特有の優秀録音で連打していたというイメージがありますが、この曲もその時期、多分70年代前半に収録されたものです。当時のメータは全集には至らなかったものの、かなりマーラーを録音していてある意味マーラー指揮者のような評価も得ていたと思いますが、巷のこれの評価はどの程度だったんでしょうか?。ちなみに私がクラシックを聴き始めた80年代初頭頃といえば、マーラーの5番といえばショルティ、カラヤン、テンシュテット、あとバーンスタインあたりが評価が高く、この演奏が話題になることはあまりなかったように思うんですが。

 さて、演奏内容なのですが、個人的にはどうもピンときません。先月のニューイヤー・コンサートのところで、「メータのリズムとかテンポってどうも自分と絶妙に合わないんですよねぇ」などと不遜なことを書きましたが、この演奏もその典型という気がします。うまくいえないんですけど、じっくり克明に表現してもらいところは風のようにさらりと演奏し、ドライブして欲しいと思うところでは何故が腰か重くなる....とでもいったらいいか。
 例えば第1楽章の冒頭、トランペットの葬送ファンファーレの後など、いくらなんでも飛ばし過ぎだと思いますし、随所に現れる暗い叙情が充満した旋律の謳い方なども、今一歩あっさりし過ぎな感じがします。第2楽章の荒れ場でも音的には確かにダイナミックではあるんだけど、あんまり深刻な感じがしないのが難点ですし、生意気なこというとウィーン風な第3楽章にも雰囲気がかけているような気がしないでもないです。もっとも後半のふたつの楽章はあまりこねくり回さないところが、かえってこの楽章の優美さだとか壮麗さのようなものに合っている気がしてさほど違和感はないんですが....。

 ちなみに録音はかなり優秀です。同時期のショルティ&CSOに匹敵するアナログ末期典型の、弾力性に富み、ほんの少し角を丸めたデッカ特有のハイファイ録音といえます。もっともショルティ&CSOのような切り込むような凄みはないですが、これはこれでとても気持ちのよう音ではあります。
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マーラー 交響曲第9番/クーベリック&バイエルンRSO

2007年01月17日 18時58分27秒 | マーラー+新ウィーン
 さて、第4楽章ですが、これまでの楽章と同じく、絶叫したり、ひきつったりしない上品な演奏で、マーラーにつきものである「世紀末」、「表現主義」といったキーワードとはあまり縁のない、あえていえばアポロ的というか純音楽的解釈といえるかもしれません。なんか聴いていると、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」を楽しんでいるような感触すらあります。あっ、なんかこう書くとあまり否定的な印象をもったように感じるかもしれませんが、実は逆でとてもいいです。この楽章はちょっと聴き過ぎて、あまりこってりとした身振り手振りの演奏は胃にもたれるところがあるので、こういうあっさいりとした演奏はけっこう新鮮にきけました。
 そんな訳でクーベリックによる第9番ですが、楽しめたのはこの第4楽章と第2楽章といったところでしょうか。
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マーラー 交響曲第9番/クーベリック&バイエルンRSO

2007年01月16日 01時07分17秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜は夜遅かったこともあり、第一楽章だけを聴いて文を書いたのですが、今夜は中間2楽章を聴いてみました。こちらは「ボヘミア的」と称される民族的というか、トラッドな旋律とリズムをメインした音楽ですから、チェコ出身のクーベリックはいつものペースで非常に魅力的な音楽を作っています。この点はさすがとしかいいようがないです。第2楽章の第1主題の軽やかで馥郁たる香りは、まさにクーベリックの独壇場で聴いていて、ちょいとエキゾチックではあるものの、東欧の田園風景のようなものが眼前に思い浮かぶような音楽を展開しています。第3楽章も、メインとなる主題のやや分裂しかかったようないかにもマーラー的なところは、あくまでもスケルツォという音楽的なレンジの範囲でほどほどに表現し、トリオの田園的なところで、クーベリック的の持ち味を全開にしているという感じです。この楽章は実は非常に刺激的な音楽だったりする訳ですが、そのあたりは、ある意味で「初期型マーラー」のロジックで処理しているあたり、いかにもクーベリックという感じでしょうか。
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マーラー 交響曲第9番/クーベリック&バイエルンRSO

2007年01月15日 23時56分57秒 | マーラー+新ウィーン
 クーベリックのマーラー全集の一枚。彼のマーラーは私が20代の頃、全集が廉価盤として分売されていたせいもあり、1,4,7番など、とてもよくお世話になったものですが、この9番は確か初めて聴く演奏です。第1楽章は演奏時間が25分ということから分かるとおり、かなり早いテンポであっさりと一気に演奏しています。先日聴いたバルビローリの演奏が割とこの曲に内在する情念的な部分を山あり谷あり的な演出でクローズアップしていたとすると、こちらは「交響曲の第1楽章というフォーマット」を意識した演奏ということがいえるかもしれません。

 つまり、その後に続く3つの楽章とのバランスに配慮していて、あまり巨大なハイライトをここではつくらない、あまり爆発してはいけないのだ....という配慮があったのかもしれませんね。まぁ、そういう意味ではこの楽章自体がひとつの交響曲として聴いてしまえる私としては、正直あっさりしすぎかなぁ....という感はあります。もちろん、クーベリックらしい中庸の美みたいな良さは随所に感じられますし、例にちょいと控えめだがトラディショナルな旋律を格調高く歌うことにかけては、余人をもって代え難い彼のことですから、そういう意味では今風なマーラーとはちょいと違うマーラーを感じさせくれる演奏ではあります。
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マーラー 交響曲第9番/バルビローリ&ベルリンPO

2007年01月12日 23時22分27秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの第9番は、ここ数年20~30代の頃に聴きまくったのが祟ったのか、いささか飽きたところがないでもないですが、やはり好きな曲です。で、この曲の眼目といえばやはり両端に配置されたり緩徐楽章ということになるんでしょう。特に30分はかかろうかという第1楽章は、それ自体単一の交響曲といってしまってもいいくらいに、山あり谷ありの豊富な情報量をもった音楽ですが、ハープとホルンなどが絡み合う短い序奏とそれに続く天上的な雰囲気と妙に解脱したような諦念がいりまじった主題が魅力で、これがとにもかくにもソナタ形式のほとんど限界ともいえるような膨張した規模の中で、様々な情念的展開をともなっては現れては消えていくところが聴きどころになっていると思います。また、第4楽章はブルックナーの第9番の第3楽章なども通じる、魂が浄化し、現世と告別をするような様を描いたような音楽で、第1楽章には頭一つ及ばないと思いますが、やはりマーラーの描いた最も魅力的な音楽のひとつだと思います。

 さて、今日はバルビローリ指揮のベルリン・フィルによる演奏を聴いてみました。この演奏確かCD初期の頃に購入して、当初ずいぶんとお世話になった演奏ですが、実に久々に聴いてみたところ、第1楽章はやや情念的な部分に傾き過ぎて、もう少し平衡感のようなものが欲しいようにも感じましたが、バルビローリのイタリアの血を感じさせるやや大きな身振りでうたわれる第4楽章はこの曲の告別的なところがよく出ていてなかなか傾聴に足る演奏だと思いました。また、これが録音されたのは60年代後半といえば、「カラヤンの楽器」としてほぼ独占的されていたことからすれば、この録音はその数少ない例外として、ベルリン・フィルの歴史的資料としての価値も大きいかもしれませんね。
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マーラー 交響曲第7番「夜の歌」/バーンスタイン&NYP

2006年03月19日 01時05分19秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラー中期3部作の掉尾を飾る作品です。曲の構成は古典的4楽章制だった6番から再び5番と同じ5楽章制に戻っていて、ある意味典型的なマーラーの交響曲ともいえる構成に加え、中間部には「夜の歌」という標題の元となったセレナード風な楽章がふたつ入り、なおかつ特徴的なスケルツォ楽章が第3楽章に入るなど、音楽的な目玉も少なくないハズなのですが、何故だかこの曲先行する5,6番ほど人気がないんですね。個人的にも5,6番に比べると聴く頻度はかなり少ないです。

 一体何故だろうかと考えてみると、結局、この曲の場合、両端楽章が問題なのではないかと思ったりするんですね。まず、第1楽章ですが、全体としては第6番の第1楽章の続編のような出来なのですが、どうも、暗と明、躁と鬱が妙に混濁しているというか、感情面がはっきりしないというか、第5番でいえば調度第3楽章みたいな感じで、暗から明への境となるような感じなところがあって、それが途中なら分かるけど、いきなりこれで始まるもんで、どうもすっきりしない感じがするような気がします。
 そして夜の歌~スケルツォ~夜の歌と続く中間楽章群が来る訳ですが、これはいずれも夜的な気分に支配された楽章ですから、やはり感情的にはすっきりしないまま続きます。もっとも、これは楽章の配置や音楽の性格からいってもこうなるのは理解できるのですが....。そして締めくくりとなる第5楽章では、突如雰囲気が変わりまるでワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲みたいな、景気いい楽章が現れて歓喜の洪水みたいなムードの中で全曲が終わってしまうということになります。これでリスナーは「えっ、なんでこうなっちゃう訳?」みたいな気分になるんですね。
 つまりこの曲の場合、解決されるべき、苦悩とか命題だとかが、冒頭にきっちりと提示されておらず、もやもやとした感情のままあれこれ付き合わされた挙げ句、こちらには何も分からないまま、ラストでは全てが解決済みみたいな強引なエンディングになってしまったおかげて、どうも「よく分かんねぇな」みたいな、座りの悪いイメージになっていると思うんです。こんな風に感じるのは僕だけでしょうか?。

 そんな訳で、この曲をあまり聴かない理由を自分なりに分析してみましたが、そうはいうものの、この曲の中間部の3つの楽章はとても魅力的です。この曲の場合、やはりこれを聴きたいがために、ディスクを取り出してくるという感じですよね。ちなみに本日聴いたのはバーンスタインとニューヨーク・フィルの65年の演奏で、今回、初めて聴いたものですが、両端と中間楽章をきっちりと性格分けして演奏することが多いこの曲を、割と感情をゆらぎをメインに演奏してみたという感じで、その意味では第1楽章と第5楽章の断絶感は少ない気がしました。ひとつの見識ではあります。
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マーラー交響曲第5番/バーンスタイン&NYP

2006年01月22日 23時02分56秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲で一番最初に聴いたのが第5番で、その時の演奏がこのバーンスタインとニュー・ヨーク・フィルによるものでした。クラシックの名曲を指揮者やオーケストラを替えていろいろ聴き比べするのはとても楽しいことですが、やはり一番最初に聴いた時の演奏というのは、まずはその曲自体を知ること、そしてそれと平行して演奏を楽しむ訳ですから、やはり2番目以降の演奏とは別格になることが多いです。なので、一番最初の印象があまり強く、それ以降に出会った演奏がどうもしっくりこないということはままあることなのですが、それとは反対に自分がしっくりと来る演奏がどんどん更新されてしまうこともあります。このバーンスタインが振った5番はさしずめ後者の典型といったところでしょうか。

 この5番はまずバーンスタインを聴き、次にテンシュテット&LPO、カラヤン&BPO、マゼール&VPO、ショルティ&CSO等々、実にいろいろな演奏を聴きましたが、結局、アダージェットの美しさでカラヤン、第1,2楽章のダイナミックさでショルティ、第3楽章のウィーン風味でマゼール、全体の文学性みたいなところでテンシュテットといった具合にいろいろとイメージが更新されたおかけで、バーンスタインの演奏はほとんど忘れてしまったのです。夏頃書いたように第3番なんかはかなり強い印象が残っていましたが、こちらは後続の演奏にほとんどそのイメージを塗り替えられてしまったというところなんでしょう。覚えているのアダージェットで椅子のきしむ音とか同じくアダージェットのラストのところでオケの誰か咳していたとか、そういうつまんないらないことばっかり(笑)。

 そんな訳で、夏頃に購入したバーンスタインの旧マーラー全集から、とりたてて理由もないですが、久々に第5番を聴いてみました。現在聴くと、さすがにオケがとっちらかっている感じで、これ以降の精度の高い演奏に比べるとやや見劣りしちゃいますね。また、この曲の場合、大きく3部に分けた交響曲のように演奏するか、主人公が冥府から天上界へ解脱するストーリーを持った一種の交響詩のように演奏するか、かなりはっきりと分かれていると思うのですが、この演奏はその意味でちょいととどっちつかずかなというところもあります。この時期のバーンスタインならもうちょっと後者の方向でドラマチックにやっていたのかなとも思いましたが....。
 ちなみにアダージェットところでオケの誰かの咳ですが、ほとんど聞こえないくらいの音に押さえ込まれていました。高域をリダクションしたんですかね。そういえばアナログ盤はかなりハイ上がりだったですが、マスターにはどっちの音が近いのだろう?。 
 
 
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ウェーベルン作品集 vol.1/クラフト&PO他

2006年01月04日 23時04分36秒 | マーラー+新ウィーン
 ロバート・クラフトという指揮は確かストラヴィンスキーの弟子で、50年代から師匠の作品や新ウィーン楽派の作品をいち早くレコード化してきた人です。彼はここ数年、自分のレパートリーを体系的にコッホ・レーベルで再録音しているようですが、これを昨年あたりにNaxosがまとめてOEMし、「ロバート・クラフト・コレクション」と称し再発しはじめましたが、これはそうした一枚です(ちなみに昨日取り上げたシェーンベルクもその一枚)。

 このウェーベルン作品集ですが、管弦楽曲集という訳ではなく室内楽や声楽曲も含まれています。おそらくウェーベルン作品を体系的に網羅することを年頭に構成されているようで、いかなる意図か一曲目が作品21の「交響曲」から始まります。ウェーベルン作品集といえば、どれも例の「パッサカリア」からはじるのが常ですから、どのような意図があったはわかりませんが、これはなかなか新鮮な構成といえます。

 で、「交響曲」ですが、実はこの曲12音技法による、いかにも現代音楽らしい非常に難解な作品なのですが、どういう訳が僕はこの作品が大好きで、とにかく、世紀末ウィーンの饐えたような退廃美と理知的な抑制が入り交じったムードというのがますば好みにあっているし、楽音が様々な楽器によってリレーされ、その音色の移ろいや色合いの変化していく、いわゆる音色旋律とよばれているものも、難しい理屈はわからないけれど、妙に心地よいんですね。

 ロバート・クラフトの演奏は、昨日のシェーンベルクもそうでしたけど、あまりロマン派という側面には拘らず、この曲の理知的面を強調した解釈という感じですかね。この曲、形式的には第1楽章がカノン、第2楽章が変奏曲とらしいのですが、そういうところがよく分かる演奏なのかもしれません(私には分かりませんが-笑)。まぁ、あらゆる意味でこの曲の叙情性を徹底的に追求し、ウルトラ・スムースに仕上げたカラヤンの演奏とは対照的な演奏といえるでしょう。この中間かドホナーニあたりになるのかな。

 という訳で、他の収録曲については全く触れてませんが、さすがにこれだけいろいろな作品が入っていると内容的にはヘビーです。「大管弦楽のための6つの小品」あたりは馴染みがありますが、室内楽、ましては声楽曲あたりになると、まずは雰囲気に慣れないと、無学な私には歯がたたないというか非音楽的に聴こえてしまうというのが正直な感じです(笑)。 
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シェーンベルク「グレの歌」/クラフト&PO他

2006年01月03日 18時50分51秒 | マーラー+新ウィーン
 最近、大指揮者へ登竜門というか大指揮者のみが許されるイベント的演奏会作品として、演奏頻度がとみ高まってきたシェーンベルクの巨大な作品です(演奏するのに500人を要するとか....)。暇がないとこういう大作はなかなか聴く気がおこらないもので、正月休み最後の今日の午後など心身共にいい機会なので、しばらく前に買ったはいいが、そのまま放置してあったロバート・クラフト指揮によるフィルハーモニア盤(Naxos盤)を聴いてみました。

 この作品はシェーンベルクが未だまっとうなロマン派の範疇に収まっていた時、つまり「浄夜」とか「ペレアスとメリザンド」といった作品を作っていた時期に作り始めたようですが、制作過程であまり作品が巨大化、複雑化したため、完成に手こずり、完成までに10年かかったという話は有名ですね。とにかく400人とも500人ともいわれる大規模な編成を要し、これをオペラとしてではなく、様々な要素を含んだ巨大な歌曲集のような形でストーリーを展開させていくあたり、まさにロマン派の総括に相応しいスケール感と複合性、そしてそれに伴う膨大な音楽的情報量があります。

 聴きどころは沢山ありますが、まずはなんといっても冒頭のオーケストラによる序奏部ですかね。キラキラと輝き、リスナーを桃源郷に誘うようなオーケストレーションは大昔、この曲を初めて聴いた時から魅了されました(ちなみにこれラヴェルの「ダフネとクロエ」の「夜明け」に似てませんか?)。
 次に第7曲以降のオケの間奏曲までの数曲で聴ける、ワーグナーの「トリスタン」風な、壮麗かつ官能的に高揚する音楽は、まさにロマン派の極致といったところでしょう。節々に強烈な不協和音が鏤められているのは、いかにもシェーンベルクらしい冷徹なダイナミズムを感じさせたりもしてこれもまた聴き所ですね。その後に続く、単独でも演奏されることが多い「山鳩の歌」は作品随一の名曲です(以上第1部)。

 ブリッジのように短い第2部はオーケストラがマッシブに炸裂するあたりが聴き所でしょうか。第3部ではオーケスレーションが10年後になされたせいか、暗い色彩に彩られた強烈な響きに満ち満ちています。そこから主人公の救済に至る最終部分はナレーション(シュプレッヒゲザング)を中心としますが、これはい明らかに無調以降のスタイルというか響き多少唐突な感もありますが、暗から明へ一気にムードを変えていくあたりは素晴らしい高揚感があります。

 という訳で、ロバート・クラフトの演奏ですが、基本的には遅めテンポで淡々と演奏しているという印象ですが、彼より後輩の指揮者は(シャイー、小澤、インバルなど)、ほぼ完璧にロマン派の曲として演奏しているのと比較すると、ロバート・クラフトの演奏は現代音楽ルーツとして、やや杓子定規というかザッハリッヒな演奏しているというところでしょうか。
 それにしても、この「グレの歌」、今さっきしらべてみたら、ここ数年、アバド、ラトル、シノーポリ、レヴァインなどなど沢山でているようで、しばらく前のマーラー並の頻度でCD化されているのかもしれません、もはや古典なんですね、この作品も....。 
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マーラー交響曲第4番/クーベリック&バイエルン放送響 他

2005年09月14日 21時35分48秒 | マーラー+新ウィーン
 変わってこちらはクーベリックとバイエルン放送響による4番、以前に書いたとおり私がこの曲に慣れ親しんだ演奏がこれで、今夜、おそらく10数年振りに聴いてみましたが、やはり実にしっくりきます。ほとんどなんの違和感もないといってもいいくらいオーソドックスに感じました。これはきっと前述のとおり、これでこの曲を知ったということが大きいんでしょうね。

 演奏としては、基本的に初期型マーラーの雰囲気でもって押し切ったある意味でバースタインと同傾向のものですが、例えば第1楽章の再現部の直前に出てくる第5番の第1楽章のムードを先取りしたようなところなど、昨夜聴いたカラヤンだとそのあたりが非常によくわかるんですけど、クーベリックだとほとんど目立たちませんし、第3楽章は第5番の「アダージェット」の線で耽美的に演奏しているカラヤンに比べ、クーベリックは早めのテンポで実にすっきりと一気に演奏しているという感じです。また、彼の変奏はマーラーの持つボヘミア的な旋律とか、ちょっとローカルな雰囲気をかなり色濃く出しているのは全集を通じての特徴だと思いますが、この4番は特にされが強い感じもします。ちょっと大げさに書くと、なんかドボルザークの8番あたりでも聴いているような瞬間も多々あるという感じなんですよね。

 というワケで、久しぶりに聴いて、「あぁ、これだ、これだ」とか思ってしまいました。ただ、昔聴いた時は充分な音質に感じたものですが、今聴くとちょいとレンジが低い感じがするのは、まぁ、いたしかたないところかもしれません。解釈については時の流れは感じませんでしたが、録音でちょいとばかり損しているというところでしょうか。もっと古いバーンスタンのはかなり私好みのオンマイクな解像度優先な録音のおかげて、あまりそういう意味で不足感はなかったんですけどね....。
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マーラー交響曲第4番/カラヤン&BPO 他

2005年09月13日 23時13分19秒 | マーラー+新ウィーン
 カラヤンが残したマーラーは第4,5,6,9番と「大地の歌」のみでした。全集にはするつもりはハナからなかったように思いますが、少なくとも2番と7番はカラヤン向きな素材だったと思うので残念です。他にも、例の新ウィーン楽派管弦楽集の素晴らしさからして、シェーンベルクの「グレの歌」とかベルクの「ヴァイオリン協奏曲」とか、このあたりの作品群をもう少し録音してもらいたかったところですね。もっとも、最晩年のカラヤンはもはやマーラー周辺の作品などほとんど眼中はなかったように思いますが....。

 さて、このアルバムはカラヤンが74年に録音したマーラーの第4番です。このところ第4番のいろいろの演奏を楽しんでいるところですが、結論からいって良くも悪しくもカラヤンの流儀に塗り固められた演奏といえます。この作品の持つ子供がはね回るような独特の軽さ、躍動感のようなものをほとんど顧みることなく、ひたすら瞬間瞬間の静的な美しさみたいなものを追求した結果、まるで巨体な静止画を眺めているような気になる演奏といったところでしょうか。こういう演奏なので、第3楽章については壮絶なまで美しい陶酔的な演奏で聴いていてうっとりすることこの上ないのですが、他の動的な楽章ではかなり違和感を感じました。特に第一楽章の冒頭のテンポの遅さ、極端な弱音などは、厚化粧した子供の着飾った姿みたいな、一種異様なデフォルメ感のようなものを感じました。
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