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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー交響曲第4番/ショルティ&CSO 他

2005年09月10日 23時25分26秒 | マーラー+新ウィーン
 これも昨日ま職場の送別会までの空き時間にショップで購入した中古盤。多分、これでショルティのマーラーは全部揃ったんだじゃないのかな。もっとも一番と二番はロンドン・シンフォニーを振った旧録だけれど....。旧録といえば、この4番の旧録は珍しくショルティがマムステルダム・コンセルトヘボウを振ったもので彼のマーラーでは一番古いものだったのではないか。ともあれ、こちらは83年の再録、確かこれがきっかけで1,2,3,9番がシカゴで再録されて、「ショルティとシカゴ響によるマーラー全集」が完結したというわけ。

 さてこの演奏だが、とにかく録音バランスが極上。80年代デッカの典型的な優秀録音といった感じで、精緻なコンピュータ・グラフィックを眺めるかのような瀟洒な音だけを聴いても楽しめくらいだ。演奏はきりりと締まった弦のアンサンブルに、ブリリアントなブラス群の咆哮、鋭角的なリズムといかにもショルティらしいもので、きらいな人もいるようだけど、マーラーの音楽を解釈するのに、未だに文学的解釈を不可分するのはいかにも古いのではないか。そういう意味では現在聴いても今風というかモダンな演奏だとも思う。また、ショルティという、とかく体育会系のマッチョみたいにいう人もいるけれど、すみずみまでフォーカスしたそのコンピュータ・グラフィックのような演奏から浮かび上がる、そこはかとない詩情は体育会系などという言葉とは無縁なものだと思う。
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マーラー交響曲第4番/バーンスタイン&NYP 他

2005年09月02日 23時25分37秒 | マーラー+新ウィーン
 交響曲第3番が夏の入り口から晩夏へかけての交響詩的な作品だとすると、続く4番は初秋から収穫の秋へ向けての移り変わりを現したなどといったら、反論がドカーンと来るかもしれませんけど、別に私自身なんらかの根拠があってそういっている訳ではなくて、なんとなく3番から連続したイメージでそんな風に思って聴いているうちに、そうに違いないと思っているだけですし、別に聴く度に秋を意識するようなこともないんですが、いちおうこじつけておくと第一楽章冒頭の木管と鈴がユニゾン奏でるメルヘンチックな旋律とか、ファンタジーっぽさとグロテスクが紙一重で交錯する第2楽章なんかはいかにもドイツの森というイメージだし、第3楽章はゆるやかなパースペクティブは、なんか紅葉を山をみているような気持ちになります。第4楽章は秋祭りですかね。

 さて、この交響曲について知ったかぶりして書いておくと、これはマーラーの初期型交響曲の締めくくりに位置する作品となりますが、同時にその後の作曲活動を予見したものともいえます。古典的なフォーマットの追求とそれにともなって音楽に抽象性が増してきているというあたりがそうですが、聴いていてボヘミア風な旋律だとか、童話風なムードだとかは、確かにまぎれもない初期のマーラー的特徴があるんですけど、1~3番のようなほとばしる創作意欲の結果できた作品という感じが何故かしなくて、割とこうした要素を素材に使って練達の腕でまとめた職人的作品という感じがしなくもないんですね。
 邪推すると心は既に5~7番みたいな古典なフォーマットに準じたもっと抽象度を高い作品の方に行っていたものの、これだけはやり残した宿題だったということなのかもしれません。ともあれ、結果的にこの曲は初期型マーラーの諸要素を非常にコンパクトに古典的フォーマットに封じ込めたものの、次の第5番を彷彿とさせるような響きもまた随所に聴こえるという作品になったのでした。

 今夜、聴いた演奏はバーンスタインがニューヨーク・フィルを振った60年の録音で、おそらく初めて聴く演奏です。私はこの曲のクーベリックとバイエルン放送響の演奏で知り、その後、カラヤン、テンシュテットを始めとしていろいろ聴きましたが、このバーンスタインの演奏は荒っぽいところはありますが、とにかく色彩的で、情緒豊かなでわかりやすい演奏なのが魅力です。ただし、この曲のモーツァルト的な軽さとか古典的なフォーマットみたいなところはあまり感じられません。おそらく、バーンスタインにとってこの曲で導入された古典的なフォーマットというのは、割とどうでもよいもので、初期型のマーラーという視点でもって押し切るべきと判断したんでしょうね。
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マーラー交響曲全集/バーンスタイン&NYP 他

2005年08月07日 21時27分22秒 | マーラー+新ウィーン
 先日、夏向きクラシックということで、マーラーの交響曲第3番を取り上げたのですが、あの時も書いたとおり最初にこの曲を学習?したバースタインとニューヨーク・フィルのものを聴きたかったのですが、CDがなかったもので、とりあえずクーベリックとバイエルン放送響のものを聴いた訳です。しかし、その直後からバースタインとニューヨーク・フィルのものがやけに懐かしくなってしまい、レビュウを書いた後、いろいろとネットショップに検索かけたところ、単体では発売されていないようですが、全集が出ていたので思わず購入しちゃいました。なにしろ、12枚組で6,300円!、ほとんどナクソスかアルテノヴァかという値段です。

 おそらくバースタインのマーラー全集については、ウィーンその他と80年代に作ったものがあるため、こちらは旧録ということで、こういう値段になったんでしょうが、新しければいいってもんでもないし、晩年のバーンスタインのマーラーはほとんど聴いたことありませんが、例えば「トリスタン」とかエルガーとかは時にあまりにテンポが遅く、耽美的過ぎてややついて行けないところがあったので、ことマーラーに関してはこちらの方がはつらつとして楽思っていたところだったんで、まさに好都合でした。

 とりあえず、現在待望の第3番を聴いてます。「これだ、これだ」って感じですね。私はこの演奏をレコードで購入して、その後、CD時代の突入したので、それ以降はマゼールとウィーンの演奏を聴いていたのですが、異常に遅い第1楽章からしてどうも馴染めず、ショルティとシカゴの演奏を聴くまでは、これだというものに出会えなかった訳ですけど、やっぱこれですね~。この曲はとくにかく長いので、この演奏のように絵画的というか、ほとんど交響詩のようなメリハリで、淀みなく流れるような演奏だと、よく分かるというか、夏らしい風情が良く伝わってきて、意味の季節に聴くとぴったりです。

 最後に音質ですが、レコードではかなりハイ上がりの異常に鮮明な音質でしたが、こちらは今風のバランスに補正してあるようで聴きやすいです。また、当時のCBSはかなりマルチ・マイクをかなりオンで録音していたようで、そのあたりの鮮度感のようなものはレコードほどではないにしても、なかなかのものですね。打楽器類の遠近感とか楽器の輪郭など、アメリカっぽいなどといってはミもフタもないですが、なかなかどうしてハイファイ的快感あります。
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最初の私的マーラー交響曲全集

2005年07月29日 00時29分21秒 | マーラー+新ウィーン
 先のシューマンの一緒に購入してきたのが、何故かインバルが振ったマーラーの第4番だったりするのだが、これについて聴いたり書いたするのは後日にするとして、マーラーのアルバムを買ってきたからなのかどうかはわからないが、今さっき風呂に入りながら、ふと「自分が一番最初に揃えたマーラーの交響曲全集はどんな組み合わせだったろう?」と考えるともなく考えていた。

 私がマーラーを聴くようになったのは、けっこう下世話な動機であって、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」でかのアダージェットが使われ、その美しさに魅了されてのことだった。だからマーラー絡みで最初に購入したのは、お決まりの「スクリーンで使われたクラシックの名曲集」みたいな企画盤で、おそらくそこにはノイマンが振った旧録、ライプツィッヒゲヴァントハウス管弦楽団の演奏が入っていたと思う。とにかく、私はそれを聴いて、「こりゃ、いける、クラシックって、ベートーベンみたいなばかり聴いてたから馴染めなかったんだ」と、ひとりで納得してレコード屋にマーラーの5番の全曲盤を買うべく走ったのだった。たぶん20代になったばかり、1980年頃のことだったと思う。

 もちろん、その時即座にマーラーの音楽を好きになったり、理解できた訳ではないけれど、この時期あたりを境にして、私はそれまで聴いていたロックを捨て(たというほどではないかったけれど)、クラシックに耽溺し始めた訳で、マーラーもあれよあれよという間に全集分揃えてしまったのだった。忘れないうちにメモしておこう(笑)。

 ・交響曲第1番「巨人」/クーベリック&バイエルン放送交響楽団
 ・交響曲第2番「復活」/アバド&シカゴ交響楽団
 ・交響曲第3番/バースタイン&ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団
 ・交響曲第4番/クーベリック&バイエルン放送交響楽団
 ・交響曲第5番/バースタイン&ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
 ・交響曲第6番/「悲劇的」 セル&クリーブランド管
 ・交響曲第7番/「夜の歌」 クーベリック&バイエルン放送交響楽団
 ・交響曲第8番「千人の交響曲」/ショルティ&シカゴ交響楽団
 ・交響曲「大地の歌」/バーンスタイン&ウィンフィルハーモニー管弦楽団
 ・交響曲第9番/ワルター&コロンビア交響楽団
 ・交響曲第10番/バースタイン&ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

 ひょっとしたら、「大地の歌」はワルターとウィーンのヤツだったかもしれないが、大体、こんなところだったと思う多分、全てレギュラープライスのもちろん全てアナログ盤で、そのほとんどは1枚1,500円とか2枚組で3,000円とかいう廉価盤であったはずだ。当時評判の良かったレヴァインとテンシュテットが入っていないのは、これらがレギュラープライスだったからだろう(もっともアバドとショルティはレギュラー盤だったが、当時の私の期待度がわかろうというものだ)。
 あと、付け加えれば、「子供の不思議な角笛」はセルとクリーブランド管で、第1番の「花の章」付きはオーマンディだったはずだ。とにかくこうして私はマーラーに耽溺していったのだった。
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マーラー交響曲第3番/クーベリック&バイエルン放送響 他

2005年07月25日 00時01分01秒 | マーラー+新ウィーン
 夏に聴きたくなる音楽というのは、ポピュラーミュージックは沢山あるけれど、クラシックの場合あまりない。ただ、このマーラーの交響曲第3番は初夏の頃になるとよく思いだし、なにげに脳裏に流れたりする。ただし、実際に聴くことは最近すっかりなくなってしまった。理由は何かといえば、あまり巨大かつ長大過ぎるである。全6楽章。特に軽く30分を超える第1楽章と、長い演奏だと25分近くに第6楽章は巨大だ。この両端楽章に挟まった4つの楽章も歌曲みたいな第5楽章をのぞけば、みんな長い。したがって、この曲はほぼ間違いなくCD一枚に収まらず、たまに聴く気になっても、この分量の前にまずは精神的にメゲしてまうことが多いのである。余談だが、CD一枚に収まる収まらないというのは、例えトータルで5分くらいしか違わなかったとしても、心理的に受ける分量としてはずいぶん違うように思う。

 ブログを書くというのは、こういうちょっと縁遠い曲を聴く格好の動機付けをしてくれる。ちょうど音楽好きの友達が自宅にきて、私自身は食傷してしまった曲をリクエストに答えて、あれこれいいながら一緒に聴いている感じに似ている。つまり意外と新鮮に聴けるのである。
 さて、マーラーの交響曲第3番だが、初めて聴いたのは多分四半世紀前くらいだからもう大昔である。演奏はバースタインとニューヨーク・フィルのもので、第一楽章がLPの片面に収まらないのには驚いたものだが、実際聴いてみても、また前述のとおり、やたらと楽章が多く、しかも長いのため、なかなか全貌が掴めなかず、この作品は長らく「マーラーの一番よくわからない曲」であり続けた。とはいっても、いろいろなきっかけでもって、次第に馴染んでくる訳だけど、それらはみんな夏絡みのエピソードというか想い出なのだ。

 ひとつは、第1楽章をケン・ラッセルの映画「マーラー」の使われたことである。あの映画をご覧になった方はみな忘れもしないだろうが、映画の冒頭、夏の湖のほとりおかれた、巨大な繭みたいなものの中からアルマ・マーラーがもがくようはい出てくるシーンで、この第1楽章の冒頭、ファンファーレの直後の部分に使われたのだ。これはなかなか強烈な映像で、賛否はあろうが「蠢くように巨大なものが誕生する瞬間」を描写したであろう音楽を印象深く映像化していて、ラッセルの想像力に舌を巻いたものだった。
 次に第4楽章、これは「ベニスに死す」で使用された。「ベニスに死す」といえば主題曲的に第5番の第4楽章、通称アダージェットが使われたのは有名だが、この第4楽章も映画の中間あたりで、夏のベニスの海岸で主人公が佇む場面で使われていて、、なにやら主人公の憂愁さとこの楽章の物憂い感じが実にマッチしていて、地味ながら印象に残る場面であり音楽だった。
 最後は全く個人的な事情なのだが、20代の頃、よく夏山にラジカセ同伴でキャンプしたものだが、この曲はこうしたキャンプでかけるBGMの定番だった。どうしてそうなったのか記憶にはないのだが、山道を荷物を担ぎ歩きながら、また帰り支度をしながらこれをかけると、回りの友人にも受けがよく、山の風景がいつも違って見えたような気がしたものった。

 とまぁ、こんなことがあり、私はこの曲に徐々に慣れ親しんでいった訳。先に書いたとおり、最近、この曲についてはすっかりごぶさたで、ブログを書くという動機で、さきほど何年ぶりかで全楽章を通して聴いたみたら、なんかしばらく忘れていたこの曲に関する個人的あれこれを思い出してしまい、こんなことを書き記したというところだ。
 ちなみに本日聴いたのは、クーベリックとバイエルン放送響の67年の演奏。しばらく前に出たグラムフォンのバジェット・ボックスの一枚で、多分初めて聴くものである。本当はバースタインとNYPを聴きたかったのだか、既に自宅になかったため、こちらの登場と相成った。クーベリックらしいトラディショナルな旋律を端麗に歌った演奏で、バースタインのようなスケールや力感はないけれど、ファンタスティックな美しさと叙情美みたいなものはなかなかのものだった。
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マーラー、ヒンデミット管弦楽曲集/リッケンバッカー&バンベルク響

2005年06月14日 23時02分12秒 | マーラー+新ウィーン
 おもしろい選曲のアルバムだ。2枚組のアルバムで、1枚目がマーラー、2枚目がヒンデミットという組み合わせもおもしろければ、選曲もおもしろい。特にマーラーの方のディスクは「葬送」、「花の章」、「交響曲第10番第一楽章」のという、作者自身によって削除されたり、未完に終わった....つまり死産に終わった作品ばかりを集めていて、どこもかしこも作品発掘がさかんな昨今に相応しい気の利いた選曲といえる。
 一方、2枚目のヒンデミットも計3曲が収録されているが、「歌劇「今日のニュース」序曲」は珍しいものの、「ウェーバー主題による交響的変容」と「交響曲画家マティス」の2曲は、ほとんど再評価が進行しない彼の作品群の中でも、昔から例外的に知られた曲であり、とりてたてて意外性はない。ところが、これらの作品をディスク1のマーラーと続けてきくと、めっぽうおもしろいというか、意外な連続性を発見できたりするのである。
 
 その理由をわかりやすく説明する語彙は私にはないが、要するにこれまでの「マーラー~シェーンベルク~ベルク~ウェーベルン」といった流れでもって、ロマン派から無調を経て、12音に至るドイツ音楽の一大メインストリームとは、違った流れが実は存在していたのだということをこのアルバムは主張しているのだろう。あるいはヒンデミットというどちらかといえば、未だその価値の定まっていない小難しい作曲家を無理矢理にマーラーとの相関で、ロマン派最終ステージの人として確定してしまおうという試みなのかもしれない。

 ともあれ、ヒンデミットという人の作品は、多くの人に「現代音楽の人」というイメージを持たれたているだろうし、私もそうである。ある程度、有名な「交響的変容」や「画家マティス」にしたところで、ガチガチに理知的な現代音楽ではないが、いわゆるロマン派的な音楽と呼ぶにはあまりにモダンな響きや流れが充満した、分かりやすいなどとは到底いえない晦渋な作品であった。ところが、こうした形でマーラーと続けてきくと、それまで感じていた晦渋さやモダンさといった「とっつきにくさ」が、ある種の歴史的な流れの中で消えてしまったというか、フレームにぴたりと収まったというか、ともかくしっくりきた訳である。

 演奏はカール・アントン・リッケンバッカー&バンベルク響というドイツ・コンビ。リッケンバッカーという人は初めて聴く人だが、多分ドイツの若手だろう。相方がバンベルク響ということもあって、それなりにドイツ的、重厚な演奏とはなっているものの、音響やリズムに対するセンスは決して鈍重ではなく、作品の持つモダンさを十全に生かしたものになっている。マーラーの作品で見せる叙情的表情も良く、なかなかセンスの良さを感じさせる。(2002年3月25日)
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ウェーベルン管弦楽作品集湯/湯浅&アルスターO

2005年04月17日 17時15分25秒 | マーラー+新ウィーン
 ウェーベルンは新ウィーン楽派のひとりです。新ウィーン楽派というのは、シェーンベルク、ベルク、そしてこのウェーベルンあたりの人脈を中心とした人達のことを指していると思われますが、彼らは無調だとか、12音だとかいう、その後の現代音楽にとって重要な方法論を生み出したこともあって、その音楽はとにかく難解さで知られる現代音楽の始祖みたいな扱いを長らく受けていました。

 ところが、ここ四半世紀くらいですか、現代音楽の始祖と思われたていた彼らの音楽も、どちらかといえば「ロマン派の最終ステージの人達」みたいなタームで語られたり、聴かれるようになってきたと思います。まぁ、シェーンベルクはマーラーの弟子でしたし、ベルクとウェーベルンはシェーンベルクの弟子ですから、人脈的に自明ではあったんでしょう。また、作曲家や演奏者らとっては常識ではあったのかもしれませんが、素人クラシック愛好家には、なかなか理屈通りに音楽を体感できなかった。
 しかし、時の流れとはおもしろいもので、この四半世紀、彼らの音楽については、様々な演奏が登場したり、彼らの影響下にあった作曲家の音楽などがそれなりに一般化するのと時を併せるようにして、我々のようなリスナーにとっても彼らの音楽は、けっこう普通に聴こえるようになってきたんですね。

 さて、今、聴いているのはNAXOSから出た1~2年前に出た、ウェーベルン管弦楽曲集で、演奏は湯浅卓雄とアルスター管弦楽団のものです。ウェーベルンという人の作品は、総じて新ウィーンの3人の中では一番ロマン派的な体臭の薄い、いってみれば未来志向の強い非常に凝縮された音楽が多いのですが、その分、一音一音に込められた集中度が強い分、異常に緊張感が高く、じっくり聴くと、CD1枚でもぐったり来ることも多かったのですが、このアルバムの演奏は時代の流れというべきなんでしよう。あっけないくらいにリラックスしています。
 1曲目の「パッサカリア」など往年のハリウッド映画のサントラのようにロマンティックな情緒を全面に出して、ごくごく普通な管弦楽曲として演奏しているを筆頭に、鋭利な緊張度という点では随一な「弦楽四重奏のための5つの楽章」なども、ここまであっけなくやりますか!的にさらりと流れるように演奏していますし、わずか7分にまとめた「交響曲」など、この曲につきまとう観念論的難解さをきれいさっばり洗い流し、極端にいえばニュー・エイジ・ミュージックのように音の感触を素直に楽しむ....みたいなものになっているあたり新鮮です。

 最後に、音楽にもあれこれうるさかったコリン・ウィルソンはその名著「音楽を語る」の中で、ウェーベルンの音楽をイエーツの詩の一節、『足ながアメンボウのように/彼の心は、沈黙の上を歩く』を引用して、彼の音楽のストイックさやその寡黙ぶりについて蘊蓄をかたむけていましたが、私はこれほど的確な、ウェーベルン評をこれまで読んだことありません。けだし名言だと思います。もっとも、今回の湯浅の演奏は、「沈黙の上を歩く」というよりは、滑走する....って感じですけど(笑)。
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ワルターの「復活」

2005年03月23日 23時59分15秒 | マーラー+新ウィーン
 ブルーノ・ワルターはマーラーの愛弟子だった。マーラーの弟子なくらいだから、相当に大昔な人なワケだが、ずいぶんと長生きしたおかげでCBSには、かなりの数のステレオ録音が残っている。これもそのひとつなのだが、ステレオ録音としては珍しく、オケは臨時編成のコロンビア・シンフォニーではなく、ニュー・ヨーク・フィルを振っている。収録は58年だから、ステレオ最初期になるが、とにかくステレオできけるのはありがたい。

 さて、実際に聴いてみると、これがなんとも古色蒼然たる表情をもった演奏で、大昔のマーラー演奏というものは、こういうものだったのかと感を改めて持つ。マーラーの曲が古典化したのは、おおよそ70年代後半以降だったと思うが、それ以降の振幅の激しいダイナミクスを、高精度なオケでストレートに演奏するというスタイルとは明らかに違う演奏なのである。
 とにかく不協和音がガツンとぶつけてくるところは、ひたすら柔らかくオブラートに包みこんで聴かせ、ウィーン風に甘美な旋律は情緒たっぶりに歌う....という、「海のものとも山のものともつかぬひたすら代物」だったこの作品を、なんとかカタギの人間にも分かりやすく聞かせようとと、苦心惨憺しているのがよく分る演奏とでもいったらいいか。
 しかし、それから数十年、リスナーの耳はマーラーのグロテスクな大音響など、別段なんということなく聴けるようになったせいで、逆にこの演奏を風化....いや、時代がかったものにしてしまったともいえるかもしれない(ワルターの穏健な個人様式というのも無視できないが....)。
 
 ともあれ、「復活」といえば、80年代前半にアバド&シカゴ、メータ&ウィーン、ショルティ&ロンドン響あたりの演奏で学習した私としては、この「鄙びた」としかいいようがないマーラー演奏はけっこう新鮮だ。
 第1楽章の荒れ狂う迫力といったものは、後年の演奏には比べるべくもないが、第2楽章、第3楽章の馥郁たるウィーン風の表情は、まるで古い絵葉書を見ているようなノスタルジックな趣があるし、暗黒からひとすじの光明がさしこむような第4楽章の厳かさもさすがに年期がはいったものを感じさせる。また、巨大としかいいようがない第5楽章は、精力的な部分こそ今の耳からすると迫力不足を感じるが、その巨視的な盛り上がり方は、今の低カロリーな音楽づくりとは対極にある「濃さ」がある。

 そんなワケで、ワルターの「復活」、思いのほか楽しく聴けた。これと一緒に収録された「巨人」と「さまよう若人の歌」は「復活」にくらべれば、よりワルター向きにリリカルな作品なので、もっと違和感なく楽しめる。ただ、どちらもオケの人数ケチっているか、響きが薄いのが気にならないでもないが。
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マーラー/交響曲第6番「悲劇的」

2005年02月17日 21時30分00秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲は、合唱だの独唱が入る声楽付きのものと、声楽なしの器楽だけのものがあって、前者で有名なのは第2番「復活」に第8番「千人の交響曲」、後者では映画「ベニスに死す」や「アダージョ・カラヤン」ですっかりお馴染みの「アダージェット」が入った第5番に、第1番「巨人」あたりになるんでしょうが、第6番は後者に属する傑作です。私といえば、昔は5番とか9番が好きだったんですが、さすがに最近は飽きがきたのか、ここ数年のお気に入りはなんといっても6番。例の唐突に迎える衝撃的なエンディングが知られる曲ですが、私が好きなのも、もちろんこの最終楽章です。

 さて、この楽章、全4楽章中最長で、演奏するのに30分くらいかかります。一応ソナタ形式らしいのですが、実際の構成は複雑で難解そのもの。私の場合、第1主題はこれ、第2主題はこうで....などと形式的にマーラーを聴こうとすると必ず挫折するもんで(笑)、30分という時間はかなりの長丁場なはずですが、あまりそう感じないのは、いろいろな聴きどころが次々に繰り出されるからでしょう。具体的にいえば、

 まず、冒頭の眩惑的なサウンド、ここで聴けるオーケストレーションは、本当にこれまで聴いたこともないようなもので、リスナーを悪夢の世界に引きずり込むような力がありますね。いきなりブチかましてくれてますって感じ。
 以降続く長大な本編は、ハイライト・シーンが3回あります。この楽章を称しマーラーは「英雄は敵から3回の攻撃を受け、2度立ち上がるが、3回目には木のように倒れてしまう」と語ったそうですが、戦闘シーンを思わせる精力的で荒れ狂うような部分と混濁する精神の中で過去を回想するようなシーンが交錯する中、英雄が強烈な打撃を食らうかのようなシーンが3回やってくるんです。この部分って、けっこう下世話なスリルがあるんですよ。「おぉ、くるぞ、くるぞ、キターッ!」みたいな(笑)。で、その果てにやって来るオーラスの衝撃。厭世観と虚脱したムードの中、唐突に迎える衝撃的なエンディングはもう心臓に悪いくらい....。

という具合です。そういえばこの曲、「悲劇的」ってサブタイの他、希に「古典的」と呼ばれることもあるようですが、この呼び名が広まらない訳です。だって、この楽章なんざ、要するに上出来な交響詩というか、架空のサントラみたいに出来ですからね。

 演奏ですが、単に手近にあったという理由で、さっきまでアシュケナージがチェコ・フィルを振ったSACD盤を聴いてました。録音は極上だし、破綻がない優等生的な演奏ではあるものの、これといって特徴のある解釈が出てくる演奏ではないような気がしました。続いて、同じく手近なところにあった、ティルソン・トーマスがサンフランシスコ響を振ったやはりSACD盤にスウィッチして今聴いてますが、こちらはライブ録音で、まるでホールに居るような優秀録音です。おまけにライブ特有な熱気や推進力があって、これはなかなか聴かせる第6番ですね。
 あっ、そうそう、「第6番のライブ」思い出しましたけど、大昔、あの謹厳実直なジョージ・セルがライブで燃えに燃えたCBS盤ってありましたよね、なんか懐かしいなぁ。私なんか、これで6番を勉強したクチなんで、なんか妙に聴きたくなってきました。どっかにCDあるハズなんだけど、後で探してみよう。クラシックはこういう同曲異演にハマると、ほとんど泥沼状態になったりするんですけど、それもまたひとつの楽しみですね。近いうちに第6番第4楽章のハシゴしよっと....。

※ ちなみに3回ハンマーが鳴るみたいなこと書きましたけど、実は現在の大抵の演奏では3回目のハイライトでハンマーは鳴りません。

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