ヴィラジーミル・ヴィソツキーは、モスクワ芸術座付属演劇学校を卒業した舞台俳優で、映画俳優だ。そして、1970年代のソ連でもっとも人気のある詩人、シンガーソングライターだった。だが、生前、ソ連では一枚のレコードも発売できず、一冊の詩集も出版できなかった。政府が許可しなかったのだ。
ソヴィエトで5枚のシングル盤を録音したが、政府が許可せず、レコードが発売されることはなかった。しかし、ロシアのすべての家庭でヴィソツキーが聴かれていた、といわれるほどソヴィエト体制のロシア人にヴィソツキーは愛された。
ロシア人たちは、テレビにもラジオにも流れない、レコードでも発売されないヴィソツキーの歌を、テープにダビングして聴いたのだ。そして、ガリ版刷りの詩集がまわし読みされた。大むかしの話じゃない。ジョン・レノンが「イマジン」を発表しているころだ。
外国のプロモーターから招聘をうけても、政府が外国公演を許可しなかった。ソ連政府は、ヴィソツキーの亡命をもっとも恐れ、ヴィソツキーの歌が西側で聴かれることを恐れたのだ。
ヴィソツキーと妻マリナ・ヴラディ。マリナ・ヴラディはフランスの女優だが、両親はロシア出身だ。父親は、パリ・モンテカルロ・オペラ座の人気のオペラ歌手。母親は、パリで活躍した花形のプリマドンナだった。マリナ・ヴラディの3人の姉もフランスの女優だ。
エルトン・ジョンやビリー・ジョエルなど西側世界のシンガーソングライターが、数百万枚のレコードを売って、リムジンに乗り、自家用ジェットでコンサートツアーをやっている同じとき、ソ連で一番の人気のシンガーソングライターは、一枚のレコードも発表できず、ロシアの町々を歩き、学校の体育館や町の集会所でギター一本で歌っていた。音響設備は、会場の拡声器だ。その録音テープをロシアの人々はむさぼるように聴いた。
1980年7月25日、ヴィソツキーが急死した。政府が管理しているテレビや新聞のニュースにはならなかった。ただ新聞の死亡欄に4行の記事がでただけだ。しかし、葬儀がおこなわれたモスクワのダンカン劇場に数万人の市民が花をもってやってきた。無許可で人が集まることは禁止していたから、警官が人々を解散させようとした。だが、その数のすさまじさに、警察が制止することは不可能だった。
沿道では、数十万人のモスクワ市民が沿道にでて、ヴィソツキーの遺体をのせたバスを見送った。そのとき、モスクワ・オリンピックが開かれていた。だが、スタジアムの観客はヴィソツキーの葬列を見送るために沿道に出ていった、という。いまも、ヴィソツキーの墓地は、ロシア人の巡礼の地、聖地なのだ。
ヴィソツキーは、シンガーソングライターというだけなく、才能ある舞台俳優だった。ハムレットの演技は高く評価されていた。そして、数十本の映画にも出演した。
ヴィソツキー Городской Романс http://www.youtube.com/watch?v=i-UvoDhhpqk&feature=related
ソ連からアメリカに亡命したバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフが主演してヒットした映画「ホワイト・ナイツ/ 白夜」(1985年)で、ヴィソツキーの歌で踊るシーンがある。あの曲がきのう紹介した Кони ( 馬 Horses) なのだ。
「ホワイト・ナイツ/ 白夜」 バリシニコフのダンスhttp://www.youtube.com/watch?v=--LbFRO8SQQ
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ヴィソツキーの葬儀に集まった人々 http://www.youtube.com/watch?v=OYrDvBX77KI&feature=related