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小泉前首相の「靖国参拝」は「思想・良心の自由」「表現の自由」か?(2)

2007年07月05日 | 国際・政治
昨日に引き続き『国家は僕らをまもらない~愛と自由の憲法論~』(田村理著、朝日新書)から小泉前首相の「靖国参拝」の論理の欺瞞性について見ていきましょう。


田村氏は、この朝日新聞の記事が、小泉前首相の発言の欺瞞性を指摘・批判せず「首相にも個人としての『表現の自由』はある」というフレーズを無批判に掲載している点を問題視しています。
田村氏に言わせれば、「憲法上、首相=内閣総理大臣は国家機関であり、個人は国家から人権を奪われない私的な存在。だから『首相=個人』という存在はありえない」のだと。つまり「私人としての小泉さん個人には、『表現の自由』があると言えるかもしれないが、首相の地位にある人が“自由を主張しなければならない国家=権力”とは何だろう。そう主張しなければならない場面を僕は想像できない」と。そして、「『首相=個人』という定式は『私人としての参拝』だと明言しないですませるために作り出されたものであることに厳しい批判の目を注がなければならない」と言います。

田村氏は、朝日新聞の記事が、こうした“クルリン(論理の逆転)”を「採用」している論拠に、1987年3月に下された「岩手靖国訴訟一審判決」の次の論理があるのではないかと挙げています。
「公人と私人とは不可分であり、内閣総理大臣等は私人として思想及び良心の自由、信教の自由を有し、かつまた政治的中立を要求されない公人たる政治家として、自己の信念に従って行動しうることは言うまでもなく、そして、憲法が保障する基本的人権のうち思想及び良心の自由、信教の自由の如きは天賦人権の最たるものであって、国家に優先することは何人も否定しえず、公人であることによってこれを制限することは許されないところであるから、その自然人の発露としての参拝を行うにつき、一方では私人として許容され、他方では公人として否定されるということはありえない」
田村氏は、ここでいう内閣総理大臣の天賦人権が優先するとされている「国家」とはいったい何なのか――と、この判決を疑問視します。
そして、この判決に対する反論として、憲法学者の樋口陽一氏の的確な指摘を引用し、つぎのように紹介しています。
「(「岩手靖国訴訟一審判決」は)憲法の定める自由とは権力を制限するために個人に認められたもの、という肝腎のところを反対向きにうけとった論法と評すほかありません。この論法が通ってしまったら、権力者の方は心のおもむくままに、自分自身の思想・信条の自由を主張して政教分離を破ることができるでしょう。その権力者が、権力を持たないものたちに向かっては『国を愛する心』を持てと要求する、というふうにでもなれば、憲法の原則は完全に逆転してしまうことになります」(樋口陽一著「『日本国憲法』まっとうに議論するために」みすず書房、2006年)

田村氏は言います。「僕たちみんなが守るべき理想を定めた法」という憲法観は、知らず知らずに国家=権力を利し、僕たちが不自由を強いられる方向にグイグイ引っ張られる要因になっている。改憲を主張する人々は、「新しい」憲法観と称して、樋口氏が示す「憲法の原則の完全な逆転」を図ろうとしている、のだと。

【参考』『国家は僕らをまもらない~愛と自由の憲法論~』(田村理著、朝日新聞社刊、朝日新書、740円+税)


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