Altered Notes

Something New.

良い演奏とは~マイルスが示唆するもの~

2021-03-23 01:11:11 | 音楽
ジャズ屋の面白い側面の一つに「遠回しに本質的な事を言う」というのがある。例えば「馬」の事を語ろうとする時に「馬」とストレートに言ってしまうのではなく、遠回しに色々な表現を駆使する中で聞き手がやがて「この人は”馬”の事を言っているのだな」と自ら気づくように話を持っていくのである。

これはそのまま音楽表現の手段・手法でもある。音楽理論に(単純に)沿った演奏は整った美しさを持つ一方で解釈の余地を許さない場合が多い。解釈の余地がないということは音楽的な幅の広さに限界がある、ということでもある。ヒットチャートの音楽などはそうした形態の音楽と言っていいと思う。

何を言っておるのだ?…とお思いであろうが、下記の講演をお聞きいただきたい。

Herbie Hancock on Miles: Don't play the butter notes! (*1)

最初に上記リンクを貼った時には日本語字幕が付いた映像があったのだが、現在は翻訳字幕無しのヴァージョンしかないのでご了承いただきたい。内容は『ハービー・ハンコックがマイルスから受けたアドバイス 「バターノートを使うな」』というものである。

マイルスはハービーに対して「バターノート(音)を弾くな」というアドバイスをした。バターは脂肪がたっぷり含まれている。「脂肪たっぷりギトギト」なそれをハービーは「判りきった音」として解釈した。脂肪がたっぷりでギトギトするほど性格の明らかなもの…バターノートを最も象徴する音としてハービーは3度の音と7度の音を挙げている。

確かに3度の音はその和音がメジャー(長調)かマイナー(短調)かを分ける決定的な音である。(*2)7度の音も♭7thであればその和音がドミナントコードであることを表し、従って次に続くコードはトニック(主和音)かそれに類似するコードになることが既に予見できる音である。♮7thならメージャー7thであり、ポジティブで穏やかな雰囲気を付加する音になる。これらが和音に含まれていると、その和音の性質が明確になり雰囲気が決定してしまう(わかりきった展開が予見される)…という特徴がある。もちろんハービーが言っているのはコードだけではなくフレージングラインも含めての事である。

筆者としては、突き詰めるならバターノートの最たるものは「3度の音」だと考える。そうした余りにも性格・役割が明確過ぎる音は、鳴らした途端に聞き手にストレートに伝わってしまう。それが例えばジャズの持つイマジネーションの広がりを自ら否定し潰してしまうような面もある。イマジネーションの広がりに自ら制限枠を設けてしまうようなものである。(*3)

ハービーは最も象徴的な例として3度と7度の音を挙げたが、ジャズに限らず音楽には様々な面があり、様々な瞬間がある。なので、マイルスが言うバターノートとは

「その瞬間に和音の性格や音楽の表情を最も安易に決定付けてしまうような要素」

であり、

「そういうものを安易に弾くな」

とマイルスは言ったのだろうと思える。マイルスらしい示唆に富んだ素晴らしい表現である。(*4)




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(*1)
ハービーが語るこの話はかなり以前に音楽雑誌か何かで筆者も読んで知っていたが、こうしてハービー自身が直接語る映像が確認できたことを嬉しく思う。

(*2)
平易に説明すると・・・「ド ミ ソ」という和音を弾けばメージャー(長調)の和音だが、これを「ド ミ♭ ソ」という具合に3度の音を半音下げてやるだけでマイナー(短調)になる。この和音に他のどんなテンションを付加しようとも3度の音が「長三度ならメージャー」「短三度ならマイナー」になる、ということである。たった半音の違いで全く趣の異なる和音になる。それだけ性格の強い音程である、ということだ。

(*3)
もっとも、音楽経験の少ない人やいわゆる初心者の人にはいきなりこの話は若干難しいかもしれない。申し訳ない。3度と7度の音が和音の中でどのような役割を果たしているのかを理論的にも感覚的にも身につけてから、の話をしているからである。

(*4)
主にジャズのアンサンブルを想定しての話だが、こうしてバターノートを外したサウンドで音楽を紡いだ場合、各楽器の奏者に良き影響を与えることができる。フロント楽器である管楽器のフレージングはもちろん、ベース奏者が演奏するベースラインもまたより「飛べる」ようになるのだ。「飛べる」と言うのはバターノートが自ずと規定する音楽的な幅を超えた展開が可能になる自由が得られる、という意味である。やや余談だが、ベース奏者に最高に「ぶっ飛んだ」演奏を求めるなら、ピアノ等和音楽器は思い切って演奏を止めたらよろしい。ベースやフロント楽器は和音がなくなったらより自由に飛べるようになるからだ。(*4a) 実際にそのようにして最高の即興演奏が成された事例は数多ある。ハービーが参加していたマイルスのクインテットでもそうだった。ロン・カーターのベースはコードバッキングがなくなって、そこに(音楽的な)スペースが生じるとより自由にベースラインを創造できたのである。もちろんフロントの管楽器も同様だ。ジョン・コルトレーンの有名なカルテットでもコルトレーンのサックスによるアドリブが熱を帯びてくるとピアニストであるマッコイ・タイナーはピアノのコードバッキングをしばしば止めた。コードのバッキングが無くなるとサックスはより自由により高みに飛んでいけるのだ。(*4b)これは「バターノートを弾かない」概念の延長上にあるものである。

(*4a)
バターノートの有無に関係なく、捉え方として、そもそもコード(和音)を鳴らした時点でソロイストのイマジネーションにある種の制限枠をはめているようなところもある。

(*4b)
こうした場面ではしばしばドラムのエルヴィン・ジョーンズとの一騎打ちのような様相を呈してきてリズムのグルーヴ感とアドリブの緊張感(次の瞬間、何が起こるかわからないスリル)が味わえたものである。







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