Altered Notes

Something New.

理解できないものは否定する人々

2017-09-30 23:20:05 | 社会・政治
自分が理解しがたい概念や文化に遭遇した時に人がとる姿勢には大きく2つある。
ひとつは時間とエネルギーをかけてもその概念や文化を理解しようと謙虚に努力するタイプ。
もうひとつは自分が理解不能な概念・文化は「くだらない」「こんなものは駄目」として否定して済ませてしまうタイプ。

自分が理解できないものを否定して済ませるのは簡単なことである。「そんなもの価値がない」と言ってしまえばそれでお終いだ。
だが、真相はそうではなく、新しい概念や文化を理解できない自分を納得させて心を落ち着ける為に否定するのである。人は何かを理解できないとき、無意識の中にモヤモヤが発生してある種の緊張状態になって、これがストレスとなる。だが、否定することで片付けてしまえば心の緊張状態は終わる・・・すなわち楽だからである。

理解しがたい概念を心の中に持ち続けるのは存外心的エネルギーを必要とする。普段からあまり思考する事を得意としていない人には辛い状態となってしまう。だからそんな人は自分の無意識の中に波風を立てないように、判らない文化や概念を否定しさることで深層心理を平静な状態に保とうとするのである。

テレビ番組を見ていると、この手の「否定して終わり」なコメンテーターがうじゃうじゃ存在している。
例えば爆笑問題の太田光氏である。
先般の日野皓正ビンタ問題の時に日野氏の事を「大した音楽家じゃない」と言って済ませていた。太田光氏は音楽については完全にド素人であり、歌詞を語る事で音楽を語った気になるような勘違いぶりを発揮する恥ずかしい人物である。この問題の時にはビンタ事件の真相や背景についてすらあまり詳しく把握していない状態で、しかも前述のように日野氏の事も知らなければそもそも音楽自体が理解できてない太田氏が一言の否定コメントで終わりにしてしまったのだ。正に厚顔無恥。これが太田氏の「程度」なのである。

理解できないから否定して終わりにするのは薄っぺらなコメンテーターだけではない。
あの宮﨑駿監督でさえそうなのである。
宮崎氏はコンピューターやインターネットに馴染めず、常にIT分野に対する否定的なコメントが聞かれる。「ネット検索」を「コピー文化」として批判し、「チョロっと出てきてチョロっと消えていく」程度のものである、と軽んじているのだが、アナログ文化の真っ只中で生きてきた(創造してきた)宮崎氏にとってデジタル技術を基礎とするIT文化やコンピューターにまつわる様々な新しい概念はとても理解し難く、むしろ自分が推し進めたい文化のあり方にとって邪魔なもののように見えているようである。従って彼はそれを否定することで己の思想の正当性を示す為の根拠としているようである。また、ここには老境に於けるベーシックな精神の有り様、という観点も存在している。

宮崎氏はそれこそ司馬遼太郎・堀田善衞・養老孟司・半藤一利・網野善彦といった作家・学者・論客たちと対等に文明論を戦わせられる重厚な頭脳と知識の蓄積がある人物であり、テレビのワイドショー等でいい加減なコメントしているような連中とはそもそも人間の厚みが違う。そんな宮崎氏でさえ理解できないものがあり、否定して済ませてしまうような一面も持ち合わせているのだ。

もうひとつ、北野武監督(ビートたけし)も同様である。
彼は「アニメ映画が嫌いで宮﨑駿も嫌い。あんなインチキ映画」と宣う。好き嫌いは個人の主観ではあるが、「嫌い」と否定して済ませるのは北野武氏が宮崎映画を理解できないからにほかならない。理解するための感性が彼には欠けているのであろう。「インチキ映画」も暴言の域である。
また、北野武氏は宮崎映画を否定しながら「でも興行収入は良いからそこは認める」と語っている。これは北野映画が欧州では評価が高いのにも関わらず国内での興行収入がなかなか思うようには伸びていない事が背景にあるのだが、しかし作品自体は否定しているのだから「興収は良いからそこだけ認める」というのは評価ではなく皮肉にしかなっていないのであり、要するに宮崎映画を見下している事に変わりはないのである。それにしても北野武氏は結構なインテリであるにも関わらず、理解できないものを感情的に否定して終わり、というのは残念なことである。これは彼の性格に依拠すると共に年齢的なものも影響しているのかもしれない。


理解しがたいものを己の中に理解・納得して吸収することは本当にエネルギーと時間を必要とすることだ。できればそんな疲れることはしたくない(だって人間だもの(?))…という意見もあろうが、しかし人間のあり方や矜持としては(可能な限り)必要な事と思えるのだ。


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<2020年11月18日:追記>
経済学者で明治大学教授でもある飯田泰之氏もまた「理解できないものを簡単に否定してしまう」人物である。少し前の「ニュース女子」という番組内でテレビ局と放送電波の扱いについて議論するシーンで、NHKが持っている電波(チャンネル)数の多さについて話が及んだ時に、飯田泰之氏は4Kや8Kといった高画質テレビ放送の技術開発について「そんなに高画質の追求をしなくてもいいのでは?」「画質は今の水準でよくない?」という趣旨の発言をした。これは2009年の民主党に依る事業仕分けで出た蓮舫議員の「2位じゃ駄目なんですか?」発言と同じ発想である。スーパーコンピューターの技術開発は常に1位を目指して開発しなければ2位にすらなれない厳しい競争状態があるのだ。蓮舫氏はそうした実態をまるで知らないので前述のようなトンチンカンな発言になったのである。これもまた「理解できないものは簡単に否定して済ませる」人間の悲しい性(さが)に依るものだ。映像技術・テレビジョン技術開発の場合も同じで、その進歩に休みはなく、現在放送されているHDTV(ハイビジョン)放送も1960年代から研究・開発がスタートしているが、当時から「そんなに高画質でなくてもよくない?」という意見があった。しかし現在、アナログ放送のNTSC方式から切り替わったデジタルのHDTV放送が標準になって、我々もその画質に慣れてこれが当然の画質だと考えている。確かにNTSCアナログ放送の時代に映像機器も格段の進歩を遂げて当時の規格の中では十分に高画質な映像にはなっていたし、日本の映像機器メーカーはこの時代に大躍進したのである。だが、現在のHDTV放送のクォリティを基準に評価するならば解像度一つとっても遥かに及ばない画質と言わざるを得ない。かつては日本の映像技術・テレビジョン技術は世界をリードするものであった。このアナログ放送時代には世界中の放送局がソニーのTVカメラや映像機器を導入していたのだ。世界のほとんどの放送局で信頼される映像機器として認められていたのである。それは日本の技術力の高さを証明するものであった。これは日本の電子機器メーカーが「常にトップのクォリティ」つまり「1位」を目指して開発してきたからである。映像技術や機器の開発もトップを目指していなければたちまち世界の水準から置いてきぼりにされてしまうだろう。そうなったら、ただでさえかつての勢いを失っている日本のメーカーはさらに衰退していくことになるだろう。映像分野でも技術開発の勢いは止めてはならないのである。まして映像に於いて高画質の追求に終わりはない。蓮舫氏がコンピューター技術に疎い事と同様に飯田泰之氏もまた「映像」にも「映像技術」にも「映像機器」にも疎い人物である。関心がなく理解が及ばない分野について人間は無意識に「なくてもいいもの」として片付けようとする傾向がある。大変残念だが飯田泰之氏の場合もまた「理解できないものは否定して終わり」の典型例になっているのである。


<2021年8月11日:追記>
TBSの「サンデーモーニング」はその界隈では「最低モーニング」と呼ばれるほど偏向度合いの強い番組としてつとに有名である。その番組中に張本勲氏が好き勝手にコメントするスポーツ・コーナーがある。8月8日に放送された同番組の中で東京オリンピックのボクシング女子フェザー級で入江聖奈選手が金メダルを獲得したことについて、張本氏が「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね。見ててどうするのかな? 嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」とコメントしていた。この件について、日本ボクシング連盟の内田貞信会長は8月11日に「野球評論家の張本勲氏が女性ボクサーを揶揄(やゆ)した」として、抗議文を送っていたことを明らかにしている。当然だろう。張本氏は野球についてはプロかもしれないが、他の分野については「素人」である。素人が判ったフリして偉そうに御託を述べた内容が前述のコメントであり、その結果がボクシング連盟からの抗議文ということだ。己が知らない分野のことは正直に「知らない」と表明すべきなのだ。知らないのに無理にコメントするから恥ずかしい結果を招くのである。張本勲氏…どこに出しても恥ずかしい人物である。




「暑い」をめぐる誤解

2017-09-12 11:37:38 | 社会・政治
夏という季節に我々はついつい「暑い」と言って団扇で扇いだりタオルやハンカチで汗を拭うのであるが、我々にとっての「暑い」とはなんだろうか。

我々が感じる「暑い」というのは往々にして「蒸し暑い」という状況を指している場合が多い。
夏場に使われる言葉で「不快指数」というのがあるが、これは本来「温度が高い時に汗をかいて気化熱で体を冷やす仕組みが、湿度の高さ故にその機能が阻害される」ことで人が不快に感じる度合いを表す数字である。逆に温度は高いが湿度は充分に低いという状況下では人は「蒸し暑さ」を感じず、従って汗もかかず、快適に過ごすことができる。筆者も気温が34度なのに湿度が充分低い為に全く汗をかかず快適だった経験がある。この時に気温が34度なのに筆者は「暑い」という感覚にはならなかったし長袖のシャツで普通にいられたのだ。つまり、人間の「快・不快」にとって大切な数字は温度ではなく湿度であることを示しているのである。

少し前に環境省がクールビズに関連して「エアコン冷房使用時の推奨設定温度は28度」という基準を発表した。これなどは本当に馬鹿なことで、室内温度が28度であっても日本の夏は湿度が高く、しかも室内で多くの人間が働いていればますます湿度は上昇する。そうした高湿度の環境下での28度という温度設定は人間には相当きついものとなる。クールビズどころか「湿気耐久ビズ」になってしまう。
しかも後になってこの28度設定自体が環境省の役人によって「なんとなく」設定された数字であることも判明した。何の知識もない低能な役人が勝手な思い込みで28度に決めたのだ。役人がいかに無責任で無神経で阿呆な連中かを示す証拠である。
実際、これが発表された当時は「環境省が言ってるのだから」ということで各企業でエアコンを28度設定で使っていたそうだが、オフィスで仕事していた人々にとっては地獄の不快さであっただろう。

テレビの天気予報・気象情報でも解説する気象予報士が暑さを「気温との関係」で説明することが多いがこれも多くの場合は適切とは言えず、実は「湿度との関係」で「暑さ」を語るべきなのはもうお判りであろう。

結局人間にとっての「暑い」は、「蒸し暑いことによる不快」・・・ということなのであり、そのキーポイントは「温度」ではなくて「湿度」である。
人は暑さ(蒸し暑さ)を感じる時にそれを除去しようとエアコンを作動させるのだが、それは「温度を下げる」事よりもむしろ「湿度を下げる」ことを目的としているのであり、そこが重要なのである。







謝罪する人の本音

2017-09-02 12:12:57 | 社会・政治
世の中では様々な不祥事で謝罪せざるを得ない立場の人がいる。
そうした人が謝罪の際にしばしば使う言葉がある。

「誤解を与えたとしたら申し訳ない」

つまり、本当は悪くないのだが社会が誤解しているから自分が悪者にされているのだ、と言っているのである。

それは謝罪という体ではあるが、しかし本人は自分が悪いとは考えていません、という意思の表明に他ならない。すなわちそれは謝罪ではなく責任のすり替えであり開き直りなのだ。
百歩譲って誤解と言うなら「どこをどう誤解しているのか」の説明が必要だが、謝罪する本人も説明しないし取材する記者も頭が悪いのでそこは突っ込まないのである。西欧社会ならそこはきっちり明らかにされる筈だが日本ではそうはならない。

かくしてなんでもうやむやにしてしまう日本の曖昧文化は廃れずに残り続けるのだ。


お笑い芸人という低次元な人たち

2017-09-02 08:07:53 | 人物
最初にことわっておくが、これから記す内容は全てのお笑い芸人を対象にしたものではない。当該記事の対象として想定されるのは志もなく意識も低い不徳にまみれているような人々である。

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お笑い芸人の語るところを聞いていると、しばしば一般人に対する差別意識を感じる。その典型的な例が一般人を「素人」と呼んで差別する事だ。

こうしたお笑い芸人の差別意識について岡田斗司夫氏が明解に説明している。参照してほしい。

岡田斗司夫「お笑い芸人の差別意識は【異常!】」

お笑いを創作する人と評価・評論する事の区別ができてないところなど根本的な論理が破綻しているのみならず、人間的にも到底尊敬に値せず、低い評価をせざるを得ないのが彼らお笑い芸人である。それはビデオ後半の「一般人を見下す一方でトロフィーワイフをありがたがる傾向」を持っているところなど、改めて彼らが幼い子供と同じ次元でものを考えている事が印象付けられるのである。一般人を格下に見ているところなどはそもそもの彼らの「程度」が滲み出ていると言って過言ではない。(*1)

こうした芸人たちの精神的な傾向というのは彼らの「芸」「持ちネタ」にも反映されているように思う。最近の芸人たちのネタはとても大人の鑑賞に耐えられない幼稚で低次元なものばかりで、いわば幼稚園児なら笑ってくれそうな低レベルのものがほとんどである。幼稚園児以外なら笑ってくれるのは女子中高生くらいではないだろうか。それが実態である。

少し前に脳科学者の茂木健一郎氏が日本のお笑い芸人のレベルの低さを嘆いたところ、芸人界から叩かれたようだが、あの指摘は実は正しいのである。内容をそのまま欧米と比較する事は文化や伝統の違いもあるので難しいのだが、少なくともパフォーマンス自体の重みや知性的充実感がまるで違うのは確かなことである。日本のレベルは前述した通り、幼稚園児や女子中高生になら笑ってもらえる程度の低次元なものがほとんどである。(*2)
もう一つ、人間は「本当の事を言われると怒る」という真理がある。だから茂木氏の言説に対してお笑い芸人は怒ったのだ。

お笑いには本来インテリジェンスが必要である。笑いというのは本来知的な領域のものなのだ。岡田氏が指摘した通り、ダウンタウンよりも1~2世代くらい後の世代、それ以降の若手芸人は平気で論理的におかしい話を繰り出してくるところを見ても判るように、あまりインテリジェンスを感じなくなっているのは事実である。幼稚園レベルのネタしか繰り出せないのも必然であろう。

例えば、イギリスの代表的なコメディー・グループであるモンティー・パイソンのメンバーはケンブリッジ大学やオックスフォード大学を出ており、そうした知性がベースになって高度なギャグが生み出されていった。もちろん高学歴が善だと言ってる訳ではないし学歴が全てではない事は勿論だが、わかりやすい例として挙げた。

どういうことか。

モンティー・パイソンの面白さのひとつは学問に通じた高度な知性と教養、そして常識・礼儀を持ち合わせたメンバーが”敢えて馬鹿をやらかす”ところに醍醐味がある。一方、はじめから馬鹿な人間が馬鹿なことをやらかすのは「あたりまえ」なのであって、そんなものは面白くもなんともない。

さらに言うなら、こうしたレベルの低下傾向は芸人だけに起因するものではない。

マスメディア(主にテレビ局)である。

芸人を紹介するメディアであるマスコミ自体がインテリジェンス(と「志」)を失っていて芸人たちと同じレベルになっている。だから全く知性を感じさせない芸人たちの思い上がりを助長させ、連中が蔓延る原因となっているのだ。平たく言えば「馬鹿が推しているお笑いはやはり馬鹿でしかない」ということだ。浮かれた芸人風情などただただ醜悪なだけであり、いわば何処に出しても恥ずかしい存在と言えよう。テレビ局の影響力は非常に大きく、日本の文化レベルを低下させて止まない強力な推進力となっているのが実情だ。(*3)

そして、そうしたマスコミが推す芸人ばかり見て育った子どもたちは「これがお笑いなんだ」「これが面白いんだ」と思い込んでしまう。知性皆無の低次元なネタで笑ってしまう形にいわば躾けられてしまうのだ。だから本当の本物が育たないのだし、つまらない芸人が舞台に出て、見る目のない客達はそれを笑う、という極めて低レベルな図式/構造が成立してしまう。これではどうしようもない。(*4) さらにそうした低レベルで低次元な芸人達が今ではNHKのEテレ(旧・教育テレビ)にまで出演しているという悪夢、である。そりゃまともな人はテレビから離れていくだろう。当然だ。


また、お笑い芸人たちが発する言葉や立ち居振る舞いを見た若年層が影響を受けて、その言動・行動を真似ることで問題が起きている。芸人たちが番組内でやることはたいてい無分別・無神経・無責任といった形容ができるものだ。最初は若者が単に芸人の真似をしていただけであったのが、徐々にメンタリティーの奥まで浸透してきた結果として社会のあちこちで小さいが無数の軋轢を生んでいる。有り体に言えば非常識かつ無礼な言動・行動が当たり前になってきて基本的なコミュニケーションすら難しくなりつつある問題だ。

現在、この問題がそれほど顕在化していないのは未熟な若者に対して先輩たる大人たちが配慮して譲歩しているからにほかならない。

評論家の山田五郎氏は若年層の非常識で無礼な言動や行動について「(大人に対して)失礼な事を物怖じしないとか大物とかって言うのはやめたほうがいいと思います」「なんか変な事を言っていれば大物だ、みたいな…そういう評価は良くない」(2019年8月6日 MX「5時に夢中!」)と発言して警鐘を鳴らしている。

こうした若年層への影響力が現在最も大きいのがお笑い芸人であり、その言動・行動を発信しているテレビ番組である。芸人やマスメディアの悪影響で社会の空気がどんどん悪い方向に変化している事に危機感を持つものである。


常識というのは英語でコモンセンスと言う。いわば”共通の認識事項”ということだ。言わなくても判る、言わなくても判っていなければならない内容である。そこがしっかりしていないと社会は相互コミュニケーションが円滑にいかず、従ってうまく回っていかない。今の若年層はそうした常識を知らないケースが極めて多くなってきている。

なぜか。

彼ら彼女らの親世代がきちんとしつけをしなくなっている事もあるが、それと共に芸人やマスメディアが常識(コモンセンス)を破壊するようなコンテンツを発信しまくっているからである。そもそも笑いというものだって常識がしっかりしている社会で初めて成立するものだ。この土台たる常識・礼儀が曖昧になっているが故に、必然的展開として社会のあちこちで問題や摩擦が生じている。こうした現象の下地を作っているのが前述のようにテレビ等のマスメディアでありお笑い芸人たちなのである。

こうした常識や礼儀の喪失は日本という国の基礎的な空気を変えつつある。何か色々な大切なものを破壊し失っているプロセスにあるような気がする。こんなことではいけない筈だが、もう後戻りできないレベルまで進行してしまっているのかもしれない。そう考えると芸人やテレビ等マスメディアの罪は非常に大きいと言わざるを得ない。




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(*1)
土田晃之氏などに代表されるものとして一般人(非芸能人、非業界人)を異様に見下す態度がある。土田氏はしばしば一般人を格下に見て「素人」とか「素人さん」と呼んで見下すのであるが、こうした姿勢を当然のこととして彼は発言し行動する。彼にとっては常に自分が”上”で一般人は”下”なのである。芸能界や業界を目指している訳でもない一般人を「素人」と呼ぶのは完全にお門違いであり失礼極まりないことであるが、土田氏はその無礼さに気づいていない。むしろそこに明確な境界線を引いて一般人を差別することを当たり前の事としている。(*1a)土田氏もまたお笑い以外の様々な分野では素人なのだが、彼はそうした人としての謙虚な姿勢には無縁のようである。これが土田氏の人としての”程度”ということなのだろう。(蔑笑)
昔の、それこそテレビの創成期頃から活躍した芸人たちは一般人(お客様、視聴者)を見下すことはなく常に敬意をもって相対していた。たとえ客をイジったとしてもそれはお客様への敬意と愛情が背景にあった。今どきの芸人は本気で一般人を見下し馬鹿にしている。本気で「自分よりも下層の連中」だと考えているのだ。これは逆に言えば芸人たちのメンタリティは一般人を見下すことでしか安定を保てないからである。また、そうした風潮を創生した下地を作っているのが既得権益にまみれたマスメディア・テレビ屋である。電波という権力を振り回して好き勝手に振る舞うテレビ屋。彼らが視聴者たる一般人を見下すから、だから芸人たちもその影響を受けて一般人を蔑んで「素人」呼ばわりするのである。全く反吐が出るような腐った連中である。昔のテレビの創成期の時代に活躍した芸人たちはそうではなかった。彼らはお客様・視聴者への敬意は絶対に忘れなかった。だからみんなが屈託なく笑うことができたのだし大人の笑いがそこにはあったのである。しかし現代の芸人風情は一般人を本気で見下して馬鹿にしている。それが例えば一般人を「素人」と呼ぶ言動にも現れているのだ。いい気になって浮かれている人間の醜悪な姿がここにある。

(*1a)
オードリーの若林正恭氏も同様である。彼はしばしば一般人を「素人」と呼ぶのだが、それが蔑視のニュアンスを含むことをある程度認識した上で言っているのだ。オードリーのラジオ番組で若林氏は「素人」という言葉について「少し強い言い方だけど」とエクスキューズした上で一般人を「素人」と呼んでいたので確信犯と言えるだろう。「素人」は蔑視の感情を強く含む言葉であり一種の差別用語でもある。こうした言動はそのまま若林氏の非常識と無礼な人間性の現れであることは言うまでもない。

(*2)
茂木氏は芸人たちが政治風刺・政治批判をしない点も指摘している。日本の芸人、とくに大御所と言われる人たちはむしろ政治家におもねるくらいの姿勢を見せており、とても褒められない状況を呈している。
政治は本来我々国民の最も身近な話題でもあるはずなのだ。そこを素通りして権力者に媚びを売るような日本の芸人は結局「寄らば大樹」という姿勢なのであろうし、自分が儲かってヒエラルキーの上位に与えられた美味しい汁を吸える愉悦を味わえればそれで満足なのかもしれない。残念なことである。

(*3)
もちろん、お笑い芸人というカテゴリーに居る人の全てが駄目ということではない。芸人という職掌であり、しかも素晴らしい人格や志を持っていてリスペクトに値する人も実在するし、非常に高い徳を持つ人も居る。それはどの分野にでも言えることである。優れた人物もいれば駄目な人物も居るのであって玉石混交なのはジャンル・カテゴリーを問わず同じだ。マスメディアが推している芸人でも駄目な人物・屑な人物は居る。マスメディアで推されるのは単に実力があるからとは限らず、別の意図があってゴリ押しされるケースもあるからだ。マスメディアも商売だからである。

(*4)
モンティ・パイソンは英国の国営放送であるBBCの番組だが、政府を皮肉るネタを扱うケースもある。相当なブラックユーモアではあるが、それでも「笑い」として成立させている。しかし日本に目を転じるとNHKがハートネットTVの中で政府の施策を揶揄する番組を放送することがある。一見するところ、前述のBBCの例に近い形のように見えるが、しかしNHKの場合は本気で日本政府を攻撃しているかのような内容になっている。一切笑えない演出になっており、むしろ気色悪さだけが残るような後味の悪さがある。これはNHKの中に極左活動家が実際に存在しており、彼らが番組制作の指揮をとっているからである。そこで作られる番組はコメディでも何でもなく左翼のプロパガンダとなっているのだ。全く洒落にならないのである。



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<2017.12.10付記>

日本のお笑い芸人は形に囚われすぎている面が往々にしてある。
芸人だから「漫才やコントをやらねばならない」「それをやらねば芸人ではない」といった極めて狭量な意識と固定観念に囚われ過ぎなのである。もうこの時点で発想が「自由ではない」のだし、自ら「型」に嵌まろうとしている時点で表現者としては失格であろう。
これの典型例がレディオフィッシュの歌・舞踊「PERFECT HUMAN」に対する既成芸人たちの困惑ぶりである。
オリラジの2人は非常に自由な発想で演目を創作しパフォーマンスしている。私などは「PERFECT HUMAN」は素晴らしいと思うし、何より聴いて(見て)無条件に楽しめる歌/ダンスであると思う。これはこれで良いのである。
ところが既成の概念や古い因習的な世界観に囚われているベテラン芸人を中心に否定する評価が少なくなかった。否定している彼らに共通しているのは「自分が理解できないものは存在を認めたくない」「芸人は既成のフォーマットの中で演目を作るべき」というクリエーターにあるまじき形式にすがりつく態度であるし、それは同時に自分が既に知っている世界”だけ”に固執する醜い姿でもある。
そもそもお笑いというのは自由な筈なのである。何でも有りであってどのような論理や展開の跳躍があってもそれは全て認められる、というオープンな姿勢があってこそ面白くなる世界なのだ。ここが既に理解できてない駄目な芸人が日本のお笑い文化を形骸化させ活力を失わせていくのだ。



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<2019.06.27:付記>
いわゆる「闇営業」の問題が世間を騒がせている。所属会社を通さずに直接引き受けた仕事で利潤を得ていたということで11人の芸人が謹慎処分を受け、反社勢力から仕事を請け負ったカラテカ入江は吉本興業を契約解除になった。
芸人たちは色々な言い訳をしているが、笑ってしまうのは事件に関わった芸人が全員「知らなかった」と発言していること。発注元が反社勢力であることを知らなかった筈はないだろうし、ギャラを受け取っていた事実を当初は「受け取ってない」と平然と嘘をついていたところが凶悪である。平然と嘘に嘘を重ねるところが世間を舐めきった態度と言えるし、そんなことで社会を騙せると思ったのだろう。結果として彼らの発言は一切信用できないのであり、その不信感は最大値に達している。
反社勢力云々はともかく、一般企業に営業で呼ばれてギャラが出ない事などあり得ないし、そもそもノーギャラで出演を納得するような面々ではないだろう。
また、アンダーグラウンド世界の情報リークで定評のある猫組長のツイートによれば吉本興業も最初から「ギャラを受け取っていた」事を知っていたとのことで、まさに会社ぐるみで嘘をついていた事が知られるところとなった。しかもある吉本興業幹部はこの事件について、つい先日まで『握りつぶしてやる!』と息巻いていたそうだ。何をか言わんや、である。
さらに猫組長に依れば、反社勢力の会合に出席する芸人に対しては仲介者(例えば今回のカラテカ入江)は必ず相手(反社勢力)に失礼がないよう素性を伝えるのだそうだ。あらかじめ素性を伝えて理解して参加させないとイベントの直前に帰られたり官憲の介入を招く場合も有りうるからである。だから芸人たちが口を揃えて「知らなかった」というのは全部嘘、ということになる。28日のCX「バイキング」で土田晃之氏が謹慎になった芸人達を擁護して「「もし自分が行って間違いなくそうだなと思っても、逆に帰れなくないですか。」と発言。これも前提が間違っている。猫組長の証言を前提にすれば、仕事を受ける前に相手の素性は仲介者から伝えられているのだから「まずい」と思うなら最初から受けなければいい、という事。土田晃之氏もまた芸人擁護の為に嘘基調のコメントをしているように聞こえる。また、ワイドショー等の各局テレビ番組では芸人と吉本を擁護する方向で番組を放送している。テレビ屋も吉本興業に忖度しているのである。
芸人たちは事件の最初のリーク時から謝罪文を公表しているが、その謝罪文にも嘘が含まれているから事態が余計に深刻になっていくのである。前述のように「嘘をつく事」自体に何らのやましさも感じていないのだろう。嘘ついてつきまくってそれで逃げられたらラッキー!くらいに思っているのは間違いないと思われる。それは正にヤクザ・チンピラのようなレベルであるし、明白なる社会への裏切り行為にほかならない。
実は面白い事に30年前の大阪の番組で芸人とヤクザの同質性について上岡龍太郎が語っているのだ。「PAPEPO TV」という番組で笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎の二人のトーク番組である。ここで上岡龍太郎は語った。「芸人の人間性はヤクザと同じ。同じ気質の人間だが腕が立つ奴はヤクザになり口が立つ奴は芸人になる。それだけの違いだ」という趣旨の発言をしている。そう考えれば、吉本興業の体質、芸人達の体質も反社勢力と全く同じであり、闇営業事件も起こるべくして起きた、と言えるだろう。
これだけ騒がれて闇営業に関わった芸人が次々に明るみに出てくる状況だと、当然ながら芸人たちの脱税疑惑も調査する必要が出てくるだろう。
とにかく、芸人たちの浮ついた気持ちとコンプライアンス意識の欠如も致命的だが、会社自体も社会的に許されない行為を行った訳で、この業界全体を覆う「懐が肥えるなら何でもいい」という無責任かつふざけた空気感と、お笑いがもてはやされている社会状況がもたらした芸人らとその会社の思い上がりには辟易するばかりである。もはや「コンプライアンス」という単語に虚しさしか感じない。改めて芸人たちの腐った根性に反吐が出る思いだ。
彼らは人として終わっている。




<2020.04.29:付記>
4月23日放送のラジオの深夜番組で芸人の岡村隆史氏は「新型(武漢)コロナウィルスの影響でお金に困った女性がいずれ風俗嬢になって風俗業に出てくるから今はそれを楽しみに待とう」という趣旨の持論を述べた。これは各方面からの批判を受けたようだが当然であろう。これは岡村氏自身の「女性を己の性欲を満たす為の道具にしか見ていない」事の表明にほかならないからであり、この発言によって岡村隆史氏という人物の「程度」がよく判るというものである。たしかに女性達の中には武漢コロナウィルスの影響で仕事が失われて収入を得られず生活自体が非常に苦しくなっているが故に風俗業に(仕方なく)携わるケースもあるだろう。中には自分だけでなく家族の生活や様々な経済的下支えを一身に背負って働かざるを得ない人だっている。そうしたギリギリのラインまで追い込まれている人にとっては岡村氏の発言は無神経の極みであり乱暴で残酷な言葉に聞こえただろう。岡村氏はそのような人として当然の想像力が無いのである。その理由の一つが、岡村氏が経済的にエスタブリッシュされている事だ。武漢コロナウィルスの影響で当面収入がなくても彼には痛くも痒くもない。そうした部分が彼の心から人間らしい想像力を奪っているのかもしれない。心の貧しい人である。また、百歩譲って、これが一種のブラックなジョークとして放たれたとしても、そもそもブラックジョークというものは「同じ価値観が共有されている人間同士」でないと成立しないものである。現代は「常識」自体が揺らいでいるような社会だ。公の場でブラックジョークが成立する事はまずあり得ないのが実情である。そこに気が付かない彼の無神経さと無頓着さには呆れるばかりだ。




<2024.01.11:付記>
週刊文春による「松本人志氏の性加害告発」が話題になっている。また、この件に付随してスピードワゴンの小沢一敬氏の件も同様だ。彼らが本当に潔白であれば、今まで同様に堂々と仕事すればよろしいと思うのだが、どうも彼らの動きを見るとそうでもないように見えてくるのも確かである。出演辞退をしている時点で何かの「やましい点」があるのでは、と推察するのは自然なことだろう。
まず、事実の如何はともかくとしても、彼ら「芸人」という人たちは「そのようなことをしそうな人々」として社会的な認識をされている、というのは事実であるし、実際にそうである事例には事欠かない。だから散々「芸人はクズ」と言っているのだし、亡くなられた上岡龍太郎師匠もそう言っていたのである。本当のところは裁判等で明らかになるのだろうが、芸人にこの手のブラックでダークな話は付きものである、という社会の共通認識が彼らの立場を自ら悪い方向に追い込んでいるように見えるのは決して偶然ではないだろう。