自分が理解しがたい概念や文化に遭遇した時に人がとる姿勢には大きく2つある。
ひとつは時間とエネルギーをかけてもその概念や文化を理解しようと謙虚に努力するタイプ。
もうひとつは自分が理解不能な概念・文化は「くだらない」「こんなものは駄目」として否定して済ませてしまうタイプ。
自分が理解できないものを否定して済ませるのは簡単なことである。「そんなもの価値がない」と言ってしまえばそれでお終いだ。
だが、真相はそうではなく、新しい概念や文化を理解できない自分を納得させて心を落ち着ける為に否定するのである。人は何かを理解できないとき、無意識の中にモヤモヤが発生してある種の緊張状態になって、これがストレスとなる。だが、否定することで片付けてしまえば心の緊張状態は終わる・・・すなわち楽だからである。
理解しがたい概念を心の中に持ち続けるのは存外心的エネルギーを必要とする。普段からあまり思考する事を得意としていない人には辛い状態となってしまう。だからそんな人は自分の無意識の中に波風を立てないように、判らない文化や概念を否定しさることで深層心理を平静な状態に保とうとするのである。
テレビ番組を見ていると、この手の「否定して終わり」なコメンテーターがうじゃうじゃ存在している。
例えば爆笑問題の太田光氏である。
先般の日野皓正ビンタ問題の時に日野氏の事を「大した音楽家じゃない」と言って済ませていた。太田光氏は音楽については完全にド素人であり、歌詞を語る事で音楽を語った気になるような勘違いぶりを発揮する恥ずかしい人物である。この問題の時にはビンタ事件の真相や背景についてすらあまり詳しく把握していない状態で、しかも前述のように日野氏の事も知らなければそもそも音楽自体が理解できてない太田氏が一言の否定コメントで終わりにしてしまったのだ。正に厚顔無恥。これが太田氏の「程度」なのである。
理解できないから否定して終わりにするのは薄っぺらなコメンテーターだけではない。
あの宮﨑駿監督でさえそうなのである。
宮崎氏はコンピューターやインターネットに馴染めず、常にIT分野に対する否定的なコメントが聞かれる。「ネット検索」を「コピー文化」として批判し、「チョロっと出てきてチョロっと消えていく」程度のものである、と軽んじているのだが、アナログ文化の真っ只中で生きてきた(創造してきた)宮崎氏にとってデジタル技術を基礎とするIT文化やコンピューターにまつわる様々な新しい概念はとても理解し難く、むしろ自分が推し進めたい文化のあり方にとって邪魔なもののように見えているようである。従って彼はそれを否定することで己の思想の正当性を示す為の根拠としているようである。また、ここには老境に於けるベーシックな精神の有り様、という観点も存在している。
宮崎氏はそれこそ司馬遼太郎・堀田善衞・養老孟司・半藤一利・網野善彦といった作家・学者・論客たちと対等に文明論を戦わせられる重厚な頭脳と知識の蓄積がある人物であり、テレビのワイドショー等でいい加減なコメントしているような連中とはそもそも人間の厚みが違う。そんな宮崎氏でさえ理解できないものがあり、否定して済ませてしまうような一面も持ち合わせているのだ。
もうひとつ、北野武監督(ビートたけし)も同様である。
彼は「アニメ映画が嫌いで宮﨑駿も嫌い。あんなインチキ映画」と宣う。好き嫌いは個人の主観ではあるが、「嫌い」と否定して済ませるのは北野武氏が宮崎映画を理解できないからにほかならない。理解するための感性が彼には欠けているのであろう。「インチキ映画」も暴言の域である。
また、北野武氏は宮崎映画を否定しながら「でも興行収入は良いからそこは認める」と語っている。これは北野映画が欧州では評価が高いのにも関わらず国内での興行収入がなかなか思うようには伸びていない事が背景にあるのだが、しかし作品自体は否定しているのだから「興収は良いからそこだけ認める」というのは評価ではなく皮肉にしかなっていないのであり、要するに宮崎映画を見下している事に変わりはないのである。それにしても北野武氏は結構なインテリであるにも関わらず、理解できないものを感情的に否定して終わり、というのは残念なことである。これは彼の性格に依拠すると共に年齢的なものも影響しているのかもしれない。
理解しがたいものを己の中に理解・納得して吸収することは本当にエネルギーと時間を必要とすることだ。できればそんな疲れることはしたくない(だって人間だもの(?))…という意見もあろうが、しかし人間のあり方や矜持としては(可能な限り)必要な事と思えるのだ。
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<2020年11月18日:追記>
経済学者で明治大学教授でもある飯田泰之氏もまた「理解できないものを簡単に否定してしまう」人物である。少し前の「ニュース女子」という番組内でテレビ局と放送電波の扱いについて議論するシーンで、NHKが持っている電波(チャンネル)数の多さについて話が及んだ時に、飯田泰之氏は4Kや8Kといった高画質テレビ放送の技術開発について「そんなに高画質の追求をしなくてもいいのでは?」「画質は今の水準でよくない?」という趣旨の発言をした。これは2009年の民主党に依る事業仕分けで出た蓮舫議員の「2位じゃ駄目なんですか?」発言と同じ発想である。スーパーコンピューターの技術開発は常に1位を目指して開発しなければ2位にすらなれない厳しい競争状態があるのだ。蓮舫氏はそうした実態をまるで知らないので前述のようなトンチンカンな発言になったのである。これもまた「理解できないものは簡単に否定して済ませる」人間の悲しい性(さが)に依るものだ。映像技術・テレビジョン技術開発の場合も同じで、その進歩に休みはなく、現在放送されているHDTV(ハイビジョン)放送も1960年代から研究・開発がスタートしているが、当時から「そんなに高画質でなくてもよくない?」という意見があった。しかし現在、アナログ放送のNTSC方式から切り替わったデジタルのHDTV放送が標準になって、我々もその画質に慣れてこれが当然の画質だと考えている。確かにNTSCアナログ放送の時代に映像機器も格段の進歩を遂げて当時の規格の中では十分に高画質な映像にはなっていたし、日本の映像機器メーカーはこの時代に大躍進したのである。だが、現在のHDTV放送のクォリティを基準に評価するならば解像度一つとっても遥かに及ばない画質と言わざるを得ない。かつては日本の映像技術・テレビジョン技術は世界をリードするものであった。このアナログ放送時代には世界中の放送局がソニーのTVカメラや映像機器を導入していたのだ。世界のほとんどの放送局で信頼される映像機器として認められていたのである。それは日本の技術力の高さを証明するものであった。これは日本の電子機器メーカーが「常にトップのクォリティ」つまり「1位」を目指して開発してきたからである。映像技術や機器の開発もトップを目指していなければたちまち世界の水準から置いてきぼりにされてしまうだろう。そうなったら、ただでさえかつての勢いを失っている日本のメーカーはさらに衰退していくことになるだろう。映像分野でも技術開発の勢いは止めてはならないのである。まして映像に於いて高画質の追求に終わりはない。蓮舫氏がコンピューター技術に疎い事と同様に飯田泰之氏もまた「映像」にも「映像技術」にも「映像機器」にも疎い人物である。関心がなく理解が及ばない分野について人間は無意識に「なくてもいいもの」として片付けようとする傾向がある。大変残念だが飯田泰之氏の場合もまた「理解できないものは否定して終わり」の典型例になっているのである。
<2021年8月11日:追記>
TBSの「サンデーモーニング」はその界隈では「最低モーニング」と呼ばれるほど偏向度合いの強い番組としてつとに有名である。その番組中に張本勲氏が好き勝手にコメントするスポーツ・コーナーがある。8月8日に放送された同番組の中で東京オリンピックのボクシング女子フェザー級で入江聖奈選手が金メダルを獲得したことについて、張本氏が「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね。見ててどうするのかな? 嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」とコメントしていた。この件について、日本ボクシング連盟の内田貞信会長は8月11日に「野球評論家の張本勲氏が女性ボクサーを揶揄(やゆ)した」として、抗議文を送っていたことを明らかにしている。当然だろう。張本氏は野球についてはプロかもしれないが、他の分野については「素人」である。素人が判ったフリして偉そうに御託を述べた内容が前述のコメントであり、その結果がボクシング連盟からの抗議文ということだ。己が知らない分野のことは正直に「知らない」と表明すべきなのだ。知らないのに無理にコメントするから恥ずかしい結果を招くのである。張本勲氏…どこに出しても恥ずかしい人物である。
ひとつは時間とエネルギーをかけてもその概念や文化を理解しようと謙虚に努力するタイプ。
もうひとつは自分が理解不能な概念・文化は「くだらない」「こんなものは駄目」として否定して済ませてしまうタイプ。
自分が理解できないものを否定して済ませるのは簡単なことである。「そんなもの価値がない」と言ってしまえばそれでお終いだ。
だが、真相はそうではなく、新しい概念や文化を理解できない自分を納得させて心を落ち着ける為に否定するのである。人は何かを理解できないとき、無意識の中にモヤモヤが発生してある種の緊張状態になって、これがストレスとなる。だが、否定することで片付けてしまえば心の緊張状態は終わる・・・すなわち楽だからである。
理解しがたい概念を心の中に持ち続けるのは存外心的エネルギーを必要とする。普段からあまり思考する事を得意としていない人には辛い状態となってしまう。だからそんな人は自分の無意識の中に波風を立てないように、判らない文化や概念を否定しさることで深層心理を平静な状態に保とうとするのである。
テレビ番組を見ていると、この手の「否定して終わり」なコメンテーターがうじゃうじゃ存在している。
例えば爆笑問題の太田光氏である。
先般の日野皓正ビンタ問題の時に日野氏の事を「大した音楽家じゃない」と言って済ませていた。太田光氏は音楽については完全にド素人であり、歌詞を語る事で音楽を語った気になるような勘違いぶりを発揮する恥ずかしい人物である。この問題の時にはビンタ事件の真相や背景についてすらあまり詳しく把握していない状態で、しかも前述のように日野氏の事も知らなければそもそも音楽自体が理解できてない太田氏が一言の否定コメントで終わりにしてしまったのだ。正に厚顔無恥。これが太田氏の「程度」なのである。
理解できないから否定して終わりにするのは薄っぺらなコメンテーターだけではない。
あの宮﨑駿監督でさえそうなのである。
宮崎氏はコンピューターやインターネットに馴染めず、常にIT分野に対する否定的なコメントが聞かれる。「ネット検索」を「コピー文化」として批判し、「チョロっと出てきてチョロっと消えていく」程度のものである、と軽んじているのだが、アナログ文化の真っ只中で生きてきた(創造してきた)宮崎氏にとってデジタル技術を基礎とするIT文化やコンピューターにまつわる様々な新しい概念はとても理解し難く、むしろ自分が推し進めたい文化のあり方にとって邪魔なもののように見えているようである。従って彼はそれを否定することで己の思想の正当性を示す為の根拠としているようである。また、ここには老境に於けるベーシックな精神の有り様、という観点も存在している。
宮崎氏はそれこそ司馬遼太郎・堀田善衞・養老孟司・半藤一利・網野善彦といった作家・学者・論客たちと対等に文明論を戦わせられる重厚な頭脳と知識の蓄積がある人物であり、テレビのワイドショー等でいい加減なコメントしているような連中とはそもそも人間の厚みが違う。そんな宮崎氏でさえ理解できないものがあり、否定して済ませてしまうような一面も持ち合わせているのだ。
もうひとつ、北野武監督(ビートたけし)も同様である。
彼は「アニメ映画が嫌いで宮﨑駿も嫌い。あんなインチキ映画」と宣う。好き嫌いは個人の主観ではあるが、「嫌い」と否定して済ませるのは北野武氏が宮崎映画を理解できないからにほかならない。理解するための感性が彼には欠けているのであろう。「インチキ映画」も暴言の域である。
また、北野武氏は宮崎映画を否定しながら「でも興行収入は良いからそこは認める」と語っている。これは北野映画が欧州では評価が高いのにも関わらず国内での興行収入がなかなか思うようには伸びていない事が背景にあるのだが、しかし作品自体は否定しているのだから「興収は良いからそこだけ認める」というのは評価ではなく皮肉にしかなっていないのであり、要するに宮崎映画を見下している事に変わりはないのである。それにしても北野武氏は結構なインテリであるにも関わらず、理解できないものを感情的に否定して終わり、というのは残念なことである。これは彼の性格に依拠すると共に年齢的なものも影響しているのかもしれない。
理解しがたいものを己の中に理解・納得して吸収することは本当にエネルギーと時間を必要とすることだ。できればそんな疲れることはしたくない(だって人間だもの(?))…という意見もあろうが、しかし人間のあり方や矜持としては(可能な限り)必要な事と思えるのだ。
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<2020年11月18日:追記>
経済学者で明治大学教授でもある飯田泰之氏もまた「理解できないものを簡単に否定してしまう」人物である。少し前の「ニュース女子」という番組内でテレビ局と放送電波の扱いについて議論するシーンで、NHKが持っている電波(チャンネル)数の多さについて話が及んだ時に、飯田泰之氏は4Kや8Kといった高画質テレビ放送の技術開発について「そんなに高画質の追求をしなくてもいいのでは?」「画質は今の水準でよくない?」という趣旨の発言をした。これは2009年の民主党に依る事業仕分けで出た蓮舫議員の「2位じゃ駄目なんですか?」発言と同じ発想である。スーパーコンピューターの技術開発は常に1位を目指して開発しなければ2位にすらなれない厳しい競争状態があるのだ。蓮舫氏はそうした実態をまるで知らないので前述のようなトンチンカンな発言になったのである。これもまた「理解できないものは簡単に否定して済ませる」人間の悲しい性(さが)に依るものだ。映像技術・テレビジョン技術開発の場合も同じで、その進歩に休みはなく、現在放送されているHDTV(ハイビジョン)放送も1960年代から研究・開発がスタートしているが、当時から「そんなに高画質でなくてもよくない?」という意見があった。しかし現在、アナログ放送のNTSC方式から切り替わったデジタルのHDTV放送が標準になって、我々もその画質に慣れてこれが当然の画質だと考えている。確かにNTSCアナログ放送の時代に映像機器も格段の進歩を遂げて当時の規格の中では十分に高画質な映像にはなっていたし、日本の映像機器メーカーはこの時代に大躍進したのである。だが、現在のHDTV放送のクォリティを基準に評価するならば解像度一つとっても遥かに及ばない画質と言わざるを得ない。かつては日本の映像技術・テレビジョン技術は世界をリードするものであった。このアナログ放送時代には世界中の放送局がソニーのTVカメラや映像機器を導入していたのだ。世界のほとんどの放送局で信頼される映像機器として認められていたのである。それは日本の技術力の高さを証明するものであった。これは日本の電子機器メーカーが「常にトップのクォリティ」つまり「1位」を目指して開発してきたからである。映像技術や機器の開発もトップを目指していなければたちまち世界の水準から置いてきぼりにされてしまうだろう。そうなったら、ただでさえかつての勢いを失っている日本のメーカーはさらに衰退していくことになるだろう。映像分野でも技術開発の勢いは止めてはならないのである。まして映像に於いて高画質の追求に終わりはない。蓮舫氏がコンピューター技術に疎い事と同様に飯田泰之氏もまた「映像」にも「映像技術」にも「映像機器」にも疎い人物である。関心がなく理解が及ばない分野について人間は無意識に「なくてもいいもの」として片付けようとする傾向がある。大変残念だが飯田泰之氏の場合もまた「理解できないものは否定して終わり」の典型例になっているのである。
<2021年8月11日:追記>
TBSの「サンデーモーニング」はその界隈では「最低モーニング」と呼ばれるほど偏向度合いの強い番組としてつとに有名である。その番組中に張本勲氏が好き勝手にコメントするスポーツ・コーナーがある。8月8日に放送された同番組の中で東京オリンピックのボクシング女子フェザー級で入江聖奈選手が金メダルを獲得したことについて、張本氏が「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね。見ててどうするのかな? 嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」とコメントしていた。この件について、日本ボクシング連盟の内田貞信会長は8月11日に「野球評論家の張本勲氏が女性ボクサーを揶揄(やゆ)した」として、抗議文を送っていたことを明らかにしている。当然だろう。張本氏は野球についてはプロかもしれないが、他の分野については「素人」である。素人が判ったフリして偉そうに御託を述べた内容が前述のコメントであり、その結果がボクシング連盟からの抗議文ということだ。己が知らない分野のことは正直に「知らない」と表明すべきなのだ。知らないのに無理にコメントするから恥ずかしい結果を招くのである。張本勲氏…どこに出しても恥ずかしい人物である。