Altered Notes

Something New.

アプリケーションソフトはUIが重要

2018-07-28 12:50:30 | IT
皆さんはアプリケーション(応用)ソフトウェアがアップデート(更新)された時に「使いづらくなった」と感じられた事はないだろうか。
ソフトウェアにとって最も重要なのは機能・性能であって、そのソフトで何がどうできるのか、が問題であることは言うまでもない。しかしそれと同じくらい重要なのが人間との間のインターフェース、つまりUI(User Interface)である。

最も優れているのはUIのビジュアルを眺めただけでどう使えばいいのかが直感的に判るデザインであり配置である。逆に最も駄目なのはこの逆のパターンであり、UIを見ても何をどうすればいいのか直感的に把握できず、マニュアルを読んでも判りにくい作りになっているソフトである。

なぜこのような差が生まれるのであろうか。

それはUIをどのようにデザインするかという問題に対してソフト制作者の主観がもろに反映されるからである。そこに制作者の人格や個性が出てくるのだ。捉え方は色々あるが、ざっくり分けるなら、エンドユーザーに配慮できる人とそうではない人の二種類である。

エンドユーザーを大切にする制作者なら誰が見ても直感的に把握できるであろうデザインや配置を努力して作り上げるであろう。そこには自分の感覚・感性だけではなくタイプの異なる人々の感性や思考を想像し、誰が見ても制作者の意図が汲み取れるような工夫があるものだ。作者は想像力をもってデザインや配置を努めてユニバーサルなものにしようとするであろう。

逆にエンドユーザーの事は全く考えず、ただ自分が作りたいように作る制作者なら「判る人にしか判らない」「既に知っている人にしか判らない」デザインになるであろうし、感性の異なるエンドユーザーには全く訳がわからないものになってしまう恐れがある。
ソフトのアップデート後に使いにくくなったと感じるソフトの場合、たとえ制作者に良心があっても感性・感覚のレベルで自分にしか判らないデザイン、つまり制作者の感性では「これが使いやすい」と思うのだが、感性の異なる一般ユーザーにはそれが「意味不明」だったりUIが意味するものが結局つかめず五里霧中になったりもする。

使いにくいソフトのUIは、その制作者と同じ感性・同じ論理的な思考ができる人に限って理解できるのだ。だからエンドユーザーはどうしてもそのソフトを使いたければ作者と同じ感性を持つように同じ論理的思考をするように自分を訓練する必要がある。これはかなり馬鹿馬鹿しいことである。
ソフトウェア制作において同じ機能を作るにしても制作者の人格的タイプ・深層心理的タイプによって出来上がるUIには天と地ほども相違が生まれてしまうのであり、かなり悩ましい問題ではある。

著名なアプリケーションソフトウェアも含めて、そのソフトがアップデートして「UIが変わりました」とアナウンスされる時、大抵のソフトの場合、新ヴァージョンは使いにくくなったと感じることが多いのは、制作者のひとりよがりな感覚が世間一般のそれとはズレているからにほかならない。作者が「ほら、使いやすくなったでしょ」と思っていても、エンドユーザーは作者とは異なる感性や観点で捉えていることが多く「使いやすくなった」に賛同できない場合が多い。さらに、アプリケーションソフトウェアを「道具」として捉えるなら、「道具の使い勝手がある日突然変わってしまっては困る」というのが多くの人の意見だと思う。道具というのは人に馴染んでこその側面があるが、使い方が勝手に変えられては馴染みようがない事になる。馴染んだと思ったらUIが変わり、また苦労して馴染んだと思ったらまたUIが変わる…これでは道具を使う人を苦労させ疲れさせるばかりで困ってしまう。
たとえ制作者が「良かれと思って」施したソフト改修であっても、それがユニバーサルで普遍的な感覚とズレているならば、それは多くの人にとって「判りにくい・判らない」ソフトとなってしまうのが実情である。

たしかにソフトウェアを使用する人のタイプも立場も様々なので、本当の意味でユニバーサルなソフトウェアを作るのは難しいのかもしれないが、他人が使う事を念頭に置いたものであるならば想像力を働かせて多くの人が理解できるデザイン・配置の工夫に努力をしてもらいたいものである。

今、努力と書いたが、その根本には「誰にでも判ってもらいたい」という強いモチベーション(*1)、もしくはサービス精神が無ければならない。それが全ての基本になるからだ。



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(*1)
仏教で言うところの「利他」の精神に該当する。

「エモい」が意味するもの

2018-07-18 17:00:00 | 社会・政治
「エモい」という言葉を最近よく聞く。
「エモ」とはもちろん英語の「Emotion」であり、通常は「感情」と訳される事が多い。だが、正しくは「情動」である。

「感情」と「情動」・・・何が違うのか?

「感情」とは「Feeling」であり、その意味を平易に言うなら「好き嫌いの価値判断を行う」心的機能である。何かを見て単にそれが「好き」か「嫌い」かを分けること、それが「感情」という心的機能である。それ以上のものではない。

そう考えると、「エモい」を「感情の動き」と解釈するのは何か違うようである。

「エモい」は「感情」と言うよりは「情動」の領域の問題であり、単に好き嫌いの価値判断だけでなく、それと同時に身体的にも影響が現れるような現象を言うのだ。音楽や演劇等の芸術を鑑賞して感動のあまり動けなくなってしまうような体験は「エモい」と言える。あるいは身近なところでは大好きな恋人の事を思うと心臓のあたりがキューッと締め付けられるように苦しくなる、いわゆる「胸キュン」現象は「情動」であると同時に「エモい」の実例の一つと言えるであろう。(*1)

このように「感情」と「身体的影響」が同時に現れるのが「情動」という心的機能であり、「エモい」はその領域の動きや変化を指す言葉である。


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(*1)
「情動」は生活や人生の中で色々な形で現れる。例えば、恐怖のあまり身体がフリーズして動かなくなってしまい貧血に似た症状が出たり冷や汗が流れ落ちたりする現象。このように気持ち/精神的な動きに同期して身体にも明らかな変化が現れる時、それを「情動」とか「情動が動いた」などと言う。医学的に言えば、精神状態の変化に合わせて自動的に身体の筋や腺に影響が出て、呼吸,循環,消化などの生理的諸機能に激しい変化が生じること、それが「情動」である。(*2)
「感情」はこうした身体的な変化を伴わない場合を言う。



(*2)
余談だが、仏教には「情動」に関連する言葉がある。「色心不二」がそれで、「色法」(=身体も含む物質的なもの)と「心法」(=純粋に精神的なもの)は別々のものだが、しかし分けて考えることはできない(二つのものだが、しかし一つである)と説いているのである。「二にして一である」という言い方をする。身体と精神はそれ自体は別々のものだが、しかし分けて考えず一つのものとして捉えるべきものだ、と言うこと。正に情動的な心的作用の領域のことを言っているのである。





「蒸し暑さ」は湿度の問題

2018-07-13 23:15:17 | 放送
本格的な夏が到来している。
この時期になると「暑さ」「蒸し暑さ」がきつく感じられるようになり誰もが「暑い」と言いながら汗を拭うようになる。

マスコミ、とりわけテレビではニュース番組や気象情報番組で気温の高さが話題になり、それを「暑い」「蒸し暑い」という言葉で表す。ここでテレビ屋が大きな間違い(誤解)をしているのは「暑さ」を温度でしか語っていないことである。

我々が真夏に感じる「暑さ=不快感」の大部分は熱(温度)によるものと言うよりは湿気(湿度=大気中の水蒸気含有率)が原因である。湿度が高いからこそ発汗後にそれが蒸発しないことで体内の熱が放出されず従って体温が上昇してくる、という仕組みであり、これがそのまま不快感の主たる原因になり熱中症の発症につながるのだ。

逆に、例えば気温が34度あっても湿度が十分に低ければ人は長袖のシャツで普通にいられる。それくらい快/不快の区別は湿度が決め手になるのであってポイントは温度ではない、ということだ。

夏場の室内ではエアコンをかけるのが普通だが、この「エアコンをかける意味」は「温度を下げる為」よりも「湿度を下げる為」が主目的なのである。温度が下がったから「快適」なのではなく、湿度が下がったから「快適」に感じているのが真相なのである。
以前、政府主導で「オフィスの温度が28度になるようエアコンを調節しましょう」という運動があったが、これは完全にナンセンスであった。言うまでもなく、ポイントは温度ではなく湿度だから、である。室温が28度になる程度の設定だとエアコンは大して除湿してくれない。(*1) エアコンの設定温度自体が”28度”だった場合はほとんど冷房されず従って除湿もされないことになるのでオフィスの中は蒸し暑さの地獄となる。これがあの時の不快感の真相である。これ全て蒸し暑さの原因を「温度」にばかり求めた結果である。

最近の猛暑では室内で熱中症になる人も多い。しかも夜間に発症するケースもある。これについてテレビ番組は「昼間に建物等に蓄積された熱が夜間に放熱されるおかげで温度が上昇し、それが熱中症の原因となる」という説明をしている。基本的に間違いではないが、前述のようにポイントは温度ではなく湿度である。湿度が十分に下げられれば少なくとも熱中症になることは避けられるのだ。

外の大気中で「蒸し暑い!」と言って顔をしかめる時、実は温度の高さではなく湿度の高さに不快を感じている事はもっと知られていい科学的事実であり、湿度を下げる事の重要性を訴求することが必要である。気象情報等においては予想の気温と共に湿度がどの程度になるのかを重要情報として市民に知らせる事が肝要であろう。テレビ等のマスコミはこうした視点から伝える事を考えた方がよろしい。



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(*1)
エアコンの「ドライ(除湿機能)」の正体は「軽い冷房」である。冷房機能が働く中で同時に除湿作用も働くようになっている。従って冷房機能が動くようにエアコンを設定しないと除湿もされない。結果として蒸し暑さはそのまんま、ということになる。
ちなみに、「冷房よりもドライの方が電気代がかかる」という説があるが、これは場合に依っては本当である。ドライ機能で温度設定をしたケースでは、その設定温度を通り越して下がってしまった時にヒーター機能を作動させて暖めるのである。つまり「冷房することで除湿はする」のだが、「室温が設定された数値よりも下がった時にのみ暖房機能が作動する」という事だ。だから暖房機能の分だけ電気代がかかるよ、という理屈である。





同質化を強要する日本人

2018-07-13 19:58:32 | 社会・政治

日本人は横並びを重視する民族である。
人と同じ、皆同じであることで安心を得る。逆に人と違うこと、他人と異なることを極度に嫌う。自分もそうだし他人がそうであることも嫌う。

こうした無意識の中の心理的な傾向は会社組織や学校の中でのいじめの原初的な動機にもつながる。
平易に言えば「あいつは俺たちと違う」「あいつは俺たちに馴染まない」という理由、つまり自分たち(多数派)と同質ではない(異質であること)という理由で否定されてしまい、それは即いじめの攻撃対象とされてしまう。(*1)

人間性・個性の幅を認めないのである。個性の幅とはマージンとも言える。日本に於ける社会人としてのあり方において一つの型しか認めず、そこからずれた個性は一切認めない。許容できるマージンが一切無いのである。きっちりとした型枠、多数派のタイプに見られる性格・個性の型枠にかっちりと嵌まる人しかこの社会では生きていけない、そんな多数派による極めて不寛容な世界となっているのが日本人の社会である。(*4)(*7)

日本人社会を構成する多数派のタイプ(心理的タイプ)の人にとっては快適な社会であろうが、そうではないタイプの人々にとってはこれはなかなか厳しい社会である。常に多数派の志向に合わせる必要があり、多数派の観念と異なる言動や行動は慎まないと爪弾き、村八分にされてしまうのだ。これは息苦しく辛い人生である。しかし多数派のタイプが個性の振り幅・マージンを認めていないのだから仕方がない。

それでもどうしても多数派に合わせられない人は出てくる。そういった人々はどうなるのか。病気扱いされて排除されてしまうのだ。
例えばアスペルガー症候群などという「病気」のレッテルを貼って排除してしまうのである。アスペルガー症候群には明確な治療法は存在しない。当たり前だ。本来病理学的な意味の病気ではなく、限りなく個性の幅に関わる問題だからだ。(*2)(*3)(*5)

本来は異常ではないものに「異常」のレッテルを貼って排除・隔離するのが多数派のやり方である。多数派にとって理解できない人々の存在は不安材料であり、その不安を払拭するための手段がレッテル貼りなのだ。レッテルさえ貼ってしまったらそれ以上そのことについて考える必要がなくなり心穏やかに過ごせるからである。(*6)
一方で排除される方はたまったものではない。普通に生きているだけなのに、たまたま少数派だったというだけで「変な奴」「仲間ではない奴」として排除されてしまい、排除されたくなければ多数派の生き方や価値観に合わせろ、という同質化を強要してくるのだ。

こうした「同質化の無意識的強要」と「異質なものへの攻撃と排除」は元々の日本人の特性としては存在していたが、昔はまだマージンに幅はあった。だから個性的な人間もある程度は存在できた。しかし世の中のあらゆるものがシステム化されてきっちりと構成され、それが秩序正しく動かないと回っていかない社会、つまりマージンの無い社会になってしまった日本では個性は「悪」であり「他人と同じ/他人と同質」であることが強烈に求められる社会と化している。外身も中身も他人と同じでなければ日本では生きていけないのである。ここが日本人の最大の病巣なのかもしれない。


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(*1)
ユング心理学に於ける「影(シャドウ)」元型が賦活された状態であり、皆と同じではない人間は影を投影されてしまい「否定の対象(いじめの対象)」にされてしまうのだ。

(*2)
多数派のタイプの人々はそれでは納得せず、色々な薬を投与したりすることで自分たちのタイプに近づけるように人を改造しようと試みている。恐ろしいことである。

(*3)
多数派が「正しい」のではなく、単に同じタイプが多数派を占めているので自分たちの価値観で世の中をデザインし設計できる、というそれだけのことである。一つのタイプだけに都合の良い世界はそれ以外のタイプに人々にとっては往々にして息苦しい生きにくい世界であったりする。

(*4)
建前では「個性の重視」などという意見も存在するが、本音では「個性は否定」「皆が同質であること」が日本社会で生きる為の絶対条件である。
サラリーマン社会等では「好きな野球球団」などを持っていなかったりゴルフに興味が無いと仲間はずれにされたりする。趣味趣向まで他人と同じにすることが当たり前だと信じて疑わないのが多数派の人々である。とんでもなく愚かで低次元な精神性である。

(*5)
「発達障害」と呼ばれるものも多くの場合は多数派によるレッテル貼りであり、排除・隔離する為の動機付けに過ぎないと思われる。

(*6)
ここで「アスペルガー症候群」を挙げたのはあくまで一つの例としてである。多数派によるレッテル貼りにおいてはこの他にも「鬱」「根暗」「メンヘラー」「ぼっち」など多種多様である。いずれも多数派たる自分たちとは異なるタイプをあぶり出してレッテルを貼って排除する為の呼称である。


(*7)
いわゆる「引きこもり」の問題もここに端を発する。引きこもり問題の核心は社会が「引きこもる人が悪い」として「引きこもりを一種の病人のように扱う」姿勢にある。結局少数派タイプにとっては社会に居場所を見つけることが不可能であり、従って引きこもるしか選択肢は無いのだ。この社会が多数派だけに都合の良いデザインでできているからである。この自明の理が多数派には理解できず、だから未だに上から目線のまま「引きこもり問題が解決できない」と言って右往左往しているのだ。多数派を構成する人々にとってはまさか自分たち社会が原因だとは夢にも思ってないからである。





アイドルの正しいあり方

2018-07-06 14:41:46 | 社会・政治
本稿は筆者の別稿から一部抜粋した上で再構成したものである。

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日本には世界の他の国々では見られない独自の芸能文化がある。それが「アイドル」である。
そもそも日本に於けるアイドルというのは本人が何かの分野で秀でた才能(歌唱、舞踊、演技、等々)を持っているということではなく、存在そのものに価値があるから成立する分野でありビジネスである。往々にしてその存在は一般人の「憧れの対象」になると共に疑似恋愛の対象にもなる。従ってアイドルは誰のものでもない誰の恋人でもない純粋無垢な立ち位置を確立し維持する必要がある。

この[アイドルとファンの関係]は

モラルエコノミー(経済道徳論)

の考え方で捉えることができる。アイドルは往々にしてファンよりも遥かに上位の立場に位置し、一種の特権的な存在である。
モラルエコノミーでは

「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」

と規定される。アイドル(有名人)は社会の規範となるように振る舞うべきであり社会的責任を追う立場である、ということである。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、ファン心理を傷つけたりしない、自身の振る舞いによって夢を壊さない、ということも含まれる。

タレント・アイドルの類は社会の中で「人気のある著名人」として君臨して世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。
一般的にアイドルの恋愛などでしばしば問題が起きて真相が追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより妥当性が高いと言えるだろう。

このように

「アイドルという一般人よりも上位に位置して特権を持つ人間が高いレベルの社会規範遵守を求められる」

という考え方は

「ノブレス・オブリージュ」

というフランス語でも説明が可能である。
ノブレス・オブリージュとは「高貴なる義務」という意味である。

その昔、ヨーロッパで戦争に参加するのは貴族の子弟だけだった。平民は後方支援することはあっても戦争に参加することはなかった。

なぜか。

上位の地位にある者は、より血を流し苦労する責務が求められたからだ。それは前述のように特権を持つ者がそれを持たない人たちへの義務によってバランスが保たれるからである。アイドルに対して特に高いモラルが求められる理由はここにあるのだ。

従って、アイドルの世界で暗黙のルールとして有名な「恋愛禁止」も同様に捉えることが可能である。
一部では「アイドルにも人権はある。だから恋愛も自由だ」と主張する向きもある。しかし実際には「アイドルに人権は無い」と言って過言ではないし前述の論理から言っても普遍妥当性が認められる。
アイドルはポピュリズム、人気に依って支えられている職業なのだから、高いレベルで社会の規範を遵守し、かつ顧客たるファン層が抱く高貴なイメージを保つ事が強く求められるのである。