Altered Notes

Something New.

政界・官僚・業界の低すぎるセクハラ意識

2018-04-21 01:37:52 | 社会・政治
セクハラ問題の責任をとって財務省の福田淳一事務次官が辞任した。本人は騒動による混乱を起こした責任で辞めるのであってセクハラ自体ははなかった、と肝心な部分は否定している。この事実関係については追い追い明らかになっていくであろう。

ここで改めて考えさせられるのは永田町・霞が関(政治家・官僚)のセクハラ意識の極端な低さである。
現代では女性記者による政治家や官僚への取材も多く行われているのだが、この政治家・官僚たちからは信じがたいセクハラ発言が普通に飛び出てくるのである。それはセクハラガイドラインを策定している民間企業ならば一発アウトを喰らうほどのレベル、と言えばご理解いただけるであろうか。(*1)

意識が低いのは永田町・霞が関だけではない。テレビ・マスコミ業界も同様で、セクハラ意識は極度に希薄で立ち遅れているのが実態だ。バラエティ番組は特に酷い。それが今回の福田次官のような事件が起きる温床となっているのである。

4月17日の「バイキング」(CX)に元朝日新聞女性記者である秋山千佳さんが出演された。この人は記者として取材していた時に取材相手の男性から胸を鷲掴みにされた、というのである。秋山さんは大層ショックを受けて帰社した後、男性の上司にその事を報告したところ「それくらい我慢しろ」と言われたのだ。これが朝日新聞の実態である。
その朝日新聞が、今回の福田次官の問題でマスコミ各社に対して財務省から調査に強力してくれ、と要請された時に「協力しない」と突っぱねた。名乗りを上げることは女性にとってはセカンドレイプに等しいので協力しない、と言うのである。朝日新聞の態度は矛盾しているのだが、いったいどういうことなのだろうか。

21世紀に入ったあたりからマスコミ各社が女性を政治家の番記者に付けるようになった。それは単に女性の社会進出が進んだということだけでなく、新聞社やテレビ局がそのようにしているのである。マスコミの幹部などは「綺麗どころを付ける」という言い方をはっきりしているのだ。それは個人が女性の武器を使ってということではなく会社が「そうしろ」と強制しているのであって、マスコミの意識のあり方としてとんでもない話である。(*2)

今回の問題ではテレビ朝日は女性記者が社内で訴えた時点で会社をあげて記者を守るべきだった。それをせずにそのまま放置する姿勢は解せないしどう考えてもおかしい。
なぜ後手に回ったのだろうか。
恐らくテレ朝が女性記者の訴えを放置した事実がバレてしまう事を恐れたのであろうし、会社としてセクハラ問題に立ち向かうという意識が欠如していることが明らかになってしまうから、ではないだろうか。
こうした事実関係を俯瞰しても、マスコミというこの業界自体がセクハラ意識という観点において著しく立ち遅れているのは誰が見ても明らかなのである。

福田財務次官や永田町・霞が関界隈に目を移そう。永田町・霞が関は「IYIの巣窟」である。
「IYI」をご存知だろうか。”Intellectual Yet Idiot”の頭文字をとったもので、日本語で言えば「偏差値馬鹿」「高学歴馬鹿」といったところか。
学校のお勉強はできるのに、人間としての基礎が全くなってないような類の人物がIYIに当てはまる。永田町・霞が関にはこんな連中が掃いて捨てるほど居て跳梁跋扈しているのだ。
今回の件で福田財務次官の「言葉遊びをした」などというのは正にIYIである証拠である。(*3)

これが欧米ならば、福田財務次官のようなセクハラ行為・言動を民間企業でやってしまったらすぐにそのポジションを外されて人事部の指導を受けることになり、場合によっては賠償金を払うハメになる・・・それくらいの大問題を引き起こしているのだが福田氏にも財務省にもそうした切迫した自覚は無さそうである。

総じて政界・官界・マスコミ業界のセクハラ感覚の立ち遅れはとんでもないレベルであると言える。女性を色仕掛けの道具にしか見てないのは明らかだ。
今回の事件を機にセクハラへの意識・認識を一から捉え直したほうが良いのではないだろうか。

テレビ屋新聞等のメディアは社会でセクハラなどの事件が起こると上から目線で偉そうな御高説を垂れるのが恒例だが、そのメディア自身が相当なレベルで腐敗しているのだ。女性の活躍を政策に掲げる政府だからこそ、この問題には真剣に取り組んだほうが良いだろう。そうでなければ、いつまでたっても世界の笑い者である。



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(*1)
以前の拙稿で官僚の正体について簡単に説明している。
「官僚とは」


(*2)
4月20日の「とくダネ!」(CX)で社会学者の古市憲寿氏が「そもそも何がセクハラを生んだかってところから考えるべき」という前提を示した上で「政治家とか省庁の幹部をテレビ局が取材する時に取材経験はそんなにないけども、若くて可愛い女性記者を送り込むことは正直あると思うんですよ。そこで政治家と仲良くなってもらって、話をいろいろ聞き出すっていう。そもそもそのメディアの手法自体がセクハラを生みやすかった。現に多分、セクハラ自体はたくさん起こっていて、これまで黙認されてきたんだけど、こうやって明るみになったのかなっていう。この一件だけじゃないと思う」と指摘している。


(*3)
形は異なるが、買春で有名になった 米山隆一 前新潟県知事 も一種のIYIである。この御仁は医療を学び法律を学び米国留学までして輝かしい学歴を誇るのだが、しかしそれを社会のために世の中のために真に役立てたという経歴はない。
なぜか。
彼は生まれてからここまでずーっと「自分探しの旅」をし続けているからであり、そしてそれだけだからである。自分の知識を何かに役立てることもなく、単に「承認欲求」を満たす為の原資としか捉えていない節がある。これが正にIYIな人の姿なのである。




恋愛・婚活で選ばれない男とは

2018-04-19 17:05:45 | 社会・政治
恋愛や婚活に於いては、女性にはそもそも「但しイケメンに限る」という言わずもがなの大前提があるので、選ばれない理由として「外見が芳しくない」から、というケースは少なくない。また、はじめから経済的な余裕を求めている女性の場合は「経済力の脆弱性」が理由で男性を選考外に置くケースも多い。

しかし、女性が男性を選ばない理由として最大級のものは
「男としての色気の有無」
ではないだろうか。男女ともに言えることだが、お互いに異性としての相手の中に「色気/エロス」を感じなければ、そもそも異性として惹かれないであろうと考えられる。「男として」というより「(動物の)オスとしての色気」と言ったほうがより実態に近いかもしれない。人間の理屈レベルではなく、野生動物のメスがオスを選び受け入れる時の感覚に近いかもしれない。本能的なものであり動物的な感覚とも言える。そうしたレベルで男性に魅力を感じなければ女性は男性には見向きもしないのだ。(*1)
これはユングの深層心理学で言うところのアニムス(女性にとっての究極理想としての男性像)という元型が賦活されて相手の男性に投影された状態とも言える。

もちろん色気抜きでも人として魅力を感じる場合もある。それは「いい人」である場合だ。ただし「いい人」は単に良い人に過ぎないのであって、いくら”いい人”として評価されても、それは異性として付き合いたいという気持ちとは根本的に異なるのだ。

女性が惹かれるイケメン男性の中でも特に野性味に溢れるような人物はとりわけ女性からの引き合いが強いが、それは前述の理由に依るものなのである。
野生動物のメスが強く逞しいオスを選ぶ事と完全に等価関係にある、と考えると人間もまた動物の一種であることを改めて意識するところである。



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(*1)
モテる男性について「ただしイケメンに限る」と言うと、「いや、ブサメンだがモテる男は居る」と反論する人が居るが、彼らが指しているのは、正にここで提示した「オスの色気」を持つ男性のことである。


世界が向かう先

2018-04-18 18:06:10 | 国際
現在、世界中で独裁者または独裁的な指導者が権力を握る傾向が増加しており、グローバルなスケールでキナ臭い雰囲気になりつつある。

ロシアや中国は過去の長期独裁政権時代を懐古するようになり、新たな独裁者をありがたがる空気に満ちているのだし、アメリカも自国の利益の事しか考えず国際的な秩序安定などまるで念頭にないような大統領が幅を利かせている。その他の地域、中小の国家でも同様の傾向は広まりつつある。

こうしたキナ臭さは全て権力を握った一握りの権力者によってもたらされたものであるが、しかしそうした権力者を選んでしまったり台頭を許すような空気が国民一般の間に生じている事もまた事実である。あの独裁者ヒトラーもそもそもは民主的な選挙で選ばれた指導者であり、その結果としてあのような悲惨な状況と結末がもたらされたのであった。

欧州のいくつかの国々では中止していた徴兵制を復活させる動きも加速している。この先の恐怖の未来を予見しているからだ。
第2次世界大戦から未だ100年も経過していないのに、世界は戦争の愚かさ、戦争の悲惨さをもう忘れてしまったようである。いざ戦争に突入すれば、高畑勲監督が制作した映画「火垂るの墓」に描かれた悲惨な現実が正に日常になるのだが、多くの人はそれが”想像できない”のであろう。ここでも一般市民の想像力の欠如が致命的な働きをしており、それが世界を暗い方向に導く動きに加担しているのだ。

己の欲望を国家権力を使って果たそうとする愚かな権力者たちにも憤りを感じるが、やはりそれを許してしまう各国国民一般の意識の低さと自分のことしか考えてない狭量な精神のあり方に恐怖を感じる。また、こうした空気の流れは各国国民の集合的無意識層に共通に生じた動きによるものであり、深層心理学者のユングは第一次大戦が始まる前に既にそれを指摘している。今、またその時と同じ道を世界は行こうとしているようにも見えるところがなんとも不気味であり気分を陰鬱にさせるものがある。





テレビ屋末期の醜いあがき

2018-04-14 19:22:47 | 放送
3月にBS民放局の企画で「池上彰のBIG対談」という番組があり、その中でビートたけしとの対談がBSジャパンで行われた。「テレビは死んだのか」というテーマであったが、予想通りの内容で退屈の極みであった。

視聴者がテレビから離れ始めている現象に対して色々なファクターをあげるのだが、最大にして最重要なファクターである「志」の欠如については全く語られなかった。当然であろう。テレビ屋にとっては最も困る「不都合な真実」であるからにほかならない。

一般視聴者がテレビをつまらないと感じ徐々に離れつつある実態に対して池上彰やビートたけしは様々な要因を挙げるのだが、それらは全て枝葉末節であり本質ではないことばかりであった。時代背景や技術的な問題、演出方法やセンスの問題、等々、細かく見ればあれこれ指摘できるのも確かであるが、最も指摘されなければならなかった最大にして最重要なファクターである『制作者の”志”が失われている』という厳然たる事実には一言も触れなかったのである。それはそうだろう。テレビ屋にとっては生存を脅かすくらいの大問題であるが故に誰も指摘できないのである。また、池上彰やビートたけしも既にステータスを築いた有名人であり、彼らにとって自らの足元を揺るがすような事実の指摘は避けて当然かもしれない。ビートたけしは問題を掘り下げることはできずに自分の個人的な体験やつまらない冗談しか言えてなかった上に、そもそも彼は滑舌が悪いので何を言ってるのか聞き取れなかったりもする。何をか言わんや、である。

また、この二人に対談をさせることで視聴者に対して「どうだ」「キャスティングをありがたがれ」「巨匠同士の対談を見せてやっている」という(放送局側の)おこがましい態度が滲み出ていて実に嫌らしいのである。この二人に語らせれば説得力が出るだろう、と。ここが既に上から目線の一つの証拠であり、自らに甘い姿勢を露呈してしまっている、ということだ。

現在のテレビ屋は国から与えられた「電波」という名の権力の上にあぐらをかいており、その特権階級たるポジションから一般市民を睥睨している。見下しているのであり、上から目線である。そこに「本当に良いものをお届けしたい」という「志」は皆無であり、むしろ「馬鹿にどう判らせるか」「数字(視聴率)を取るために何で引きつけるか」という視点で番組を製作しているのがせいぜいである。全てそこがベースに発想され作られるのでロクな番組が生まれないのは当然であろう。(*1)

こんな無意味な対談番組をもって視聴者一般を睥睨するテレビ屋は、ここに至っても未だ自分たちが置かれた状況が見えていないのである。
しかも問題を掘り下げるのではなく、問題を真剣に考えています、というポーズを見せているだけ、フリをしているだけであるところが小賢しくも卑怯で凶悪であり実に醜悪な姿である。あたかもテレビの滅亡を直前にした最後の悪あがきのようでもある。腐敗したテレビ屋は一度本当に解体・滅亡した方が良いのではないか。


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(*1)
テレビ番組では日常茶飯事である「間違った言葉や使い方を誤った言葉を平然と放送してしまう無責任と無神経」もまたこの「志の無さ」に端を発する問題である。


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<2021年1月30日:追記>
テレビ局の業績が悪化している傾向にあるが、そんな中、テレビ局の営業から一般企業に対して「格安のCM枠購入」の勧誘が多発しているそうだ。格安と言ってもローカル無名番組ではない。よく名の知られた情報番組ばかり、とのこと。嘘だらけの偏向報道や退屈な芸人ばかりのろくでもない番組など、「志」の欠如した番組ばかり作り続けた結果であろう。いよいよテレビ屋も断末魔の段階・最終段階にきたのかもしれない。まともな視点で見れば当然の成り行きだが、当事者たるテレビ屋には何が悪いのか全く想像もできないのだろう。国から借りた国民の共有資産である電波を無駄使いしているテレビ屋、本当に終わっている。