Altered Notes

Something New.

テレビ局が作る不自然な映像

2013-07-21 04:54:06 | 放送
テレビ局が放送する映像といえばプロが作るものだから一流で当たり前…かと思うととんでもない、という事例があちこちにある。
プロどころかどう見ても素人の撮影としか思えない酷い映像も少なくない。




[事例1]:人物が登場する時のカメラワーク

人物が登場した時にまずその人の足元をアップで写して、アップのまま身体を足元→胸元まで舐めるように上行し、最後に顔を含めた全身を映す。
このようなカメラワークが現在あちこちで見られる。これはどの局のどのカメラマンでも同じでワンパターンとなっている。
このカメラワークは視る側にとってはストレスが溜まる。
なぜか。
人物が登場した時に人はまず全身を見たいと思うのが普通である。全身の有様を見てその人の印象を持ちたいと思うものだ。しかし全身は見せてくれず足元を見させられるのである。足元だけ、→太もも→腰→胸元、と言った具合に”部分”しか見せない無粋なカメラワークが視聴者にストレスを与えるのである。
まず全身を見たい。そう考える視聴者の気持ちを土足で踏みにじるようにカメラは部分(足元)に寄っていく。その後も身体の部分をアップで写し続けて、視聴者のストレスも最高潮になった頃にようやく全身が写されるのだ。
初めに足元を見せる意味は全くない。むしろ視聴者にストレスを与える。それでも馬鹿なカメラマンは足元へ寄っていく。

なぜこのようなカメラワークが生まれたのか?
それはテレビ屋の勿体ぶった体質が影響している。
現代のテレビ番組はやたらに「勿体ぶった」作りが目立つ。視聴者が見たい対象をできるだけ見せずに、じらして時間を稼いで勿体ぶる手法である。いわゆる「CMまたぎ」などもその一例である。視聴者が見たいものを焦らしてなかなか見せようとしないあの手法である。それが視聴者に対してどれだけストレスと憤りを与えているかなど夢にも考えてない無能なテレビ番組製作者達は平然と勿体ぶった演出・勿体ぶった映像作りをしている。
前述の「足元に寄り、アップのまま部分ばかり見せるカメラワーク」も同じでテレビ屋の「勿体ぶる」思想がカメラワークにまで浸透してきた一例なのである。
こうした思想・体質の根源にあるのは「視聴者を見下した精神」である。

失笑モノの事例もある。
「足元アップ~アップのまま身体を舐めるように上行」のカメラワークをひと通り完遂するにはそれ相応の時間が必要である。ところが、人物登場から次のカットまで時間が無い時にすらカメラマンはこのパターンを守ろうとするのだ。ほんの数秒しかない中で一連のカメラワークをするにはいきおい超特急でカメラを振らなければならない。これは滑稽である。
時間がないなら無いなりに別の撮り方をすればいいのだが、何しろTVカメラマンは何も考えてない馬鹿である。いつもと同様のパターンでしか撮れないのだ。間抜けもここに極まれり、である。(蔑笑)

こんな例もある。
被写体の出演者が挨拶(お辞儀)をしている時にカメラは足元へ寄ってしまっているので、肝心な挨拶(お辞儀)が撮れてない事も多々ある。本末転倒であり酷いものである。カメラマンは今、何を撮るべきかを全然考えてないのだ。阿呆である。

とにかく画面上に新しく人物が登場すれば必ず「まず足元へ寄る」が金科玉条のように寄っていくカメラワークは、あたかも「訳が分からないながらも親の言いつけを必死に守る子供」のようでひたすら滑稽、としかいいようがない。

呆れたことにどの番組のどのカメラマンも全く同じパターンで撮影する。
カメラマン個人の撮り方(考え方)は一切反映できないのであろう。ディレクターのレベルで撮り方が事細かに決められていてカメラマンのアイディア等はすべて無視されるのだ。
これでは優れたカメラマンは育たない。カメラマンに「考える余裕」「発想の余裕」を与えないからである。
実際に人間の自然な生理を無視した無神経で無粋なカメラワークばかり見せられる現状を見るに、カメラマンの質がどんどん劣化していく一方であることが痛感されるところである。




[事例2]:「寄り」が多すぎる絵作り

テレビ番組で特徴的な絵作りの一つに「寄り(アップ)の絵が多い」ことがある。
人物の表情のアップ、物品のアップ、場所の一部分のアップ、等々、とにかく被写体に寄りまくってアップで撮影することに固執している。
その結果、ほとんどアップの場面が連続するシーンが多くなる傾向にある。これもまた視聴者側からはストレスになる。
視る側からすればアップよりもまずその場の全体を映してほしいと思うものだ。状況把握にはまず全体像、だからだ。しかしテレビ屋はアップで撮影し、一部分しか見せようとしない。

そもそもテレビ局は視聴者を馬鹿と規定して、そこから発想する番組作りをしている。映像のカメラワークにもその思想は反映されているのだ。
アップが多用されるのは視聴者に考える隙を与えず、常に「これを見せたい」ことがはっきり伝わるからである。視聴者の程度が低い事を前提とした考え方である。

また、テレビ屋がアップにこだわるのは歴史的な経緯もある。
昔はアナログNTSC(アナログテレビ放送の規格名であり、画質はSD放送と同じ。画角4:3)だったので現在(HD放送)と比較すると解像度が低く(画素数が少ない、と同義)、アップで撮影しないと何を映しているかわかりにくかった、という事情がある。
特に昔は受像機はすべてブラウン管という真空管の一種を使っており、それに映像を映し出していたので、いわゆる大画面テレビが作りにくかった。(37インチのブラウン管もあったが、滅茶苦茶重かった)
一般家庭で普及していた最も多いサイズは14~16インチ程度であろう。この時代のラーメン屋に置かれていたテレビも14インチが多く、客はその小さな画面で番組を見ながらラーメンを食べていたものだ。
そんな小さいサイズで視聴する事を前提とすれば、たしかに引きで全体を映しても何を見せたいのか伝わりにくかったであろう。いきおい、寄り(アップ)の映像が多用されるようになったのは必然と言える。

しかし現在はデジタルハイビジョン放送(HD放送。画角16:9)の時代である。
SD放送に比べれば情報量は飛躍的に多くなり、引き(広角)で撮っても充分な情報量が確保されるようになったし、逆に引きの絵(広角映像)の美しさがアピールできる時代になったのだ。
そのような放送インフラが画期的に変化した時代に、未だに旧態依然のアナクロな撮り方をしているのが現在のテレビ屋なのだ。
テレビ屋は、地デジ(HD放送)の時代になっても頭の中はNTSC(SD放送)のままで進化していないのであろう。
HDを生かした絵作りがきちんとできなければおよそプロとは言えない。せっかくの16:9の広い画角と緻密な解像度を生かした映像を創ってもらいたいものである。





[事例3]:ピンぼけ映像のオンパレード

これは更に酷い。
なんとピント(フォーカス/焦点)が合ってない映像を平気で放送するのである。
ロケで小型のカメラで収録する場合に特に多く見られるのだが、映像のメインである人物にピントが合ってないのだ。ピントは背景に合焦している。
こうした余りにも間抜けな映像が平然と放送されている。とてもプロのカメラマンが撮影したとは思えない酷さである。
なぜこうなるのか。
小型カメラでロケの場合、恐らくオートフォーカスに頼ってしまうのであろう。理由は「楽だから」である。とてもプロとは思えない怠慢だ。
およそプロのカメラマンならばフォーカスはマニュアルでしっかりと映像のメインの対象に合わせるのは当たり前である。こんな基礎的な事すら満足にできないのが今のテレビカメラマンなのである。これでは素人と変わりない。情けない。

驚くべきことにロケだけでなくスタジオでの撮影でもフォーカスが合ってないケースが少なくない。スタジオカメラのビューファインダーはロケ用の小型カメラよりもはるかに見やすく確認しやすいクォリティを持っている。
にも関わらず、人物はボケていて背景にフォーカスが合っている・・・そんなマヌケな映像が時折見られる。カメラマンも素人ならディレクターも素人なのだろう。誰も気が付かないところが「既に終わっている」感満載である。

プロが作る映像で「ピント(フォーカス)が合ってない」など本来有り得ないことである。
フォーカスすら合わせられない今のTVカメラマンは仕事を放棄していると言われても仕方がない低レベルな連中である。そう、正に素人である。






[事例4]:盗撮映像を平然と放送するテレビ屋

テレビ屋がいかに人としての最低限のモラルが欠如しているかの実例を挙げる。
テレビ番組において人物の下半身・股間部をわざわざアップにして撮影することが多々ある。
はっきり言って下品である。
例えば流行のファッションや水着などを着用した女性タレント・モデルが被写体になりやすいのだが、股間のアップ映像など、一般人が同じ撮影をしたら間違いなく盗撮で逮捕される。
そんなモラルに反した撮影をテレビ屋は堂々と行う。
彼らは嫌らしい切り口ではないと言い訳するだろうが、どう見ても下品でありモラルに反すると感ずるのが普通である。一般人が同じ事をしたら逮捕されるような犯罪的な撮り方をしていることがそもそもおかしいのである。
正に下衆の極み、それがテレビ屋なのである。

また、テレビ局ではないが週刊誌のカメラマンが女性タレント等のスカートの中を撮影して、その写真が週刊誌等に掲載されることがある。これなどなぜ盗撮で逮捕されないのか理解に苦しむ。それでいてマスコミは一般人の盗撮をけしからんと言って批判しているこの矛盾。(蔑笑)
テレビを含むマスコミは意識も次元も低くモラルの欠片もない屑な連中ばかり、ということだ。






[事例5]:泣き顔はクローズアップ

また、テレビカメラマンは人物が泣く(涙を流す)と「それっ」とばかりに人物の顔(眼)にズームインする。涙をクローズアップにして写すためである。しかし、これもまた何も考えてない馬鹿カメラマンのワンパターン処理の一つである。

そもそも人の顔をクローズアップで写すことは下品なことなのである。下品だからこそクローズアップをするには最大限の配慮が必要なのだ。テレビカメラマンはそもそもここが全然理解できてない。
その上、人の涙を「さぁどうだ」と言わんばかりにビッグクローズアップで撮影するのは無神経・無礼としか言いようがない。
アップが絶対に駄目だとは言わない。しかし、そこに配慮と判断は必要だ、ということ。泣いている人の心情や泣かざるをえない状況に配慮すれば、そう簡単にアップにして泣き顔を晒しものにすることは本来できないはずなのである。
しかしテレビ屋は無神経の塊だ。泣いて涙が流れれば「それいけ!」とばかりにクローズアップにして晒しものにする。ここでもカメラマンは何も考えずに条件反射のようにアップにする。彼らは本当に下品であり頭が悪く心もない連中である。これもまたテレビ局の絵作りがいかに無神経・無礼で非人間的であるかの一つの証拠である。

泣き顔は引きで撮っても泣いていることはちゃんと伝わるし、そうしたカメラワークができることがプロのカメラマンの必須のスキルである。まして昔のアナログNTSC(SD映像)放送の時代ならともかく、現在のハイビジョン(HD映像)なら引きで撮ってもちゃんと表現できるのだ。それでもテレビカメラマンは 泣き=クローズアップ という単純な図式で処理してしまう。本当に馬鹿な連中である。パブロフの犬じゃないのだから、単純な条件反射で撮影するな、ということだ。少しは考えて撮れ、と。





[事例6]:ドラマ映像の色合い

カメラマンの質が劣化しているのは明らかだが、問題はそれだけではない。
そもそも演出者・プロデューサーのレベルで「おかしな映像」を目指しているケースが見られる。
特にドラマ作品に多く見られるパターンだが、色合いが不自然で見ていて無意識的にストレスが溜まることがあある。

ここ近年出始めた流行のような現象だが、画面全体のトーンが「黄色」だったり「青」だったり、特定の色合いに寄せたカラーリングの映像作りがしばしば見られる。
これが演出者・監督が何を目的としてそのような色のトーンにしているのか、その意図が視る側に伝わっているならそれは問題ない。しかしさっぱり意味が不明なのである。

近年のNHK大河ドラマも例に漏れない。「龍馬伝」「平清盛」「八重の桜」を視て、その色合い(色彩のベースとなるトーン)に違和感を持つ人は少なくない。明らかに不自然な色合い…撮影時のホワイトバランスに失敗したかのような…。こうしたリアルではない人工的で不自然な色彩設計は視聴者の無意識にストレスを生む。
近年の大河ドラマの視聴率がさえないそうだが、こうした独断的で独りよがりな映像設計が生み出すストレスが視聴者を遠ざけている可能性は大きい。

制作者はこれが良いと思っているのだろうが、意図が伝わらなければ前述のようにストレスにしかならない。不自然な色彩設計はとどのつまり、制作者・演出家のマスターベーションでしかないのだ。(蔑笑)





[事例7]:映像作りの稚拙さ

番組映像の善し悪しを決める重要なファクターがカメラワークであるが、現在のテレビカメラマンは大した訓練もしないままに業務に付いているのではないか、と思われる。
歌番組に見られるようなユラユラフラフラと動きまわって目眩がしそうな下手くそなカメラワークなどは正にそれを感じさせるものだ。そもそもテレビ映像の撮影は固定でいかに良い絵作りができるか、が基本である。そうした基本・基礎が全く培われないままにカメラをユラユラ振ったりズームイン・ズームバックを繰り返したり、眼が悪くなるような映像ばかり撮っている様は正に素人が興味本位で撮影した下手くそなホームビデオ映像を見せられるようなものだ。不愉快極まりないし視聴者の神経を逆なでするものだ。それでいて彼らはこれが格好良いと思っているのだから馬鹿丸出しである。厚顔無恥。

被写体(人物)が激しく動いているのにズームインして望遠側で撮影するカメラマンが居るがこれも最低である。被写体が激しく動いている時には引き(広角側)でFIXで撮るのが常識である。
なぜか。
望遠側で激しい動きを撮ると画面全体が激しく動作する映像となってしまって、ひたすら目が疲れるだけだからである。
アップ(望遠側)のまま急速パン(カメラを水平方向に振る)するのもNGだ。目眩の元であり神経に触る。
この程度の撮影の基本も知らない素人レベルの連中が現在のテレビ番組映像を撮影しているのである。これでは大人の視聴者は離れていくのが当然であろう。あれで喜んでいるのは未熟な子供達だけである。テレビカメラマンは、そのカメラワークの稚拙さ下品さが番組の価値を下げていることを即刻自覚すべきであろう。

次にスイッチングの稚拙さ、である。
通常、スタジオで作られる番組ならテレビカメラは複数台稼働しているのが普通であり、それらのどのカメラの映像を使うかを判断して選択(スイッチング)の操作をするのがスイッチャー(またはTD:テクニカル・ディレクター)である。ここではTDと記す。
よくあるケースでは、本来見せるべき対象物(被写体)ではなく、その対象物を見ている演者のリアクションばかり選択する、というもの。視聴者は紹介された対象物をちゃんとじっくり見たいと思っても、TDは対象物を見て驚いている(或いは喜んでいる)タレントの表情を見せてしまうのである。馬鹿である。
その瞬間に「何を見せるべきか」の判断が全然できない未熟なTDが本当に多くなった。
但し、これはTDだけでなく、そもそも番組ディレクターの指示内容にも関わる事であり、TDだけの問題ではないが、直接的な責任はTDにあることは言うまでもない。





[事例8]:演出の不自然(わざとらしさ)

例えばレストラン等で食べ物を紹介をする時に俗に言う「箸上げ」である。食べ物を箸でつまんで上げた状態をアップで撮影するあれである。必ず若干の震えを加えるのが必須の演出となっている。それで美味しさやシズル感が出せる、とTV屋は言う。阿呆である。そんな演出は不要だ。しかも既にこの手法は一般に広く知られており、視聴者は普通に予定調和の演出と思って冷めた目で見ているのである。逆に箸を震わす(震わせ過ぎる)ことで肝心な食べ物の様子がよく見えない(きちんと視認できない)という悪い副作用をもたらすケースもある。馬鹿としか言いようがない。それでも何も考えてないTV屋は既存のパターンを無自覚に踏襲する。





これらは「テレビ屋のおかしな映像」「おかしな操作」のほんの一例にすぎない。ここから見えてくるのは演出者もカメラマンもその他の現場スタッフも含めて「感性が貧弱」であることだ。感性を磨き続けている人間なら絶対にこうはしないだろう、という悪い例をテレビ屋は作り続ける。それは既に致命的なレベルに達している。


以前から書いているテレビ業界の質の劣化はこうした制作に携わる人間の仕事にも現れているのである。下衆を極めた鬼畜外道な連中だ。

テレビは終わっている。






指原とAKB選抜総選挙2013

2013-07-10 07:15:59 | 人物
1ヶ月前(2013年7月現在)のイベントだが、今年は例年にない展開と雰囲気が生じて関係各位に様々な戸惑いを与えたようである。
このイベントについて若干思うところがあったので記しておく。

こうしたイベントでは人間の本音・願望が態度・言葉に出やすくなる。人間観察的にはそこが面白い。


指原莉乃(*1)の1位はある意味で順当な評価である。1年前の逆境を乗り越えて博多の地で逞しく自分を磨いた結果、多くの人が納得する1位であり、それは彼女を支持する人たち(多くのファン、博多や大分の人々、等々)の応援する姿を見れば明らかである。


一方、この指原の1位を不当だと考えて憤りを感じている人々がいる。そうした人たちは「アイドルとはこういうもの」という固定観念を抱いており、その凝り固まったイメージの世界から抜け出せない保守的で変化を好まないタイプと言える。確かに指原は従来の伝統的なアイドル像とは異なるタイプではある。しかし今の社会や時代が求める何かを彼女はその個性や生き様を通して与えたのであろう。その結果としての1位なのだと考える。


今回の総選挙結果は御大である秋元康ですら保守的姿勢にさせてしまうほど革命的だったようで、指原に依れば「総選挙結果を受けて秋元先生に挨拶に行ったが露骨に嫌な顔をされた」ということである。これが事実なら秋元康は自語相違の矛盾を露呈したことになる。秋元は普段から口癖のように「予定調和の打破」(*4)を周囲に説いていることでよく知られている。指原の1位は正に手垢がついたような古いアイドル像を超越する予定調和の打破そのものであり、実に面白い事、である筈なのだが・・・。指原の1位を納得出来ない秋元の態度は一般のアイドルファンと変わらない予定調和を求める保守的で皮相的な態度そのもののように思える。彼はこの先、そうした自己矛盾に気がつくことがあるのだろうか。


大島優子の態度と言葉にも矛盾が含まれていた。大島は3位が渡辺麻友だと判明した時点で不服そうに眉をひそめて「えーっ?」という顔をした。さらに2位が自分(大島)だと判明した時点で彼女は呆れたように吹き出した。(*5)

そして2位を受けてのスピーチでは「涙の一つも出ない。おなか抱えて笑ってしまう総選挙は初めてです」「(指原センターで)どんなコミカルグループになるのか」などと発言して会場の笑いを誘っていた。
これは一見すると大島が抱く悔しさを大人の態度に昇華させたものとして一部で高く評価されているようだが、しかしここには大きな矛盾がある。

大島は2011年の総選挙でのスピーチでは「私たちにとって票数は皆さんの愛です」と宣っているのである。この言葉に嘘がないなら、真心の言葉であるなら、今年の大島の態度と言葉は指原に15万超の票を与えたファンの人々に対して失礼極まりないことであり、侮辱的な態度と言えるだろう。何より大島自身が自語相違であり矛盾を露呈している事に気づくべきであろう。残念なことである。

大島と言えど結局は自分に都合の良いことは美化し、都合の悪いことは見下して笑い飛ばして否定する、ということである。(*7) たとえそこに自己矛盾が含まれていても、だ。これは秋元康も含めて思い上がった人間にありがちな態度であり、はっきり言って醜悪である。

大島のスピーチや態度から見えたことは、そもそも大島が指原を見下していることであり、指原の1位が何を表しているのか理解できない内側の苦悶である。その苦悶を悟られないように笑いに転化したスピーチであの場を乗り切った、とも考えられる。大島は芸歴が長く、それくらいを取り繕うのは余裕なのであろう。

大島と指原は仲が良く、大島も指原に種々のアドバイスを与えているということだが、しかしあの会場のあの瞬間に大島は無意識に本音を態度と言葉に出してしまったように思える。

大島のモットーは「初心忘れず」というのをどこかで読んだことがある。彼女は仕事の経験も豊富であり有能な人物であることは間違いないが、しかし昨今の姿を見ていると、いささか初心を忘れて慢心を抱いているのではないか、という疑念も感じられる。(*8)



問題はステージ上だけではない。無名の一般大衆もこれに該当する。あの日、指原の1位が確定的となった時点で会場の日産スタジアムから帰途につく客の姿が目立った。彼らは彼らなりに総選挙のイメージというものを持っており、出てきた結果があまりにも彼らが抱くイメージと乖離していてその場に居続けることが耐えられなくなって退出した…概ねこんな理由であろうと推測される。

心理的に耐えられないと言っても実態はアイドルの人気投票である。彼らが期待していた結果と違うからと言って何も途中退出する必要もないと思うのだが。途中退出はそもそも指原と指原を支持した人たちに対して失礼なことである。誰が1位になろうが素直に祝福することができないのだろうか。誰もが予想しなかった想定外の展開を「サプライズ」「予定調和の破壊」としてエキサイティングに面白いこととして受け止めることはできないのだろうか。不思議である。途中退出された人々はこれほどまでに未熟で幼い精神性しか持ち合わせていなかったのであろうか…と寂しい気持ちにもなる。



もう一つ。
漫画家・小林よしのりである。このもうすぐ還暦を迎える傲慢な漫画家は指原に対してありとあらゆる悪口雑言罵詈讒謗を投げつける。この人物もまた「アイドルかくあるべし」という主観的で凝り固まったイメージの虜囚なのである。こうした精神的・心理的に柔軟性を失った老人には指原の魅力と価値は一生理解できず、それ以前に気付きもしないのであろう。日産スタジアムでの回線を通した指原とのやりとりで小林は指原に対して大声で「バカヤロウ!」と暴言を吐いている。これだけとっても小林の人間としての程度が知れる、というものである。(蔑笑)

さらに・・・
総選挙以後、指原を批判・否定する小林の元には批判コメントや罵詈雑言が多数届いているという。小林はそれらを「指原ヲタの実態はこれだ!憎悪に凝り固まっている」としてブログ上で公開している。それらは確かに強烈な言葉の攻撃と言えるものであるが、しかしちょっと待て。

そもそも、そうした汚い言葉で指原を攻撃しているのは小林よしのり自身なのである。指原を「悪魔」呼ばわりする小林は他人の批判をする資格があるのか? そもそも「憎悪に凝り固まっている」のは小林自身なのだ。総選挙会場での「バカヤロウ」もそうだし、「指原が1位になると日本は駄目になる」「日本経済が滅茶苦茶になる」などの妄言としか言いようのない幼稚で意味不明な言葉の数々。小林が受けている攻撃とやらは小林自身がやっていることがブーメラン的に返ってきているだけ…とは言えないだろうか。こうした事にも気が付かない愚か者…それが小林よしのりなのである。

フジテレビで7月16日深夜に放送された評論家達に依る総選挙の感想戦とやらでも小林は相変わらず浅はかで皮相的な発言ばかりで呆れ果てた。ひとことで言うなら子供のようであった。彼の発言は普遍的妥当性を持たない戯言でしかない。個人の主観の域を出ない内容であり、自分の個人的願望が世界で唯一正しいと思い込んでいる姿はひたすら醜悪であった。主観や願望を公の場で語り訴えるということは本来難しく、慎重にやらなければならないことだが、小林にはそうした大人の分別や配慮は皆無である。そして相変わらず「バカヤロウ」発言も繰り返していた。つくづく無礼で幼稚な人物である。(蔑笑)

小林は同じ漫画家の大先達である赤塚不二夫先生の
「これでいいのだ」
という言葉をよく噛みしめて考えることだ。
これにはとても深い意味が込められているのだが、小林にそれが理解できるであろうか。




・・・さて、こうした諸現象を逆から見てみるならば、指原の1位はそれほどまでに多くの人を無意識裡に大きく動かし得た…ということである。これは真に凄いことであり、その多大な影響力がもたらした諸事実・諸現象は実に面白く見事というほか無い。これほど予定調和を超越する面白いことはなかなかないだろう。



<文中敬称略>


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【2019年5月6日追記】
指原莉乃が2019年4月、平成の御代の終わりと共にアイドルを卒業した。4月28日に横浜スタジアムで挙行された卒業コンサートではダウンタウン松本人志がサプライズゲストで登場し、指原とのデュエット曲で知られる故・内田裕也に扮して指原と共演。会場のオーディエンスの度肝を抜いた。指原も「今まで見たこともない会場の反応だった」と言う。
松本人志はCX「ワイドナショー」で「頼まれればどこでも行きます」と言いはしたが、しかしそもそも依頼主の実力と人間性を認めなければわざわざ出演する気にはならないだろう。松本は指原の実力や人間性を認めているのだし、何より指原の大きな人間力、高い人徳があるからこそ実現した共演と言って過言ではないだろう。真に凄いことであり、改めて指原莉乃の人間としての器の大きさを感じるところである。



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(*1)
昔、バンジージャンプがどうしても飛べなくて(*2)ヘタレぶりが全開だった指原だが、実際はここ数年で彼女は人間的に大きく成長し人間的な魅力を持つようになった。
総選挙に於ける指原の順位は年を追う毎に着実に上がっている。初回の2009年は27位。2010年は19位。2011年は9位。2012年は4位。そして今年、2013年はついに1位を勝ち取った。順位は一貫して上昇し続けたのだ。2012年の逆境(*3)をものともせずに着実に順位を上げ得た事は驚異的ですらある。そして、非常に若いHKT48のメンバーの成長に大きく寄与した手腕はもっと高く評価されるべきであろう。そうした作業・仕事を通して指原は確実に人として成長している。実際、運営と秋元康はそこを評価したからこそ指原をHKT48劇場の支配人に任命したのであろう。支配人と言うポジションは名誉職ではなく、れっきとした責任職であり、決してジョークではなく指原の能力と本気に対する正当な評価の一つなのである。劇場には元々の専任の支配人が居るが、指原の支配人はいわゆるプレイングマネージャーに相当するものだと思われる。秋元康は早くから指原のプロデューサー的才能を見ぬいて、彼女をそちら方面に緩やかに誘導しているように見える。現在、SKE48の終身名誉研究生・松村香織の曲をプロデュースする任務をこなしている指原だが、こうした才能・センスも含めて我々は新しいアイドル像を今、目の前にしているのだと思う。


(*2)
バンジージャンプに挑戦する機会は期間をおいて2度あったが、指原はその2度とも飛べなかった。
ちなみに最初の時、板野友美は若干の躊躇はあったが、恐怖心に打ち勝ってバンジーを飛んだ。良い意味で見た目とのギャップを感じた瞬間であった。


(*3)
逆境の発端は週刊誌の記事である。
先日(7月2日)、指原が「さんま御殿」(NTV)に出演した際に指原自身が「週刊文春に感謝している」と皮肉なユーモアを述べたが、これを文字通りに受け取って「(文春に感謝するなんて)けしからん」と憤るファンがいるようだ。だがその憤りはいささか単純過ぎると共に的はずれであると言わざるを得ない。指原は決して本気で感謝しているのではなく、逆境が引き起こした一連の経緯を人生(運命)の不思議と捉えた上で皮肉ユーモアも含めてそう言ったのである。きっかけが何であれ、指原の人生が大きく動き、人間性を磨くことになり、その結果として多くの人々の支持を得るようになったのは厳然たる事実である。そして一連の経緯を俯瞰した時、最初のきっかけとなったのは紛れもない週刊文春の記事なのである。すなわち指原に対して悪意をもって記事を掲載した週刊文春ですら結果的に指原の人生を成功へ導く橋渡しをしてしまった訳で、これは正に痛快な出来事と言えるだろう。


(*4)
秋元は予定調和を嫌うことで有名だが、しかし十年一日のように予定調和をやり続けている一面もある。それは音楽面(曲の純音楽的側面)だ。彼が送り出す曲はいかにもヒットチャートの音楽そのものであり「音楽的には予定調和そのもの」の世界である。音楽的な切り口(詞ではなく)で見た場合、それは退屈極まるほど芸術性とは無縁の音楽である場合がほとんどだ。(数曲の例外はある)
しかも洋楽の過去のヒット作品の旋律や和音進行を明らかにそのまま引用したものも少なくなく(*9)、創作という観点からは失笑が漏れるほどの体たらくである。それは何より音楽に対して失礼であるし、CDを買ってくれるお客さんに対しても失礼である。秋元は音楽を理解してはいないし、音楽を語る言葉も持たない。従って音楽を作る事もできない。彼にとって音楽はよく分からない分野であり、曲は彼の作品を構成する部品(パーツ)の一つでしかない。だから外部へ「発注」するのだ。
こうした人物が音楽をプロデュースしている(実権を持つ)のだから、予定調和に堕してしまうのもある意味で仕方ないのかもしれない。自分が得意な世界(歌詞等の言葉、映像、商品の売り方)ではドヤ顔で「予定調和の打破」を語る。インタビューでは「新しいことをやると必ず批判される」などとドヤ顔で語っているが、こと音楽面に限っては何一つ新しいことなどやっていない。ヒットチャート音楽の枠内で予定調和的な極めて希薄化した音楽しか提供し得ていない。それは厳然たる事実。それに気が付かないのは正に彼が音楽の素人であるからにほかならない。しかし秋元にとってはそれは恐らくどうでもいいことで、彼の最大の関心は純音楽的な価値よりも予定調和よりもAKBを商売のシステムとして効率良く稼動させていくことであるはずなので、そもそも予定調和の矛盾を指摘したり音楽性云々を言うこと自体が野暮というものであろう。(*10)
権力者は自己矛盾など気にしないのだ。(苦笑)
[参考資料=秋元康の金満体質


(*5)
3位発表時に大島が不服そうな表情になったのは、指原が2位以上の順位を取ることに納得出来ないからである。その背景には指原を見下している大島の思い上がった姿勢がある。さらに指原が1位の理由、彼女の何が優れているのか理解できない焦りの心理がある。(*6)
そして2位が自分(=大島、つまり指原が1位)だと判明した時点で吹き出したのは、この事態が完全に納得できず受け入れがたいからである。だから大島はこれを笑いに転化してこの総選挙自体を感動とは無縁で無価値なものに変えてしまおう(総選挙の全否定)と考えたからあのような態度と言動になったのだ。これは現場における大島の無意識的な思考と判断を示すものである。


(*6)
これは秘かに会場を訪れていた前田敦子にもそのまま当てはまる。前田は指原1位に対して無感動で「涙も出なかった」とインタビューに答えている。ここにも大島の場合と近似した心理状態が見て取れる。


(*7)
2013年10月初旬に大島の発言として、小林よしのりの著書であるAKB48評論本に対して大島が最大級の賛辞を送った、という趣旨の記事が芸能ニュースに掲載された。小林は指原を口汚く罵倒する一方で大島を強く推している事でも知られている。やはりここでも”自分に都合の良い事だけは美化する”という大島の人間的特質が顕著に見られるのである。それと同時に、著作への評価の文言には大島流の”上から目線”も感じられた。大島は「初心忘れず」という自ら立てた戒めを完全に忘れてしまったようである。


(*8)
2013年の大晦日、NHK紅白歌合戦で大島優子は卒業宣言をしたが、ここでも大島はその慢心を形にしてしまったようである。紅白歌合戦という公の場で個人的な去就についての宣言をする事は非常識な行為であり、他の歌手の人たちに対しても失礼なことである。また観客や視聴者の多くはAKB48に関心がある人たちではない。そうした場所での卒業宣言は正に不適切な行為であり、大島が抱く慢心がもはや常識的な判断ができないほどに膨れ上がっていることを示していることになる。
今の大島優子は自信に満ち溢れているようであるが、しかし客観的に見た場合、傲慢かつ不躾で無神経の塊のようにも見える。それは仏教でいうところの増上慢であり、客観的に見てみっともなく恥ずかしい姿であると言える。そして大島自身はそれに全く気がついていない。
現在の大島には「自信に満ち溢れる」ことと「傲慢で身勝手に振る舞う」ことの区別がつかないのだ。それは他ならぬ大島自身の未熟さ・至らなさを示すものであり、これが大島の人としての"程度"、ということになる。
ついでに言うなら、今の大島に必要なのは能楽の世阿弥が言うところの"離見の見(りけんのけん)"である。世阿弥が演者(芸能人)の大切な心得として言ったのが"離見の見"だ。この意味は、「演じている自分を横から離れて見つめよ。その見つめている自分をさらに横から離れて見つめなさい」ということ。自分を客観視している自分をさらに客観視せよ、と言っているのだ。それくらい慎重に丁寧に自分がやっている事を客観的に認識・評価しなさい、という戒めを世阿弥は芸能人の基本の心得として説いているのだ。しかし、己に酔いしれて浮かれている大島には到底理解の埒外であろう。
(此処まで2014年1月7日追記)
2017年6月上旬に行われた選抜総選挙で須藤凛々花の結婚問題に際して大島優子がSNS上で批判をした。この批判内容を見る限り、大島は未だにその人間性に変化(成長)が見られず、相変わらず増上慢の醜い姿を露呈し続けている。何をか言わんや、である。
(此処まで2017年6月28日追記)


(*9)
音楽を作る上では秋元は常に後ろ向きであり、音楽的に新しい要素は皆無である。また具体的には過去の作品(主に欧米の有名曲)のパクリを基本としている、と断言しても過言ではない。
例を挙げればキリがないが、例えば「大声ダイヤモンド」はそもそもイントロやメインのメロディー自体が既に過去のポップスの焼き直しである上にメインメロディーが1コーラス終わった直後に出てくる音楽上のアクセント(演奏家なら「仕掛け」と呼ぶ部分(*11))は有名な映画「荒野の七人」のテーマ音楽からそのまま持ってきている。あまりにもあからさまなパクリ(ほとんど泥棒レベル)で唖然とするばかりである。恥を知れ、と言いたい。何より「大声ダイヤモンド」は曲の各部分に統一感が感じられずあちこちからパクった要素のツギハギ感が強い印象がある。
SKE48のシングル曲の多くは昔のブラックコンテンポラリーの有名曲からパクったメロディー(と和音進行)がそこかしこに認められるし、NMB48の「カモネギックス」はジャズが元ネタである。印象的なメインメロディーはジョン・コルトレーンの名作の一つ「至上の愛」からのパクリである。”若いアイドルファンならコルトレーンなど知らないだろう”とでも思ったのだろうか。ファンを見下している秋元の姿勢がこんなところにも浮かび上がる。
こんな例は枚挙にいとまがない。
こうして過去の有名曲をパクって希薄化した音楽ばかり送り出している秋元の姿勢には辟易させられる。どこが予定調和の打破か?どこが「新しいこと」なのか?厚顔無恥とはこういうことを言う。大笑いである。

余談だが、松井珠理奈がセンターを務めた「鈴懸の木の道で~」のタイトルは戦後ヒットしたジャズの名曲「鈴懸の径(みち)」(鈴木章治とリズムエースの演奏版が有名)を連想させる。76文字という長いタイトルにしたのはパクリの希薄化を狙ったものか。照れ隠しもあるだろう。タイトルですらジャズからパクるのが秋元流らしい。(蔑笑)

もう一つ、乃木坂46の「おいでシャンプー」の間奏部分のメロディー(ファンコールの「ナカダカナシカ」部分)もタイトルは忘れたが、1960~1970年頃の有名なポップス(欧米曲)のメロディーである。まったく、次から次へと出てくる秋元曲のパクリ事案である。

結局、こうした低次元なパクリが堂々と通用してしまうのが日本のヒットチャート音楽界の「程度」であり大多数のリスナーの「程度」なのだ。
日本は音楽文化果つる国、と言えよう。

2012年12月の日本レコード大賞の授賞式(AKB48が大賞を受賞した)で制定委員長である作曲家の服部克久氏が「これが今の日本の歌謡界の現状で~」と発言したのは決して偶然ではない。秋元が送り出す極めて次元の低い音楽を大賞に選出せざるを得ないほど日本国民の音楽レベルは低いという事を嘆いていたのだ。
(2014年6月4日追記)


(*10)
秋元康はファンに対する塩対応で有名な島崎遥香(ぱるる)を高く評価しており、かねてから「僕らのようなクリエイターは島崎を(予定調和じゃないから)面白いと思う」と語っているのだが、この発言は滑稽である。まず、秋元康のどこがクリエイターなのか?その勘違いぶりに爆笑である。秋元はクリエイターではなく「商売人」だ。客層を煽ってノセて金を出させ多大な収益をあげる商売人である。秋元のゴールは芸術的な達成感ではなく常に収益でありお金であり儲けだからである。
次に塩対応の島崎を高く評価し面白がる無責任である。塩対応と言うが、商売に携わる立場としてはあり得ない非常識で無礼な態度、それが塩対応である。もっともこれが商売として成立してしまったのは塩対応をありがたがるおバカな客層がいたからでもある。
そもそもの話で言えば、グループ加入当時は未成年だった島崎の身柄を預かる立場として秋元は島崎の人間的な成長にも一分の責任は負っていると考えられる。島崎は一人の人間として基本がなっていないし、常識も礼儀も知らないいびつな人間性のまま大きくなってしまった。グループの最高責任者でもある秋元はその人間のいびつさを矯正し正しい方向に導くべき立場でもあるのだが、秋元は教育するどころか、島崎の人間的欠陥を個人的に面白がっているだけなのだ。これは呆れるほど無責任なことである。おかげで島崎は人として成長するチャンスを失ったままチヤホヤされて人間的に大きな欠陥を持ったまま成人を迎えてしまったのだ。秋元は自分が面白がりたいだけのために一人の女性の人間的な成長を阻止し破壊したのである。非常に罪が深いと言える。
(2016年11月20日追記)


(*11)
演奏家同士なら「カケシ」と、バンド用語で言う。
ちなみに今日(こんにち)「業界用語」と言われる言葉の言い換えは元々ジャズ屋が使っていた「バンド用語」に端を発する。
だから例えば「250円」のことを「D百G十円(でーひゃくげーじゅーえん)」と音名(音楽用語)を交えて言ったりするのであり、このあたりに音楽界から発祥した名残が認められると言えるだろう。




エジプト政変の真相

2013-07-06 21:29:11 | 国際
エジプトのムバラク政権が倒れて1年が経過する。
今、エジプトはクーデターの混乱の中にあるが、そもそも民主的に選ばれたモルシ政権になぜ国民は反発しているのだろうか?


日本で報道されるニュースを見ているだけでは判らないが、実はこれを国民の反政府運動と捉えることが混乱を招いているのだ。

実は反政府運動をやっているのは国民の一部である。
何が国民の一部を動かしているのか、と見たほうがいい。


イスラム原理主義に則ったムスリム同胞団によるモルシ政権を引きずり下ろしたいと考える人々が存在する。
それはどのような人々か?

30年続いたムバラク政権は親米政権であった。
従ってこの政権にいた人間は新しいモルシ政権のイメージを悪くしたいと考えている。
アメリカがモルシに反対しているという情報を流すことは彼らの思惑・利害と一致する。


こうした背景があるので、エジプトに於ける一連の動きが「国民(全体)の」と言われてしまうとエジプト国民としては心外に思うようである。

報道のされ方も偏っていて、モルシ政権を支持する側のデモも起きているのにそちらの数字(人数)は発表されていない。

今回の軍の動きはクーデターである。
なぜそのような結果に至ったのか。

そもそもモルシ政権になったからといっても大統領が変わっただけで、政府組織を構成する人間たちは変わっていない。

ムバラク政権からモルシ政権に変わったけれども1年間ずっともめている状態だ。
モルシがいまだ何の権限も持たせてもらえなくて何の政治もさせてもらえない状況が続いていた。そのような状況下で「モルシを引きずり下ろせ」というのはいかにもおかしい話である。



この関係性は日本の政治に置き換えてみるとさらに判りやすい。
自民党という親米の長期政権があった。これが政権交代して民主党政権になったが途端にガタガタして政府がうまく回らないようになった。
既得権益を持つ人達から揺さぶられる中で民主党自体が自壊してゆく…。
こうしたところが似ている。



アメリカはエジプトが親米政権だった時にはムバラク政権をサポートしていた。
今まだお金を持っている政府の人たちが貧困層にお金を渡して彼らをデモに参加させているのである。

エジプトは国家公務員が多い。
政権(大統領)が変わっても政府(を構成する人々)は変わっていない。
国家公務員は往々にして賄賂をもらう事に慣れた人たちであり、たいして仕事をしなくてもそれで食っていけたのだ。それが民主的に選ばれた大統領になった途端に賄賂が絶たれてしまい今までどおりのぬるま湯的生活ができなくなった。これは公務員にとっては困ること。そしてその状態になって一年…。

そうした不平不満が今爆発しているのである。
モルシを引きずり降ろして元の政権に戻したい、私腹が肥やせる政権の方がいい…そうした欲望で騒動を起こしクーデターを起こした・・・。
言ってみればそれだけのことなのである。

エジプトをイデオロギーできちんと変革したい人はいるのだが、そこは報道されない。こちらの勢力の方が多いにもかかわらず報道されないのだ。

モルシ大統領は長い独裁政権以降で最初の国民投票で選ばれた大統領である。
それでまだたった1年しかたってないのに引きずり降ろそうというのはこういうことなのである。


1年前にサッカー場での暴動事件があった。
襲撃した犯人たちは捕まったが、裁判で死刑の宣告をしたらその家族から「死刑は間違っている」という異議が出た。
家族は言った。「政府にやらされたのに」と。
え?…となって公安が調べたところ、ムバラクの息子サイドの連中が足をひっぱり混乱させるためにわざわざスタジアムで事件を引き起こした事がわかった。バレたのである。
つまりそういうことなのだ。裏で仕掛ける奴がいるのである。


今回の政変でもこういう肝心な真相は全然報道されずにドンパチやってるところだけ報道される。
日本の報道はエジプト国民の声を謙虚に聞くべきであろう。

間違った報道、ズレた報道は当事者であるエジプト人にしてみればネガキャンされているようで嫌な感じであろうと思う。


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エジプト政変の裏ではアメリカの関与は恐らくあるであろうと言われている。
ムバラク政権というのはアメリカ(とイスラエル)にとって都合の良い政権であった。
それがなくなってしまったので取り返したいという心理が働くであろうことは容易に想像できる。

モルシ政権下で大統領はソブヒという参謀総長を任命したが、この人は米国への留学経験がある。その時に書いた論文が
「いずれアメリカは中東から撤退すべきだ。イスラムのためのイスラムを実現すべきだ。そうしないと憎悪の連鎖が広まるばかり。」
という趣旨なのである。

このことがアメリカにとって一つのターゲット(ポイント)となったのではないか。
アメリカにとって非常に反米的な思想を持つ政権はひっくり返したい・・・と考える一つの引き金になった可能性はある。






アメリカ(NSA)による盗聴問題について

2013-07-04 19:47:18 | 国際
先日明らかになったアメリカNSA(国家安全保障局)による情報収集問題であるが、アメリカは38カ国の駐米大使館に盗聴を行なっていた事がわかった。
その対象はEU諸国の他にも日本・韓国・インド・トルコも含まれている。

今回、これが明らかになってヨーロッパが激震している。
アメリカが情報を盗んでいた時点で世界中の国が怒っているのだが怒ってない国が1つだけある・・・それは日本。
これはメディアや政府の責任である。

日本の場合、本来この問題を扱うべき警察庁・法務省・外務省は全く動く気配もなく事を荒立てる気もなく呑気に構えている。
極めて頭の悪い反応である。


NSA(国家安全保障局)が盗聴の対象から外していた国が4つある。
その4カ国は

カナダ
オーストラリア
イギリス
ニュージーランド

である。
これらはいずれも英語を公用語としており、白人が人口の主流を占め、資本主義制度をとる国であるが、これを「アングロサクソン諸国」と呼ぶ。

これは全てイギリスが源流でかつての大英帝国の版図である。
要するに「イギリス・アメリカ同盟」であり、これは実際に存在している。

こうしたアングロサクソン諸国の諜報機関は「UKUSA(ウクサ)協定」を
締結していて連携している。

諜報機関はアメリカはNSAで、イギリスはGCHQ。
カナダはCSECであり、オーストラリアはDSD。
そしてニュージーランドはGCSBである。

これは世界中の通信を盗聴するシステムである「エシュロン」の参加国と一致する。

これらの歴史は古く、1948年、第二次世界大戦後にアメリカとイギリスの間で秘密同盟が結ばれたが、これは長い間隠されていた。
そこに後々オーストラリア・カナダ・ニュージーランドが関わってくる。

このUKUSA5カ国にはUKUSA協定があって相互に情報を融通しあっている。

盗聴システム「エシュロン」は日本の三沢基地にもあるが、驚くべきことにここで得られた情報は日本には一切提供されない。
日本人の情報を片っ端から盗んでいるのだが、日本には生情報(一次情報)は伝えられないのである。


イギリス・アメリカの「アングロサクソン諸国」とドイツやフランス…ゲルマンやラテンの国々はアメリカと同じ西側諸国だと信じて半世紀以上にわたって同盟を組んできた。
NATOもそうだし日本も日米同盟で組んできた仲間だ。
しかしアングロサクソン諸国の秘密の同盟からは排除されていたのである。

日本は、例えて言うならジャイアンにくっついて生きてきたスネオ国家だが、アメリカは「本当のこと」は教えてくれなかったのである。


今回の問題でドイツの連邦警察庁は捜査に乗り出すと言っている。
フランスもこの問題はただじゃおかない、という姿勢である。
今、EUとアメリカの間ではFTA(自由貿易協定)を結ぼうとしているがこのような盗聴をされていたら手の内がどんどん筒抜けになっている、ということであり、信義の面からも大問題なのである。


この状況下で日本(政府もマスコミも)が何もせずに他人ごとで済まそうというのは信じがたい怠慢であり、国際社会から見れば極めて間抜けな有様に見えるであろう。