皆さんはアプリケーション(応用)ソフトウェアがアップデート(更新)された時に「使いづらくなった」と感じられた事はないだろうか。
ソフトウェアにとって最も重要なのは機能・性能であって、そのソフトで何がどうできるのか、が問題であることは言うまでもない。しかしそれと同じくらい重要なのが人間との間のインターフェース、つまりUI(User Interface)である。
最も優れているのはUIのビジュアルを眺めただけでどう使えばいいのかが直感的に判るデザインであり配置である。逆に最も駄目なのはこの逆のパターンであり、UIを見ても何をどうすればいいのか直感的に把握できず、マニュアルを読んでも判りにくい作りになっているソフトである。
なぜこのような差が生まれるのであろうか。
それはUIをどのようにデザインするかという問題に対してソフト制作者の主観がもろに反映されるからである。そこに制作者の人格や個性が出てくるのだ。捉え方は色々あるが、ざっくり分けるなら、エンドユーザーに配慮できる人とそうではない人の二種類である。
エンドユーザーを大切にする制作者なら誰が見ても直感的に把握できるであろうデザインや配置を努力して作り上げるであろう。そこには自分の感覚・感性だけではなくタイプの異なる人々の感性や思考を想像し、誰が見ても制作者の意図が汲み取れるような工夫があるものだ。作者は想像力をもってデザインや配置を努めてユニバーサルなものにしようとするであろう。
逆にエンドユーザーの事は全く考えず、ただ自分が作りたいように作る制作者なら「判る人にしか判らない」「既に知っている人にしか判らない」デザインになるであろうし、感性の異なるエンドユーザーには全く訳がわからないものになってしまう恐れがある。
ソフトのアップデート後に使いにくくなったと感じるソフトの場合、たとえ制作者に良心があっても感性・感覚のレベルで自分にしか判らないデザイン、つまり制作者の感性では「これが使いやすい」と思うのだが、感性の異なる一般ユーザーにはそれが「意味不明」だったりUIが意味するものが結局つかめず五里霧中になったりもする。
使いにくいソフトのUIは、その制作者と同じ感性・同じ論理的な思考ができる人に限って理解できるのだ。だからエンドユーザーはどうしてもそのソフトを使いたければ作者と同じ感性を持つように同じ論理的思考をするように自分を訓練する必要がある。これはかなり馬鹿馬鹿しいことである。
ソフトウェア制作において同じ機能を作るにしても制作者の人格的タイプ・深層心理的タイプによって出来上がるUIには天と地ほども相違が生まれてしまうのであり、かなり悩ましい問題ではある。
著名なアプリケーションソフトウェアも含めて、そのソフトがアップデートして「UIが変わりました」とアナウンスされる時、大抵のソフトの場合、新ヴァージョンは使いにくくなったと感じることが多いのは、制作者のひとりよがりな感覚が世間一般のそれとはズレているからにほかならない。作者が「ほら、使いやすくなったでしょ」と思っていても、エンドユーザーは作者とは異なる感性や観点で捉えていることが多く「使いやすくなった」に賛同できない場合が多い。さらに、アプリケーションソフトウェアを「道具」として捉えるなら、「道具の使い勝手がある日突然変わってしまっては困る」というのが多くの人の意見だと思う。道具というのは人に馴染んでこその側面があるが、使い方が勝手に変えられては馴染みようがない事になる。馴染んだと思ったらUIが変わり、また苦労して馴染んだと思ったらまたUIが変わる…これでは道具を使う人を苦労させ疲れさせるばかりで困ってしまう。
たとえ制作者が「良かれと思って」施したソフト改修であっても、それがユニバーサルで普遍的な感覚とズレているならば、それは多くの人にとって「判りにくい・判らない」ソフトとなってしまうのが実情である。
たしかにソフトウェアを使用する人のタイプも立場も様々なので、本当の意味でユニバーサルなソフトウェアを作るのは難しいのかもしれないが、他人が使う事を念頭に置いたものであるならば想像力を働かせて多くの人が理解できるデザイン・配置の工夫に努力をしてもらいたいものである。
今、努力と書いたが、その根本には「誰にでも判ってもらいたい」という強いモチベーション(*1)、もしくはサービス精神が無ければならない。それが全ての基本になるからだ。
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(*1)
仏教で言うところの「利他」の精神に該当する。
ソフトウェアにとって最も重要なのは機能・性能であって、そのソフトで何がどうできるのか、が問題であることは言うまでもない。しかしそれと同じくらい重要なのが人間との間のインターフェース、つまりUI(User Interface)である。
最も優れているのはUIのビジュアルを眺めただけでどう使えばいいのかが直感的に判るデザインであり配置である。逆に最も駄目なのはこの逆のパターンであり、UIを見ても何をどうすればいいのか直感的に把握できず、マニュアルを読んでも判りにくい作りになっているソフトである。
なぜこのような差が生まれるのであろうか。
それはUIをどのようにデザインするかという問題に対してソフト制作者の主観がもろに反映されるからである。そこに制作者の人格や個性が出てくるのだ。捉え方は色々あるが、ざっくり分けるなら、エンドユーザーに配慮できる人とそうではない人の二種類である。
エンドユーザーを大切にする制作者なら誰が見ても直感的に把握できるであろうデザインや配置を努力して作り上げるであろう。そこには自分の感覚・感性だけではなくタイプの異なる人々の感性や思考を想像し、誰が見ても制作者の意図が汲み取れるような工夫があるものだ。作者は想像力をもってデザインや配置を努めてユニバーサルなものにしようとするであろう。
逆にエンドユーザーの事は全く考えず、ただ自分が作りたいように作る制作者なら「判る人にしか判らない」「既に知っている人にしか判らない」デザインになるであろうし、感性の異なるエンドユーザーには全く訳がわからないものになってしまう恐れがある。
ソフトのアップデート後に使いにくくなったと感じるソフトの場合、たとえ制作者に良心があっても感性・感覚のレベルで自分にしか判らないデザイン、つまり制作者の感性では「これが使いやすい」と思うのだが、感性の異なる一般ユーザーにはそれが「意味不明」だったりUIが意味するものが結局つかめず五里霧中になったりもする。
使いにくいソフトのUIは、その制作者と同じ感性・同じ論理的な思考ができる人に限って理解できるのだ。だからエンドユーザーはどうしてもそのソフトを使いたければ作者と同じ感性を持つように同じ論理的思考をするように自分を訓練する必要がある。これはかなり馬鹿馬鹿しいことである。
ソフトウェア制作において同じ機能を作るにしても制作者の人格的タイプ・深層心理的タイプによって出来上がるUIには天と地ほども相違が生まれてしまうのであり、かなり悩ましい問題ではある。
著名なアプリケーションソフトウェアも含めて、そのソフトがアップデートして「UIが変わりました」とアナウンスされる時、大抵のソフトの場合、新ヴァージョンは使いにくくなったと感じることが多いのは、制作者のひとりよがりな感覚が世間一般のそれとはズレているからにほかならない。作者が「ほら、使いやすくなったでしょ」と思っていても、エンドユーザーは作者とは異なる感性や観点で捉えていることが多く「使いやすくなった」に賛同できない場合が多い。さらに、アプリケーションソフトウェアを「道具」として捉えるなら、「道具の使い勝手がある日突然変わってしまっては困る」というのが多くの人の意見だと思う。道具というのは人に馴染んでこその側面があるが、使い方が勝手に変えられては馴染みようがない事になる。馴染んだと思ったらUIが変わり、また苦労して馴染んだと思ったらまたUIが変わる…これでは道具を使う人を苦労させ疲れさせるばかりで困ってしまう。
たとえ制作者が「良かれと思って」施したソフト改修であっても、それがユニバーサルで普遍的な感覚とズレているならば、それは多くの人にとって「判りにくい・判らない」ソフトとなってしまうのが実情である。
たしかにソフトウェアを使用する人のタイプも立場も様々なので、本当の意味でユニバーサルなソフトウェアを作るのは難しいのかもしれないが、他人が使う事を念頭に置いたものであるならば想像力を働かせて多くの人が理解できるデザイン・配置の工夫に努力をしてもらいたいものである。
今、努力と書いたが、その根本には「誰にでも判ってもらいたい」という強いモチベーション(*1)、もしくはサービス精神が無ければならない。それが全ての基本になるからだ。
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(*1)
仏教で言うところの「利他」の精神に該当する。