Altered Notes

Something New.

宮崎監督とiPad

2010-08-06 01:56:27 | 社会・政治
少し前にアニメーション監督の宮崎駿氏がiPadを批判したということでネット上で話題になっていた。
宮崎氏の言葉の表現方法を昔から知っている人には「さもありなん」的な内容であったが、初めて聞く(読む)人にはその言葉がややエキセントリックだったせいか、驚きをもって受け止められたのかもしれない。しかし芸術の領域で創作をしている人にとっては宮崎氏の意見はあまりにも常識的で当然と言えるものであった。

アニメーションの制作において、宮崎氏は徹底的に五感を使って対象に肉迫しようとする。重みとか空気感とか、物体の質感、さらに匂いまでをも実際に体感することでしかテーマとなる対象に迫ることはできない。

コンピュータ技術・文化はそういった実質的でリアリティのある現実をそのまんま再現することはまだできないのである。
コンピュータが得意とするのは「データ処理」である。この分野においては非常に大きな仕事をしてくれる道具ではある。

現代では音楽やビジュアル系といった芸術的な分野においてもコンピュータが各所で使われるようになっているが、「データ処理的な手法・技法」においてのみそれは意味を成し価値を有するのであって、本来的な創造作業の核心には入ってくることはできないのだ。いわば創造に立ち向かう魂の努力にとってはほとんど無意味な道具なのである。

だからそれ(iPad)にばかり頼っていたのでは駄目だよ、ということを宮崎氏は言っているのだ。本当の真実に対しては自分が動いて追求し五感で体得しイマジネーションを膨らませていく
しかない、ということなのだ。
宮崎氏が「僕には紙と鉛筆だけでいい」と言うのもそういう事が背景にあるからなのである。

宮崎氏がコンピュータを使わない(使えない)でそのような主張をしているように誤解している人も少なくない。事実はその逆である。宮崎氏はその作品制作において散々コンピュータ技術を駆使してきているし、彼自身コンピュータから何を得られ何を得られないのか、それを理解した上でその結果としての彼の主張なのである。

上の文章で「魂」という言葉を使った。現代はこの「魂」が非常に軽んじられている時代だと思う。それも表面的なデジタル時代の特質かもしれない。
真に価値のある芸術作品は時代には関係なく例外なくこの魂の領域で創られるものである。そこをよく考えた方がいい。

現代の人間には、単なる気持ちや心理ではなく生命全体の力や輝きをも含めた「魂」の領域で真実・真理に迫っていく事こそが求められているのではないだろうか。それはデジタル技術に傾倒し過ぎたきらいのある現代だからこそ求められているものだと思う。

iPadも含めたコンピュータやデジタル製品の多くは「データ処理」的な世界で使われる限りにおいて便利なアイテムである。しかし人間にとってそれは表面的なものであり世界の半分でしかない。もう片方の深く芸術的な領域、魂の領域においてはコンピュータはそれを不得手とし、ほぼ用を成していないのが現実だ。

現代人は宮崎監督の言葉を謙虚に受け止めることが肝要である。