Altered Notes

Something New.

日本人と西洋音楽・邦楽

2018-02-21 01:53:57 | 音楽
2018年2月20日のMX「5時に夢中!」において、「0歳からクラシックを聴かせる鑑賞会」についての話題があった。この中で作家の岩下尚史氏から「こうして幼いころから西洋音楽を聴かせることで真に邦楽を演奏できる人が少なくなった」という趣旨の重要な指摘があった。
今の子供は生まれたときから西洋音楽を聴かされているので、古来から伝わる伝統的な日本音楽(邦楽)の音程がとれなくなっている、というのだ。

確かに伝統的な邦楽の音階と西洋音楽の音階は音程(ピッチ)そのものが異なるので、西洋音楽に慣れた耳で聴く(本来の)邦楽の謡いはなぜか音痴に聴こえてしまうのである。基準が西洋音楽の耳なので当然であろう。なので、現在の邦楽の名人(楽器/謡い問わず)と言われる人が演奏する音は昔の名人のそれとは音程が微妙に異なるのだ。西洋音階に近い音程になってしまっているのだろう。

この日本古来の音楽の音程が判らなくなってしまったのは、もちろん音楽教育が西洋音楽に偏重しており、街に流れる音楽もことごとく西洋音楽ばかりだからである。
日本人が古来から紡いできた音楽の伝統がその身体の中からも消えつつあるというのは恐ろしいことである。

邦楽はそもそも日本人のメンタリティーの中から自然に発生してきたものであり、日本人の精神(無意識)の中に最も馴染むものとして存在してきた、筈である。
現代の日本人は上辺ばかり西洋風に着飾っているが、無意識の深層には古来から続く日本人の民族心理が存在しており、上辺だけ西洋風にしたところで精神の芯から西洋人になれる訳ではない。
そうした意味でも日本人が聴く音楽、日本人が演奏する音楽としての邦楽をもう一度捉えなおしてみる必要があるのではないだろうか。



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<2020年6月14日:追記>
テレビ朝日「題名のない音楽会」(6/13放送)に於いて「夢のマッチング ドリームデュオ」と題して西洋楽器と和楽器のアンサンブルを実演させていた。一見何でもなさそうだが、実はこれは酷い企画である。西洋音楽の音階と和楽器の音階は全く異なる。そうした前提となる部分を無視して乱暴に西洋音楽演奏家と邦楽の演奏家を組み合わせて無理やり合奏させるという酷い企画だったのだ。特にテレビ屋は無知で無神経であるが故に西洋音楽の体系の中に無理やり邦楽の楽器を組み込んでしまい、それを何とも思わないのだ。こうした狼藉がますます伝統的な日本音楽を破壊してゆくのである。しかもテレビ屋にそうした意識は微塵も無い。そもそも理解以前に自分らが何をやらかしているかも認識できてないからである。また、こうした酷い企画が普通に生まれてしまう土壌として若い邦楽の音楽家自身が日本音楽の音階が判らなくなってきている、という実情がある。これは相当深刻な状況であり、このまま進行すると伝統的な日本音楽は本当に消滅してしまう可能性がある。



大都会の無神経な騒音

2018-02-10 04:02:25 | 社会・政治
都会の大きなターミナル駅近辺などではビルの壁面に巨大なディスプレイが設置されてビデオ型の広告(デジタルサイネージの一種)が流れている事が多い。以前ならサウンドは無しで映像だけを流す形式だったが、最近はサウンドも付加されて普通に映像+音声型の広告になっている場合がほとんどである。

しかしこれは随分と無神経な広告であると言える。なぜなら映像だけの形式ならば、見たくなければ顔を背けてその映像を見なければそれで済んでいたのだが、音声付き映像広告の場合はそうはいかない。映像は逃れられるが音声からは逃れられないからである。たとえそのサウンドを聴きたくなくてもそこで鳴らされている以上は無理やり聴かせられてしまう。大都会の壁面大型ディスプレイの場合、その巨大な映像に合わせて音声も大音量で流されるので、歩行者は嫌でも聴かなければならない立場に仕立てられてしまうのだ。

これは立派な「音の暴力」である。年月を追うごとに社会が無神経化し暴力的になっていくのに呼応するかのように巨大デジタルサイネージも凶暴化していたのだ。

さらに大都会の繁華街の場合はこうした巨大なデジタルサイネージは1つではない。1つの場所に複数の画面が設置されていて音声もその画面の数だけ同時に流れてくる事も普通にある。周辺を歩いている人々にはそれら複数のサウンドが渾然一体化した大騒音となって襲ってくることになる。音に鈍感な人ならいざしらず、音に対して普通か普通以上の感性を持っている人にはこれは苦痛でしかない。頭痛を抱えているひとならさらにきつい地獄の試練となるだろう。

デジタルサイネージを実施設計・デザインする人もまた無神経である。そうでなければ一つの場所で複数の音声を同時に大音量で流すことは考えられない筈だ。複数の音声が同時に流れるということは、それらが互いに打ち消しあって騒音と化してしまうので、そもそもの設計通りの音声として受け取ってはもらえないのだ。

このように社会の迷惑にしかならない「巨大壁面広告の愚」は社会の無神経化が進行する限り、今後ますます拡大化し加速化してゆくことだろう。


太田光の人としての「程度」

2018-02-07 21:55:28 | 人物
どんなに博識な人物でも薄識な野郎でも共通しているのは、自分が知っていることは対象に対して敬意を持って冷静かつ客観的に語れるが、自分が知らない事には冷静さを欠いて主観的な態度で簡単に否定したり下品な冗談のネタにして見下して馬鹿にする・・・ということ。これは無名有名を問わず、かなり多くの人間に見られる普遍的な傾向のように思う。

で、太田光(爆笑問題)を見ていて憤りを感じるのは正にこうした傾向が強く感じられることである。太田は立川談志のことになると急に背筋を伸ばして居ずまいを正す。彼は談志をよく知っているし特に可愛がってもらった恩義もあり、それが故に敬意を持っているので談志に関しては根本否定するような言葉を吐くことはない。もちろん敬意を背景にした冗談は言うかもしれないが、談志という人物を根本否定するような嫌味な言葉は絶対に口にしない。

一方で、太田光はジャズ音楽家である日野皓正については何一つ知らない。知らないからこそ例のビンタ事件の時に「たいした音楽家じゃない」(*1)と一言で切り捨てて否定してしまう。こうした事実一つで太田光が俗物の域を全く超えない凡人であることがよく判る。太田光はジャズどころか音楽の「お」の字も判ってない素人であり、日野皓正の人となりも音楽における実績も全く知らない。知識ゼロである。そんな無知な人物が超一流音楽家を「たいした音楽家じゃない」と切り捨てるナンセンス。正に噴飯物である。少なくとも対象について「知らない」のであれば、正に「知らない」が故に軽々なコメントをすべきではないのは明白である。「知らない」時にはまず謙虚に「知らない」事を表明すべきなのだ。(*2)

さらに言うなら、太田光はビンタ事件の真相を何一つ知ろうとする事もなく誤解・間違った報道内容を基に発言している。これも許されないことだ。

どうしてこんな軽率な発言をしてしまうのだろうか。
人間は「知らないこと」はさっさと否定して済ませる傾向があるのは確かである。それは太田だけでなく、例えば久米宏やその他多くの人に見られる普遍的な傾向である。…と言うのは、人間の心理のあり方の問題で、「知らないこと」はそのまま心にとってストレスになるのだ。判らない事が心の中空に浮かんだままで収まる場所が見つからないような状態になっているのはなんとも居心地の悪いことである。だからさっさと否定して記憶の戸棚に片付けてしまいたがるのである。片付けてしまえばストレスは消滅して楽になれる。「さっさと否定」するという無責任な態度になれるのは対象について正に何も「知らない」からである。

「知っていること」と「知らないこと」で人は無意識的にこれだけの態度の差が出てくるのだ。立川談志は落語・古典芸能の世界で大きな実績を持っており、日野皓正も音楽の世界で大きな実績を持つミュージシャンである。どちらもひとことで否定されるような小さな人間ではない。そこがまるで理解できていない太田光こそが凡人・俗物であり「たいした人物ではない」と評定されるべきなのであろう。

さらに言うなら、そうした凡人がテレビ放送というメディアで堂々と低次元かつ間違ったオピニオンを垂れ流すことができる事がおかしいと言える。社会に対して明らかにミスリードしているのであり、それは許されない事である。

立川談志は落語を表して「人間の業の肯定」と言った。しかしだからと言って太田光がこれを自分の至らなさの言い訳にするようなことがあるならば、「たいしたことない」どころか「醜悪な俗物」であり「とんでもない愚か者」だ、ということになる。



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(*1)
TBS・サンデージャポンでの発言。どこがどう「たいしたことない」のか、音楽的に説明してもらいたいものだ。出来る訳がないが。(蔑笑)太田光は音楽の知識はゼロである。何も知らないから口からでまかせが言えてしまうのである。人間の性の一種だが、太田光の醜悪極まりない本質を表していると言えよう。

(*2)
ちなみに太田が敬愛する立川談志師匠は日野皓正と知己があり、良く知っていたしリスペクトすらしていた。談志が日野皓正と会ったときには親しく会話する仲であった。太田光はそれも知らないのだろう。無知は罪である。


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<2020年5月23日:追記>
検察庁法改正問題に関連して、芸能人の政治発言に対する意見を述べた政治評論家のツイートに対しても太田光はサンデー・ジャポンにてまたしても相手の人物もよく理解しないままに否定していた。相変わらず一方的であり、自分がよく知らないものはイージーに否定して済ませる、という悪弊が繰り返された。また、このような「自分とは異なる意見(気に入らない意見)は頭から否定して終わり」という態度は左翼的な考えを持つ人間にありがちなものでもある。

<2021年7月21日:追記>
過去に壮絶な障害者虐待をしていた小山田圭吾氏が五輪の音楽担当を辞任した件について、太田光氏が小山田氏を擁護する方向の発言をしたことで社会的な批判を浴びた。太田光氏は「人が人を裁いていいもんじゃない。裁くのは司法じゃなきゃいけない。それを守らないと、この世界は無法地帯になってしまう」と一見格好良さげな事を言っているのだが、太田氏自身が何も知らず何も判ってない立場であるにも関わらず、(公の場で)日野皓正氏を裁いていた訳で、これは完全に自語相違というものであろう。(蔑笑)

<2021年11月7日:追記>
2021年10月31日に放送されたTBSの選挙特番で太田光氏が政治家に対して失礼極まりない発言を連発して大顰蹙を買った問題。太田光氏の人としての程度が低すぎて論外なのは当記事本文をお読み頂ければ十分だが、問題はTBSがなぜ太田氏を起用したのか、ということ。TBSは今や極左の情報工作機関であることを隠そうともしないほど放送法違反を重ねている。そのTBSにとって左翼でドリーマーの太田氏は都合の良い出演者だったのだ。極左であるTBSが気に入らない政治家は全部太田氏に悪口(誹謗中傷に近い無礼な発言)を代弁してもらった、ということである。太田氏の発言は要するにTBSの本音なのである。本当はTBSが言いたかった発言を太田氏を使ってTBSが気に入らない政治家にぶつけたのである。TBSも太田氏もどちらも低俗・低次元である。TBSは視聴するに値しない左翼の情報工作機関であり、太田光氏は何処を取っても全然面白くないポンコツな芸人である(注)・・・それを再確認できた番組だった、ということだ。(蔑笑)

(注)
太田光氏の妻であり所属事務所の社長でもある太田光代氏は、太田光氏の失礼発言について「激励の意味もあった」と述べるが、何処をどう見たら「激励」を感じられたというのだろうか? 人を馬鹿にしているのはこの妻も同じであろう。夫婦揃って厚顔無恥でありポンコツを極めていると言えよう。