Altered Notes

Something New.

歌の何に感動するのか (May J. の場合)

2015-10-05 23:45:55 | 音楽
2015年10月3日放送のCX「めちゃ×2イケてるッ!」の中で「ドリームカバー歌謡祭」という音楽のコーナーがあった。

歌手の May J. が日本に於ける過去の有名なコミックソング3曲を弦楽を中心としたアレンジで、コミカルではなくシリアスな歌として大人の音楽として歌唱し絶賛された。これを視聴して思うところがあったので記しておく。

題材として選ばれたのは「嘆きのボイン」「“ヘーコキ”ましたね」「アホの坂田」の3曲である。

題材はコミカルでも、アレンジ、演奏、ステージ演出、そして May J. 本人の歌唱に至るまでシリアスに作りこまれた音楽でありステージになっていた。そのステージは素晴らしく、オーディエンスは惜しみない拍手を送っていた。オーディエンスは明らかに感動していたのだ。

コミックソングなのに?

なぜ感動していたのだろうか?

これらの曲がコミックソングとしてカテゴライズされる理由はコミカルな歌詞にある。しかしこの晩のオーディエンスはコミカルな歌詞を笑って楽しむのではなく、むしろ音楽の音そのものに感動することで拍手していたのである。

なぜか。

音楽のメロディー、リズム、ハーモニーそのものが音楽的な音として大きな説得力をもって聴き手に迫ってくる時、(極端に言えば)歌詞の内容などどうでもいいのである。なぜならそこで鳴っている音(演奏、歌唱)の説得力がオーディエンスの心を震わせているからである。(*1)

May J. はここで”歌詞を歌った”のではなく、”メロディーを音楽的に歌い上げた”のである。

言葉というロゴスではなく音楽という極めて感覚的な領域の創造物が人の心に感動を与えるのだ。そしてこの番組で、May J.とアレンジャーやサポートミュージシャンたちは歌詞の内容には一切関わりなく音楽としての価値を追求して創作していき、そしてその目的を見事に達成したのである。

それを裏打ちする言葉を May J. 自身が述べている。彼女はこう言った。

「最初に(元のコミックソングの)歌詞を読んだ時は笑いました。言葉として語るとそれは恥ずかしいのですが、しかし歌になると関係ないですね

音楽家の坂本龍一氏が歌を聴く場合でも「歌詞は聞いてない。音それ自体を聴いている」という趣旨の発言をしているのはつまりこういうことなのである。音楽家にとって大切なのは音楽で鳴らす音そのものである。言葉ではないのだ。(*2)

この晩の May J. は真に価値ある音楽を創りだすことに成功したのである。




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(*1)
日本人である我々が外国語の歌を聴いて、言葉の意味もわからないのに妙に感動することがある。それは歌詞ではなく音楽の音そのものに説得力があってそれに心が反応し震えているからである。


(*2)
ここでは純粋に音楽面の価値を述べているが、それとは別に歌詞には言葉としての価値が存在する。しかしそれは音楽の評価とは全く異なる世界の話である、ということなのである。