Altered Notes

Something New.

吉松版「タルカス」の少しだけ残念な点

2024-08-16 17:57:17 | 音楽

イギリスのプログレッシブ・ロックの名門バンドの一つであったエマーソン・レイク・アンド・パーマー(以下、EL&P)はその歴史の初期に名作が集中している。有名な「展覧会の絵」(1971年)もそうだし、「タルカス」(1971年)もそうだ。(*1) この作品について記してゆきたい。「タルカスについて」と言ってもEL&Pのそれではなく、吉松隆氏がクラシックのオーケストラ用に編曲したヴァージョンである。

「タルカス」だが、まずはEL&P版と吉松隆版の2つをお聴き頂きたい。

 

 Emerson, Lake & Palmer - Tarkus 1971

 吉松版TARKUS タルカス

 

元々「タルカス」という素材事態が組曲であり、構成的に交響曲的な作りにもなっている。実際、作者のキース・エマーソン氏はオーケストラで演奏する事を念頭に置いて作曲したそうだ。吉松氏も同様に、この曲をフルオーケストラで演奏してみたい、と考えたのはある種の必然と言えよう。その吉松隆氏は交響曲の作曲家であるが、元々進取の精神を持っており、現代音楽やプログレッシブ・ロックなどの音楽も吸収・消化している作編曲家である。2009年に編曲された「タルカス」原曲の良さを活かし、ロック・バンドとクラシック・オーケストラの違いはあれど、EL&Pが演奏したヴァージョンの魅力を損なわず、さらにオーケストラ故の説得力のある大迫力のサウンドを味わえるような作品になっている。オーケストラを指揮した吉松氏の友人でもある藤岡幸夫氏(指揮者)の手腕もあって、総合的には吉松氏の極めて良質の作品の一つになったと感じている。

だがしかし・・・。

個人的にはその編曲手法(処理方法)が気に入らない部分があるのも事実だ。いわゆる「※個人の意見です」と思ってもらえばいいが、その気になる部分を指摘したい。その「部分」はこの組曲の最初のパートである「噴火(Eruption)」の中に聴かれる。

 

1.ベースリズムの処理が”違う”

EL&P版で言えば、Ⅰ.Eruption の中の 0:57 ~ 1:10 の区間である。この楽章のメインリズムは5拍子だが、この区間は4拍子で元々シンコペーテッドでやや3連符系を感じさせるような跳ねたビートの浮遊感のあるリズムにされている。これが吉松版になると、なんとフラットでイーブンな普通の16ビートで処理してしまっているのだ。吉松版では 0:48 ~ 1:01 の区間に相当する。これはいけない。原曲のリズムが持つ独特の緊張感・ビート感が損なわれてしまっている。

この部分はラストの第7楽章「Aquatarkus」で再び登場する。原曲のEL&P版では「Aquatarkus」の 19:18 ~ 19:31 である。オーケストラの吉松版では 16:08 ~ 16:21 である。

 

2.”咆哮”がただの旋律に

上記指摘部分のすぐ後の部分であるが、原曲のEL&P版で言うと 1:10 ~ 1:22 に該当する。ここではキースがシンセザイザーで怪獣の「咆哮」のようなメロディーを弾く。まさに怪獣タルカスの「咆哮」だと筆者は捉えている。これは吉松版では 1:02 ~ 1:13 に相当する。ここではオーケストラのホーンセクション(金管)がその咆哮のようなメロディーを担当するのだが…これが全然「咆哮」になっていない。ただ、「書かれている音符通りに旋律を演奏しました」という味気ないものになってしまっている。この部分のメロディーには一部に音のスライド(グリッサンド的な)というか、無段階で音程を変化させなくてはいけないニュアンスを含む箇所がある。それは原曲のシンセサイザーの鳴り方を聞いて頂ければ判るだろう。恐らく吉松版の譜面では無段階変化ではなく普通に譜面の黒玉で指定された通りに金管楽器は演奏してしまっている。だからこの部分にあった「怪獣の咆哮」らしさは消えてしまっている、と言っても過言ではない。エレキギターのチョーキングにも似た感覚かもしれないが、「無段階での音程の微妙な上下」が前述のような「咆哮」のイメージも醸し出すし、音楽的な色気になるのだ。オーケストラ版の旋律を聴くと、音程の変化をバルブ操作で決めるタイプの金管楽器が使われているように思えるが、ここを音程を無段階に変化させられるトロンボーンを起用していたら違っていたかもしれない…という気はする。だが、この音程の微妙なスライドは演奏者の感性による要素も大きく、基本的に譜面に書かれた通りに演奏するオーケストラ(クラシック)のプレイヤーにそれを求めるのは無理とは言わないが難しい面もあるのかもしれない。恐らく吉松氏もそこを考慮して、編曲時にそのように処理(敢えて”咆哮”感を捨てる)してしまったのかもしれないが、なんとも「勿体ない」と思った箇所である。

この部分もラストの第7楽章「Aquatarkus」で再び登場する。EL&P版では 19:31 ~ 19:43 であり、吉松版では 16:21 ~ 16:32 である。

 

 

具体的に気になったのは上記2箇所だが、総じて吉松版「タルカス」は演奏もコンダクターである藤岡氏の力の入れようもあって、素晴らしい作品になった。フルオーケストラならではの迫力はEL&Pのそれとは異なる世界を創作することに成功していると言えよう。力作である。実際に原作者であるキース・エマーソン氏も駆けつけて、会場でこの演奏を聴いたそうだが、「気に入った」「良かった」、という趣旨のコメントを残している。

原曲のEL&P版もオーケストラ演奏の吉松版もどちらも素晴らしい。是非全曲通してお聴き頂ければ、と思うところである。

 

 

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(*1)

自慢のようで申し訳ないが、1972年に東京・後楽園球場で開催されたEL&Pの初来日コンサートでも演奏された「タルカス」は筆者も降雨の中、生で聴いた。「タルカス」の日本初演である。雨が降る中、傘もささずに音楽を聴き、それに集中するのは非常に難しい事を実感したが、それはさておき、EL&Pが降雨の中で演奏した「タルカス」は、雨故に感電を恐れて演奏せざるを得ない、という演奏者(エマーソンとレイク)にとってもきつい状況下で行われたせいか、音楽的にはレコードで聴いた時ほどのインパクトはなかったが、それでも生演奏を聴くことが出来た感激はあった。

 

 

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続・ビッグバンド・ジャズ・ドラミング

2024-08-03 08:08:08 | 音楽

前回はカウント・ベイシー・オーケストラのハロルド・ジョーンズを紹介したが、今回はデニス・チェンバースである。デニスと言えば主に16ビート中心のジャズ・フュージョン界での活躍が有名だが、元々はオールラウンダーで極めて有能なドラマーである。

バディ・リッチのメモリアルコンサート(1989年)に出演した時の映像だが、圧倒的なグルーヴ感が彼の持ち味で、どのような手の込んだフレージングでも必ず決まった拍数内に収める、しかも物凄いグルーヴ付き、という凄まじさである。これがビッグバンド全体を締めて下支えし鼓舞するのである。映像がデニスを中心に編集・演出されているのでドラミングを見る・聴くのに最適な映像となっている。

Dennis Chambers - Buddy Rich Memorial Concert 1989

 

ちょっとした場面だが、デニスのドラムソロから全体のアンサンブルに戻そうとするタイミングで、ソロ・フレーズをデニスが音楽的にブレイクさせた。本当ならその直後にホーンセクションが稼働して全体アンサンブルに戻れる筈だったのだが、バンド(主にホーンセクション)側がそれを掴めずに一旦流した。改めてデニスが口でカウントを伝えてアンサンブルに戻る、という場面がある。2曲目(Dancing Men)の 08:08 頃にデニスがドラムのフレージングを音楽的に終わらせた一瞬でアンサンブルに戻る合図を出すのだが、(ホーンセクションにとっては)やや唐突すぎた事と、バンドがデニスの流儀を掴みきれていなかった為か、ここではバンド側がアンサンブルに戻れずに、もう少しドラムソロを続ける。改めてデニスが口で「1,2,3,4!」とカウントしてホーンセクションがアンサンブルに戻る、という流れになっている。何ということはない一瞬だが、何が起こるか分からないジャズではたまにあるスリリングな場面の一つではある。

何しろ、デニスの圧倒的なグルーブ感を楽しんでほしい。安定した空気感の中で物凄いことをやってしまうのがデニスの持ち味だ。

ちなみに、デニスのジャズ・コンボでの演奏映像も紹介しておく。マイク・スターン&ボブ・バーグバンドの1991年の演奏と、ブレッカーブラザースのバルセロナでの演奏だ。

Mike Stern Bob Berg Band - live at the china club 1991

Brecker Brothers Live In Barcelona 

バルセロナのビデオでは、1曲目(Above & Below)のキーボード・ソロの中で、ベースのジェームス・ジーナスがバイヨンを4ビートに近いスタイルで弾いた後で本当に4ビートのランニングベースを始める。すると、デニスもすぐさま乗ってきて4ビートジャズになってしまうのが面白いと言うか微笑ましい。この曲のリズムは元々はバイヨン的な形式だが、気がつけば4ビートにも違和感無く移行できるほどノリが大きくオープンなビートで演奏されるので、即興的にこうした場面も展開されるのである。ラスト近辺でドラムソロも展開されるが、デニス独特の緊張感と爽快感が音楽的に混合されたもので実に気持ちが良いのである。

 

 

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サラ・チャンの演奏力・表現力

2024-06-11 14:33:00 | 音楽
音楽界ではつとに有名なヴァイオリン奏者のサラ・チャンについて記す。

筆者が彼女の演奏を初めて聴いたのは1994年のN響との共演でソロ奏者として登場した時である。それが下記の演奏だが、まずこれを聴いてみてもらいたい。

『サラ・チャン  チャイコフスキー「バイオリン協奏曲 ニ長調作品35」第1楽章』

『サラ・チャン  チャイコフスキー「バイオリン協奏曲 ニ長調作品35」第2~3楽章』

曲はチャイコフスキーの有名な協奏曲だが、実に堂々たる演奏である。この時、彼女はまだ13歳だった。だが、とてもそんな年齢を感じさせない音楽としての強力な説得力は物凄いものがある。技術力の凄さもさることながら、理屈では表せない表現力の豊かさには喫驚せざるを得ない。カデンツァ部分などは即興も含まれるだろうが、見事な演奏である。ピチカートで強めに弦を弾く瞬間でさえもある種の音楽的愉悦を持った興奮をオーディエンスに与えるこの演奏は本物だ。また、指揮者のデュトア氏やN響とのコラボレーションもうまくいっている。

音色も良い。大変太く輪郭のはっきりした音で、しかし決してきつくない輪郭であり、艶っぽさも含む芳醇なサウンドである。もちろん、シリアスでシビアなニュアンスが必要ならそれもきちんと表現できる実力はある。これがピアニッシモからフォルティッシモに至るまで全音域できちんと鳴らされ、きちんとオーディエンスに届く。プロならできて当然なレベルを遥かに超える実力は紛れもない本物の証である。これが13歳の少女から表現としてアウトプットされるのは信じ難いほど美しく素晴らしい。

さらに、速いテンポの時の細かい譜割りの旋律をきちんと弾くだけでなく、ある種のグルーヴ感をも感じさせる技術と抜群のリズム感、音楽センス…だからオーディエンスは魅了されるのだ。

もう、あのデュトア/N響との共演から30年も経過しているが、筆者は未だにこの時の演奏が大好きである。音楽として素晴らしく飽きることがない。






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ジャズに於ける良いアドリブとは

2024-06-08 20:52:00 | 音楽
YouTubeで「統計の専門家・サトマイ」として知られる佐藤舞さんが最近の動画で「世間に受ける為に必要なファクター」「コンテンツ制作で意識していること」について話している。それによると「視聴者から見た時の[親近性]と[新規性]が「7:3の比率」になるようにすることが大切だとしている。サトマイさんは自分が勝手に生み出した法則性として「親近性7:新規性3の法則」と述べている。

『親近性」とは視聴者が「知っている」「馴染みがある」「日常にある」「世間の関心がある」「既知のもの」であり、「新規性」というのは「意外性」「新しさ」独自の切り口や専門性」「未知」である。これが7:3くらいの割合でバランスしているコンテンツが「受ける」とサトマイさんは指摘している。

・・・ということなのだが、実はこれに酷似した法則が、音楽、それもジャズの中にあり、それこそ昭和40年代に出版されたジャズ初心者向けのアメリカの書籍にも記されている。

それはアドリブ(即興演奏)の組み立て方の法則である。

どういうことか。

サトマイさんが言う「親近性」とは演奏を聞く客側が既に知っている曲であったり旋律や和音・リズム等の音楽上のファクターである。アドリブの中に自分がよく知っている旋律が出てきたりするとオーディエンスは嬉しくなるものである。だが、アドリブ内容がそればかり(既知のものばかり)だと逆に退屈してくる。だから逆にそこに「新しいもの」「オーディエンス側が知らない独自性のあるもの」をファクターとして盛り込むとオーディエンスは感性を刺激されて「お?」と前のめりになるものだ。もちろんこの新規性が多くなり過ぎてもオーディエンスは置いてきぼり感覚になってしまうであろう。バランスが重要だ。

ジャズの即興演奏に於ける「親近性」のあるファクターと「新規性」のファクターはサトマイさんは7:3と言う。だが、上記の書籍「ジャズ・アドリブ入門」(音楽之友社)に於いて、詳細は省くが、イエール大学の音楽理論講師兼ピアニストのリッチモンド・ブラウン氏は「聴衆がだいたい50%ぐらい予測できるようにすべきだ」と述べている。「7:3」と「5:5」は厳密なものではなく、ケースバイケース、つまりその時の音楽の流れよって比率は適宜変えて良いと思う。どちらも「有り」だ。

アドリブ演奏にあたってこれを意識した方が良いのはジャズ演奏初心者だ。ベテランにとっては「釈迦に説法」な話だろう。

バランスと言っても場合によっては5:5だったり、音楽の流れによっては新規性の方が多くなる場面も有り得ようが、基本的な考え方として、概ねサトマイさんが指摘する通りの割合だと考えて間違いないだろうし、サトマイさんが提唱している概念や方向性は間違っていないと断言できる。

繰り返すが、ある程度名前も顔も売れているジャズ音楽家なら肌感覚としてこの比率は自然と身についているものと考えて間違いないと言えよう。






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ケチャと16ビート音楽の親和性

2024-01-04 07:50:30 | 音楽
インドネシア・バリ島は、インドネシアでの主要な宗教であるイスラム教とは異なり、ヒンズー教の文化を持つ島である。しかも独自のバリ・ヒンズーと呼ぶべき文化圏を構成しており、そこに様々な芸術もある。その民俗芸能の一つに「ケチャ」がある。音楽的には上半身裸の男たちによる呪術的とも思える合唱であり、視覚的には呪術的な舞踊を組み込んだ舞踏劇でもある。ここでは舞踏劇は横において合唱の部分にスポットをあてる。

ちなみに、実際のケチャは、例えば下記の映像に記録されたようなものである。

『インドネシア・バリ島・ウブドゥのケチャ』

『Kecak Dance / Uluwatu, Bali』


舞踏劇である為、その合唱には旋律的な要素もあるのだが、音楽的には圧倒的に「リズムを刻む合唱」としての役割が多い。しかも1970年代以降にジャズ・フュージョン界で広まった16ビート音楽との親和性が極めて高い。

ケチャは日本でも以前「芸能山城組」が実践的に見せて(聴かせて)くれたこともあったので、実際に見た(聴いた)方々もいるかもしれない。また、バリ島の舞踊団「プリアタン歌舞団」なども日本公演を行ったりしているので、それで鑑賞された方々も居るだろう。

実際にケチャで使われるリズムは実は非常に細かく、合唱と言っても各々パートによって異なるリズム…基本は四拍子でメトロノームのようにベースリズムを刻む歌唱者が居て、その上に5連符や7連符といった複雑な譜割りを含めたいくつかのリズムが乗せられていく。それらの総合されたものとして観客に聴こえてくるのは重厚な16ビートのリズムなのである。この迫力はなかなか凄いものがある。


そして、西洋音楽の世界で創造的なミュージシャン達がこのケチャのリズムに着目しない訳がない。その一例を下記に示す。日本のジャズミュージシャン(ピアニスト)である菊地雅章がアメリカで結成したAAOBB(ALL NIGHT ALL RIGHT OFF WHITE BOOGIE BAND)の"ASIAN HOWL"という曲ではベースになるリズムにケチャの16ビートリズムが起用されている。

『Kikuchi Masabumi & A.A.O.B.B. LIVE 5』

この曲でケチャは基本リズムの要として使われているが、菊地雅章はそのリズムを基調にしてグルーヴ・ミュージックを構築している。





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