Altered Notes

Something New.

節電・気温・湿度を考える

2011-05-22 16:48:11 | 社会・政治
今年の夏は節電の為にエアコンの使用電力を控えめにすることが推奨されている。
充分な電力を故意に供給せず、節電に協力しないと罰金だ、とふんぞり返る東電の責任はともかくとして、現実に供給されないのなら節電に意識的にならざるを得ないのは仕方ないところである。

ただ、政府やマスコミが報じているエアコンの推奨設定温度には少々腑に落ちないところがある。
28度という目安は実はあまり実質的な説得力はない。なぜなら気温の体感は人の体質等によって差があるからであり、しかも空気を「快」と感じるか「不快」と感じるかの決め手は実は
「温度」ではなく「湿度」だからである。

自分が今感じている「暑さ」が「温度」によるものか「湿度」によるものかを見極めることは重要である。それによって対策法も異なってくるからだ。
そして東アジアに位置する日本においては「湿度由来の暑さ」(=蒸し暑さ)であることが多いのである。

同じ28度でも湿度が低ければそれなりに快適に過ごせるが、湿度が高ければ相当に不快な状況になる。時には健康状態を著しく害することにもなりかねない。
人の健康状態に大きく影響するのはむしろ湿度の方なのである。

例えば気温が30度を超えた場合でも湿度が充分に低ければ人は長袖のシャツでいられるのである。逆に気温が22度でも湿度が高ければ汗をかき相当不快な状況となる。

再度書くが、人間にとって「快」「不快」の決め手は”湿度”である。決して”温度”ではない。
もちろん気温も大きなファクターの一つであるが決定打ではないことは意識しておくべきであろう。

難しいのは湿度だけを下げるのは容易ではないということ。結局エアコンの機能を使わざるを得ない領域の問題ではある。
エアコンに「ドライ」と名付けられた機能がある。これはとどのつまり「弱い冷房」である。原理的に湿度だけ下げるのは不可能であり、冷房(温度を下げる)処理をする時に副次的に湿度も下がる、という現象を利用したものである。

節電に通じる対策は「時」「場所」「天候・風力」「人とその体質」等々の種々のファクターによって最適解が異なってくる。決して28度設定だけが正解という単純な話ではない。
くれぐれも気分・健康や命に影響がない範囲でバランスをとってやっていただきたいものである。


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前述の件に関連してひとつ心配事がある。
今年の夏は節電運動が一般大衆に変な強迫意識を与える事を恐れている。しばしば一般大衆は「目的」と「手段」を混同してしまうからである。しばしばマスコミの誤った扇動などでそのような困った事態になることがある。
すなわち人の健康に重大な影響が出ても節電を優先するような脅迫的な考え方である。
猛暑の時期が終わった時にこの心配が杞憂であったという事になってほしいと願っている。

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さらに心配なのは機械類である。
真夏の気温がもたらす生活におけるもうひとつの心配は電子機器への影響である。
ビデオレコーダー・デジタルテレビ・パソコン等々、一般家庭にある電子機器はそれ自体が発熱体であるが、内部に抱えた電子回路は往々にして熱に弱い。
必要十分な冷却が得られない場合、その機械は故障する可能性が高くなる。もし節電の名目で室内が充分に冷却されなければ、この夏は壊れる電子機器があちこちで増えることになるだろう。
これも杞憂であってほしいことだが…。






無意識を意識する[1]:非婚化・少子化の真実

2011-05-08 21:06:44 | 社会・政治
非婚化・少子化とその対策が叫ばれてから既に久しい。
政府は対策と称する政策を小出しにしているが、その効果は全くあがっていないと言っても過言ではない。
こうした問題は小手先の政策をちまちまやっていても駄目でダイナミックに対処しなければ効果はほとんど出ないのが実状である。

政治家も官僚も目先の利益・すぐそこにある利権にしか関心がないので、非婚化・少子化対策に対してはぶっちゃけた話、やる気がない。
しかしそれでは国民から批判されてしまうので「やっています」と言い訳できる程度には取り組んでいる…というのが実態であろう。

この問題が真に難しいのは下記の2つの領域

1.国家や社会、或いは「条件」といったある意味で事務的でシステマティックに捉えられる部分

2.人間の「心」「情念」「恋愛感情」「気持ち」といったシステマティックに捉えられない深層心理的領域に関する部分

の双方に関わる問題だからである。

この内1.のシステム的な領域では政府・非政府組織等の各方面が(充分な内容ではないにせよ)対策を実施している。
こちらは今後も様々な検討を経て種々の対策が打たれていくであろう。

問題は2.の「心」の領域である。

結論を先に言うならば、
「男女共に理想の相手を求めるようになった」
から非婚・晩婚になった…
これが主な理由である。

理想の相手とはどういうことか。
深層心理学の知見に問題を解くヒントがある。

人間の心(無意識)の中には誰しも「永遠の存在としての異性」が存在する。
「永遠の存在である異性」とは元型としてのアニマまたはアニムスである。
元型は人の心(無意識)の深い層に存在する心理的なイメージ等を生み出す元になるファクターであり形の無い力動作用の源である。

「アニマ」とは男性の心の中に存在する「永遠の女性像」である。
(正確には「永遠の女性像を生み出す元になるもの」)
これは特定の顔かたちをしている訳ではない。
実際には、男性が強力に心惹かれるような女性に出会った時には相手の女性にこの元型が投影されることになる・・・といった形で作用するのである。

身近な例では映画女優に熱狂的な憧れを持つのもそうであるし、アイドルタレントやアニメーションのキャラクター対してアニマが投影されることもある。
アニメのキャラクターに投影された場合は「二次元」というキーワードと共に語られることが多い。二次元の世界に存在する異性に恋心を抱く(永遠の異性像を投影する)ということは絶対に実ることのない恋愛として特に美化されるケースが多々ある。

余談だが、アニメ映画監督であるあの宮崎駿監督でさえ若き日には長編アニメ映画「白蛇伝」のヒロイン白娘(パイニャン)に憧れの気持ちを抱いたそうである。

以上は男性の場合だが、女性の場合、この元型は「アニムス」と呼ばれる。いわば「究極の理想たる男性像」を生み出す元となるものである。

前述の「男女共に理想の相手を求めるようになった」とはすなわち男女共にアニマ・アニムスが生み出すイメージを満たす相手を探し、見つからない内は結婚には至らない、ということである。

女性の場合はいわゆるイケメンにその元型が投影されることになる。
女性のイケメンへの思い入れの深さは男性の比ではないかもしれない。

昔…と言っても戦後から高度成長時代にかけてはここまで理想を追い求めることは少なく、事実上ほとんどなかったと言っても過言ではない。
また見合いや世話を焼く周囲の人々が居て自然と結婚へ導かれていく…従ってほとんど誰でも結婚に至ることが可能だった時代である。
むしろ独身のままでいると変人扱いされた時代だ。
つまり心の中の究極の理想よりも妥協してでも現実と世間体の方が重要な判断基準だったのである。

時代は変遷し、何かにつけ人は自由であることの意味を重んじ様々な固定観念から解放されて自由を謳歌するようになった。
それにつれて女性の自由と権利も追求されるようになり、それが目指す着地点に向かって社会は少しずつ変わっていった。

「自由でありたい」ということは「理想を追求したい」ということでもある。
人は己の中、つまり深層心理の中にあるアニマ・アニムスという元型が促すところの理想像を追い求めるようになった。妥協しなくなったのである。

社会の様々な場面で「自由」になれたということはすなわち「男女関係」に於いても「自由」であるということ。
己の気持ちに素直になって相手を選択する、ということなのである。

一般人のこうした変化には当然マスコミの影響が色濃く反映されている。マスコミにおいては「美女」「イケメン」がこれでもかというほど強調され華々しくフィーチャーされているのであり、これが人々の元型(アニマ・アニムス)を著しく刺激するところとなっている。
男女問わず「美人に非ずんば人に非ず」とでも言えそうな程の趨勢になっており、一般的にそういった価値観が支配的になってきている。

特に女性のアニムス元型は現代においては強力に賦活されている感がある。理想を追求する気持ちの強さでは女性の方が圧倒的に上であろう。
マスコミのイケメン礼賛番組全盛の煽りを受けてその勢いはさらに強くなる一方である。

しかし何しろ「永遠の異性像」である。自分にとっての「究極の理想たる異性」、そのイメージに見合う相手は簡単に見つけられるものではない。
カップルのマッチングは難しい。

理想の追求と現実が突きつけるもの。
このような状態ではどのような方策をもってしても結婚に到る人の数は減少するのが必然と言えよう。
もちろん最初から結婚を希望しない人々も居る。
価値観は様々なのでそうした人の意向も尊重されるべきである。

こうしたある意味で混沌とした状況の中で国や自治体が出会いの場をちょっと提供したところで状況は何も変わらないのである、当然ながら。

人間にとっての結婚とは決して年収や地位等の「条件」ではない。
結婚は契約であり条件の合致が第一である云々と説く人も居るがそれは結婚のある一面しか見ていないのである。
結婚は男女の深層心理が本能的に要求するものの具現化である。

「条件」で結婚した人は後に離婚するケースが少なくない。
「条件」という頭で考えた理屈で伴侶を決定しても自分の無意識(アニマ・アニムス)が「NO」と言えば、その生活は早晩どこかで破綻するのは自明の理である。
逆に条件ではなくあくまで理想を求めた結果として結婚したカップルの離婚率は低いそうである。

また、既婚者に限った出生率(合計特殊出生率)で言えば戦後一貫して2.0以上の数値が出ているので、少子化問題とはすなわち非婚化・晩婚化問題である、と言える。

このように問題の本質は制度等のシステムではなく人間の心の深層(無意識)にある以上、政府がいくら社会的なシステムの修正・制度的な解決策を打っても状況は何も変わらないのは明白である。

日本の人口減少傾向は変わらない。