Altered Notes

Something New.

「ヌーハラ」で騒ぎ立てるマスコミ

2016-11-17 11:42:12 | 社会・政治
ラーメン等の麺類を音を立ててすすりながら食べる日本の慣習・文化が気に入らないという外国人が多いという問題をネット発の騒動としてマスコミが報じている。
いわく「ヌードル・ハラスメント(ヌーハラ)」だそうだ。

日本を卑下し自虐的な議論をすることを何より得意とするマスコミ、取り分けテレビ屋はこの騒動に浮かれ気分で飛びついた。

そもそも、この問題は突っ込みどころが多い。

まず、この問題が外国人の側に立って「ハラスメント」としているところが変であり、そこを指摘しないのがおかしい。
なぜか。
常に日本と日本人を否定する自虐的な立場で議論を展開するマスコミにとってはまずここが美味しい切り口だからである。
マスコミとしては日本人と外国人の間で何か問題が生じているとすれば、まず外国人側の価値観で判断し評価するのが標準である。問題が生じている時、「ハラスメント」という構造で捉えるのは日本批判をしたいテレビ屋にとって好都合な言葉なのだ。

テレビなどはこの問題が「インターネットで論争になっている」としているが、テレビでの扱い方を見るならばマスコミが進んで騒ぎ立てたいはしゃぎっぷりであることは明白である。ネット内でどれだけ話題になろうが、マスコミ/テレビ屋にとって都合の悪いものは取り上げないからである。

次に、立場の問題である。
日本人が外国に行った場合、現地の文化や慣習を尊重して振る舞うのは当然である。
だが、日本国内ではどうだろうか。
なぜ、日本国内なのに価値観や基準を外国人に合わせなければいけないのか。本来は彼らが日本の慣習や文化を理解して受け入れるべき話である。
日本人が日本国内で日本の文化・慣習に従った行動をしているに過ぎないのに、そこを外国人から批判・否定される筋合いは無いのである。
故・立川談志も一貫してそうした姿勢であったし、弟子の立川志らくもそういう趣旨で発言している。
また、タレントでありキャスターの市川紗椰が11/14の「ユアタイム」(CX)で「私は誰がいても絶対にすすります」と断言している。それでいいのである。

次に、わざわざ他所の国に来ておいてその国の文化・慣習にケチをつける外国人の度量の狭さと礼儀の無さ、想像力の無さに唖然とする。文化の相対化ができない事に喫驚する。
国や民族が異なれば文化・慣習は自ずと異なってくる。それはもう、自分の常識がひっくりかえされるくらい「違う」ものである。文化のギャップとは本来そういうものであり、それらを相互理解し認め合うことから真の国際交流が生まれるのだが、彼ら外国人は門前の段階で躓いてしまっている。ここはあなた方の国ではない。日本だ。そういうことなのである。

前述の市川紗椰も「ワインもソムリエが口に含んでくちゅくちゅするじゃないですか」という例を挙げているが、口内でくちゅくちゅするのは日本的な価値観からすれば「汚い」印象がある。しかしそれは相手国の価値観や文化に由来するものだから日本人はそれを問題視しないし否定もしないのである。

マスコミの問題に戻る。
テレビ局などは麺を啜る音を音響の専門家に分析させたり街の外国人にインタビューしたりして細かく報じてはいるのだが、やってることが問題の本質とはどこかはなれた切り口ばかりで、やはりはしゃいだ子供と同じレベルという印象しかない。薄っぺらいのである。この問題を真剣に考えるのではなく、単に大きな騒ぎにしたいだけであることがよく分かる。

こうして一連の騒動を俯瞰して感じるのは、彼らマスコミは別にこの問題の白黒つけたくて騒いでいるのではない、ということ。
本当のところは、騒ぎ立てることで視聴率や売上等の数字に結びつけたい、ということ。どれだけマスコミが腐りきっているか、を示す証左の一つと言えよう。

もう一つ、彼らマスコミがこのようなどうでもいい話題をプッシュしてくる時というのは、国民に知らせたくない問題があってそこから国民の目をそらせたい時である。政治や社会で本当はしっかり掘り下げなくてはいけない問題があるのに、それを掘り下げると権力者側に差し障りがある時、権力はマスコミを使って(或いはマスコミが権力に配慮して)国民の目を逸らせるのである。昔の大本営発表時代と基本的には変わっていないのだ。
ここはしっかり意識しておいた方がいい。

さらにもう一つ、現在のテレビ局の内側(中の人)には日本に対して否定的な姿勢を持つ人々が少なからず存在している。
そうした人々が経営や放送スタンスに強い影響を及ぼす事がしばしばあり、そのような連中の差し金でこのような「ヌーハラ」問題をことさら騒ぎ立てている可能性もある。ここも意識しておいた方がいい。

(文中敬称略)



PPAP がわからない、とお嘆きの貴兄に

2016-11-13 08:54:52 | 社会・政治
ピコ太郎の「PPAP」が世界的に流行している。
一方でこれが「わからない」としてしかめっ面で流行に異議を唱える人もいる。

「わかる」も「わからない」もないのである。
無意味だから面白いのだし、だから世界的に「通じた」のだ。
無粋だが敢えてキーポイントを挙げるならば「無意味」であり馴染みやすい「リズム」に乗せられているから受け入れやすいのだ。それは論理や観念などではなく、純粋に感覚的な領域に訴求する類のパフォーマンスなのである。

これだけでも国際的な普遍性はあるのだが、さらに付け加えるなら極めてシンプルな単語に絞って使われており、それが英語だった事がさらに世界的な拡散の一助にはなったであろうことは想像に難くない。それがジャスティン・ビーバーのアンテナに引っかかる一因にもなったであろう。もちろんジャスティン・ビーバーの後押しが知名度を国際的にするターボ機能になったことも間違いないが。

これは極めて感覚的なもの、センスが問われるパフォーマンスである。
「頭で理解しようとする」のはそれこそナンセンスだ。
感性が鋭い人なら一瞬でその面白さにピンとくるであろうし、感性のベクトルが異なる人には恐らく何も引っかからないであろう。
人間は様々なのですべての人に等しく伝わるものはあり得ない。自分には伝わらないと思ったら、それはそれでそっとしておけばいいのである。何も「私には判りません」とわざわざ社会に向けて叫ぶ必要はどこにもない。そんな叫びは正に無粋の極み、だ。