Altered Notes

Something New.

秋葉原の48人

2011-01-31 02:42:27 | 音楽
と言っても彼女たちは別に秋葉原が好きで来ている人という訳ではない。
単に実演をお見せする劇場が秋葉原にあったから秋葉原に来ただけであって、その証拠にあの娘達は秋葉原の街について何の知識も持っていない。拘りも持っていないだろう。

昔はアイドルという職掌は無かった。
単にルックスの良い歌手であったり俳優であったりしただけであるが、いつの頃からか外見に秀でた若い芸能人をアイドルと呼称することになり、気が付くとそれが職掌にもなってしまったようだ。この背景には歌手や役者としてのスキルがほとんど無いのにもかかわらずルックスが良いというだけで商売が成立するという事情があり、それを許容する社会だから…ということだろう。

秋葉原の48人衆について言えば、確かに芸術的・創造的な姿勢とは対称的な世界で活躍する人たちと考えられるが、しかし構成員の中には努めて創造的であろうとする人も存在するようだ。表現する内容の基本的な枠組みは外から与えられるにせよ、その中でどのように実演を創りあげていくのか、について高い意識を持って活動している構成員が居るのは確かだ。

面白いのはアイドルとしての姿勢と創造的であろうとする姿勢の両側面を同時に併せ持っていること。アイドルとしての絶対的価値は人気の高さであり、どれだけ多くの消費者から支持されるか、である。48人の、或いは姉妹グループも含めた全ての構成員を合わせた100人以上の中に於ける人気の順位は構成員の階層的位置であり、すなわち”ヒエラルキー”が根本的なモチベーションとなるのが一つ。

もう一つは、創造的な側面に於ける自分の価値の捉え方。
それはヒエラルキーではなく自分が創造したモノにどれだけ自分が満足し楽しめているのか、ということ。いわゆるアーティストにとっては皮相的な人気よりも自分が創りあげたモノ(成果物)そのものの価値が重要であってそれが全てと言っても過言ではないからである。

秋葉原の48人衆の中にはヒエラルキーだけを意識的に追求する娘もいれば、高い意識を持ってひたすら自分たちが創り出すモノの出来映えとそれを完璧に実演することに責任を持って臨み、そうして創出したモノの価値に喜びを見いだす構成員も居る。実際はその両方を気にしながら日々の活動に携わっているのが実態であろう。
いくらクリエイティブであっても一方でアイドルとしての立ち位置には変わりはないからである。

こうした姿勢は以前のアイドルたちにはありそうでなかなか無かったもののように思う。
何が彼女たちをそうさせたかと言えば「劇場に於ける実演」が最大の要因であると思われる。
劇場公演という実演行動がそういった創造的な意識を芽生えさせたのではないか、と推測するところだ。

いわゆる「ライブ」と呼ばれる劇場での実演はそれが歌手であれ役者であれ必ず真の実力が必要とされる世界である。実演では誤魔化しは一切きかない。
ライブを多くこなした人は必ず実力をつける。実践的に強くなり余裕を持てるようになる。これは従来型のアイドルにはなかった形態・形式と言えよう。

この48人衆はこうした背景を意識してその動向を見守っていくとちょっと面白いかもしれない。








田原総一朗的COBOL

2011-01-14 15:44:01 | 社会・政治
COBOLは日本では通常「コボル」と読む。コンピュータのプログラム言語である。しかも古い。1959年に制定されたのが最初で、その後幾多のバージョンアップがなされてきたが自然言語(英語)的な記述法から非理系の人にも理解しやすいプログラム言語として広く普及している。

プログラム言語としては非常にしっかりした作りになっており信頼性が高く、従って世界中のビジネスシーンで広く使われている。現在でも日本の大企業(特に金融・保険系や大企業の営業システムの多く)では未だにCOBOLがメインのプログラム言語として使用されている。古い言語なのになぜ使われているかと言えば、安定性が絶対重視される汎用大型機のシステムでは非常に信頼されているからである。
(*1)

さて、田原氏である。
今から約3年前に彼の討論番組で社会保険庁の年金問題を取り上げた際に田原氏自身が
「COBOLなんか使ってるから社会保険庁はだめなんだよ」
と発言した。

これは全くお笑いで田原氏は何を血迷ったのか、と。社会保険庁の問題は人的要因、つまり所属官僚たちの怠慢と悪意によるもので、コンピュータシステムの問題ではない。百歩譲ってシステムに問題があったとしてもそれはシステム設計・開発、そして運用の問題であってプログラム言語自体の問題ではない事は200%明白なのである。(*2)(*2a)

このように基本的な知識ですらとんでもない事実誤認を平気でしてしまう人がジャーナリスト面で闊歩できているというのは日本のジャーナリズムのレベルの低さを現しているのではないだろうか。

前述のように日本の中枢を担うシステムの多くがCOBOLで動いているのである。田原氏が誰から変な入れ知恵されたか、或いは付け焼き刃の知識で変な思いこみをしたか知らないが、知ったかぶりが大恥を招いた結果となったのだし、田原氏がIT関係に対しては全く無知であることが周知されたのであった。全然無知無知かたつむりである。田原氏の強権的な番組進行は世間で度々話題になるが、その強面の姿勢がついつい知ったかぶりをさせてしまったか。

先日、「田原総一朗の遺言」という番組が放送された。ちなみに田原氏は元々は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターであった。そこで披瀝された彼のドキュメンタリー製作思想は一言で言えば正に「やらせ」そのものである。田原氏が言うには「やらせ」は相撲で言えば「土俵」に相当するものでドキュメンタリーの舞台作りなのだ、という認識だそうだ。
ここでも強引な論理で自己弁護する田原氏だが、実際に彼が製作したドキュメンタリーを視ると彼の強権的で独善的な姿勢が強く実感されるものであった。(*3)(*4)

平易に言い換えれば、基本的に田原氏は常に自分の欲望の通りにモノを作るべく周囲の人や物を自分の都合ひとつでいいように振り回す人物である、ということ。さらに簡単に言えば「己の欲望を満たす事が第一義」であり、その為に周囲を振り回す事を一切気にしない人物、なのである。(*5)

そのエネルギー・行動力と意志の強さには感心する部分も無くはないが、しかし結局のところ、彼が作るモノは普遍的な価値観に通じるものではなく前述の通り彼自身の個人的な欲望の充足に重きが置かれているように見えるのである。

その意味でも田原氏をいっぱしのジャーナリストとして扱う日本の社会はいかがなものかと思うし、マスコミを中心とした社会の未熟な一面を改めて痛感させられるのである。
(*6)




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(*1)
余談だが、ちなみに ジャパネットたかた のシステムもCOBOLで書かれている。

(*2)
田原氏は当時の安倍晋三総理と非常に親しい関係にあり、その流れで安倍政権を擁護したい(社保庁問題の原因を人や政治ではなくITシステムにすり替える)が為に思わず言ってしまったのかもしれない。いずれにしてもみっともない駄目発言であることには間違いないのである。(蔑笑)

(*2a)
本当に「COBOLが駄目」だと言うなら、田原氏が ”COBOLのどこがどう駄目”なのかきちんと説明する責任があるだろう。しかし彼に説明はできない。田原氏は無知であり、恐らく誰かに吹き込まれたのだろう、知ったかぶりでCOBOLの誹謗中傷をしているだけだからだ。(蔑笑)

(*3)
確かに「真実」を描き出すのにリアルな「ファクト」だけに拘る必要はなく表現手法のひとつとしての「やらせ/フィクション」は単純に否定されるものでもない。しかしこの項で言いたいのはそこではなく田原氏の人格とその影響について、だ。

(*4)
人の生き方や人生上の根本思想はその人の顔つきにも表出するものだ。田原氏の目つき顔つきを見ればここで語っていることがあながちはずれではないことが見た目からも納得できるであろう。目つき顔つきはその人の生き様を示すアイコンである、とも言えるのだ。

(*5)
田原氏は他人の発言中に平気で割り込んできて話の腰を折る。当然のようにそれをする。自分が何か思いついたらすぐに「言いたい」のだ。まるで子供である。自分が「言いたい」だけで他人の主張などどうでもいいのである。そしてそれが全て、と言っても過言ではないほど単純で独善的なのだ。

(*6)
それでも田原氏がTV界から重宝されているのは混沌とした状況を引っかき回す役目として重宝されているからである。テレビ局は政治の真実を描き出す事には関心が無く、例えば討論が激しくなり喧嘩のような"TV的に面白い"状況を演出し放送することで話題を作り視聴率に繋げていくことにしか関心がない。田原氏自身もテレビ局出身でありTV(番組・制作者)の扱い方を心得ており、また演出側の意図をよく理解しているからこそ番組制作者は好んで使いたがるのである。








官僚:「説明できない事」をしでかす人々

2011-01-13 00:48:29 | 社会・政治
公の場における政治家・官僚たちの言葉は限りなく虚しい。
いずれも「国民のため」と言っておきながらその実態は自分たちの懐を肥やす事にしか関心がない。

官僚はしばしば陰で「説明できない事」(やましい事)をする。それが発覚した時には全力で誤魔化しにかかる。
官僚は確かに有能であるが、しかしその能力は国民の為に使うのではなく自分達の「説明できない行為」を誤魔化して国民を欺く為に行使するのである。

政治家は元々国民の代表であり選良なのである。
しかしてその実態は己の利権の追求、そして権力闘争にしか興味がない人たちである。
タテマエと本音。
選挙運動や国会答弁といった国民の目がある場においては精一杯タテマエの美辞麗句が並ぶ。本音は別の所にあるがそんなことは微塵も感じさせない態度をとる。

これがひとたび都合の悪い立場に立たされると言い訳三昧が始まる。
もしも何らやましいところのない人ならば、何が問題であり自分はそれにどのように立ち向かうのかがクリアに説明出来るはずである。

しかし政治家のほとんどは何かしらの隠しておきたいやましい問題を抱えている。従って都合の悪い問題が起きたときには話を逸らして誤魔化すのである。
正直にクリアに話したら自分の立場が無くなるばかりか、場合によっては逮捕されてしまう事もあるので話を問題から逸らして逃げようとする。陰で「説明できない事」をしているからである。

田原総一朗氏が討論番組においてしばしば
「そんな話は聞きたくないよ!」
と言って怒鳴るのは「説明できないやましい問題」を抱えた政治家が話を逸らして誤魔化そうとしている時である。

政治家だけではない。テレビ局・マスコミも同様である。
他社の不祥事は徹底的に追求するテレビ局も自社の不祥事となるといきなり黙ってしまう。大っぴらに説明できない事をしているからである。

こうした問題は大小様々なレベルで起きており、例えば先日もあるテレビ局で放送された某アイドルグループのPVの背景に描かれていた日本の国旗の日の丸がテレビ局の映像加工操作で消されていた、という問題があった。アイドルのPVであり別に政治思想のキャンペーンでもないのに近隣の諸外国に変に気を遣った結果ではないか、と疑惑をもたれている。

それ以前に、テレビ局が勝手にやった映像改変は何よりその映像作品を製作したビジュアルアーティストに対して失礼極まりないことである。
こうした無礼で乱暴な仕打ちを平気でできるのもテレビ局が電波という権力を握り、あぐらをかいているからなのである。

さて、この不可解な映像改変問題に対して有志の人たちがそのテレビ局に説明を求めたが結局テレビ局側は説明できなかったそうだ。
説明できないということはそのまんま「人に言えないやましい事があります」という事を認めているようなものである。

説明できない事はすべきではない。
それは不信を招き事態を悪化させるだけでなく将来的に深い禍根を残す事にもなり、事態全体を破滅に導く大きな要因になるからだ。





楽器のサウンドについて

2011-01-12 21:11:05 | 音楽
楽器の音にはそれを演奏する人間の個性が思いっきり表れる。これは楽器を演奏する人なら周知の事実だが、音楽に馴染みの薄い方には余り知られていないことでもあろうかと思う。

例えば管楽器でサックス(サクソフォン)である。管楽器の中ではとりわけ演奏者の個性が出やすい楽器と言える。
但しクラシックとジャズでは事情は異なる。
クラシックではいわゆるクラシック・サウンドに収斂するように音作りがなされることが多い。従って誰が吹いても比較的似たサウンドになる。

しかしジャズの場合は個性が自由に出せる。
同じテナーサックスでもコルトレーン、ロリンズ、ショーター、はたまたデクスター・ゴードンでは全く違う音が鳴るのはジャズファンならご存じの通り。
トランペットでも例えばマイルスの音などは最初の一音を聴いただけですぐに判る。

管楽器の場合は楽器と人体の両方が総合した形で音は作られる。
ざっくり言えば、楽器の音が鳴っている時というのは肺の中から食道や口腔を通りマウスピースを介して楽器本体に入り最終的に楽器の先端部に至る気柱(空気の柱)が存在して、それが音の個性を決める鍵となるのである。細かく言えばアンブシュアの形や口腔内の形状や呼吸法の微妙な違いなども影響するであろう。

従って楽器を替えても同じ人が演奏すると同じ音になるのが面白い。
例えばウェイン・ショーターがアルトサックスを演奏してもテナーの時と同様のサウンドが鳴るのである。(もちろん音域はアルトだが)
これは楽器の作りに依る違いよりも演奏者本人の音楽的個性の方が最終的に鳴るサウンドにとっては重要なキーとなる、ということなのである。

一般的に不思議に思われるのはピアノである。
ご存じのように白鍵と黒鍵の白黒羊羹が88個並べられた大きな弦打楽器である。こんなものプロのピアニストが弾こうが誰が弾こうが、それこそ猫が鍵盤の上を歩こうが同じ音がしそうなものである。ところが実際には演奏者によって全く異なるサウンドが出てくるのである。

その辺の素人が弾いても大した音が鳴らないピアノが、とあるプロのジャズピアニストが弾いた途端に信じられないほどクリアでもの凄いサウンドが鳴り響いた実例を間近で目撃というか聴いたことがある。とても同じピアノとは思えなかった。

指が鍵盤を押す(叩く)だけの行為でありながらそこには間違いなく楽器のポテンシャルを最大に引き出す理屈で説明できないような領域のマジックが手の中に隠されているのである。

こうして人の力で最良の形で生み出された音(音楽)には温かい血の通った人間的なサウンドが感じられるものである。
音楽のあり方はここに原点があるのは間違いないところ。これはコンピュータ等で作られた打ち込み音楽では絶対に出せない魅力である。
電子音楽も否定するものではないが、上述したような領域の表現は未だ不可能といっても過言ではない。技術の進歩がいつかは人間的な味を出せるようにしてくれるかもしれないが。

音楽は基本的に人間の身体と"魂"を通して生み出されるものでありそれには自ずと説得力があり従って普遍的な価値があると私は考えている。