人は宗教を持つ(入信する)と、物事の考え方や価値観がその宗教が教えるところに合致するよう自ら自分を変えていくところがある。それまでの自分の価値観を捨てて信仰する宗教に自分が帰依する・・・それが信仰であり宗教を持つという事なのである。
一つの宗教が持つ考え方や価値観には低級なものから高次なものまで様々ある。注意しなければならないのは、「宗教それ自体の教義」と「宗教教団(という組織)が規定するルール」とが渾然一体となっているケースが少なくないことだ。宇
平易に言えば、宗教団体のルールというのはトップのリーダーが居て、以下、ヒエラルキーに沿って幹部クラスから末端会員まで各々のグレードに即した立場の人間が配置されているその中で、組織(宗教団体)が一つの塊となってその宗教を極めて、さらに普及に励む為に必要となる規定事項の数々である。その規定は必然的に宗教自体を保護する目的がある他に、組織自体を守る目的も含まれている。その為に会員となった人々は純粋な宗教儀式とは別に組織の一員として組織を守る、という義務と使命感を背負う事になる。
筆者は昔からここを不思議に思っていた。
そもそも「何で既存組織のヒエラルキーに組み込まれなければならないのか?」ということだ。宗教は本来個人的なものであり、各々がどのような人生哲学を持って実践してゆくか、の問題なのだ。ヒエラルキーの中に半ば強引に組み込まれて上から指令を下されるような事ではない、と思う。
人が宗教を持つなら、その人自身の問題であって、その人がその宗教が訴求しているところを学び実践することで幸せな境涯を獲得していけばそれで良い筈である。
それなのに、である。
なぜ宗教団体に所属して、その中に存在するヒエラルキーに位置づけられなくてはならないのか。しかもヒエラルキーに位置づけるその為だけに課金される組織もある。意味が分からない。まして、宗教を守るのではなく、組織を守る為に上からの命令で動員されたりするのはどこかお門違いな印象が強い。
すなわち、下記の素朴な疑問が自ずと浮かんでくるのだ。
「宗教を持つこと」と「宗教団体(組織)に加入すること」は全然別の問題なのではないか、ということだ。
人には様々な事情や都合というものがある。だからひとくくりにして言えない事は前提条件として敢えて言うのだが、宗教団体への所属を辞めて、純粋に宗教そのものを持つ(抱く)事に純化しようとする人が少なくない数で存在するのは自然の成り行きなのではないか・・・そんな気がするのである。
宗教を持つ事自体も含めて、人が自分の事を自分の頭で考え、自分が思うとおりに進むのはごく自然なことである。組織(宗教団体)から「こう考えろ」「ああしろ、こうしろ」と理屈を抜きにして命令されて、その意向に沿った形で動くのは何か基本的なところから「違うのでは?」という気がしてならないのである。まして、その宗教団体が推す政治家に選挙で「投票せよ」と命令されるのはますますおかしな話に思えてくるのである。政治は政策であり、政治家が創出する政策を国民一人一人がどのように評価し、その結果として誰に投票するかはその人の自由である筈だ。それが、「特定の宗教団体だけに都合が良い」という理由で投票行動までも所属組織に制約されるのはどう考えても「違うよね」、な話なのである。
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ここからは余談だ。
大学時代に知り合い、中高年になるまで懇意にしてくれた親友と呼べる存在が居た。だが、晩年、彼はとある新興宗教に帰依した。その本部へ行くとかで、頻繁に車を運転して同じ仲間の会員達を乗せて行っていたものだ。奇妙な事に、彼が熱心に宗教活動にのめり込んだ途端に彼の人生(家族含む)に悲劇が起き始めたのだ。彼の母親が倒れて入院したり、父親が認知証で施設に入所したり、彼自身が心筋梗塞になって身体に不自由が生じたりして、不幸な兆候が次々に起き始めたのである。そして、彼はある朝、冷たくなって動かなくなった身体を「起こしにきた母親」に発見される事になる。
つくづく不思議に思う。この親友が新興宗教に帰依するまでは健康で家族含めて何も問題は無かったのだ。それが、彼が宗教にコミットした途端に不幸の坂道を下るプロセスが始まったのである。スイスの深層心理学者ユングが言うところの「共時性(シンクロニシティー)」の原理が発動したかのように思える経緯だったのだ。「共時性」とは「因果関係」の逆であり、『「何か」と「何か」が同時に起きる不思議』のことである。言い換えれば、「意味のある偶然」が起きる事、である。この場合で言えば、彼が「宗教に帰依する」事実と「家庭に不幸が連鎖して発生する」事がほぼ同時期に起きていることであり、ここに共時性の原理が発動しているような気がしてならない。
帰依した宗教によって人がたどる道は大きく異なるようだ。それはそうだろう。もしも宗教が人間にとって全く無意味なものと分かっているなら、人間はここまで宗教に依存することはなかっただろうし、とっくく昔に捨てていただろう。宗教自体は目には見えないものだが、人間を含む宇宙に偏在するある種の法則が厳然と存在しているのはどうやら間違いないようである。それは世の中の森羅万象を総合的に俯瞰するなら自ずと感じられる事実である。
だから、だ。
どんな宗教を持つ(帰依する)のか、或いは持たないのか、については真剣に深く考察する必要がある、ということだ。それによって幸福な境涯を得られる者も居れば、絵に描いたような不幸の坂道を転げ落ちていく人も居る、ということである。その上に、上述のような組織(宗教団体)の問題も絡んでくる。極めて難しいのだ。
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