goo blog サービス終了のお知らせ 

Altered Notes

Something New.

「宗教への帰依」と「宗教団体への所属」は違う問題

2024-11-17 13:43:00 | 精神世界

人は宗教を持つ(入信する)と、物事の考え方や価値観がその宗教が教えるところに合致するよう自ら自分を変えていくところがある。それまでの自分の価値観を捨てて信仰する宗教に自分が帰依する・・・それが信仰であり宗教を持つという事なのである。

一つの宗教が持つ考え方や価値観には低級なものから高次なものまで様々ある。注意しなければならないのは、「宗教それ自体の教義」と「宗教教団(という組織)が規定するルール」とが渾然一体となっているケースが少なくないことだ。宇

平易に言えば、宗教団体のルールというのはトップのリーダーが居て、以下、ヒエラルキーに沿って幹部クラスから末端会員まで各々のグレードに即した立場の人間が配置されているその中で、組織(宗教団体)が一つの塊となってその宗教を極めて、さらに普及に励む為に必要となる規定事項の数々である。その規定は必然的に宗教自体を保護する目的がある他に、組織自体を守る目的も含まれている。その為に会員となった人々は純粋な宗教儀式とは別に組織の一員として組織を守る、という義務と使命感を背負う事になる。

筆者は昔からここを不思議に思っていた。

そもそも「何で既存組織のヒエラルキーに組み込まれなければならないのか?」ということだ。宗教は本来個人的なものであり、各々がどのような人生哲学を持って実践してゆくか、の問題なのだ。ヒエラルキーの中に半ば強引に組み込まれて上から指令を下されるような事ではない、と思う。

人が宗教を持つなら、その人自身の問題であって、その人がその宗教が訴求しているところを学び実践することで幸せな境涯を獲得していけばそれで良い筈である。

それなのに、である。

なぜ宗教団体に所属して、その中に存在するヒエラルキーに位置づけられなくてはならないのか。しかもヒエラルキーに位置づけるその為だけに課金される組織もある。意味が分からない。まして、宗教を守るのではなく、組織を守る為に上からの命令で動員されたりするのはどこかお門違いな印象が強い。

すなわち、下記の素朴な疑問が自ずと浮かんでくるのだ。

「宗教を持つこと」「宗教団体(組織)に加入すること」は全然別の問題なのではないか、ということだ。

 

人には様々な事情や都合というものがある。だからひとくくりにして言えない事は前提条件として敢えて言うのだが、宗教団体への所属を辞めて、純粋に宗教そのものを持つ(抱く)事に純化しようとする人が少なくない数で存在するのは自然の成り行きなのではないか・・・そんな気がするのである。

宗教を持つ事自体も含めて、人が自分の事を自分の頭で考え、自分が思うとおりに進むのはごく自然なことである。組織(宗教団体)から「こう考えろ」「ああしろ、こうしろ」と理屈を抜きにして命令されて、その意向に沿った形で動くのは何か基本的なところから「違うのでは?」という気がしてならないのである。まして、その宗教団体が推す政治家に選挙で「投票せよ」と命令されるのはますますおかしな話に思えてくるのである。政治は政策であり、政治家が創出する政策を国民一人一人がどのように評価し、その結果として誰に投票するかはその人の自由である筈だ。それが、「特定の宗教団体だけに都合が良い」という理由で投票行動までも所属組織に制約されるのはどう考えても「違うよね」、な話なのである。

---

ここからは余談だ。

大学時代に知り合い、中高年になるまで懇意にしてくれた親友と呼べる存在が居た。だが、晩年、彼はとある新興宗教に帰依した。その本部へ行くとかで、頻繁に車を運転して同じ仲間の会員達を乗せて行っていたものだ。奇妙な事に、彼が熱心に宗教活動にのめり込んだ途端に彼の人生(家族含む)に悲劇が起き始めたのだ。彼の母親が倒れて入院したり、父親が認知証で施設に入所したり、彼自身が心筋梗塞になって身体に不自由が生じたりして、不幸な兆候が次々に起き始めたのである。そして、彼はある朝、冷たくなって動かなくなった身体を「起こしにきた母親」に発見される事になる。

つくづく不思議に思う。この親友が新興宗教に帰依するまでは健康で家族含めて何も問題は無かったのだ。それが、彼が宗教にコミットした途端に不幸の坂道を下るプロセスが始まったのである。スイスの深層心理学者ユングが言うところの「共時性(シンクロニシティー)」の原理が発動したかのように思える経緯だったのだ。「共時性」とは「因果関係」の逆であり、『「何か」と「何か」が同時に起きる不思議』のことである。言い換えれば、「意味のある偶然」が起きる事、である。この場合で言えば、彼が「宗教に帰依する」事実と「家庭に不幸が連鎖して発生する」事がほぼ同時期に起きていることであり、ここに共時性の原理が発動しているような気がしてならない。

帰依した宗教によって人がたどる道は大きく異なるようだ。それはそうだろう。もしも宗教が人間にとって全く無意味なものと分かっているなら、人間はここまで宗教に依存することはなかっただろうし、とっくく昔に捨てていただろう。宗教自体は目には見えないものだが、人間を含む宇宙に偏在するある種の法則が厳然と存在しているのはどうやら間違いないようである。それは世の中の森羅万象を総合的に俯瞰するなら自ずと感じられる事実である。

だから、だ。

どんな宗教を持つ(帰依する)のか、或いは持たないのか、については真剣に深く考察する必要がある、ということだ。それによって幸福な境涯を得られる者も居れば、絵に描いたような不幸の坂道を転げ落ちていく人も居る、ということである。その上に、上述のような組織(宗教団体)の問題も絡んでくる。極めて難しいのだ。

 

 

.


「エモい」の本当の意味

2024-10-09 13:36:00 | 精神世界

一般に流布する「間違った言葉」は多い。その中でも広く普及して有名かつ未だに蔓延っているのは「コンプレックス」だろう。これを一般人は「劣等感」の意味で使うのだが、完璧に間違いだ。「コンプレックス」とは「複合体」という意味である。だから「コンプレックス」を「劣等感」の意味だと思っているのなら、街中にある「シネマ・コンプレックス」は「映画・劣等感」なのか?…ということになる。そうではないだろう。「シネマコンプレックス」とは「複合型映画館」の意味であり、一つのビルにいくつもの上映スペース(映画館)が設けられた施設のことを言うのである。

「間違え」もそうだ。最近はマスコミ(特にテレビ局)の中に外国人(上層部から末端社員まで)が多くなってきたので、余計にこうした基礎的な日本語がいい加減になっているきらいがある。「間違え」はそれ単独で使うなら「間違い」が正解である。「間違え」を使うケースはそれ単独ではなく、後に文言が続く場合だ。例えば「間違えた」「間違える」「間違えない」などの用法では使われるのだ。いわゆる知識人・言論人の中にもこの使い分けができない人も居て情けない限りである。

 

ここで今回のテーマが登場する。今回は

「エモい」

である。

若年層が好んで使う言葉だが、「エモい」の「エモ」とは「エモーション(情動)」の意味だ。ここで「ちょっと待ったぁ」と異議を唱える人も居るだろう。「情動じゃないよ、感情だよ」と。これもまた世間に間違って広がってしまって、一般人にはその間違いに気がつかない典型例の一つである。「エモーション」を「感情」と訳して疑わない人が多い。それはもう、あきれるほど多い。誤解がとてつもなく広がっている実例だ。「エモーション」とは「情動」の意味なのである。

英語には「感情」を表す単語として「フィール」「フィーリング」というものが既にあるのだ。それなのに、なぜ?と思うだろう。

その違いを説明する。

これを厳密に、つまり難しく解説すると深層心理学の知見から引いてきて本当に難しい解説になるので、比較的ざっくりした概念の違いを述べる。

 

「感情」(フィーリング)」:

これはいわゆる「感情」であって、対象を「好き」「嫌い」といった(自分にとっての)価値判断をするのだが、あくまで「頭」「心」でそう判断しているだけであり、その時の自分の身体の調子に変化はない。普通の人が少し驚くのは「感情」が「合理機能」である、という心理学の定義であろう。一般社会人はそうは考えない場合が多い。

 

「情動(エモーション)」:

これは「感情」が動くと共に「自分の身体にも変調が現れる場合」である。判りやすい例で言えば、恋をすると「心臓がドキドキする」という現象が現れる。恋という気持ち(精神)の問題なのに身体という物理的存在がその精神に呼応して反応しているのである。不思議なことだ。昔のおとぎ話で、「お姫様は悲しみのあまり死んでしまいました」という表現があるが、これもまたエモーションが極端に現象化した一例と言えよう。人と喧嘩腰で口論するなど、いわゆる対決すると緊張で勝手に手が震えたりするのもこれである。「精神」「気持ち」の問題なのに、なぜ身体という物理的存在が反応するのか?・・・これが「情動」という現象なのである。

 

仏教にも「色心不二(しきしんふに)」という言葉があり、上記と同じ事を言っている。「色法(物質・肉体面の働き)と心法(心の働き)が、本来は別々のものである筈なのに、まるでそれらが一つのものであるように動くこと、という法理である。これを「二にして一である」(二つのものなのに一つのもののように動く)という言い方をするのだが、それが「色心不二」である。これを自らの科学論の中で使う科学者も居る。今西進化論で有名な故・今西錦司氏がその人で、まさに今西進化論の中でこの言葉を使っている。(*1)「話を戻すと、「気持ち」「感情」が変化しただけなのに、身体もそれに連れて自律的に変化してしまう・・・それを情動というのである。

 

スイスの深層心理学者でありユング派心理学の創始者であるC.G.ユングは、「感情」というのは物事の価値判断機能(卑近なところでは”好き””嫌い”の判断)であって、これが普通に分化して働いている時にはそれを合理機能とみなすのだが、まさしく感情が分化していない時に「情動」的な問題が起きる、という趣旨の説明をしている。この時の「感情」は「不合理」という言葉で説明されるように全て太古的(アルカイック)な特質を有する。念の為に言えば、意識的な「感情」機能は種々の価値を弁別する為の合理機能なのである。

「情動」は「興奮」に近いもの(程度の違い、である)であり、人に何らかの干渉を与えるものなのである。「情動」とは「人を連れ出すもの」なのだ。よく「我を忘れて~」という表現を見かけるが、これがその状態である。「怒る時」もそうだ。起こり始めの時には、頭に血が上り始めるのを感じる。その時に本当の「怒る」が生じるのだが、頭に血が上ってくると自分の怒りに捉えられ、ただちに身体的な反応が起こって興奮しているのに気づくのである。

 

このように、「感情」と「情動」ではその意味するところは大きく異なっており、言葉の定義という面から見て一般社会で使われている「エモい」「エモーション」を「感情」と解釈するのは間違いである、と言えるのである。

ただ、若年層が例えば「魂が震えるほどの感動」とか「身体が震えるような感動」といった意味で「エモい」を使っているのなら、それは「身体的な変化を伴う感情の動きがあった」というニュアンスにも取れるので使い方としては間違いではない、と言えるだろう。

 

 

 

------------------------------------------

 

 

(*1)

今西進化論では「種」と「個体」は「どちらが先に出来るか」ではなくて「同時に生まれた」という事を「二にして一である(2つのものだが、1つでもある)」という言い方で表している。「種」と「個体は二つのものであるが、しかし一つのものとしても捉えられる、ということだ。欧州では「集団」よりも「個体」を主体にものを考えるので、ここがダーウィン進化論との大きな相違点の一つである、としている。

 

 

 

 

.

 


「スターウォーズ」サーガへの個人的な思い

2024-08-12 15:15:15 | 精神世界

「スターウォーズ」の1作目が公開された時(1977年)、筆者はリアルタイムに見たのだが、その面白さに引き込まれた上に、「早く次作を」という気持ちになった。これは作品が観客の心を掴んだ事を意味する。初公開当時、実はその物語が9つの内の第4作目に相当するものだ、という事も知らなかった。実際、初公開時の映像には「Episode4」という表記は無かったのである。これはジョージ・ルーカスが、そもそもこの作品が全世界的に大ヒットするとは思っていなかった事と、一種のキッズ向けムービーとして提供されたもの、という意識でいたからである。

だが、作品は全世界で大ヒットしたし、今でもその人気は衰えていない。まだSFX(特撮技術)もアナログが主流で、「2001年宇宙の旅」でダグラス・トランブル達が開発した技術の延長上にあった…ハードウェア的にはそのような状況下にあったにも関わらず、である。

なぜか。

物語の骨子がユング心理学に於ける「元型」に即していたからである。元型とは、我々全ての人類が心の中(無意識の領域)に持つイメージの「型」に他ならない。「スターウォーズ」には「勇者」(=ルーク・スカイウォーカー)、お姫様(=レイア・オーガナ)、老賢者(=オビ・ワン・ケノービ)などの元型的イメージが具体的な形として登場し、勇者が否応なく戦いに巻き込まれ、老賢者の助けを得て悪役たる「悪い竜」(=ダース・ベーダーと彼が属する帝国)を退治してお姫様を助け出してめでたしめでたし、という結末を迎える。これは神話的な形を取っており、全人類の無意識中に存在する共通のイメージに合致するから共感と感動を呼び起こすものと考えられる。

普通、ある映画がヒットした時に特定の文化がベースになっていると、ヒットも限定的にならざるを得ない場合があるが、スター・ウォーズの場合は、全人類に共通な元型とそれに即した物語が提供された事で全世界的なヒットとなったのである。

1977年公開の第1作目(後に「Episode4」と称される作品)が大ヒットしたことで、シリーズ化されることになったスター・ウォーズだが、ヒットの原因が全人類の無意識に偏在する(そして人々はその存在に無意識であるところの)元型に由来するものである以上、この物語が全部で9作あるとされる中で、4作目、5作目、6作目の3作品だけで自ずと完結している、という客観的事実を否定する人はいないだろう。

やや乱暴に言ってしまえば、スター・ウォーズ・サーガの1~3作は「(4~6の為の)一種の説明」であり、7~9作は近年急速に高まってきた「ポリコレの圧力に対応した作品群」だからである。理屈の上では4~6作の3作品と関連はあるのだが、それはざっくり言えば机上の理論内の話である。要するに「無くてもよろしい」作品群であった、ということだ。特にポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)の圧力は凄まじく、全ての人種・宗教・ルッキズム等々の面に於いて差別や偏見の無い中立的な表現をすることが重要とされ、映画の制作者は「ポリコレの為に作っている」ような感覚にならざるを得なかったであろう。もちろん差別や偏見には否定的だが、ポリコレへの過剰な意識は作品そのものの価値を大きく下げる事もあるのだ。これは制作がジョージ・ルーカスの手を離れてディズニー社に権利が渡ってしまった事も無関係ではないだろう。

筆者にとっては「スター・ウォーズ」はEpisode4・5・6の3作品だけで完結しており本質はここにある。そして「それだけでいい」というのが個人的な見解である。

 

 

 

.


人の運命 共時性(シンクロニシティ)に思う

2021-01-20 12:52:52 | 精神世界
人の運命や宿命といったものを考える時がある。

大学時代から仲良くしてもらっていた友人が居たのだが、ある事を契機に彼に突如不幸の連鎖が生じた。そして、一気に不幸の坂を転がり落ちて亡くなってしまったのだった。これは衝撃であったし、嫌でも人の運命というものを意識せざるを得ないのだった。

人の運命・宿命といったものは一般的に言えば哲学や宗教の領域であって、いわゆる自然科学の知見で解明されている訳ではない。イギリスの物理学者である故・ホーキング博士も宗教的な世界、自然科学で解明できない世界には否定的であった。だが、時には「運命」だの「宿命」だのといった言葉に確かな意味と価値があるのではないか、と思える事象が人間の世界には実は数多存在する。

上述の友人の例だ。
この友人は真面目で誠実であり決して順風満帆とは言えないにしてもそれなりに頑張って自分の人生を貫いてきた人物である。それがある時、新興宗教に入信した途端に悲惨な不幸の連鎖が起き始めるのだ。彼の地元の仲間に新興宗教の信者が居たことで影響を受けた彼も入信することになったようである。

「入信した」という報せを聞いた時に私は一抹の不安を感じた。…というのも、新興宗教に入信して不幸になってしまった実例をいくつも知っていたからである。

そして・・・案の定、であった。

入信の報せがあって以降、彼からは宗教活動に励む様子を折りに触れ聞いていた。新興宗教の本部に詣でる際に彼が運転する車で同じ信者の皆さんを同乗させてお連れした…といった話は何度も聞いていた。

そうこうする内に、彼の母親が病魔に襲われて入院する事態になった。父親は在宅だが認知症の気配があって要注意である。数カ月後に母親はなんとか寛解した事で退院できたのだが、今度は彼自身が心筋梗塞で倒れて入院することになった。担当医師からは「心筋梗塞に二度目はありませんよ」と言われた。「一度目は助かっても二度目の発作時には確実に死にます」という意味だ。それでもなんとか退院した彼の身体は心筋梗塞によって手足の自由がやや失われていた。リハビリを頑張った事でかろうじて車の運転ができるほどには回復したが要注意な毎日である事には変わりはなかった。

完全回復を目指したのだが、不幸なことに二回目の心筋梗塞は容赦なく彼を襲った。ある日の朝、彼の母親がなかなか起き出してこない彼を不審に思い寝室に入ってそれは明らかとなった。彼の命は既に向こう側の世界へ旅たった後であった。

その時、彼の父親は老齢と認知症等により既に施設に入所していたのでその家には母親一人が残された。その後、母親もどこかへ引っ越したか施設に入所したかで彼の自宅には誰一人住む者はいなくなったのであった。

私は彼と長い付き合いだったが、とにかく彼が新興宗教に入信して以来の坂道を転がり落ちるような勢いで不幸が連鎖していった様が最も衝撃的で印象的である。

このような運命はどのように理解したら良いのだろうか。

こうしたケースでは例えば仏教ではある種の因果論的な捉え方で説明される場合が多いようだ。因果関係で捉えるのが最も判りやすく図式として把握しやすいのは確かである。しかし、実際には自然科学とは違って人の幸運・不運というものは因果論的(科学的)なアプローチでは正しく捉えにくいのも確かだ。

普段の生活に於いてはなんとなく「笑顔の絶えない人生を送っていると幸運が寄って来やすい」といった一種の傾向を感じることはあるが、しかしそれを因果関係で説明しきれるかと言ったら明らかにNOだ。因果論では把握できない(見えない)何かが法則として存在しているように思えるのである。

スイスの分析心理学者C.G.ユングの深層心理学ではそうした見えない法則を「共時性の原理」と呼称している。「共時性(シンクロニシティ)」と言うと難しそうだが、言い方を変えれば「意味のある偶然」である。(*1) 互いに因果関係のない複数の事象がほぼ同時に発生する時などがこれに該当する。例えば、特定の人物の事を考えていたらその人から電話がかかってきた、といったようなケースがこれである。

私の友人のケースも因果論的に捉えるよりも共時性の原理で捉えた方が普遍妥当性があるように思えるのだ。新興宗教への入信と活動。父親の認知症と施設入所。母親の病気・入院。彼自身の2回の心筋梗塞と死去。・・・これら互いには直接因果関係にない不幸な事象がほぼ同時期・同時代に起こるという「偶然」。この偶然に含まれる意味と価値に人はもっと思いを馳せる必要があるのではないか、という気がしてならない。


そのように捉える事ができるならば、世の中・社会の様々な事象・事案ももっと異なった捉え方が可能なのではないか、未来を見据えた視点や展望も従来的なそれとは違うものになるのでは、と思うのである。



---------------------------------



(*1)
何かの事象を見た時に「なぜそうなったか、という因果関係」で見る傾向があるのが西洋人であり、「この事象にはどんな意味があるのだろうか」という一種の「相」として捉えるのが東洋人である。その意味ではバリバリの西洋人であるユングが極めて東洋的な発想と思考を会得していることが極めて興味深いのである。