Altered Notes

Something New.

人の運命 共時性(シンクロニシティ)に思う

2021-01-20 12:52:52 | 精神世界
人の運命や宿命といったものを考える時がある。

大学時代から仲良くしてもらっていた友人が居たのだが、ある事を契機に彼に突如不幸の連鎖が生じた。そして、一気に不幸の坂を転がり落ちて亡くなってしまったのだった。これは衝撃であったし、嫌でも人の運命というものを意識せざるを得ないのだった。

人の運命・宿命といったものは一般的に言えば哲学や宗教の領域であって、いわゆる自然科学の知見で解明されている訳ではない。イギリスの物理学者である故・ホーキング博士も宗教的な世界、自然科学で解明できない世界には否定的であった。だが、時には「運命」だの「宿命」だのといった言葉に確かな意味と価値があるのではないか、と思える事象が人間の世界には実は数多存在する。

上述の友人の例だ。
この友人は真面目で誠実であり決して順風満帆とは言えないにしてもそれなりに頑張って自分の人生を貫いてきた人物である。それがある時、新興宗教に入信した途端に悲惨な不幸の連鎖が起き始めるのだ。彼の地元の仲間に新興宗教の信者が居たことで影響を受けた彼も入信することになったようである。

「入信した」という報せを聞いた時に私は一抹の不安を感じた。…というのも、新興宗教に入信して不幸になってしまった実例をいくつも知っていたからである。

そして・・・案の定、であった。

入信の報せがあって以降、彼からは宗教活動に励む様子を折りに触れ聞いていた。新興宗教の本部に詣でる際に彼が運転する車で同じ信者の皆さんを同乗させてお連れした…といった話は何度も聞いていた。

そうこうする内に、彼の母親が病魔に襲われて入院する事態になった。父親は在宅だが認知症の気配があって要注意である。数カ月後に母親はなんとか寛解した事で退院できたのだが、今度は彼自身が心筋梗塞で倒れて入院することになった。担当医師からは「心筋梗塞に二度目はありませんよ」と言われた。「一度目は助かっても二度目の発作時には確実に死にます」という意味だ。それでもなんとか退院した彼の身体は心筋梗塞によって手足の自由がやや失われていた。リハビリを頑張った事でかろうじて車の運転ができるほどには回復したが要注意な毎日である事には変わりはなかった。

完全回復を目指したのだが、不幸なことに二回目の心筋梗塞は容赦なく彼を襲った。ある日の朝、彼の母親がなかなか起き出してこない彼を不審に思い寝室に入ってそれは明らかとなった。彼の命は既に向こう側の世界へ旅たった後であった。

その時、彼の父親は老齢と認知症等により既に施設に入所していたのでその家には母親一人が残された。その後、母親もどこかへ引っ越したか施設に入所したかで彼の自宅には誰一人住む者はいなくなったのであった。

私は彼と長い付き合いだったが、とにかく彼が新興宗教に入信して以来の坂道を転がり落ちるような勢いで不幸が連鎖していった様が最も衝撃的で印象的である。

このような運命はどのように理解したら良いのだろうか。

こうしたケースでは例えば仏教ではある種の因果論的な捉え方で説明される場合が多いようだ。因果関係で捉えるのが最も判りやすく図式として把握しやすいのは確かである。しかし、実際には自然科学とは違って人の幸運・不運というものは因果論的(科学的)なアプローチでは正しく捉えにくいのも確かだ。

普段の生活に於いてはなんとなく「笑顔の絶えない人生を送っていると幸運が寄って来やすい」といった一種の傾向を感じることはあるが、しかしそれを因果関係で説明しきれるかと言ったら明らかにNOだ。因果論では把握できない(見えない)何かが法則として存在しているように思えるのである。

スイスの分析心理学者C.G.ユングの深層心理学ではそうした見えない法則を「共時性の原理」と呼称している。「共時性(シンクロニシティ)」と言うと難しそうだが、言い方を変えれば「意味のある偶然」である。(*1) 互いに因果関係のない複数の事象がほぼ同時に発生する時などがこれに該当する。例えば、特定の人物の事を考えていたらその人から電話がかかってきた、といったようなケースがこれである。

私の友人のケースも因果論的に捉えるよりも共時性の原理で捉えた方が普遍妥当性があるように思えるのだ。新興宗教への入信と活動。父親の認知症と施設入所。母親の病気・入院。彼自身の2回の心筋梗塞と死去。・・・これら互いには直接因果関係にない不幸な事象がほぼ同時期・同時代に起こるという「偶然」。この偶然に含まれる意味と価値に人はもっと思いを馳せる必要があるのではないか、という気がしてならない。


そのように捉える事ができるならば、世の中・社会の様々な事象・事案ももっと異なった捉え方が可能なのではないか、未来を見据えた視点や展望も従来的なそれとは違うものになるのでは、と思うのである。



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(*1)
何かの事象を見た時に「なぜそうなったか、という因果関係」で見る傾向があるのが西洋人であり、「この事象にはどんな意味があるのだろうか」という一種の「相」として捉えるのが東洋人である。その意味ではバリバリの西洋人であるユングが極めて東洋的な発想と思考を会得していることが極めて興味深いのである。