Altered Notes

Something New.

音楽について 覚え書き その1

2010-04-29 12:33:00 | 音楽
世界には様々な音楽が存在している。その中で一般に最も馴染み深いのは西洋音楽であり、ヒットチャートの音楽であろう。
しかし世界の音楽の中で西洋音楽、なかんずくヒットチャートの音楽が占める割合など実際は微々たるものである。たいていの人はこのことを意外に知らない。

「日本のミュージックシーンは…」などと得意げに語るお笑い芸人を見かけた。その無知と無教養さに正にお笑いである。彼の言うミュージックシーンはそのままヒットチャートの世界の事であり、極く小さな世界でしかない。日本にはヒットチャート以外の広大無辺な広がりを持つ音楽世界がある。つくづく無知は罪だと思う。

余談だが、日本ではお笑い芸人に音楽番組の司会をさせる傾向がある。音楽の「お」も知らず、「音楽」を語る言葉を一切持っていない人たちに司会させる音楽番組とはいったい何なのか。
お笑い芸人は一般人のことをしばしば「シロート」と呼んで蔑視するのだが、音楽においては正に彼らが「シロート」なのである。

但しタモリ氏は別である。彼は音楽を「知っている」「判っている」ので。
余談ついでに言えば、タモリ氏は実はお笑い芸人ではなくて基本的にはジャズマンなのである。

また、日本のヒットチャートの音楽家が彼自身の新曲を宣伝する時に
「これは新しい音楽です」
などと自慢気に語るのを聞いたことがある。これもお笑いぐさ。子供騙しのレベル。
実際にその曲を聴いてみたが、構造・手法も全て欧米のポピュラー音楽をそのままパクったような手垢の付いたもので、新しさなどどこにも感じられない没個性的なものだった。よくも恥ずかしくもなくあんなことが言えるものだ、と逆の意味で感心したものである。

その音楽家は後に詐欺事件で捕まったりするような奴だったので、やはりその程度の人間だったのだ、と納得したものである。

私自身はヒットチャートの音楽には全く興味がない。偏見ではない。実際に音楽的な価値が無いものばかりだからである。そこで生産され消費される音楽ははじめから消費者の好みに合わせた商品として作られており、音楽産業という経済活動の一環として捉えられるものである。

そこでは音楽は全て数字で把握される。販売枚数だの総売上金額だのダウンロード数だのといった音楽の本質とは無関係な数字だけで評価される特殊な世界なのである。

一般の人々は音楽産業の扇動に振り回されすぎており、自分自身の耳で音楽を聴き、評価することに慣れていない。他人が評価してくれたものしか聴いてないような傾向がある。そして音楽産業やマスコミが煽る音楽をただ次々に消費するだけである。音楽それ自体をどのように語ったらよいか判らない(知らない)からであるし、そもそも語ったり評価したりする「言葉」を持っていないからである。

よくあるパターンで、外国の音楽賞を受賞したから注目する、というのがある。何のことはない、マスコミも一般人も自分の耳で聞いて判断しているのではなく、外国人が評価してくれたものを無批判に良い音楽として受け入れているだけである。自分自身で音楽を評価できず音楽を語る言葉を持たないからである。
残念ながら日本は 文化果つる国 なのである。


音楽を語る言葉を持たない人々はどうやって音楽を評価するか。
「歌詞」の評価に走るのである。言葉ならいくらかは評価できるししやすいこともある。
それで結局「歌詞に書かれた言葉」の方だけを語るようになり、それで音楽を語ったつもりになっている人が少なくない。

先般、あるメディアで爆笑問題と坂本龍一氏との対話があった。その対話の中で、坂本氏が、例えば歌曲であればその音楽面を中心に聴いており、歌詞はほとんど意識していない、という趣旨の発言に爆笑問題・太田氏が驚いていた。この太田氏の驚きはそのまま前述の「歌詞を語ったことで音楽を語った気になっている人」そのものである。

単純に考えても、歌詞しか語れないのならば器楽曲は評価できずお手上げ、ということになる。これではおかしい。それはすなわち、一般の人が「音楽」といえば歌曲が中心のヒットチャートの音楽しか念頭に無い事を現している現象と言えよう。また、楽理も含めて音楽自体を語る「言葉」を持っていない事を示しているのである。

音楽の評価はやはり音楽の音楽的側面を見つめる事でしかできないのは当然であり、いわずもがなである。私の場合も坂本氏と同様で、歌曲を聴いてもその音楽的な側面を聴いている。歌手にフォーカスして評価した場合でも例えば楽器奏者がいかにメロディーを音楽的に歌い上げることができるかに注目するのと同様に歌の場合もその歌手が声という素晴らしい楽器を使ってメロディーをどのように音楽的に歌い上げるかや曲想に対して歌手がとった音楽的なアプローチや姿勢、などが着目点として挙げられるであろう。
もちろんこれ以外にも評価ポイントはいくつでもある。
従って当然ながら歌詞が日本語でも英語でもスペイン語でも同様の聴き方ができることになる。音楽面を聴いているのだから当たり前だが。

もちろん理詰めで聴いている訳ではなく、第一には感性でその音楽全体を受け取り心で感じることがプライオリティの1番に来るのは当然である。

例えば、英国のオーディション番組から登場した歌手のポール・ポッツ氏やスーザン・ボイルさんの歌唱は日本でも高く評価されているが、これは歌詞ではなく歌唱そのもの、すなわち彼らが奏でる音楽そのものが高く評価されているからである。

音楽は理屈ではない。理屈以外の手段手法で何かを貴方に伝えようとするもののひとつだ。感性でその本質を見極めて捉えることが肝要である。どんな評価もこれ以後の話だ。[*1]

もちろん歌詞をないがしろにしていい、という話ではない。そうではなく、歌詞は歌詞で、言葉の世界(どちらかといえば文学的文脈やロジカルな文脈)において評価されるべき独自の世界であるが、しかしそれは音楽の評価とは全く別の異なる世界なのである。ここはきちんと意識しておくべきポイントだ。


さて、西洋音楽である。
上述の「これは新しい音楽です」と宣った似非音楽家の言説とは裏腹に、坂本龍一氏はこう言った。

「音楽なんて ここ400年くらい変わってないよね」

その通り。
ここで坂本氏が言う音楽は西洋音楽のことである。西洋音楽の基本構造・構築理論等々は長い間に渡って変化はおきていない。

また、現在、一般的に美しいと思われているメロディーや和音進行などは既にバッハの時代にほぼ出尽くしている、と言っても過言ではないと私は考えている。

表面的なサウンド・色彩付加の方法は確かに変化・進化・深化はしている。しかし音楽の本質的な構造・基本的な成り立ちは400年前とほとんど変わっていない。そんな中であれこれ呻吟しながら音楽を作っているのが現代の西洋音楽家たちなのである。
これが実状だ。



西洋以外の音楽(一般に民族音楽・エスニックなどと呼ばれるものも含めて)にも語っておきたいテーマはある。
それはまた別の機会に書こうと思う。


今回はここまで。


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[*1]
よく無知で無教養なインタビュアーが音楽家に対して
「この曲は何をテーマにしたんですか?」
とか
「このアルバムで何を言おうとしたのですか?」
などと素っ頓狂な質問をすることがある。
芸術においては「テーマはこれです」などと簡単に言えてしまう程度の作品は全て「胡散臭い」のである。簡単にテーマを言葉にできるなら音楽など作らずにそのテーマ(を表す言葉)を連呼すればいい。テーマやイメージはその音楽を聴いた人が自分の中で見つけるもの(見いだすもの)である。






群れる心理・便所飯 [序]

2010-04-28 21:46:00 | 社会・政治
日本人は群れる事が大好きである。
いつでも群れていないと不安になるほどらしい。

精神的に未熟な若者の世界においてはいっそうこの傾向が強いようで、常に他人の眼を意識した言動や行動をとり、いつも他人の逆鱗に触れないように注意深く舵取りを行って、常に他人と一緒の「輪」の中に自分が含まれているように心がけるのだそうだ。
いつも友達がそばにいる、常に仲間がそばにいる事で自分が一人ではない事の安心を得ているようである。

人と群れる事を第一義に考えるとなると、自分自身は何処へ行ってしまうのだろうか?
他人に合わせてばかりの自分自身でいいのだろうか?
この異常とも言える群れの心理はいったいどういうことなのか。

この傾向が病的な発現をしているのがいわゆる「便所飯」である。
昼食時に一人で弁当を食べていると「あいつは友達がいない寂しい奴」と思われて仲間はずれにされてしまうらしい。
従って一人で弁当を食べる為に、皆の視界から見えない場所、すなわち便所の個室で一人で食事をするのだと言う。

非常に病的な事象であり、まともな精神から見れば異常としか考えられない状況だが、本人にしてみれば直面する切実な問題であるらしい。

また、一人で食事する姿だけで「友達のいない寂しい奴」と決めつけるあまりに一方的で幼稚な思い込みと、だから排除しなくてはならないと考える病的な心理にも恐怖を覚える。こうした事を人は無意識にやっているのであるが、この傾向が広く伝播している事の意味はもっと考える必要があるだろう。

これが一般的な民衆の有様だとすれば、日本人は相当危険な心理状態に置かれていることになる。
まず「心」がちゃんと育っていないことの危険性。
親がしつけ・教育をしないことによって、常識を知らないまま身体だけ大きくなってしまう子供が急増している。
自分というものが確立されないまま大人になる事の危険性。

次に前述のように「常に群れていないと不安になる心理」である。
これは実は日本を含む東アジア地域に特有の傾向でもある。

その精神性の基調において父性の傾向が強い西洋に比較して東洋は母性の傾向が強い。
これは何でも容認して受け入れる母性の有り様であり、ユングの深層心理学ではグレートマザー(太母)と呼ばれる。

どのようなものも区別せずに受け入れる姿勢は、「自」と「他」の区別も希薄になる事を意味する。自分と他人の境界線が見えなくなるのである。ここに群れる心理のベースがある。

これは深い深層心理の問題であり、巷間言われているような表層的な対処法(一人で食事できる場所の提供等々)では何も変わらない事は間違いない。
もっと根元的な問題なのである。

このテーマは非常に深いので、また追ってフォローするつもりである。