Altered Notes

Something New.

創業者スピリッツ

2014-09-19 06:22:18 | 社会・政治
「ソニーの業績が下方修正されて初の無配になった」という報道が昨日出た。
かつての勢いがここ近年は見られないのが残念ではあるがなぜそうなってしまったのだろうか。

小難しい理屈をこねる気はないが、本質的なポイントを一つだけ挙げるなら
「創業者がいなくなったから」
ではないだろうか。

ソニーは元々ユニークな企業であり、他の電機メーカーとは明らかに色合いが違う会社だった。
創業者である井深大氏や盛田昭夫氏がその「自由闊達で愉快なる」発想でそれまでにない新鮮な価値を持った製品を作ってきたからである。
この創業者スピリッツはこの会社の隅々にまで浸透し、従ってそれはユーザーがワクワクするような素晴らしい製品を作る土壌となってこの会社の魅力となっていたのである。

しかし現在では創業者はすでにいなくなっており、準創業者と言える大賀典雄氏の後は創業者とは直接関係のない人たちがソニーを牽引してきた。
出井伸之氏、ハワード・ストリンガー氏、そして現在の平井一夫氏と続くのだが、こうした流れの中でユニークな製品を生み出す創業者スピリッツはどんどん失われていった、というのが外から見たソニーの印象である。

同様の事が今のアップルにも言えるかもしれない。
アップルが真にユニークであり得たのは創業者であるスティーブ・ジョブズ氏が存命の時代だけ・・・と、後世になって言われる可能性はある。
なぜか。
ジョブズ氏がトップに君臨していた時代だけが真にユニークで画期的な新製品を開発し得ていたからである。
昔、自身が創業したアップルから追い出された時代があった。その時代のアップルは次第に路線が混迷して迷走状態に陥ってしまった。
その後、ジョブズ氏が復帰してからのアップルの素晴らしい輝きは多くの人が知るところである。

しかしジョブズ氏がいなくなった現在はどうであろうか。
今はまだジョブズ氏と直接関わっていた人たちが運営しているのでそれほど顕著ではないが、しかし既にアップルの特質である「真に革新性を持つ製品の開発」という意味では黄色信号が点灯しているように思うのは私だけであろうか。


ソニーとアップル…どちらも優れた創業者によって道が切り開かれた企業であるが、事実を見る限り、真に魅力的であったのは創業者が存命でその製品開発スピリッツが生きていた時代だけ、とは言えないだろうか。
この両社の現在の有り様を見ていると、今後の行く末に一抹の不安を感じる事を禁じ得ない。
両社にはこの不安を吹き飛ばす勢いを形として見せてほしい、と願うものである。



子供を狙う犯罪の余波

2014-09-10 00:10:04 | 社会・政治
幼い子供を狙った犯罪が後を絶たない。
弱者である子供を己の欲望を満たすために犠牲にする許しがたい犯罪行為。近年、こうした卑劣な犯罪のニュースを頻繁に目にする。

また、犯罪の増加による社会不安から子供の遊び場や通学路等の監視・警備に力を入れる等の活動も盛んになっている。子供を防衛するために「知らない人についていかない」「声をかけられたらすぐ逃げる」等の教えを徹底する傾向にある。それ自体は間違っていないし必要な防衛手段だ。

ところが…である。

そうした監視・警備体制が過剰になった結果として全く無実の人間が容疑者・不審者として不当に疑われる事例があちこちで発生している。多くの場合、疑われた人物を徹底的に”避ける”という形の事象となっているようだ。
例えば、道を歩いていると反対側から来た小さな子供がこちらの顔を見た途端に走って逃げて行ったり、または足がすくんで動けなくなったり、とか、たまたま親子連れの近くを歩行した時にあからさまに避けられる、とか、子供の親御さん達が顔を寄せあってこちらの方を見てひそひそ話を始める、とか、勇ましい子供から怖い目で睨みつけられたり、とか、若い女性がこちらの顔を見た途端に極端に避けたり逃げたりする行動に出る、等々・・・枚挙にいとまがないほど多くの悪しき事例が発生しているのだ。
子供が立ちすくんでしまうなど、一体どのような疑われ方をしているのか、と呆れてしまうほどだ。

こうして避けられ、忌み嫌われ不審者・容疑者扱いされる人の多くは男性であり、しかも大抵は非イケメンである。彼らは子供を狙った犯罪に心を痛めている常識のある立派な人達なのだが、容姿と印象から地域社会で不審者・容疑者として一方的に決めつけられてしまい、その結果、地域社会において忌み嫌われる存在になって避けられてしまう。それによって彼らは多大な精神的な苦痛を受けているのである。
彼らは不審者扱いされているが故に加害者に問いただすこともできないでいる。質問の為に不用意に話しかけようものならたちまち警察に通報されてしまうからである。一方的に嫌がらせに等しい攻撃を受け、それを質すこともできない仕打ち・・・これは完全に人権侵害の事例なのだが、これを是正する機関も取り組みも無いのが実状だ。ある人が行政の人権相談窓口にこの問題を申し出たところ、相手の担当者は「あなたの気のせいじゃないですか?」といって取り合わなかったという。”今そこにある大問題”に対して行政(役人)は全く役に立たない。

こうして多大な精神的苦痛を受け人権侵害を受ける人々だが、救済手段が皆無な上に、マスコミもこうした問題を全く報じない。子供さえ守れれば誰が傷つこうが関係ないとでも思っているのか。或いはこうした問題が存在していること自体を未だ認知していない可能性もある。

そもそもどうしてこのような遺憾な事態が発生するのだろうか。
子供を守るために不審者を避けるというポリシーは間違っていないのだが、無実の人間を印象だけで不審者と決めつけてしまい対象者に失礼かつ不愉快な態度を示すということは、深層心理学で言う「影(シャドウ)」の投影が行われている事を意味する。
人は自分が生きなかった反面、つまり自分が否定している生き方をしている人に無意識裡に「影」という元型を投影する。そうすれば簡単に相手を否定できるからである。それは簡単に結論を得たいとする一般大衆の安直な考え方を象徴するものでもある。そしてもうひとつは”想像力の欠如”によるものである。人を勝手に不審者・容疑者扱いする事は簡単だが、そうした行為がもたらす結果と影響について考えたことがないのであろう。正に子供さえ無事なら誰が傷つこうが知ったことではない、という恐ろしく無責任で無神経な思考である。これは正に想像力の欠如を示しており、これは人として重大な過失を犯している、と言える。
拙稿 「想像力の欠如」 でも書いたが、現代人は自分の行動・言動がもたらす影響について創造する能力が著しく欠けている傾向がある。それがこの問題においても関係しているのだ。

子供の命・子供の笑顔は大切である。絶対に守らなくてはならない。しかし安全確保の美名の陰で人権を侵害されて精神的に傷つく人が出てきていることも厳然たる事実なのだ。
社会は子供を守る正義を貫く一方で無実の人間を人権侵害で傷つけている。つまり加害者になっていることをただちに認識・自覚すべきであり、配慮しなくてはならない問題が存在することに気がつくべきである。そして速やかにそれを是正すべきなのだ。

これは現在進行形の深刻な問題である。









世界の常識と非常識 その1

2014-09-07 20:01:49 | 国際
常識と非常識、それはそもそも相対的なものであり、国や民族が異なれば驚くほどに価値基準が違ってくるものでもある。言葉の表現方法の差異、そして音が同じ言葉なのに意味が異なる言葉など、興味深い事例はたくさんある。

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日本で「コーヒー」と言えばCOFFEEであり、あの茶褐色の飲料を指すことは言うまでもない。
ところがタイ(THAI)で「コーヒー」と言うと大変なことになるので注意が必要だ。
タイ語で「コー」は「下さい」の意味。「ヒー」は女性器の意味。従って「コーヒー」とは簡単に言えば「やらせろ」という意味になる。実にとんでもなく危ないことであり充分に気をつけられたい。

タイでCOFFEEが飲みたければ「カフェ」と発音すれば大丈夫だ。
ホットなら「カフェ・ローン」。
アイスなら「カフェ・イェン」。
これで通じる。

ただしタイのコーヒーは砂糖がいっぱい入ってくるので油断していると滅茶苦茶甘いコーヒーを飲まされることになるかもしれない。特にアイスコーヒーの場合は注意だ。


タイでの食事作法も日本とはかなり異なっている。
フォーマルな食事の席でも傍目に見るとかなりラフな、というか、言い方は悪いがかったるそうに食事している人が多い。ナイフやフォークの使い方もまぁラフである。日本だと腋はしっかりしめて正しく上品に食器を使うのが善であると考えられているが、タイでは(ざっくり言えば)逆の価値観がベースにあると考えて間違いない。

そして、日本では出された食事は全部食べるのが礼儀であることになっているが、タイでは普通に平気で残す。これは背景に食文化の根本的な違いがあるように思う。つまり、タイでは食材がそこかしこにあるので、たとえ路上生活者であってもなんとか食えていってしまうほど食材が豊かな国なのである。従って「もったいないから全部食べましょう」という価値観は形成されなかった、と。

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西洋の食事におけるマナーも日本人においてはいくつか誤解されている点があるようだ。
たとえばフォークとナイフの使い方。

日本人はフォークの背に食べ物を乗せて食べることが良い作法であると思い込んでいる人が少なくないがこれは間違いである。
フォークは先端部に食材を刺したり、湾曲した腹の部分に物を乗せて口に運んでいくのが正解である。

ジャズ・ピアニストの山下洋輔氏の古い著書にはドイツで経験したフォークとナイフの作法についてのエピソードが語られている。
彼の著書である「ピアニストを笑え!」の中にその名も「ジャガ・ナイ・フォークのせはダメよ」という章がある。そこでは初めて欧州演奏旅行に出かけた山下洋輔氏がドイツ人プロデューサーからフォークとナイフの作法について教授される場面が描かれている。
ドイツ人が指摘した作法をいくつか箇条書きにしてみよう。

1.ジャガイモをナイフで切るのはNG。公共の場所でそれをやると教養のない人間と思われる。ジャガイモは左手のフォークでほぐすように切るのが正解。

2.日本人はフォークの背にものを乗せる。これが一番おかしい。フォークの背はものを乗せるようにできていない。持ち替えて内側に乗せて口に運ぶ。すくいたい場合はナイフでフォークに押し付けるようにして乗せれば良い。

3.フランス人はともかく、ドイツではフォークは絶対右手に持たない。

[参考:晶文社 山下洋輔著「ピアニストを笑え!」]


個人的には食事の作法はあまり堅く考えない方が結果的に食事が美味しくいただけると考えているが、マナーは必要な時には必要である。ちょっと心の片隅に置いておいていただければ、と思うところである。







ベルベットサウンド

2014-09-01 17:44:38 | 音楽
トロンボーンのカーティス・フラーの名盤と言えば1959年の「ブルース・エット」(Blues ette)であり、中でも
'Five Spot After Dark'(ファイブスポット・アフター・ダーク)
(12小節のマイナー・ブルース形式の曲)
が有名であるが、このセッションの最大の魅力は2ホーンが醸し出す柔らかいベルベットの感触を思わせるようなサウンドである。

その2管とはカーティス・フラーのトロンボーンとベニー・ゴルソンのテナーサックスである。
そもそも金管と木管であり全く異なる楽器なのだが、この二人のサウンド・テイストは驚くほど近似しており、その近似点を表すキーワードがベルベットサウンドだ。

サクソフォンという楽器はその音色にとりわけ演奏者の個性が出やすい楽器であり、名プレイヤーの演奏なら最初の1音だけで判別できる可能性が非常に高い。
ベニー・ゴルソンのテナーもまたしかりで、彼にしか出せないベルベットサウンドのテイストは驚くほどトロンボーンのそれに近いものがあり、フラーのトロンボーンサウンドと驚くほどの親和性が見受けられる。そしてこれがブルース・エット セッションの最大の味であり魅力となっている。

当該セッションのメンバーはフロントの二人の他にピアノのトミー・フラナガン(コルトレーンのジャイアント・ステップスセッションでも演奏、またエラ・フィッツジェラルドの伴奏者としても有名だった)、ベースのジミー・ギャリソン(後のコルトレーンバンドを支える名ベーシスト)、それにドラムのアル・ヘアウッドとなっている。