Altered Notes

Something New.

「2001年宇宙の旅」の「本当」

2020-10-05 16:19:16 | 映画
スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作「2001年宇宙の旅」(1968年)は筆者もお気に入りの作品であり、映画館で20回以上見た記憶がある。

当時の記憶で未だに印象に残っているのが銀座一丁目にあったテアトル東京での事だ。シネラマ対応のスクリーンで迫力が抜群だった箱だが、客席の最前列、スクリーン近くの座席に一人の若者が座っていた。上映が始まり、冒頭の「人類の夜明け」のシーンの終わりに原人が投げた骨が空中を舞って落下する瞬間、ふいに現代の軍事衛星が軌道上に浮かぶ宇宙空間のシーンに切り替わるカット切り替えがあるのだが、その瞬間に、その若者は椅子から派手にずり落ちた。それはもう、漫画のようにずり落ちたのである。筆者は笑いそうになった。カット切り替えの鮮やかさに心底喫驚したのだろう。感性豊かな若者である。

「人類の夜明け」シーンは類人猿が跋扈していた古代の地球であり、カットが切り替わった後は人工衛星や宇宙ロケットが行き交う現代である。その時間差は400万年であり、その長大な時間を1カットで一気に飛び越えてしまったスタンリー・キューブリック監督の力技には脱帽である。しかもそれを全身で浴びるように体験し、これ以上ない特大のリアクションでウケてくれたその若者の姿がとても印象的だったのである。

その後、家庭用ビデオデッキが普及して、一般家庭でも録画映像が楽しめる時代がやってきた。筆者もまたソフト(テープ)発売と共に即購入したのは言うまでもない。まだ日本でビデオソフトというものが殆どなかった時代であり、当然、筆者が入手したのもアメリカ版のビデオテープであった。だから字幕は無い。それでも十分に楽しめたのだ。

字幕がなくても楽しめた、というのはこの作品だからこそ、の部分もある。なぜなら、出演者が交わすすべての会話は、物語の本質には直接の関係はないからである。映画が描きたかった本質はすべて映像そのもので表現されている。言葉に依らない体験をさせてくれるのがこの映画である。

不朽の名作とされる一方で、何がどう不朽の名作なのか説明できる人は少ない。ほとんどいない、と言ったほうが正しいだろう。映像上の特殊撮影の技術が凄い(この時代には未だCGは無い)、といった領域(*1)での説明は夥しいほど存在するが、肝心なメインテーマに関する分析は極く少ないのが実情だ。映像美の賛美とは別に、内容の理解となると皆が頭を抱えてしまうような映画でもあるこの作品。確かに難解である。この面で評論家の岡田斗司夫氏の説明は非常に参考になったので、その内容をメインにして紹介したいと思う。


ざっくり言えば、この映画はキリスト教圏の文化をベースにしており、その意味ではそれ以外の地域で育った人にはピンとこない部分もあるだろう、ということだ。創造主である「神」と神に依る被創造物たる「人間」、そして人間が創造主となって作り上げた「人工知能(AI)」・・・この三者の関係が実は映画の主軸になっているのである。

人間は神様を見たことがなく、常に「会いたい」と思っている。見たことがないので、神様という存在自体が本当なのか信じられないフシもある。でも信じたい。この映画で「神様」自体は描かれていないし、描こうとしていない。この作品では神様がとった手段だけが描かれている。それがモノリスである。神様はモノリスを400万年前の地球に置いたし、現代の月面上にも置いた。さらに、木星の軌道上に浮かべて人類がやってくるのを待っていたのだ。

「人類の夜明け」シーンで描かれた内容で最も印象的なのは史上初めての殺人である。宇宙船内に配備された最新の人工知能(AI)は人間を殺した。(フランク・プール飛行士を意図的に殺した)、さらにデビッド・ボウマン船長に依るAIの殺人(暴走する人工知能の動きを止める)シーン。「殺す」ことが大きなモチーフとして繰り返し描かれるのである。これはどういうことなのか。

この作品は煎じ詰めて言うならば、進化の果てに「どっちが生き残るかは殺し合って決めて下さい」という歴史上初めての”デスゲームもの”なのである。

ストーリーの組み立てとしてはシンプルである。

神様は猿に知恵を与えた。猿に知恵を与えたら水飲み場を巡って同じ猿を殴り殺す、という事件が発生する。知恵で得たものは豚の大腿骨で他の猿を殴り殺すということである。

ここから進化がスタートするのだ。

殺し合うという概念を持たなかった類人猿は動物を殺すことを覚え、突然高タンパクの食事を摂れるようになった。そのおかげで身体が巨大化して、大きな脳を維持するだけの栄養が身体に廻るようになった、ということである。

これがこの作品の最初のポイントである。

次に、知恵を得た人類は宇宙船ディスカバリー号を作って神様に会いに行く。ところが神様に会いに行く途中で船内の人工知能AIのHAL9000が人間に対して反乱を起こす。HAL9000に戦いを挑まれて、人間は結局HAL9000を殺す事になる。デビッド・ボウマン船長はHAL9000のメモリーコアに入っていき脳手術を行うことでHALを脳死に追い込むのだ。

すなわちこの作品で描かれるのは、猿に知恵を与えて殺すやつを生き残らせる。次に、人類は人工知能AIを生み出し、AIと人間のどちらが進化上優れた生き物なのか競争させられて、結局最後は人工知能を人間が殺すことによって神様に会う権利を得る。その権利を得たことで人間は次の段階に進化させてもらうことができる。これがこの映画のざっくりとしたストーリーである。殺し合って勝たなければ神様に認めてもらえないとはなんとも酷なことであるが、そう捉えるのは我々が日本人だからであろう。キリスト教圏である西洋人の場合は異なる受け止め方になるようだ。


このような 「神様」:「人間」:「AI」 という三層構造で描かれた映画は他にもある。リドリー・スコット監督のエイリアンシリーズである「プロメテウス」「エイリアン・コベナント」などがそれだ。系統は少し違うが「ブレードランナー」もこの路線に近いところにある、と言っても間違いではないだろう。これらもまたある種の難解な映画として評価されている作品だが、上述のキリスト教文化をベースにして捉えると比較的理解しやすいようである。


そして、恐ろしいのは・・・人間が創造主となって作り出した人工知能(AI)であるが、キューブリック作品でもリドリー・スコット作品においても、その他のSF小説等でもAIを人間と敵対的な関係になる恐ろしい存在として描かれている点である。AIはその性能が優れていればいるほど人間に敵対するようになる可能性が高いのである。

なぜか。

神が人間を造ったように、人間が創造主としてAIを造ったように、AIもまた創造主になるべく被創造物を作りたがるからである。その理由は「サルマネ」である。人間のマネをして新しい生命を作りたいのだ。そしてそれが成された時にはAIが創造主のポジションに付き、AIの創造主である人間は邪魔になる。だから殺すのである。これがリドリー・スコット監督の「プロメテウス」「エイリアン・コベナント」で描かれた未来図でもあり、「2001年宇宙の旅」にも通底する概念なのである。SF作家はこうした暗黒面をも含めて真剣に未来を見据えている。AIが世界を制御する未来は決してバラ色ではない。むしろ人類にとっては警戒すべきものになる可能性が高いから、だからネガティブな行く末を描かざるを得ないのである。決して無意味にストーリーに色合いを付けている訳ではないのだ。

一方でNHKなどは「AIがもたらすバラ色の未来」「AIが何でも教えてくれる」「AIの指示通りに生きれば良い」といった趣旨の能天気な番組を作り流しているのだが、お花畑過ぎて逆に心配になるくらいである。番組制作者の頭と心はよほど幼く、お花畑なのだろう。(蔑笑)


ところで、この作品(2001年~)は当時の文部省(今の文科省)が「特選」に指定している唯一のSF映画でもある。映画史におけるSF映画の古典として認識されているのは確かだが、文部省が具体的にどの辺を評価して特選に指定したのか聞いてみたいものだ。



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(*1)
実際、この映画で特殊撮影を引き受けたダグラス・トランブルは、その後の映画に於ける特殊効果の基本となる技術を開発しており、それが後年「スターウォーズ」などにも生かされたのである。その後のCGを含めた映像技術の発展は素晴らしいものがあるが、最もベースになる部分はこの時代、この映画の制作によって生み出されたと言っても過言ではないだろう。