Altered Notes

Something New.

歴史から真実を読み取る姿勢

2021-10-25 00:22:33 | 歴史
「歴史学者というのは資料・文献学者か?」

…という疑問を呈するのは作家の百田尚樹氏である。

どういうことか?

一般に学者というのは目に見え耳に聞こえる事実に依拠した論理を構築する姿勢を持っている。

一方で小説家などは種々の資料には書かれていない隙間を想像して、周囲に存在する様々な事実から類推してあったであろう事実を補完してゆくものである。しかし、歴史学者は小説家の書いたものに対しては「文献にはそんなものは書かれていない」として安直に否定するのである。だが、「本当の真実」は文献・資料等には書かれてない事の方が圧倒的に多いのである。しかも、資料・文献があったとしても、その文献が正しいとは限らないのだ。

今回はこのテーマで前出の百田氏とジャーナリストの有本香氏が語る内容をベースに記していきたい。


今年の中頃にイギリスの空母が日本にやって来た。この時にNHKが取材でイギリス空母の司令官に「日本にやって来た理由」を質問している。質問に答えた司令官は「これは単なるこれこれの演習です」と言った内容のコメントをした。

だがしかし、本当はそんな筈はないのである。

現在の国際情勢下でイギリス空母が日本に来航した目的は明らかに中国への牽制の為であることは間違いない。増長して日本を今にも侵略するかのように威嚇する中国に対するアクションの一つなのだ。

しかし、公式にはそうした本音は絶対に言わないのである。公式コメントとしては別の表現をするのが当たり前の対応なのだ。そして公式の記録として後世に残るのは前述の質問と返答内容なのである。例えば、これを100年後の学者が見て「恐らく中国への牽制の為に来たのだろう」と書いたら、歴史学者が出てきて「いやいや、そんな記録はない。当時のイギリス政府や司令官はこれこれの演習目的だとコメントしている」と言って否定するのだ。

つまりはこういうことである。

真実は「中国への牽制」にあるのだが、記録(資料)には「牽制ではない。関係ない。演習の為です」となっているので資料・文献だけに依存する歴史学者は騙されてしまうのである。


また、こんな事例もある。


少し前に月刊HANADAに岸信夫防衛大臣のインタビューが掲載された。その中で有本香氏が岸大臣に質問している。

有本氏は次のように質問した。

「岸大臣が就任以来、新しい試みや発信をされているのは対中国シフトですよね」
「同盟国であるアメリカやQUADという枠組みを使って積極的に色々なことをやろうとしているが、これらは全て対中国シフトですよね?」

これらの質問を繰り返し投げかけたのだが、岸大臣は微笑みながら軽く否定し、
「特定国を意識したものではりません」
「この地域の平和と安定、これを確保するためにできることをやっています」
と答えたのである。

実際にインタビューした有本氏は「岸氏は余裕があって良い」と述べている。微笑みながら…という表情は記録には残らないが、発言者のこうした態度は本当の真実を読み取る上で実は重要なファクターである。

後世の文献至上主義のような学者がこの時の記録を読んだとしたら「時の防衛大臣は”対中シフトではない”、と言ってますよ」としたり顔で言うのだろうが、しかしそれは完全に間違っているのだ。周辺の様々な事実、周囲の状況等々をきちんと読み取るならば「対中シフト」に決まっているからである。


こういうことなのである。


残っている公式発言や記録を見てもそれが本当の真実を表しているかどうかは判らない。また、記録する側の人間が「これは書けない」と判断したら、それは記録には残らないであろう。近代の記録は比較的豊富に残っているが、500年~1000年前の記録となると、残っていない方が圧倒的に多いのである。

小説家などはその「残っていない」部分をその当時の様々な周辺事実を敷衍させた上で想像力をフルに稼働させて補完するのである。記録の無い部分を補うのだ。しかし、歴史学者はそうした「書かれていない部分」について不用意な発言をすると不毛なツッコミを受けることになってしまい、アカデミズムの世界では批判の矢面に立たされてしまう事になる。一般的に学者はそれが嫌で結局資料・文献重視になってしまうのだと思われる。そして「資料が全て」ということになってしまうのだが、そうなってしまっては本来的な「学者の姿勢」とは言えないのも確かであろう。