Altered Notes

Something New.

山下洋輔トリオに聴くフリージャズ

2022-05-25 13:32:00 | 音楽
一般の方々の山下洋輔氏の印象と言えば「あの肘打ちの人」といったものかもしれない。これは主にテレビ屋が山下氏を出演させる時に「フリージャズ」「肘打ち奏法」といったキーワードで紹介するからである。もちろんピアノの鍵盤を肘打ちすればフリージャズになる訳ではないし、フリージャズは肘打ち必須ということでもない。そんな低次元な話ではないのだ。

フリージャズはその名の通り好き勝手に音を出してその場で音楽を作り上げるものである。通常は音楽を作るとなればメロディがどうで和音がどうでリズムがどうだ、という一種の枠組みの中で紡ぎ出してゆくものであるが、フリージャズではそれらのルールを全て外して自由な立場と発想で演奏するものであり、バンドであれば一人ひとりが自分の思うように音を紡ぎ出したものが重なり合う事でバンド全体の音楽として成立してゆくものである。各人が演奏するものは即興故にその場限りのものであり、ある瞬間の音がとても良かったからと言って「同じものをもう一度やる」のは不可能である。

自由に音を出すということなら、例えば、猫がピアノの鍵盤上を歩いたり走ったりする事で音が出たらそれはフリージャズか?…と言うとそれは違う。(*1) 偶然性をコンセプトにした音楽ならば無い事もないかもしれないが、ここで俎上に挙げているフリージャズはあくまで「人間が音楽として演奏するもの」なのである。

好き放題に演奏すればいいなら簡単だ、と思われるかもしれない。だが、ちょっと考えてみてほしい。仮に今日、素敵な演奏ができたとしてもプロならばその演奏を明日も来週も来月も来年も同じレベルでやり続けなければいけないのだ。自由な演奏とは言ってもスキルの低いプレーヤーだとすぐに手詰まりになってしまう。自由にやるのは良い。だが、総合的に「良い音楽」を作り出せなければ失格である。好きにやればいいのだが、人を納得させる音楽を提供できなければ良い音楽家とは言えないのだ。そう考えると結構厳しいものがあることが判るだろう。

音楽として成立させるものであれば、自分が好き勝手に音を出すと同時に共演者もまた今この瞬間に彼が思う通りの演奏をしている訳で、自分が演奏しながらも同時に相手が何を演奏しているかは聴かなければならない。そして相手が演奏している内容に反応することができる技術も必要であり、演奏している音楽全体を俯瞰して全体の流れを考えた上で自分が何をどのように演奏するかを決めていく必要性もある。

そうなると、フリージャズではない(敢えて言うが)普通のオーソドックスなジャズ演奏とそれほど変わらないじゃないか、と思うだろう・・・そういうことだ。すなわち、山下洋輔トリオの演奏は伝統的な4ビートジャズ音楽の作り方と実はさほど変わりはないのだ。山下洋輔トリオの演奏には自ずと存在するフォーマットがある。(*2) 大きく捉えれば

「テーマ」→「アドリブ」→「テーマ」

という流れがあり、しかも「アドリブ」部分は各ソロイストが順にソロをとってゆくスタイルが基本である。これはそのまんま普通の4ビートジャズ演奏と全く同じだ。ただ、山下洋輔トリオが普通と違うのは「アドリブ」部分に特定のルールが存在せず、そこは好き勝手にやってよろしい、というところだ。各奏者がソロでアドリブ演奏を好きなように展開させ、共演者はその音を聴いて反応することでその瞬間・その一瞬を音楽として成立させてゆくのである。


余談だが、ジャズと言うとどうしてもアメリカのものであり、それを日本人が演奏するというのは物真似でしかないのでは?という疑問が呈される事があった。それがきっかけで、かつて日本人が演奏するジャズをどう捉えるかが議論になったことがある。「日本人らしいジャズとは一体何か?」という大きなテーマである。そこでは日本の民謡由来の音楽を作るとか、日本の伝統的な音階を使うことで日本風になる、といった意見が出たが、どれも決め手に欠けており議論は煮詰まった。そんな時に山下洋輔氏が放った言葉は決定的だった。

「演奏からあらゆるルールを外してゆけば、最後に残るのは”手クセ”だ。日本人なら日本人の”手クセ”が残る。」

コロンブスの卵か…これには誰も反論できなかった。そういうことなのだ。その意味でも山下洋輔トリオのフリージャズは正に「日本人のジャズ」として世界に伍して並べられる音楽として評価されうるものとなったのである。


ベースレスのピアノトリオ(ピアノ、サックス、ドラム)で演奏されるフリージャズと言えばセシル・テイラーのそれが有名だが、方法論は全く異なる。セシル・テイラーのフリージャズはあくまでセシル・テイラーが中心に存在しており、彼の一存で音楽は始まり、展開し、そして終わる。どのように始まって終わるのかは全く分からないのだ。山下洋輔トリオに見られるようなインタープレイ(相互触発に依る即興演奏)はそれと判るような形では起きない。明らかにコンセプト・方法論が異なるからである。ちなみにヨーロッパのフリージャズも概ねセシル・テイラーと同様のコンセプトで演奏されていた。

リスナーの中には「山下洋輔トリオはセシル・テイラーのマネである」として批判する向きもあったのだが、上述のようにコンセプトが全く異なるのでマネとは言えないだろう。セシル・テイラーのバンドでは全てがフリーなのだが、山下洋輔トリオの場合は必ずテーマがあって、前テーマと後テーマの間はフリーになる、というフォーマットが存在している。ここがセシル・テイラーとの決定的な違いである。

その「違い」の部分をもう少し掘り下げる。

山下洋輔トリオのフリージャズはフリーとは言っても凄まじいスピード感がある。そのスピード感の主な部分はドラムの演奏に依って生み出される。山下洋輔トリオの初代ドラマーであった森山威男氏が編み出したドラム奏法は画期的である。いくらフリージャズとは言っても森山威男氏の頭の中ではある一定のテンポが流れているのだ。森山氏は「テンポが無いとスイングしない(グルーヴしない)」と考えているからだ。

言ってもフリージャズである。生半可な奏法では特定のリズム(4ビートやワルツなど)が生じてしまってフリーにならない。ドラムでは通常は右手がシンバルのレガートを打って基本的なリズムを鳴らす。この右手を出来るだけ速く演奏する。しかしそれだけだと単純であり普通のリズムが聴こえてしまうので、左手が打つスネアドラムのリズムを5連符で演奏する。さらに足(バスドラムとハイハット・シンバル)を好きな場所で打ち鳴らす。左手もスネアドラムだけでなく、盛り上がれば他のタムタムやバスタムなどを打ち鳴らし、好きに暴れさせる。これらが総合することであの凄まじいスピード感がありながら特定のリズムパターンを感じさせないドラミングが成立するのである。

さらに言えば、森山氏は音楽理論よりも人間の人格や感情の方に重きを置いて演奏しているのだ。森山氏から見て山下氏がどういう人間か、そういうところを見て演奏のこの先の展開を予測し、今この瞬間に何をやるのかを決めるのである。決め所の合図の出し方は様々であり、そこを分かり合うのがメンバー間の機微と言えよう。フリージャズではあっても本当に好き勝手(自分勝手)にやってるのではなく、メンバー相互の気遣いは自ずと必要なのである。

こうして森山威男氏に依って生み出されたフリージャズ・ドラム奏法は山下洋輔氏に言わせれば「森山の叩き方はフリージャズとしての普遍性がある。このオリジナルなスタイルは人類の宝と言える」ということであり、極めて高い評価が与えられている。(*3) そしてこの奏法はトリオの2代目のドラマーである小山彰太氏にも受け継がれてスイスのモントルージャズ祭やアメリカのニューポートジャズ祭での伝説的な演奏に繋がってゆくのである。


ここまで縷々述べてきた山下洋輔トリオのフリージャズだが、その普遍性故にヨーロッパでも大反響を生んで熱狂的に受け入れられた事実はお伝えしておきたいところだ。
下記の演奏をお聴きいただきたい。1974年にドイツはメールスでのジャズフェスティバルに出演した際の演奏である。メンバーは山下洋輔(p)、坂田明(Cl、As)、森山威男(ds)。特に2曲目、28分45秒あたりからの”CLAY”の演奏を聴いてほしい。「凄まじい」という形容がこれほど似合うアコースティックなアンサンブルが他にあろうか。このスピード感・破壊力・緊張感・先鋭的な攻撃力は比肩するもののない日本のジャズとして世界に誇れるものである。曲が終了した瞬間にヨーロッパの聴衆から沸き起こる「ウォーッ!!」という地響きのような大歓声が山下洋輔トリオが紡ぎ出した音楽の凄さと普遍性を証明している、と言えよう。(*4)

「Yosuke Yamashita Trio (山下洋輔トリオ) - Clay」





---------------------------------




(*1)
実はこれは評価が難しい問題でもある。厳密に偶然性・必然性を重視した演奏であるなら猫が鍵盤上を歩くことで紡ぎ出される音群もまた一つの音楽として捉えられる、とう考え方もある。

(*2)
かつてNHK交響楽団で主席オーボエ奏者として活躍された茂木大輔氏は若い頃に山下洋輔トリオに出会って大きな衝撃を受けたそうである。茂木氏の音楽体験の中でも一番大きなものだったそうだ。山下洋輔トリオのジャズについて茂木氏は「あの演奏は譜面があったのでは出来ない」「3台のスポーツカーが各々勝手な方向に物凄い速度で突っ走るような」と語る。茂木氏の言わんとすることは判るのだが、実はちょっとだけ違う。「各々勝手な方向」ではなく、好き勝手なアドリブをしつつも実は3人共向いている方向は同じだったりするのである。それは、言ってもアンサンブルであり、最低限のフォーマットは存在している。3人で作り上げる音楽に他ならないからである。
だが、そうは言ってもジャズでありフリージャズである。時にはその最低限のフォーマットすら外して飛びまくるケースもあり得る。音楽的に良いものが出来るならそれは「有り」とするのがジャズなのである。
ちなみに、茂木大輔氏は山下洋輔氏に心酔し、後に「山下洋輔の超室内交響楽」その他で何度も共演している。他にも山下氏は茂木氏の為にオーボエのソロ曲を作曲し献呈するなどしている。

(*3)
かつてジョン・コルトレーンのカルテットで演奏したレジェンドのドラマーであるエルヴィン・ジョーンズは森山威男氏が好きで憧れる存在でもある。エルヴィンの何に惹かれたのかと言えば、森山氏曰く「エルヴィンの演奏は民謡だ」「民謡は西洋音楽のルールや枠では捉えられないものがある」「エルビンジョーンズの演奏は小節をまたぐバー(*3a)を感じさせない」、ということであり、森山氏もそれを意識して自分の演奏スタイルを築いていったのである。どの国の民謡もそうだが、西洋音楽流には捉えられない音楽世界である。西洋音楽的にエルヴィンの真似をしてもエルヴィンにはならないのだ。
そんなエルヴィン・ジョーンズであるが、彼が日本滞在時に森山威男氏の演奏を聴いて「森山、シンバルは楽器だぞ。敵みたいにあんなに叩くんじゃない」と説教した。だが、森山氏にしてみれば、「あんたに言われたくないよ。あんたの真似をしてこうなったのだから」ということだ。(笑)

(*3a)
小節をまたぐバーとは楽譜上に記される各小節を区切る縦線のことである。

(*4)
聴いて頂ければ判ると思うが、全体を通してきちんとした流れがあり、山もあれば谷もあって音楽としてのストーリーがその場で作られているのである。好き勝手にやってはいるがデタラメではなく、実はかなりお互いを聴き合ってその瞬間に何が必要かを瞬時に判断して音を出している事に気がつくと思う。その上での力の爆発なのである。だからこそ深い音楽文化を持つ欧州の聴衆をも魅了したのだ。







ロシアにへりくだる日本人

2022-05-21 09:30:00 | 社会・政治
2019年5月に北方四島ビザなし交流・訪問団の一員として国後島を訪問した丸山穂高衆院議員(当時:日本維新の会)が滞在先で、元島民の人々に対して、北方領土問題の解決について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言して大問題・大騒動になる、という事があった。丸山議員は維新を除名になり、維新は党をあげて当時のロシア政府に詫びを入れた…という気味の悪い事案であった。(*1)

北方領土は間違いなく日本固有の領土であり、ロシアが不法占拠しているのは厳然たる事実だ。不当に支配しているだけでなく日本人に対してシベリア抑留や満州での非道な仕打ちなどロシアは日本に対してかなり残虐な前科が多い。(*2) それらの全部が国際法違反の行為であることも意識しておくべきだが、そんな狂気の国に対してなぜ詫びを入れないといけないのか全く理解できない。維新だけではない。日本の政治家のほとんどとマスメディアのほぼ全部がロシアに配慮し忖度する一方で日本に対しては強気に物を言う。つまり「親露」で「反日」だ。

先般、ロシアの国会議員が「ロシアは北海道に対しあらゆる権利を持つ。日本の政治家が大戦の教訓と関東軍の運命を忘れていない事を望む。さもなければ記憶を新たにせざるを得ない」という日本に対して無礼極まりない暴言を吐いたにも関わらず、日本の政治家もマスメディアも何も言わずだんまりで、あたかもその発言が無かったかのようにしているのは喫驚でしかない。ここまでロシアにへりくだるのは異常としか言いようがないが、彼らはロシアに何を言われようと黙っているのだ。実に気色悪い実態である。

政治家はまるで「親露に非ずんば政治家に非ず」のようであるし、マスメディアも同様だ。この異常な状況を普通に是とする彼らは裏に何かあると想定しないと説明できないだろう。裏に何もなくてこうなっているのなら救いようのない阿呆であり馬鹿でしかない。しかも人としての最低限の矜持すら失っているのは呆れるばかりだ。

政治家には何か裏があるのだろう。大きな利権を持っているが故に、という人物もいるだろうし、弱みを握られている場合もあろう。スパイ天国の日本ではロシアの工作員は昔から日本国内で盛んに活動しており、政治家や官僚の弱みを握ることで彼らをロシアの思惑通りに操作するケースも多々ある。また、単にロシアとの関係性だけでなく、中国との関係性の延長上でロシアに配慮している人物もいるだろう。親中で親露ということだ。共産主義国家・専制国家に異常な親しみを持つ狂気の政治家達…。日本国の政治家でありながら日本に敵対的な国家に尽くそうとする姿勢…それを隠そうともしないのは既に神経が麻痺していておまけに恥知らず、ということだろう。

マスメディアも同様である。以前から当ブログで繰り返し書いているように、日本のマスメディアは報道機関ではなく、極左の情報工作機関である。そうでなければ説明のつかない愚行ばかりが目につくのである。

そうした政治家やマスメディアは専制国家たる中国やロシアに忖度する一方で日本に対する中露の軍事的優位性を保つ為に日本の憲法改正を全力で妨害し、非核三原則の問題・核戦力を持つ必要性を議論することさえあらゆる手立てを使って封じ込む。議論すらさせないのである。言論封殺だ。それら妨害行為の理由は「中露が日本を侵略しやすくする為」でしか説明がつかないものである事は意識しておいた方が良い。

ロシアに侵略される事がどのような悲惨極まりない結果をもたらすのか、ウクライナの現状を見れば火を見るより明らかであろう。言うまでもないことだ。親露な政治家やマスメディアたちは今日のウクライナを明日の日本にしたい勢力なのである。



----------------------



(*1)
丸山氏が維新所属の議員であった2019年春に悪法である「アイヌ新法」について、維新所属議員の多くを「反対」でまとめた人物である。この丸山氏の北方領土視察での「不適切発言」問題がマスメディアで騒がれ始めたのはその翌月だ。タイミングとして妙であり、裏に親露勢力の蠢きがあったとすれば腑に落ちる動きである。(ロシアはアイヌ民族をロシアの人民として認める、という根拠なきナンセンスを主張している。だからロシアが北海道を侵略しても良い、という屁理屈になるのである)

(*2)
ロシアの日本に対する残虐非道な数々の違法行為は知る人ぞ知る事実である。決して多くの人の知るところとはなっていない。なぜか。日本のマスメディアが積極的に報道しないからである。マスメディアは親露であり、ロシアに不利になることは出来るだけ日本人に知らせたくないのである。これは厳然たる事実だ。






「日銀は政府の子会社」を批判するマスコミ・野党は無知

2022-05-14 08:10:00 | 社会・政治
安倍元総理が「日銀は政府の子会社」と発言したことでマスコミと野党が蜂の巣をつついたように大騒ぎしているが笑止千万である。マスコミも野党も無知だからだ。政府と日本銀行の関係性について何一つ理解していない。何も分かってない連中が分かった振りしてギャーギャー騒ぐ姿は無様で醜悪である。

この件について数量政策学者の高橋洋一氏が明解に説明しているので、是非ともリンク先の記事をお読み頂きたい。

「安倍元首相「日銀は政府の子会社」発言は完全に正しい…批判するマスコミと野党は無知」

日本銀行は政府機関である。また、政府は日銀の役員任命権や予算認可権も保持しており、その関係は民間で言うところの「子会社」そのものである。こうした関係性は先進国の中央銀行でも全く同じだ。それを知らずにマスコミと野党は騒いでいるのである。

また、無能で何も出来ず検討する事しかできない左寄りの”検討使”である岸田総理に対しては何も批判しない一方で、有能故に国際社会でも信頼の厚かった安倍元総理の全く問題ない発言にわざわざ噛みついて騒ぎ立てる姿勢は、マスコミが報道機関ではなく世論を操作する為の情報工作機関であることを如実に示すものと言えよう。こうした左に傾いたマスコミに騙されてはいけない。

野党も同じだ。野党政治家は政府と日銀の関係性すら理解できていない 全然無知無知かたつむり であることを自ら暴露した。自分達の無知を棚に上げて人を批判するような人達に日本の舵取りは到底任せられない。







公明亡国~売国政党・私感~

2022-05-14 07:30:30 | 社会・政治
2022年5月13日の記者会見で公明党の石井啓一幹事長は「9条の専守防衛という枠の中で、日米の安全保障に関する信頼関係を安倍政権の下で強化した。現時点で9条を変えなければ何かできない、という事はない」などと述べた。公明党の中国への配慮・忖度は一貫していて、あたかも「中国共産党の指令に従って動いております」と言わんばかりの親中ぶりである。幹事長だけではなく、山口那津男代表の発言も常に中国に忖度した内容が常であり、与党である立場を悪用して日本を中国共産党に差し出そうとしているようにしか見えないのだ。

客観的に言って全てを公明党の言う通りにしていたら、日本は中国からの侵略に対して何も出来ず滅んでいくだけ…になるのは自明の理である。中国に都合の悪い法案などは徹底的に骨抜きにして中国に害が及ばないようにする。日本を守るために憲法を改正しようとしても、それを全力で阻止してくるのが公明党だ。

中国は国家動員法に依って海外にいる中国人は全て中国共産党の命令で中国の為に動き出す。百万人近い在日中国人も同じだ。中国が本格的に侵略を開始する時、在日中国人は一斉に動き出すだろう。日本の内側から侵略行為に加担する為である。そして公明党は侵略される日本ではなく侵略する中国の味方なのである。正に売国奴だ。

その意味では公明党という政党は「亡国の政党」と言えよう。公明党は彼ら自身の主張がいかに狂っているか客観視出来ず、ひたすら凶悪な中国共産党に尽くすだけの姿勢が日本中の奇異の目に晒されている事に気付いていない。実に情けないことだ。それは「獅子”親中”の虫」が蔓延る自民党にも言えることだが…。

不思議なのは、公明党が目指す方向が公明党の人たちが信仰する日蓮大聖人の仏法が目指すものとは違うベクトルになっているような気がすることだ。また、日蓮の説法の中には「四箇格言」というものがあり、その中に「真言亡国」というくだりがある。平易に説明するなら次のようになる。真言宗は大日如来を本尊にして仏教開祖の釈迦を見下す教えを説く。釈迦が最終的に説きたかった法華経を格下に扱い、方便でしかない大日経を重用する。真言宗は「大日如来に比べれば釈迦など取るに足らない存在」、と説くのだ。本末転倒なのである。そもそも大日如来と言えども釈迦の説法に依って登場した架空の存在なのだが、こうした主客転倒な教えは亡家・亡人・亡国の姿勢が色濃く感じられる。それで日蓮は「真言亡国」と言ったのだが、現在の公明党を見るならば、我々の祖国である日本を軽視し、侵略の姿勢を顕にする凶悪な中国に媚びる一方であるその姿勢は正に「公明亡国」と呼ぶに相応しいであろう。公明党は今一度、自分たちの姿勢がいかに異常であるかを客観的に見て自覚すべきであろう。








マスコミが気が付かないプーチンの失言

2022-05-13 04:10:00 | 国際
5月9日はロシアの戦勝記念日であり、プーチン大統領の演説があった。事前の予想ではそこで「戦争宣言」をするのではないか、とも言われていたが実際にはそれはなかった。演説内容は概ね今までの行動を正当化するだけであり、平易に言えばショボいものであった。今回はこのプーチン演説について数量政策学者の高橋洋一氏の解説を基調に記してゆく。

さて、今回の演説に於いてプーチン大統領は一つ大きなミスを犯していたのである。それも非常に大きなミスである。

それは何か?

ロシアがウクライナを攻撃した話をプーチン大統領は
「先制的に攻撃した」
と言ってしまったのだ。
実はプーチン大統領の立場ではこれを言ってはいけなかったのである。

なぜか?

国際法というものがあり、国際法の中では「先制攻撃は違反」となっているのだ。認められているのは先制攻撃を受けた後の「自衛権の行使」であり、これがロジックなのである。但し、相手国が「先制攻撃に着手していた」場合はそれを「先制攻撃」とみなして攻撃することはできる…ことになっている。

国際法で「先制攻撃は違反」となっているにも関わらず、プーチン大統領は「先制的に攻撃した」と述べた。その理由としてウクライナは側に「色々な軍事顧問が来ていた」だとか「武器が来ていた」などと宣うのだが、この程度では「先制攻撃の着手」にはならないのである。

「先制攻撃の着手」とは具体的にどのようなことか?

「先制攻撃の着手」とみなせるのは、例えば「戦闘機が今にも発進する」とか「大砲に弾が込められた」などのアクションがあった場合だけである。平易に言えば「ピストルの引き金に手をかけた」状態になれば、それは「先制攻撃の着手」とみなすことが可能だ。もちろんウクライナはロシアに先制攻撃する気などさらさら無い。ロシアに依る侵略に注意し警戒していただけである。

ここを考慮すると、今後プーチン大統領は極めて分が悪い事になる。今回の演説では総合的にしょぼい内容だったが、それに加えて余計なことまで喋ってしまった、というのが本当のところなのだ。

プーチン大統領としては「12月に色々な提案をしたが思惑通りにいかなかった」のであり、逆に「NATO(北大西洋条約機構)がロシアに攻め入る一歩手前だった」と苦しい言い訳をしていた。そもそもNATOがロシアに攻め込む理由など無いのだが、百歩譲って「攻め込む一歩手前の状態」だったとすれば、それは誰が証明するべきなのだろうか?

「挙証責任がある人」「自衛権行使した人」である。つまりロシア自身、ということだ。

だが、これをロシアが立証するのは非常に困難であろう。ウクライナに軍事顧問が居ることや武器が供与されているのは「先制攻撃の着手ではない」からである。上述の「ロシアに依る先制攻撃が可能な条件は満たしていない」のだ。

そして、プーチン大統領自ら「ロシアが先制攻撃した」と明言してしまったことで、国際的な立場をこれ以上ないほど悪くしてしまったのだが、恐らく演説をするにあたって、ロシアの状況が非常に苦しくて高らかに謳い上げる文言が見当たらなかったのであのような言い方になってしまったのではないか、という推測ができるのである。


日本人の一般的な常識で考えると、プーチン大統領が言う「攻められるかもしれないのでこっちから攻めました」は納得出来る話かもしれない。しかし国際法では明確に違反であり駄目なのである。先述のように相手が「ピストルの引き金に手をかけた」状態にまでいってないと成立しない条件なのだ。

また、マスコミ等でプーチン大統領の演説で「戦争宣言」が為される、と予想していた人々が根拠にしていたのは、イギリスの政府機関がそうした予想を出していたからである。TVのコメンテーターなどは基本的に皆同じで、海外のどこかの諜報機関が出す種々の情報を根拠にしているのであり、それだけなのだ。
さらに、イギリスの政府機関がそのような情報を出したのも一種の情報戦の一環で出したのか、それとも本当にそのような兆候があったのかは不明である。

最終的にロシア・プーチン大統領は「戦争宣言」をしなかったが、これは裏を返すと「ロシアはNATOと戦いたくない」という意志の表れでもある。ロシアの兵器はNATOの最新兵器には敵わないのが実情だ。

そうなると、ロシアに残された道は「核兵器(戦術核)」を使用するか、「プーチン大統領が病気等の理由で退いて戦争自体がフェードアウトしてゆく」か、そのどちらかとなるだろう。プーチン大統領が精神的な問題を抱えているとすれば、あるいは核の使用もあり得るかもしれない。ここが非常に憂慮されるところである。