Altered Notes

Something New.

引きこもる側が悪いのか

2017-08-01 18:17:04 | 社会・政治
中高年の引きこもり問題が注目されている。

この問題を語る時に一般的にしばしば犯す根本的なミスがある。
それは「社会に参加せず引きこもる人が悪い」という決めつけであり、これを前提として全てを発想してゆく。だからいつまでも解決せず、むしろ問題の裾野が広がる事すら防止できないでいるのである。
この問題、実は結論から言えば引きこもりの人を生み出す社会の方に問題があるのだ。それが問題の根本なのである。

引きこもる人というのは何かからはじき出されたような印象がある。何からはじき出されたのか。それは社会のあり方・態様というものから、である。

どういうことか。

社会は年月を経る毎に自然と合理的な態様に変化しつつ発展してきた。だが、その「合理的な」というのは誰にとっての?、というところが問題である。

人間は皆同じではない。自ずと異なるいくつものタイプが存在し、皆それぞれフィットできる社会の態様が異なる。ある人は大都会のきちっとしたシステマティックな構造の中に自分の領域を見つけるだろうし、また別の人はもっとゆったりとした時間の流れの中に居場所を見つける人もいる。タイプは様々であり、のびのびと生きることができる社会の態様はタイプによって各々違うのである。

日本の資本主義社会は年月を追う毎にそれなりの合理的な有り様に磨きをかけてきた。そのおかげで経済発展等の輝かしい実績を作ってきた。

しかし、どうだろうか。

合理的な視点でブラッシュアップされてきた日本の社会は多数派を構成する人々には都合が良いが、真逆のタイプの人には非常に息苦しくきつい世界なのではないか。
キーポイントは「多数派が作る社会=正しい…訳ではない」ということだ。

社会は洗練されればされるほど生き方のマージンが少なくなる、或いはなくなるように変容してゆく。それは多数派を構成するタイプの人々には都合が良いもので何ら不都合を感じることはないだろう。しかし多数派とはタイプが異なる人々にはそのマージンの無さが命取りにもなり兼ねないのである。
社会は発展し洗練されてゆくほど構成員たる人間が横道に逸れる事を認めなくなる。少数派、つまりマイノリティに対して不寛容になるのである。(*1)

元々はマージンの幅も大きく色々なタイプが共存できた社会も、あるマジョリティ(多数派)のタイプが主導して洗練されていく過程で、他のタイプが共存できないような形に社会を変えていく。マジョリティのタイプにのみ都合の良い態様の社会が洗練されればされるほど他のタイプはそこからはじき出される運命にあるのだ。(*2)

生き辛さの原因は人それぞれかもしれないが、ベースにある息苦しさや閉塞感はマージンが無く不寛容な社会がもたらすものであり、それは強制的に社会の態様に合わせることを当然のように求めてゆく姿勢が生み出したものと言えそうである。
そして特に完全に八方塞がりになってしまった人が否応なく引きこもりにならざるを得なくなってしまったのではないだろうか。
さらに言うならマジョリティの人々は”人間には異なるタイプが存在し、各々にフィットした態様の社会がある”ことを知らない。想像力が皆無であることが多いからである。それはマジョリティであるが故の安心と怠惰な傲慢さからくる思考停止によるものかもしれない。

日本社会はもう少し自分たちの有り様を謙虚な目で見つめ直す時期に来ているような気がする。



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(*1)
だから多数派は「引きこもる奴が悪であり、自分達多数派は正義である」という前提で全て発想し考え対策するのである。
従って問題が根本的な解決に至る可能性は極めて低い。


(*2)
子供の不登校問題も多くの場合、同じ原因が基調に存在している。