インターネットの発達、スマートフォン等のモバイル機器の急速な普及で一般大衆のテレビ番組視聴がだんだん減ってきている現状をテレビ局自身が憂う実状があり、テレビはどうしたらいいのか、どう変わったらいいのか、をテーマに議論する番組が放送された。
「テレビはネットでどこまで変わる?
~放送と通信 世界最前線~」
2014年3月21日(金) 22:00~22:50
NHK総合
内容についての具体的詳細は別の方々にまかせるとして、ここでは本質的な部分のみにフォーカスして書いていく。
番組ではインターネットの発達とそれに関連するデバイスの発展と普及に伴って従来型の放送があまり視られなくなってきている現状に対してどうしたらいいのか、を議論していた。しかしインターネットとの融合やその方法についてのいくつかの議論はあったものの、結局「これだ」という結論は出ず、最後には「テレビは相変わらず信頼できる」「テレビ番組は価値がある」「それでもやっぱりテレビが中心」と言う趣旨でかつ苦し紛れの主張しか聞こえてこなかった。パネラー諸氏も”大NHK”に配慮した発言をしていることは充分に伺えた。実のある議論とは到底言えず非常に虚しく説得力は皆無。予想通りだが、これがテレビ屋の限界である。
なぜ限界か?
ここからが本質である。
番組ではテレビが変わる為の小手先のアイディアしか紹介されていない。
テレビを語る上で中心・核となる重要な部分に蓋をしてそこを見ないようにして議論しているから解決案や進むべき方向が皆目見えてこないのである。
テレビ屋の最も本質的で病理的な問題は視聴者を見下したその根本姿勢にある。
彼らは視聴者を「下に」見ることをベースにして全てを発想する。実際、番組内の議論でも一般人を「素人」と呼んで蔑視するパネラーが居た。
一般人を見下しているからこそ良質の番組など生まれるはずもない。良くないから視聴されない。当たり前なのだ。
もう一つはテレビ局が世論操作を目的に番組を作り放送している(特に報道)ことを既に多くの人々が「知っている」ことである。テレビ屋の放送(報道)姿勢がどこかおかしい、どこか変だ、ということは既に多くの人々が知るところとなっている。
社会・世界では様々な事象が発生しているが、どれを報道し、どれを報道しないかはテレビ局の恣意性に委ねられる。この恣意的な選択に放送局のフィルターがかかり、テレビ屋が意図した方向に世の中を誘導しようとしている。これは厳然たる事実である。また、報道される事象についてもテレビ局にとって都合の良い切り口で伝えられることがほとんどであり、これもまた多くの人にとって既知の問題である。(*1)
こうしたテレビ屋の悪意と作意を知っているから多くの人がテレビに見切りをつけて去っていったのだ。
テレビにまつわる色々な事例や事象の根源には全て上記の2つの問題が存在している。だから本気でテレビを変革して視聴者に戻ってきてほしいならこの本質のテーマを避けて議論しても何の意味もないのだ。
ところがテレビ屋が主催する討論番組はすべからくこの根本問題を避けて小手先の変化だけで乗り切ろうとする小賢しく小狡い姿勢ばかり見せられるのだ。
なぜ避けるのか?
テレビ局にとって最も都合が悪い部分であり「説明できない問題」だからである。だからこれを避けて、どうでもいい部分(非本質的要素)をテーマにした議論でお茶を濁す。それで視聴者を騙せると思っているのだ。正に視聴者を見下しているからこそである。
真に良質なコンテンツなら視聴者は黙っていてもついてくる。メディア(媒体)がテレビだからネットだからモバイルだから、という問題ではないのだ。それはここ数年の傾向を見ても明白である。
テレビ局は「変わりたくない」のである。それが本音。
どこまでいってもテレビ屋・放送屋は”自らが変わる(善なる進化)ことで問題を打開する”ことができない。電波という権力を握る旨味、既得権益の上にあぐらをかくことに慣れきってしまっている上に、どうしたら視聴者を騙してテレビに戻ってこさせるか、といった発想しかできないからである。
根性が腐っているのはもちろん、骨の髄まで鬼畜外道な連中・・・それがテレビ屋なのである。
これでは本質的には永久に何も変わらない。
それは間違いない。
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(*1)
こうした実態はあたかも太平洋戦争中のマスコミ(大本営発表報道に代表される嘘と世論操作・洗脳)のあり方との近似を思わせるものがあり、大変不気味な印象がある。
また、テレビ局に依る誘導と書いたが、当然テレビ局の背後に居る大きな存在を我々は考えざるをえない。
「テレビはネットでどこまで変わる?
~放送と通信 世界最前線~」
2014年3月21日(金) 22:00~22:50
NHK総合
内容についての具体的詳細は別の方々にまかせるとして、ここでは本質的な部分のみにフォーカスして書いていく。
番組ではインターネットの発達とそれに関連するデバイスの発展と普及に伴って従来型の放送があまり視られなくなってきている現状に対してどうしたらいいのか、を議論していた。しかしインターネットとの融合やその方法についてのいくつかの議論はあったものの、結局「これだ」という結論は出ず、最後には「テレビは相変わらず信頼できる」「テレビ番組は価値がある」「それでもやっぱりテレビが中心」と言う趣旨でかつ苦し紛れの主張しか聞こえてこなかった。パネラー諸氏も”大NHK”に配慮した発言をしていることは充分に伺えた。実のある議論とは到底言えず非常に虚しく説得力は皆無。予想通りだが、これがテレビ屋の限界である。
なぜ限界か?
ここからが本質である。
番組ではテレビが変わる為の小手先のアイディアしか紹介されていない。
テレビを語る上で中心・核となる重要な部分に蓋をしてそこを見ないようにして議論しているから解決案や進むべき方向が皆目見えてこないのである。
テレビ屋の最も本質的で病理的な問題は視聴者を見下したその根本姿勢にある。
彼らは視聴者を「下に」見ることをベースにして全てを発想する。実際、番組内の議論でも一般人を「素人」と呼んで蔑視するパネラーが居た。
一般人を見下しているからこそ良質の番組など生まれるはずもない。良くないから視聴されない。当たり前なのだ。
もう一つはテレビ局が世論操作を目的に番組を作り放送している(特に報道)ことを既に多くの人々が「知っている」ことである。テレビ屋の放送(報道)姿勢がどこかおかしい、どこか変だ、ということは既に多くの人々が知るところとなっている。
社会・世界では様々な事象が発生しているが、どれを報道し、どれを報道しないかはテレビ局の恣意性に委ねられる。この恣意的な選択に放送局のフィルターがかかり、テレビ屋が意図した方向に世の中を誘導しようとしている。これは厳然たる事実である。また、報道される事象についてもテレビ局にとって都合の良い切り口で伝えられることがほとんどであり、これもまた多くの人にとって既知の問題である。(*1)
こうしたテレビ屋の悪意と作意を知っているから多くの人がテレビに見切りをつけて去っていったのだ。
テレビにまつわる色々な事例や事象の根源には全て上記の2つの問題が存在している。だから本気でテレビを変革して視聴者に戻ってきてほしいならこの本質のテーマを避けて議論しても何の意味もないのだ。
ところがテレビ屋が主催する討論番組はすべからくこの根本問題を避けて小手先の変化だけで乗り切ろうとする小賢しく小狡い姿勢ばかり見せられるのだ。
なぜ避けるのか?
テレビ局にとって最も都合が悪い部分であり「説明できない問題」だからである。だからこれを避けて、どうでもいい部分(非本質的要素)をテーマにした議論でお茶を濁す。それで視聴者を騙せると思っているのだ。正に視聴者を見下しているからこそである。
真に良質なコンテンツなら視聴者は黙っていてもついてくる。メディア(媒体)がテレビだからネットだからモバイルだから、という問題ではないのだ。それはここ数年の傾向を見ても明白である。
テレビ局は「変わりたくない」のである。それが本音。
どこまでいってもテレビ屋・放送屋は”自らが変わる(善なる進化)ことで問題を打開する”ことができない。電波という権力を握る旨味、既得権益の上にあぐらをかくことに慣れきってしまっている上に、どうしたら視聴者を騙してテレビに戻ってこさせるか、といった発想しかできないからである。
根性が腐っているのはもちろん、骨の髄まで鬼畜外道な連中・・・それがテレビ屋なのである。
これでは本質的には永久に何も変わらない。
それは間違いない。
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(*1)
こうした実態はあたかも太平洋戦争中のマスコミ(大本営発表報道に代表される嘘と世論操作・洗脳)のあり方との近似を思わせるものがあり、大変不気味な印象がある。
また、テレビ局に依る誘導と書いたが、当然テレビ局の背後に居る大きな存在を我々は考えざるをえない。