Altered Notes

Something New.

マスメディアに依る言葉の洗脳

2020-06-25 15:46:16 | 放送
テレビ等のマスメディアに依る言葉の破壊は当ブログにおいても幾度となく取り上げてきた。
現在でもマスメディアは好き勝手に言葉を破壊し意味の変更(偏向)を行い続けている。
彼らが言葉に対してあまりにも無神経かつ無責任になれる、その基礎となるものは何であろうか。

マスメディア、特にテレビ屋はきかん坊の子供のようである。子供はしばしば自分達だけに通じる言葉を共有することがあるが、それと同じレベルの事をテレビ屋は社会レベルで行っているのだ。テレビ屋自身が面白いと思ったものを意味的な間違いや社会的な影響などを一切考えずに使いまくる。意味的に間違っていて、それをテレビ屋に指摘しても一切聞く耳はない。彼らは一般人の上に君臨していると信じて疑わないおめでたい連中なので一般人がテレビ屋の間違いを指摘しようが、正しい意味を主張しようと聞く耳はないのである。むしろ「面白い言葉を俺たちがお前ら一般人に教えてやるよ」くらいの思い上がった鼻持ちならない意識を持っているのは間違いないだろう。それくらい腐りきった連中なのだ。そもそも間違った言葉を放送すること自体が放送法の趣旨に反しているのではないだろうか。

昔から各方面でその間違いが指摘されているにも関わらず使い続けられている間違った言葉の代表格として「号泣」がある。当ブログでも過去にこの単語の説明をしている。「号泣」の「号」は「大きな声を出す事」を表しているので、声を出さずにただ「涙が流れた」だけで「号泣」とするのは(解釈の余地なく)完全に間違いなのだ。そもそも日本の社会に於いては「号泣」という場面には滅多に出会うことがない。ある種のレアな体験と言えるだろうし、他人が号泣する場面すらそうそう見られるものでもない。しかしテレビ番組の中では日常的に「号泣」だらけなのである。(蔑笑)

テレビ屋の言葉にまつわる犯罪的な狼藉は言葉の誤用だけではない。
テレビ業界の専門用語やお笑い芸人の専門用語を番組内で日常的に使用することで、それを一般社会に広めようとしているのだ。

テレビ業界用語だと「尺」などが代表的で「カットイン」「インサート」「バミる」「サブ」「ワイプ」などがよく聞かれる用語であろう。お笑い芸人の専門用語では「イジる」「やっている」「回す」「フリ」「ボケ」「ツッコミ」「つかみ」「オチ」「天丼」「ネタ」「ゲラ」「見切れる」「バーター」「置きにいく」(*1)などがよく使われるものだろうか。このような本来その世界でしか使われない専門用語を番組内で頻繁に使わせることで一般社会にその言葉を浸透させて一般化を謀ろうとしているのである。そうすることで自分(業界人、芸人)たちの影響力を確認でき、連中にとってより居心地が良い社会になる・・・といったところだ。業界あげて一種の(無責任な)洗脳作業をやっているようなものだ。

テレビ等の電波メディアの影響力は非常に大きく、何も知らない一般視聴者層はこうして見事に騙されて洗脳されてゆく。しかもそうした専門用語を日常的に使うことが「格好良い」という価値観さえ植え付けられているのであり、そうした価値観や文化の頂点にマスメディアや芸人達が君臨する、という図式に持っていこうとするのである。メディア側芸人側の傲慢もここに極まれり、であって実に厚顔無恥の限りを尽くす実態である。そうでなくても左翼思想に則った偏向報道ばかり(この時点で既に放送法に違反している)で既に大方の信用を失っているテレビ等マスメディアはいつか傲岸不遜な姿勢のツケを払わされる事になるであろう。




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(*1)
「置きにいく」は元々野球で使われる用語だが、今ではお笑いの世界でも普通に使われるようになった。



中国北京市の危機 武漢ウィルス感染拡大

2020-06-24 11:11:11 | 国際
武漢コロナウィルスが再び猛威を振るいつつある。中国・北京市で、である。

この状況と背景について作家で中国ウォッチャーである石平氏が解説しているので、それを抄録の形でお伝えしたい。


日本のメディアでも「中国北京市で感染続く 新たな発症者22人」として少しは報道されている。

この22人の内、10人が北京の食品卸売市場で確認されている。その他に河北省や福建省でも新規感染者が見つかっている。

今回の北京での感染発生場所は「新発地」という卸売市場である。ここでクラスターが発生した。


中国メディアの報道では

6月13日に同市場関係者36人の感染を確認して市場の閉鎖を開始している。北京市の幹部は「北京市は非常時に入った」と宣言した。

ここで「36人」と発表しているのだが、以前からの例を挙げるまでもなく中国の発表する数字は毎回嘘だらけなので今回も事実とは異なる数字だろうと思われる。恐らく本当の数字は発表の数字に10を掛けたくらいではないだろうか。要するに数百人単位での感染拡大が起きている、ということだ。

ここで重要なのは卸売市場自体がが閉鎖されたことである。北京の野菜や果物需要の7割がこの市場から供給されている、という実情がある。この市場の広さは東京ドーム二十数個分である。かなり大規模な市場である。

さらに中国メディアの記事に拠ると、6月14日には同市場関係者の8人が感染していることが確認されている。さらにこの日は武装警察が1500人も進駐してきている。閉鎖命令を無視する連中や騒動を起こす連中を取り締まる目的で武装警察が出てきたのだ。

新発地卸売市場の所在地は「北京市豊台区花郷地区」であるが、ここは中国全土の中でも唯一「高リスク地区」に指定されている。


「新発地卸売市場」はどのような市場なのだろうか?

此処は全国でも最大の農産物卸市場である。取り扱う農産物は年間1749万トンで、北京市で消費される野菜・果物の7割を供給している。出入りする車両は3万台/日であり、出入りする人数は5万人/日である。全国22の省・自治区から農産物を調達している。

此処の元々の地名は「新墳地」である。「墳」は中国語で「お墓」の意味なので、ここを開発する時に”縁起が悪い”ということで「新発地」に改名したのである。


前述のように、6月13日に市場が閉鎖されるまでは毎日5万人が出入りしていた場所である。なので、その影響の広さは計り知れないものがある。

野菜・果物の北京市内需要の7割がこの市場から供給されるとすると、あらゆるレストラン・スーパーなどにこの市場から出た野菜や果物が供給され食べられていた、ということになる。レストランやスーパーの労働者間での感染はもちろん、その労働者の家族、野菜・果物を食べた人々や客への感染が最も懸念されるところである。

北京は中国の中央官庁が集まる場所である。その各中央官庁には構内に必ず食堂がある。その食堂もまたこの市場から食材を調達しているのだ。

上で「全国22の省・自治区から農産物調達」と記したが、逆に言えば22の省や自治区にこの市場から人が買付に出向いている、ということでもある。その時に感染を拡大させている可能性は非常に大きいだろう。中国に於ける新たな感染拡大の震源地となりうる話である。

ここまででお判りと思うが新発地卸売市場は特別な役割があり、そこから考えると今回の感染拡大は簡単には終わらないだろうことは容易に想像できるのである。


6月13日の市場閉鎖までにどれだけ感染拡大したかは不明だが、相当な規模になっている可能性は捨てきれない。しかもそれ迄に感染した人が実際に発症するのはこれからなのだ。


新発地市場はあの天安門広場からも遠くない。天安門広場の南西方向に数キロ行った場所である。


6月14日の北京日報の記事を見ると見出しは「北京は既に非常時期に突入した」となっている。

6月19日になると中国の疫学専門家の発言で「北京のウィルス再流行は既にピークを過ぎた」とか「もう収まるだろう」という発言がBloombergに掲載されている。ただ、問題はそれが「本当かどうか」である。

別の専門家の見立てはまったく違うようである。

6月17日の中国経済メディアの記事では高福という専門家の話が掲載されいる。彼は中国の疾病管理センターの主任であり、かなりの要職にある人物である。彼が言うには「北京での疫情は4月下旬から出現した」ということである。もしそれが本当なら6月13日まで放置したツケはかなり大きなものとなって返ってくる可能性がある。ようやく6月13日になって市場を閉鎖したところでほとんど意味はないだろう。それまでにとんでもない規模の感染拡大になっていると推測されるところである。


それを裏付けるように、感染拡大は北京市だけでなく周辺地域にも広がりを見せている。


中国メディアの6月19日の記事に拠れば河北省でも2名が新規感染したとのことである。その内の一人はなんと新発地卸売市場の経営者である。もうひとりはレストランのスタッフである。

また、別の中国メディアの6月17日の記事では、浙江省でも新発地が感染源と見られる感染者が発生した、と報道されている。浙江省は北京からはかなり遠く、どちらかと言えば上海に近い地域である。

北京の新発地卸売市場は中国全土から食材を調達しているので感染の影響範囲も当然ながら非常に広くなると推測される。そうなると、北京市内では既に隅から隅まで感染拡大していてもおかしくない状態であろう。最悪の場合、国内全土に拡散している可能性さえあるのだ。なので、前述の専門家が6月19日の発言で「既にピークは過ぎた」と宣っている、そんなことでは済まないのではないだろうか。とても簡単にはいかない状況のように思える。


季節はほぼ夏になりつつある。季節が変わればウィルスの活動も収まるような話も一部にあったが、どうもそうはいかないようである。中国だけでない。日本に於いても同様と考えて良いだろう。気温の上昇はウィルスが消える条件にはならないのである。


現在、北京の学校は全て休校となっている。北京から出発する航空機も大幅に減便されており、北京市は既に半分くらいは封鎖されているような状態にある。完全封鎖という事態もなくはないだろう。

中国国内では武漢ウィルスの感染はかなり深刻な状況にあって、周辺各国と比較してもまずい状態にあるようだ。


今はこういう状況なので北京のスーパーからも野菜・果物は消えている。北京市民としては食材の不足は大変であろうが、なんとか我慢している状態のようである。野菜や果物はNGだが、米はあるのでまだまし、ということらしい。


中国は今回の感染について、あろうことか「ノルウェーからの鮭に付着していたウィルスが感染源である」などと言っており、これについてノルウェーは「そんな馬鹿なことはない」とカンカンになって怒っている。「なんで鮭やねん!」と。そりゃそうだろう、これは完全に中国のでっち上げである。

そもそも新発地卸売市場で扱われる食材の数は少なく見ても数千点~数万点はあるだろう。それらを全部検査したわけでもないのになぜ鮭が感染源と断定できるのか。これだけでも嘘がバレバレである。毎回そうだが、中国にとって都合の悪いことは全て外国に責任転嫁する悪癖が今回も発動しているようである。

ウィルスの最初の発祥が武漢であることは知られており、今回のパンデミックで大きな迷惑を受けた世界各国は中国の責任追求をする構えだが、中国自身は責任回避の為になんとか話をうやむやにしようと画策しているのである。今回の感染拡大にあたって「また中国発か」と名指しされたくないので最初に「外国の魚が」と言って逃げ場を作っておくいつもの中国の卑怯な手法である。

最初からそういう口実を作っておくということは、逆に見れば中国は”事態の深刻さ”を理解している、ということでもある。だからこそ急いで責任転嫁の工作に励むのだ。それが中共の常套手段である。


新発地卸売市場では中国政府から野菜等の食材の調達先として「湖北省から調達しろ」と指示があったようである。言うまでもなく湖北省は武漢市を含む省である。武漢ウィルスの影響で湖北省の経済の落ち込みはひどい状態になっている。そこで中国政府は野菜等の食材を湖北省から調達するようにすればお金が湖北省に流れるだろう、と考えたのだ。つまり、ウィルスで汚染された湖北省の食材が北京に入ったから今回の感染拡大につながった、という説があるのだ。確認が難しいところだが、充分に有り得る話であろう。


現在、中国の食材事情はかなり大変なようである。野菜・果物だけではない。前述のように魚に嫌疑がかけられているということは、魚も一斉に売れなくなっているのだ。


なにしろ、北京の現在の状況は簡単に収束可能な話ではない事は間違いないと思われるし、経過が注目されるところである。


また、2020年6月下旬現在、首都である北京市が武漢コロナウィルス感染拡大で武漢市の悪夢の再現になろうとしているその一方で、中国国内では各地で洪水等の水害が発生している。湖北省にある超大型の三峡ダムなどは、この洪水の影響で決壊の危機にある事が取り沙汰されている。
武漢コロナウィルスという「疫病」、自然災害としての「洪水」と「バッタ大量発生に依る被害」・・・歴史書にはよく王朝が崩壊する前には天変地異が競い合うように生起する様子が描かれているが、現在の中国共産党が支配する中国が正に崩壊前夜を迎えているかのような様相を呈している。




香港問題への対応 G7共同声明について

2020-06-12 15:15:00 | 国際
安倍晋三首相は6月10日の衆院予算委員会で、中国による香港への国家安全法導入方針を受け、先進7カ国(G7)で共同声明を出すことを目指す考えを強調した。

 「一国二制度を前提に、G7で声明を発出するという考え方の下に、(議論を)リードしていきたい」と語った。G7について「普遍的価値を共有する国々が集まり、世界をリードすることは大きな意義がある」とも指摘した。


報道によってはこうした共同声明を出す動きに対して「中国への包囲網の形成」といった見方をする向きもあるようだが、そもそも

「なぜ中国はG7のメンバーとして招かれないのか?」

を前提として考えるべきだろう。

中国への包囲網である以前に、そもそもG7は「中国のような国は駄目だ」という価値観を共有している事が設立趣旨なのである。「自由」「民主主義」「人権尊重」「法の支配」「世界平和/国際秩序」…こうした項目は先進国としての大前提である。だから価値観が共有できて経済力もある先進国の首脳が集まって議論することに意味があるのだ。ここに「なぜこのグループに習近平が呼ばれないのか?」の答えがある。

世界平和を希求する人々の中に世界平和に関心が無く、ひたすら中国が世界を支配する事(中華思想)ばかり考えている習近平がG7の中に入ってきたところで何か意味のあるコミュニケーションが成立するだろうか。どう考えても「否」である。基本的な価値観に相違があり、パラダイムの相違または乖離といった方がいいかもしれない。世界の秩序をどのように構築するか、という議論をする時に「秩序なんかどうでもいい」という価値観の人が入ってきたら根本的に議論は成り立つ訳がない。だから「呼ばれない」のだ。当然である。

ロシアがなぜG8から弾かれたかといえば、クリミアに侵攻したからである。世界の平和と秩序を尊重する意志が無い事が判明したからであり、それで基本的価値観の相違が激しい事がバレてしまったので、それで「出ていって下さい」となったのである。

なので、G7への見方として「中国包囲網」というのは今更おかしいのであり、元々そういうポリシーを持つグループなのだ、ということだ。国際秩序を破壊する国に対して先進各国がどのように秩序を保っていけるかを考え議論する場なのである。


今回、中国に関して香港問題も含めて日本が議論をリードしてG7としての共同声明を発出するとしているのは、別に議長役を気取るとかそういう意味ではなく真に文字通りの意味である。その理由は、安倍総理の在任期間がドイツのメルケル首相についで長いからである。そのメルケル首相はトランプ大統領とも会話ができないし、恐らくイギリスのボリス・ジョンソン首相とも話ができないと思われる。このメンバーの中ではコミュニケーションできない人として認識されているのだ。なので、最もキャリアが長いメルケル首相が話のまとめ役になるのは無理であろうし議論の中心に居る事はできないだろう、と。

前回のG7もそうだったが、ここ2~3年は安倍総理がまとめ役なのである。トランプ氏とメルケル氏がコミュニケーションできないだけではなく、トランプ大統領とカナダのトルドー首相もコミュニケーションできないのだ。あるシーンに於いては「あいつ嫌いだから」と聞えよがしにトランプ氏が言ったという話もある。

なので・・・参加各首脳の間を取り持たないと共同声明が成立しないので、日本の安倍総理がこれのまとめ役になるであろうことが予想され期待されているのだ。

そして、ここが大事だが、この共同声明の中にG7としての、日本としての香港問題に対する本当の考え方を練り込む、ということになると思われるので、そこにも期待したいところである。




「逃げ恥」は現代の神話か

2020-06-10 17:21:00 | 放送
現在、TBSのドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の「ムズキュン版」なるものが放送中である。厳密には再放送だが、未公開カットが新たに編集で加えられており、新たなヴァージョン(*1)で、ということらしい。

この「逃げ恥」は近年のドラマとしては異例の人気を博しており、2016年の初回放送から高い視聴率を出している。放送終了後も人気が衰えず2018年、2019年にそれぞれ全話一挙放送という形で再放送されているのだが、それでも人気はなくならず、(武漢コロナウィルスの影響があったとは言え)現在のムズキュン版(一種のディレクターズカット版か)の放送に至っている。

いわば普遍的な人気を獲得している訳で、多くの視聴者への影響力の大きさを考えると、現代の神話的なポジションにある物語なのかもしれない。(*2)

神話と呼ぶのは決して大げさではない。神話は我々人類が深層心理や精神のベースに持っている様々な元型的モチーフや心的な動きを具現化したものであり、それは無意識の領域に直接訴求してくるものでもある。このドラマが何度視ても飽きない理由はそこにある。そして視る度に理解は深まり新しい発見に喜びを見出すのである。

そして、さらに神話的なモチーフとしての伝統的な男女のあり方についても新たな問いかけをしており、連綿と続く伝統的なものを重視しつつもそこに新しい男女関係の形を模索する、という挑戦も見られる。伝統的・普遍的な男女の関係を基調に新しい形というか有り様を提示し、だからこそ誠実だが自尊感情の低い非モテ男性が奇跡的に女性との関わりを持つことに成功する、というモチーフを表現することができたのであろう。もっとも、新しい形と言っても、それは比較的表面に近いレイヤーの話であって、結局深層レイヤー(ベース)にあるのは古来から受け継がれてきた伝統的な人間の心であり価値観なのだ、という「一周回って元へ回帰」的な結論だったりもする。そこを外していないからこそ長期に渡って人々を惹き付けてはなさないのである。

このドラマがそれほどの神話的な深みと完成度の高さを獲得できたのは全てのファクターが「上手くいった」からにほかならない。大きくは企画、コンセプト、演出であるが、細かく言えば脚本、キャスティング、役者の芝居、映像・ビジュアル関係のスタッフ、オーディオ関係・音楽関係のスタッフ、その他全ての役割のスタッフの仕事がうまくいったから得られた成功ではないか、と思う。脚本がよくできていて無駄がなくダイアログが自然な流れでストーリーの展開を誘う。普通に見ていてもダレる箇所が見つからない。見始めるとずっと見られるのであり、飽きるシーンが無い。演出・役者の芝居・編集の全てが良くないとこうはならない。実際にドラマを視聴していても各シーン各カットのリズム・テンポが良く、スタッフが「演出」や「編集」を楽しんで仕事したのであろう事が容易に想像できる。その結果、良質なラブコメとして見事に成立したのである。(*6)

現代は女性が輝く時代であって、多くの一般男性にとっては生きにくい受難の時代であるが、そうした時代の色合いや社会の有様を自然に取り入れることに成功しており、いわゆる自己肯定感の低い男性、自尊感情の低い男性、つまり非モテの男性達からも大きな共感を得られたものと思われる。(*3)非モテ男性の辛さを過不足なくありのままに描くことに成功しているのであり、津崎平匡が感じている苦しさや切なさに共感することができる一方でドラマの視聴そのものが辛くなってしまうような悪い意味のアクの強さというか、外連味や嫌味がないのだ。(*4)

森山みくりというキャラクターは紛れもなく現代的なアニマ元型が投影されるであろう女性である。一般市民であり女性でありながらもどこか非凡な個性を持ち、本人が自分の中の嫌らしさとして評価している「小賢しさ」を含む個性(女性性)がむしろ平匡や風見といった男性キャラクター達の求めるアニマ元型の投影先として成立する、という事がいかにも(昔にはなかった)現代の男女関係に於ける普遍的な形を表している…ように思えて実に面白い。(*5)

ドラマの各所に登場する「オマージュ」「パロディ」という形の「ユーモア」もラブコメであるが故に導入しやすかったという利点はあったと思うが、全てが上手く自然に各シーンに当てはまっている。一般的にありがちなパターンはパロディやユーモアとして何かのモチーフを登場させたり絡ませたりすると、そこだけ変に浮いてしまう…という失敗である。アイデア単独で面白くても必ずしも肌合いがフィットしないユーモアは木に竹を接いだような不自然さが現出して、そこに演出上の作意が見えてしまうからである。しかし、この「逃げ恥」に於いてはそうした試みは全て上手くいっている。あくまで一例として挙げるが、エヴァンゲリオン風の演出になるシーンも大河ドラマ「真田丸」風の演出も完全にそのシーンの特性に合致していたからこそ自然に視ることができ、最高の効果を得ることができたのだ。情熱大陸やニュース番組ネタ、選挙演説ネタなども同様だ。パロディやオマージュであってもそのような形をとることが最も妥当であり、そのシーンが目論む表現に合致していたから視聴する側からも演出上の変な作意を感じることなく素直に受け入れることができて良かったのだ。これは簡単なようでなかなかできることではない。


こうして視聴者一般の無意識に良い形で訴求することができた「逃げ恥」は現代の男女のあり方を示す神話の一つとして位置づけても良いのではないか、と私は考えている。制作者と演者の皆さんに拍手を贈りたいと思う。




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(*1)
制作担当者の話では、今回放送では番組枠が初回放送よりも3分長いので未公開カットを挿入しやすい、とのことである。

(*2)
例えば1977年に映画「スターウォーズ」がなぜヒットしたかと言えば、「お姫様をさらった悪い竜を退治してお姫様を取り戻す王子」という無意識内の元型にぴったり合致するストーリーだったからであり、さらにその世界をきっちり作り上げた完成度の高さがあったからである。

(*3)
例えば、修善寺の温泉旅館のシーンで一夜明けて何もなかった事にがっかりするみくりは「非モテ男性の境涯」を何一つ理解していない一般女性そのものを体現している。一方で平匡は非モテ故にまさか自分が男性として期待されていた事など夢にも想像し得ないからこそ逆に雇用主と社員の関係として完全に対処できた自負を持つに至る。この二人のあまりにもあんまりな意識のギャップが泣けると同時に笑えるのは現代に於ける恋愛のあり方をシンボリックに表現できているからであろう。一般的に女性はその恣意ひとつで男性を求めたり拒否したりできる資格を自ずと持っており(*3a)、それが至極当たり前であることを信じて疑うことがない。すべての思考の前提となるものであり意識化されることは無い。一方で非モテ男性は自分が女性に求められる事は「あり得ない」と信じて疑わない。自分が女性に好かれる筈がない、という鉄壁の確信を持っているのだ。女性にはこの心境が想像もできないが故に”勝手にがっかりする”のであって、このどうしようもないギャップと思惑のすれ違いが最後までこのドラマの根幹にあり続けるのである。(*3b)

(*3a)
女性だけが持つ「性的優位性」故、である。男女は極めて不等価な関係にあり、男性には常に「男らしさ」「女性をリードできる力強さ」「女性の思惑を汲み取る感の良さ」といった鉄板の規範が自ずと求められ、その規範でがんじがらめにされているが故に男性(特に非モテ男性)は生きにくくなる。女性との関係性を適切に保てないが故に女性に接近すること自体を諦めるのである。これが平匡を悩ませている(みくりを的確にリードできない)心的葛藤の正体である。平匡役の星野源氏は最近のANNで「逃げ恥」について言及し、この男性に求められる規範と男性がそれにがんじがらめにされる実情を「レッテル貼り」という言葉で表現している。「男に生まれたらこうあるべき」というレッテルである。そのレッテルに沿った言動・行動ができないと社会はその男性を「一人前の男」とはみなさないのである。本人の個性や特質などは一切関係なく社会から押し付けられた暗黙の規範を受け入れて男としての役割をこなせないと許されない…それが男性なのである。(*3a-1)(*3a-2) その一方で女性にもレッテルがあるのだが、男性とは違って全てが自由で己の恣意に従って言動・行動することを是とするものである。どのような場面でも、うまくいかなくても、求められた役割を拒否しても女性なら許されるのだ。それが女性の特権でありレッテルでもある。男性のそれとは天地ほどの差異がある。これもまた女性の「性的優位性」故、である。

(*3a-1)
余談だが、社会における(特に働き盛りの)男性の死亡原因に「自殺」が多いのはこのせいである。社会から強く求められる「男らしさ」のせいで男性は追い込まれて自ら命を絶たざるを得ないほど苦しむ…ことが少なくない。この暗黙の社会規範はリアルに男性を厳しく、それはもう厳しく追い詰めるのである。

(*3a-2)
契約結婚というユニークな関係と生活がスタートして以後、津崎平匡はみくりとの関係をあくまで「契約による雇用関係」と位置付けてそれを意識的に徹底するのだが、みくり側は”無意識的に”とは言え、勝手に恋愛関係をダブらせていき、恋愛関係を前提にした発想と思考をするようになる。これはある意味で非常に身勝手な事であるが、これもまた女性の性的優位性がベースになっているのだ。これが逆の関係(雇用側が女性・非雇用側が男性)だったらすぐさまセクハラ案件になってしまう。女性だから、性的優位性が前提にあるから勝手に恋愛関係という図式で捉える事に何の疑問も抱かない上に、自分の希望通りに平匡が乗ってきてくれないと憤りを感じたりもするのである。女性は本当に身勝手なのである。

(*3b)
森山みくりが親友で元ヤンの田中安恵(真野恵里菜)と会話するシーンで、みくりは安恵に対して津崎平匡の事を「向こう(平匡)は彼女いたことない人なの。だから、私のことが好きで盛り上がってるって言うよりも、初めての彼女らしき相手に盛り上がってるだけかもしれない」「同居して、家事してくれて、ハグができる女なら誰でもいいんじゃないかっていう可能性が…」と語る。このような視点を持ち、上からの目線を持てるのも性的優位性を持つ女性ならでは…である。

(*4)
非モテ男性の境涯は「モテ」に属する人からは一生かかっても理解できないし理解する気もないだろう。原作の海野なつみ氏でさえも津崎平匡という非モテキャラクターに対しては「面倒くさいやつだなあ、でも、こう思ってしまうのよね、しょうがない、しょうがない」と発言し、諦観を伴うある種の突き放し感を持っている。性的優位性を持つ女性にとっては理解の埒外だからである。非モテ男性は女性のような「性的優位性」を持たないので男女関係についてはどう頑張ってもうまくいかず成就しない宿命を背負っている。宿命故にこれはもう仕方ないのであり、世の中にいくつもある「どうにもならないこと」の一つなのだ。

(*5)
これは実は評価が難しいところである。・・・人間には「男性には男性の、女性には女性の深層心理的な基本スタンス」という基礎的な形が存在する。それを極めて平易に記すと次のようになる。男性は論理という刃で問題や理屈を切り分けて処理を進め解決に導く、といった特質を持つ。論理というのはそもそも男性的な特質を表すものなのである。一方で、女性は基本的にそのベースに母性がある。母性は論理よりも感情が優先される。良し悪しに関係なく全てを包み込むやさしさ・温かさ(*5a)を持つ。これは前述の男性的な特質とは真逆のものである。ここで、もしも女性が男性的な「論理という刃」を持ってしまったらどうなるか?…その場合、時として悲劇が起こる可能性がある。本来は女性の特質ではない「論理という刃」を持った女性は「必要」とか「必然」といった範囲を超えてその刃で全てを切り倒していく事があるからだ。このドラマに於けるみくりにはそうした傾向が時おり見られる。「論理の刃」のスイッチが一度入ってしまうと、全てを切り捨てて己の勝利を掴むまで猪突猛進状態になってしまうのである。これでしばしば平匡は困惑することになる。しかし、平匡や風見はそうした特質をも見越してみくりを愛した。すると、どうだろう…ここではむしろ男性の方が「何でも包み込んで受け入れる」母性的な特質を発動させている事に気づくのである。その基礎的な特質において男女逆転現象が起きているのだ。興味深いことである。

(*5a)
全てを包み込む(飲み込む)力は時として何でも包み込みとり込んでしまうことで人の心的自由(精神的自由)を奪ってしまう恐怖の特質をも包含している。

(*6)
但し脚本には些末だが看過できない問題もある。常識的な言葉遣いの問題だ。ドラマ初期の段階で両家顔合わせのシーン、土屋百合(石田ゆり子)が「結婚式の予行練習」という台詞を言うのだが、これは間違いで「予行演習」が正しい。ちょっとした言葉の間違いなのだが、確実な間違いなので見過ごせないのである。また、津崎平匡(星野源)の台詞で「シュミレーション」が出てくる。これも間違いで正しくは「シミュレーション」である。もう一つ、2021年正月に放送された続編ドラマ内の津崎の台詞で「コミニュケーション」が出てくる。これも間違い。正しくは「コミュニケーション」である。常識的な言葉を平然と間違えているのだ。これが脚本ベースの間違いなら(*6a)演出がそれを矯正できた筈だが演出もこの間違いをスルーしている。役者自身の間違いだったとしても演出家はその間違いを矯正する責任はあるだろう。それができていないのは問題である。<2021年1月5日:追記>

(*6a)
その場合は脚本家野木氏の無知に呆れる事になるが。





タンチョウ ありがちな勘違い

2020-06-09 12:18:58 | 自然
北海道東部、特に釧路湿原などでよく見られる鳥として有名なのがタンチョウである。今回はこの呼名についてのちょっとした問題だが、ほぼ誰も指摘していない事実について記したい。

「タンチョウ」は元々「丹頂鶴」であり、一般的に「鶴」と言えばこの種を指すのである。ところが、社会一般で言われているところの「タンチョウ」は本来「丹頂鶴」であることを知らずに呼ばれている気がしてならない。「タンチョウ」とは「丹頂」である。知識のない一般の人たちは「タンチョウ」を「丹鳥(タンチョウ)」だと思っているのではないか、という気がするのだ。(*1)一般的に、あまりにも無造作に「タンチョウ」とだけ呼ばれるケースが多く、しかもその言い方を聞いていると鶴ではなく「丹鳥(タンチョウ)」という鳥(種)だと勘違いしているように思えて仕方ないのだ。そう考えると気になって夜も眠れないので昼寝ばかりしている。

丹頂鶴の「丹」は「赤い」という意味である。だからただ「タンチョウ(丹頂)」と言うと「頭頂部が赤い」と言う意味になる。丹頂鶴の頭頂部には羽毛がなく露出した赤い皮膚があってこれに由来する名称なのである。この皮膚の露出部分は赤く細長い丸っこい小さな突起が夥しく密集している。赤い色は血液の色だそうで、近くで見るとなかなかのインパクトがあり、一種の「閲覧注意」に該当するかもしれない。

なので、繰り返すが一般の人が「タンチョウ」と言う時、実は単に「赤い頭」と言ってるだけ・・・ということになるのだが、前述のように人々は「タンチョウ」が「丹鳥」だと勘違いしている可能性があるのでなかなか気が付かない・・・ということなのかもしれない。その意味では正式に「丹頂鶴」と呼んだ方が誤解も起こらず良いのでは、という気もする。

当の丹頂鶴は生息数が減っているようで、日本に限らず人間に依る地域開発等の影響で生息域が徐々に減る傾向にあって絶滅危惧種に指定されている鳥である。

釧路湿原などの原野を群れをなして飛行する姿は非常に美しく、以前から写真家や映像作家達の格好の被写体としても定番になっている。



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(*1)
あのタモリ氏でさえ、ブラタモリで釧路湿原を訪問した際、丹頂鶴を見て「タンチョウだよ」と発言していた。タモリ氏なら正しい認識は持っているかもしれないが、しかし読みについての説明が無い限り、「タンチョウだよ」と言われた方(林田アナや一般視聴者)は誤った認識を持つ可能性は否定できない。