Altered Notes

Something New.

須藤凛々花 批判の核心

2018-03-21 20:14:21 | 人物
元NMB48の須藤凛々花が結婚宣言で世間を騒がせたのは昨年のAKB選抜総選挙のステージ上であった。須藤に対してはファンやメンバー内だけでなく世間一般からも批判が殺到したのであるが、「なぜ批判されるのか」の理由について今一度考えてみたい。

そもそもアイドルというのは本人が何かの分野で秀でた才能を持っているということではなく、存在そのものに価値があるから成立する分野でありビジネスである。往々にしてその存在は憧れの対象となると共に疑似恋愛の対象にもなる。従ってアイドルは誰のものでもない誰の恋人でもない純粋無垢な立ち位置を確立し維持する必要がある。

この[アイドルとファンの関係]は

モラルエコノミー(経済道徳論)

の考え方で捉えることができる。アイドルは往々にしてファンよりも上位の立場に位置し、一種の特権的な存在である。
モラルエコノミーでは

「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」

と考える。アイドル(有名人)は社会の規範となるように振る舞うべき、つまり社会的責任を負う立場である、ということだ。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、ファンの心を傷つけたりしない、夢を壊さない振る舞いなども含まれる。

タレント・アイドルの類は社会に人気者として君臨して世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。
一般的にアイドルの恋愛などでしばしば問題が起きて追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより正確と言えるだろう。

このように

「アイドルという一般人よりも上位に位置し特権を持つ人間が高いレベルの社会規範遵守を求められる」

という考え方は

「ノブレス・オブリージュ」

というフランス語でも説明できる。
ノブレス・オブリージュとは「高貴なる義務」である。

その昔、ヨーロッパで戦争に参加するのは貴族の子弟だけだった。平民は後方支援することはあっても戦争に参加することはなかった。

なぜか。

上位の地位にある者は、より血を流し苦労する責務が求められたからだ。それは前述のように特権を持つ者がそれを持たない人たちへの義務によってバランスが保たれるからである。
アイドルには特に高いモラルが求められる理由はここにあるのだ。

従って、アイドルの世界で暗黙のルールとして有名な「恋愛禁止」も同様に捉えられる。一部では「アイドルにも人権はある。だから恋愛も自由だ」と主張する向きもある。しかし実際には「アイドルに人権は無い」と言って過言ではない。アイドルはポピュリズム、人気に依って支えられている職業なのだから、高いレベルで社会の規範を遵守し、かつ顧客たるファン層が抱くイメージを保つ事が強く求められるのである。


ここで須藤凛々花の発言を考えてみる。

須藤は「恋愛禁止」という暗黙のルールを「破るために存在している」と自分に都合の良い解釈で規定した。そして正面突破でそのルールの足かせを破壊した事をどこか誇らしげに捉えているフシがある。自分をトリックスターのように位置づけて一種のスーパーヒロインという存在になぞらえているのだろう。自分勝手で独りよがりである。

また、総選挙時の結婚宣言で各界各層多くの人々を騒がして振り回した事も表面的には「申し訳ない」としながらもどこか「やってやったぜ」とドヤ顔をしているようにも受け取れる。須藤の大罪の一つはファンだけでなく、スタッフ等の彼女を身近で支えてくれる人たちをも巻き込んで多大な迷惑をかけているところにある。総選挙に参加していた他のメンバーに対しても同様で、あの結婚宣言のおかげで他のメンバーに関するエピソードやニュースが全て吹っ飛んでしまった。該当メンバーについては気の毒としか言いようがない。

あの時、総選挙のステージ上であのような行動・言動に出ることでその影響がどのようにどこまで広がるか須藤には全く想像できなかったのであろう。なぜか。子供だから、である。須藤は年齢こそ成人しているが、頭は相当に幼いままであることがその言動や行動から伺い知れるし、声質や喋り方からもそれは判る。しかもタチが悪いのは彼女の趣味である哲学というものが幼い精神に一種の理論武装をさせてしまったことにより根拠のない自信を彼女に植え付けたことだろう。今のところ、彼女にとっての哲学は極めて表面的な武器であり自分の保身(と演出)、つまり自分の身勝手な考えを正当化するための道具にしかなっていない。

余談だが、そもそも哲学というものが厄介なのだ。往々にして哲学者の議論というのはしばしば「議論の為の議論」に陥ることが多く、何か深いものがありそうで実際は抽象的な概念の海で溺れているだけ、といった場合が少なくない。実際の体験や厳然たる事実だけをその学問の基礎として研究を重ねて輝かしい功績を成し遂げた深層心理学者のC.G.ユングは「哲学者に語らせてはいけない」とまで言っている。

須藤はしばしば「人生を危険にさらせ」とも発言している。しかし、そもそもアイドルとして守られた環境下でそんな事を言っても何の説得力もないのは明白である。情けないしみっともないことこの上ない。正に子供の戯言だ。

ファンの多くは「結婚が判っていたのに総選挙で投票させた須藤の罪は大きい」という趣旨で怒り批判するのだが、これは上述のモラルエコノミーの考え方で見る限り完全に正しい。ファンは須藤に自分の夢や理想を投影し、総選挙での須藤の順位を上げるために相当な額面の私財をはたいているのである。結婚宣言を突きつけられたファンは自分が投じた大金がドブに捨てられたような気持ちになっただろう。
須藤自身はこの部分について「ビジネスだから」という趣旨の言い訳をしているが、これは論理のすり替えであり、責任から逃れるための口実に過ぎない。モラルエコノミーの観点から見れば完全にアイドルとして不成立でありアウトである。何よりファンに対して無責任かつ無神経過ぎる発言と言えよう。彼女が自分の事しか考えてない極めて利己的な人物であることが伺える。

また、須藤は学校での勉学の成績は良いそうである。偏差値は高いということだが、この手の人間にありがちな「頭は良いが心は育ってない(=子供)」の一種の典型なのかもしれない。

この他にも須藤発言は数多あるが、一貫して須藤自身にだけ都合の良い身勝手な理屈ばかりで呆れるばかり…というのが総合的な印象である。

こうして見る限り、須藤の思想は前半部で述べたモラルエコノミーやノブレス・オブリージュの考え方とは根本から反しているものであることが判る。ここから「プロ意識の欠如」という評価もできる。(*1)

須藤凛々花に夢を投影したファンの皆さんにとっては非常に大きな失敗事例となったことは残念であり気の毒なことである。





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(*1)
須藤凛々花とは全く逆で、プロ意識をきちんと持ち、アイドルとしての責務をしっかり自覚して日々、前進し続けていると思われるのがNMB48のリーダーである山本彩である。その振る舞いや発言から見る限り、さや姉は真に責任ある大人として生きている、と太鼓判を押せる存在であろう。





平昌オリンピック後の北朝鮮情勢を展望する

2018-03-21 02:05:08 | 国際
平昌オリンピックにおいては北朝鮮の政治的な動きに注目が集まった。
日本での報道ではなんとなく南北朝鮮が歩みつつあるかのような印象を与えるものが多かったが実際はどうだったのか。

北朝鮮に依る南北融和のプロパガンダに文在寅大統領が乗った結果として文在寅大統領の支持率は81.6%から59.8%に下がってしまった。
日本では報道されなかったが、金正恩の実妹である金与正を文在寅が手厚く迎えていた時に建物の外では金与正訪韓に反対する人たちによる凄いデモがあったのだ。

北朝鮮国旗を燃やしたりしたのであり、米国のCNNも多くの時間を使ってこれを報道していた。だがしかし、我が日本のテレビでは全く報道されなかった。こういうところが日本のテレビ局の不可思議な部分である。

さて、現在のこの状況で南北首脳会談に動くとどうなるのだろうか。さすがに文在寅大統領も現実主義者なのでそう簡単にはいかないと踏んではいるようだ。

北朝鮮自身は「平昌オリンピックに参加します」と言っただけであり、決して「核開発をやめる」とも「ICBMを射たない」とも言ってはいないのが実態だ。従って五輪終了後も緊張は高まったままなのである。
日本のテレビを見ていると平和になりつつあるように錯覚するが、実態は全く違う。韓国国内は結構荒れている、というのが実態である。

結局、パラリンピックが終わる3月中旬までは事実上緊張緩和はしているが、実は何も変わっていないのだ。この問題に関しては日本政府も米国政府も文在寅に対して相当厳しく言っている。合同軍事演習を早くやりなさい、とか、オリンピック中は黙ってるけどオリンピックが終わったら圧力路線に戻りなさい、と。

安倍総理が平昌五輪開会式に行ったが、それはどうしてなのか。
どうも文在寅大統領が慰安婦合意については棚上げの意向を持っているようだという事がある。韓国国内向けには日韓合意を否定して見せておいて、その一方で「いや、破棄もしません」と言って、結果として曖昧にしている。日本から見れば曖昧なまま何もしないで済まそうとしているのは「そうはいかない」ということになる。ちゃんと日本大使館前の慰安婦像は撤去しなさい、と。・・・というようなことを直接言うしかないと思ったのが理由の一つである。
もう一つは、アメリカがペンス副大統領を派遣するけどペンスだけじゃ心もとないから安倍総理に「一緒に行ってやってくれ」という要請があった。一緒に行って2人で文在寅大統領を説得しよう、ということをホワイトハウスからかなり強い要請としてあったのである。

安倍総理に「一緒に直接行ってくれ」と言うのは恐らくトランプ大統領の命を直接受けたのであろうと思われる。文在寅大統領は親北朝鮮でありアメリカが嫌いだ。

北朝鮮が朝鮮民族の正当なナショナリズムを代表している、というのが彼のスタンスだ。だから統一に向けて、北になびいて前のめりになっているのだ。
前大統領である朴槿恵を引きずり下ろした運動、市民運動を全部主導したのは親北の団体や労働団体である。慰安婦問題で騒いでいるのもバックには全て北朝鮮が存在しており、そうした市民団体は北朝鮮の司令どおりに動いているのが実態である。
韓国の人々は知らない内(朴槿恵排斥運動などをやってる内)にいつのまにかとんでもない”対南工作の最終結果のような人”を大統領に選んでしまった、ということである。その意味では韓国は既に詰んでいると言えるだろう。

だから安倍総理とペンス副大統領が2人で行って最終通告のような感じで一緒に圧力かけようということで行ったのだと思われるが、しかし文在寅は(緊張関係はあるにしても)南北会談になだれ込んでいくのは必定と思われる。

この問題をオリンピックから見たらどうなるか。
クーベルタンがオリンピックを最初に作ったときは4年に一度のオリンピック期間は戦争をやめて素直にオリンピックに出るというのが規則だったので、開催期間中は冷却期間になるのである。だから南北の融和の方に行くのであればオリンピックの政治利用としては正当であるとも言える。
もう一つは、民族が2つに分かれていて兄弟や離散家族がいるという状態は決して幸福な状態とは言えない。ドイツだって統一しているのだから日本は朝鮮の統一について積極的な役割を果たすべき、なのかもしれない。
アメリカというのはそもそも過去に日本が戦った相手であり敵でもある事は今一度再認識しておく必要があるだろう。

ただ、こうした問題もある。
オリンピックの政治利用は結構なのだが、その結果が良い方向に向かってるのかどうかと言うと、そこを見る限りは変わっていないように見える。変わってないどころか、北朝鮮にとっては時間を稼ぐというのが最大の利益になるのだ。これで少しでも時間を稼いで核やミサイルの開発が可能になれば、むしろ悪い方向に向かっていることになるのである。

南北首脳会談とは北朝鮮が持っている最高のカードであり、これ以上のものはない。とっておきの大事なカードをきるということは、それくらい欲しいものがある、ということに他ならない。欲しいものは何か。それが前述の「時間」である。
時間稼ぎをしたいから南北首脳会談を提案した。逆に言えば首脳会談は出来ようが出来まいがどっちでもいい。もめてる間に時間が過ぎていくのだから。・・・ということは北の核ミサイルは完成しつつある、ということである。今年中に完成するのはまず間違いないと言われている。

ただ一方で金与正という自分の妹まで差し出してこういう外交をやってきたというのは、北も相当困っている、という実情が伺い知れるのだ。
北は時間稼ぎだけでなく、将来は北優位の南北統一を狙っているので、韓国民の中にも「北の核は朝鮮民族の核なんだ」「結構じゃないか」という世論を盛り上げようと画策しており、それはある程度成功しているのが実状だ。

実は文在寅大統領は北が核を持つ事を(腹の中では)容認している。つまり容認してしまえば、統一したときは朝鮮半島に核を持つ、ということになるからだ。だから韓国民も「北の核は悪くない」「統一した時に我々は即核保有国になるのだ」と思って心の底からは北に反対していないのである。

実際問題として、核付きの統一しか今の朝鮮半島は統一不可能であろうと思われる。日本はその核付き統一に文句を言ってもいいが、しかし同時にそれに対抗する軍事力を持つことが日本には必要であろう。

「4月1日に米韓合同軍事演習」が実施されることが発表された。これは最初は3月20日前後で予定されていたのだが、そこに米軍の戦力が集中するので最も緊張が高まるであろう。消息筋の情報ではこの時点で80%の確率で軍事衝突が起きる、と言われていた。ただ、そこら辺を北朝鮮はしっかり読んでいるので今回の南北首脳会談をぶつけてきて韓国の世論を引きつけておいてアメリカ軍が自由に動けないような状況を作りだしているのである。

そして問題は文在寅大統領の側も、金与正と会った時に核とミサイルの話は全くしなかったことだ。平和ムードを演出するだけで本来韓国が当然のように要求しなきゃいけなかったことをしなかったのである。これは文在寅も北と同じ腹だ、ということを意味しているものと思われる。

実際に軍事衝突はあるのだろうか?
実際には衝突はないだろう、という読みがある。韓国側の被害が大きすぎるからである。首都ソウルに人口の四分の一くらいが集中している国だから、いざ大きな被害が出てからその責任を問うた時にはアメリカが批判の矢面に立つことになって責任を追求されることになるだろう。

ただ、2017年9月18日にマティス国防長官が「韓国が甚大な被害を受けない形での軍事衝突はある」と発言してはいる。これについて自衛隊のさる最高幹部は「徹底攻撃だ」と言う。米軍がトランプ大統領に示している作戦の数は5~7あると言われており、それはつまりあらゆるパターンについて準備している、ということであろう。

実際のところはどうなのか。軍事衝突はあるのかないのか。トランプ大統領自身は戦争したくない、できない、と考えているようだ。非常に難しい、と捉えているようである。

北朝鮮の実際的な反撃力がカタログスペックほどあるのかどうかに関してアメリカのシンクタンクが「それほどないだろう」という趣旨のレポートを出している。反撃してもほとんどアメリカには届かないだろう、と。不発弾も多いし無理だろう、というのがアメリカの専門家の見方である。

北朝鮮の反撃に関しては、最初の一撃で金正恩さえ排除すれば向こうには継戦する理由はなくなるんじゃないか、という見方もある。恐怖政治の独裁国だからである。独裁国では独裁者が死んでしまえば後は(国民としては)「自由になった」ということで終わってしまう可能性がある。

なので、トップを替えるクーデターのようなことができれば一番良いと考えられている。意外にオール・オア・ナッシングで、全然やらないか、やるなら徹底してやるべきだ、ということ。しかし徹底してやったらどうなるか。北朝鮮は焼け野原になる。それをアメリカは再建しなくてはならない。アメリカにとってこんな面倒くさいことはない。そうなったら結局のところ、中国が一番得をすることになるであろう。実際は焼け野原になったら中国にまかせるのではないかと推測されている。

逆に、軍事衝突が無いとすればどうなるのだろうか。
最終的に北朝鮮の独裁者の手には数発の核弾頭は残るであろう。我々はそれと共存してゆくほかなくなる。そういう形で統一が実現したとして、アメリカはそれを容認できるだろうか。結局容認するしかないだろう、というのが専らの見方である。

そもそもの話だが、トランプ大統領は何のために出てきたのか。それはアメリカが世界から手を引く為である。事実、中東からもアジアからも手を引いている。そんな国が北朝鮮を爆撃して駄目にして中国に世話を頼む、という形は絶対にあり得ないだろう。手を引いて、核はそのまま、ということになる。

この核はどうなるのか。
最も怖いシナリオは国家を持たないテロ組織が核を持つことだ。報復の危険がないのでどこでも攻撃できることになる。我々が最も避けたいのは領域支配していないテロ集団が核を持つことである。だから北朝鮮が核の流出や横流しをさせないと約束するなら米ロ中が関わってそういう体制で現地査察もする形で担保できるなら、あの国が持つのもやむを得ないということに最終的にはなるだろう。

北朝鮮はテロ支援国家ではあるが、何のために核開発しているかというと、第一の理由は金王朝体制の維持である。これを保障する為、というのが最大の目的である。だから、核を持たなかった反米独裁者であるカダフィやフセインは抹殺されたのであって、俺達はそうはならないぞ、という戦略判断は残念ながら正しいのだ。だからアメリカも手が出しにくくなってしまった。
もちろん北朝鮮は全然信用できないのだが、国内で核を持ってる分には、そしてロシアと共に流出阻止が担保できるなら妥協の余地はあることになる。アメリカに届くようなICBMは断念させるだろう。口約束ではなく現地査察して担保できるならば合理的な妥協をアメリカはすると予想される。

日本の見方はどうであろうか。
安倍政権や自衛隊幹部は軍事衝突する可能性は高いと見ているようだ。現在の法制上(憲法も)は難しいのだが、もしそうなった場合は拉致被害者救出の為に自衛隊を出すことも政府は検討している。
韓国は自衛隊の派遣は絶対に認めないが、米軍と共同するとかしてどさくさ紛れに勝手に出してしまう…と。そこまで想定しているのであって、何も検討してない訳ではないのである。

繰り返すが、韓国は公的には自衛隊の船や航空機は絶対に受け入れないとする立場なので、どうしても必要となったら日米で強行する他に方法はない。アメリカ人を避難させるために日本の船が行かざるを得なくなる場合もあり得るだろう。

このようなケースで、海外で該当事象が発生した時に従来はどうしていたのだろうか。その場合、自衛隊はその国の空港と港までは行けた。現地の日本人はその空港や港までは当該国の交通手段を使ってそこまで来てくれ、という形だったのだ。それが法改正で自衛隊の装甲車が日本人学校や大使館や領事館に救出に駆けつける事ができるようにようやくなったくらいである。
だがしかし、それは日本の法律の話であって実行するには相手国の同意が必要である。韓国はもちろんそれに同意していない。この場合どうするのであろうか。

また、韓国は日本人を人間の盾にするのではないか、という話もある。
逃げてくるのは6万人ほどいるので飛行機で何度もピストン輸送しないといけないのだが、戦時下でそれを遂行するのは非常に難しいであろう。

アメリカの攻撃のタイミングはいつなのであろうか。
もし実際にやるとなったら非戦闘員退避命令(NEO)が出るとは言われている。しかしそれが出たら攻撃が近いことがモロにバレてしまう。

公開されている情報から見てみよう。
アメリカのポンペオCIA長官は北の核ミサイルが「あと数ヶ月で完成してしまう」と発言している。大統領は一般教書演説で「まもなく北のミサイルが米本土に届く能力を持ってしまう」と発言した。コーツ情報長官は「もう決断の時がそこに迫っている」と発言しているのだ。
公開されている情報でこれだけ攻撃の可能性を言っているのだ。従ってこれは相当切羽詰まっていると判断せざるを得ないだろう。

4月からは相当緊迫してくる事が予想される。





音の強弱が判らない若年層

2018-03-18 19:47:56 | 社会・政治
近年、TV番組を視聴しているとやけにBGMの音量が大きくてナレーションの声が聞き取りにくいと感じることがある。また、YouTubeなどで動画を視聴している時にも同様の感想を抱くケースがある。バランスの問題であり、BGMが大き過ぎれば相対的にナレーションやセリフが聞き取りにくくなるのは理の当然なのだが、なぜかこれが判らない作り手(映像作品製作者)が少なくない。ナレーションよりBGMが主役なのか、と思うほどバランスを欠いた音量の場合も見受けられる。

こうした事態に遭遇する度に思い出すことがある。もう20年以上前だが、音楽・放送業界に籍を置く知人が言っていた言葉だ。それは「音の強弱が判らない若者が増えつつある」という指摘である。

どういうことか。

楽器を演奏したことがある人なら判るだろうが、音楽の譜面には強弱記号や音量の指示が書かれている事が多い。フォルテやピアノ、クレッシェンドやデクレッシェンドなどがすぐに思い出されるところであろう。
例えばこの中でクレッシェンドと言えば小音量から大音量まで少しずつ無断階に大きくしてゆく」という指示であるし、デクレッシェンドならその逆で「大きな音量から小音量まで無段階に徐々に小さくしていく」という指示だ。

前述の知人が言うには例えば「クレッシェンド」が指示するところが理解できず、最初から大きな音で鳴らしてしまうのだそうだ。音量を小→大の方向で少しずつ上げていくのがクレッシェンドなので最初から大きな音量で鳴らしてしまってはクレッシェンド指示の意味がない。しかし若者にはこの”音量の調節”という概念が無いかの如く音量に変化の無い音を鳴らしてしまうのだ、と。

なぜこのような人間が育ってしまうのかは不明だが、1980年代あたりから若者が聴く音楽に電子音楽が増えてきた事と無関係ではないような気もする。
ゲーム音楽、ディスコやクラブで鳴らされるダンス音楽、ヒットチャートの流行曲で鳴らされる電子音楽の多くは最初から最後まで大音量であることが多かった。あまり音楽的な強弱の変化が見られないか、極めて少ないものが多かったと記憶している。それらの影響が皆無であるとは言いきれない気がするのだ。
成長過程において真に音楽的な音楽を聴いてこなかった、という事の必然的な帰結ではないか、ということだ。

前述の知人から「若者が音の強弱を認識できない」と聞いたのは20年以上前だ。その頃若者だった人間は今で言えばTV番組を制作するスタッフの中でもそれなりの地位にある者が多いだろう事は容易に想像がつく。ならば、TV番組の音の扱いがどこかガサツになっていてもそれは当然であり必然なのかもしれない。



「CCDカメラ」という誤解

2018-03-15 04:10:36 | 放送
テレビ番組の中(特にロケ映像)でハンディタイプの小型カメラが出てくると、芸人やタレント等の出演者はそれをスタジオの大型カメラと区別する意味で「CCDカメラ」と呼んでいる。ときには通ぶって「CCD」と言ったりもする。

それは確かにその通りなのだが、しかし、ある意味ではこの呼称は間違いなのだ。

どう間違いなのか?

CCDは「電荷結合素子 (Charge Coupled Device) 」という固体撮像素子の事であり、イメージセンサー、つまりレンズから入ってきた光を電気信号に変換する重要なパーツ(*1)である。このパーツ(CCD)はテレビスタジオに配置されている大型のスタジオカメラにも入っているし、報道カメラマンが肩に担いで事件現場などで撮影する肩載せ式のカメラにも入っているし、そしてもっと小型のハンディータイプ(芸人等がCCDカメラと呼ぶ)カメラにも搭載されている。

なんのことはない、全てのテレビカメラ・ビデオカメラが「CCDカメラ」(*2)なのである。従って芸人たちが小型のビデオカメラを指して「CCDカメラ」と呼んでいるのは無意味であり知ったかぶりでしかない。カメラの種類を区別したことにはならないからである。そもそも彼らは「CCD」という言葉(文字列)の意味すら知らないで言いまくっているのだ。彼らが得意気に「CCDカメラ」という時、それは自らの無知無教養を晒しているだけであり実に恥ずかしいことなのである。


テレビカメラ・ビデオカメラにも歴史がある。
昔はイメージャーとして使われていたのは撮像管という一種の真空管である。撮像管も最初は非常に大きくスタジオカメラに用いるのが精一杯なサイズだった。(*3) それが年月とともに刷新されてかなり小さいサイズのものを作れるようになってきた。しかしそれでも小型化を図るには限界があった。

一方、1969年に米国で発明されたCCDだが、テレビカメラ・ビデオカメラに使える最初の実用的な固体撮像素子としてCCDを開発したのはソニーである。それは1985年頃だったと思うが、CCDを利用した最初の家庭用カムコーダーとして8ミリビデオが世に出た。

それ以降CCDは家庭用カムコーダーのイメージャーとして定着していったのだが、プロ用・テレビ局用としてはなかなか普及しなかった。初期のCCDは画素数が現在に比較するとあまり多くなかったので業務用・放送用映像のクォリティには遠く及ばなかったからである。

しかしその後ソニーだけでなく他のメーカーもCCD製造に参入してクォリティが磨かれていった。その結果として業務用ビデオカメラ、そして放送用テレビカメラとしても通用するCCDが開発されたのである。

こうして現代においては家庭用ビデオカメラから業務用・放送用テレビカメラに至るまで、すべてのビデオカメラがCCD(固体撮像素子)を使用するに至ったのである。


話を戻すが、その昔、そもそも最初に番組制作者(ディレクター等)が演者である芸人たちに対して小型のハンディーカメラを「”CCDカメラ”と呼べ」と指示したとすれば、その理由はイメージャーとして撮像管が全盛だった時代にスタジオのテレビカメラとの区別をつける為だったのかもしれない。

しかし私が記憶する限り、芸人等が得意気に「CCDカメラ」と呼ぶようになったのは既に撮像管カメラも使われなくなって固体撮像素子(CCD等)を使ったカメラが中心になって以後だったと記憶しているので、芸人等が小型ハンディーカメラを指して「CCDカメラ」と呼ぶのはやはり「おかしい」と言わざるを得ない。だから筆者も番組を見ていて(聴いていて)違和感を持ったのであろう。

いずれにしても、芸人は無知無学である。彼らはまさかスタジオで自分たちを撮っている大型のテレビカメラもまた「CCDカメラ」であることを知らないのだ。無知は罪である。



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(*1)
シネカメラならフィルムに相当する部分であり、レンズから入ってきた光(映像)が結像する場所である。


(*2)
イメージセンサーには大別してCCDタイプとCMOSタイプがあるが、ここでは固体撮像素子を代表してCCDとする。


(*3)
最初期の撮像管は両手を使わないと持ち上げられないほど大きかった。その後、技術開発が進み徐々にサイズは小さくなっていったが、カラーカメラは撮像管を3本搭載(*3a)するので小型化・ハンディサイズ化は到底無理だった。

(*3a)
最初期のテレビはモノクロ映像だったので撮像管は輝度信号用に1本だけ搭載すれば良かったのだが、1960年代半ばのカラー放送開始時に色信号も扱うようになったので1台のカメラに3本搭載されることになった。レンズから入ってきた光を光の三原色(R,G,B)に分解して各々別々に撮像したからである。ここの原理は今でも同じで光の三原色に分解された光は3枚のCCDによって受けることになる。







「ワイプ」という誤解

2018-03-02 20:42:05 | 放送
テレビ番組でしばしば「ワイプ」という言葉を聞く。しかし本来の意味とは異なる意味で使われる場合が多い。
特にバラエティ番組等で使われる「ワイプ」という言葉は画面の端に小さい窓のような小画面が出て、そこに出演者の顔が映し出される形を指すことがほとんどである。つまり、テレビ画面上のどこかに出演者の顔が小さく映る小窓のことをワイプと定義している。もちろんこれは間違いである。テレビ屋にありがちな間違った言葉の垂れ流しだ。

そもそも「ワイプ」とは「拭う」という意味であり、雨の日に自動車のフロントウィンドウについた水滴を拭ってくれるのがワイパーであることを考えても判るだろう。だとしたらTV画面上の小窓映像を指してワイプと呼称するのはおかしい事になる。

元々テレビジョンの世界で「ワイプ」と言えば、文字通り「画面を拭うように画面を切り替える技法」のことを言う。前画面から次画面に切り替える時に画面を拭うように切り替えていくからそのように呼ばれるのだ。技法の詳細はこちらを参照されたい。

で、バラエティ番組で盛んに「ワイプ」と言っているのは、上記のワイプ技法の中で丸型ワイプや角型ワイプで正に次画面に向かって拭い始めた段階で止めた映像を言っている。
拭い始めだから丸型ワイプなら円形の小窓が映ることになる。次画面として用意された映像が出演者の顔のアップだからあのように小窓の中に顔が映っている状態になるのである。

テレビ屋は次々に言葉の意味を変形し破壊してゆく。全て自分たちに都合の良いように変えていくのだ。それで誤解が広まったり混乱が起きても知らんぷりだ。それはあたかも自分たちテレビ屋が世の中をリードしているかのような間違った思い込みを前提としているのは間違いないだろう。少しでも謙虚な気持ちを持っているなら言葉に対してこれほどまでに無神経になれない、なれる筈がないのである。

思い上がったテレビ屋の腐敗しきった無神経ぶりに反吐が出る。