元NMB48の須藤凛々花が結婚宣言で世間を騒がせたのは昨年のAKB選抜総選挙のステージ上であった。須藤に対してはファンやメンバー内だけでなく世間一般からも批判が殺到したのであるが、「なぜ批判されるのか」の理由について今一度考えてみたい。
そもそもアイドルというのは本人が何かの分野で秀でた才能を持っているということではなく、存在そのものに価値があるから成立する分野でありビジネスである。往々にしてその存在は憧れの対象となると共に疑似恋愛の対象にもなる。従ってアイドルは誰のものでもない誰の恋人でもない純粋無垢な立ち位置を確立し維持する必要がある。
この[アイドルとファンの関係]は
モラルエコノミー(経済道徳論)
の考え方で捉えることができる。アイドルは往々にしてファンよりも上位の立場に位置し、一種の特権的な存在である。
モラルエコノミーでは
「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」
と考える。アイドル(有名人)は社会の規範となるように振る舞うべき、つまり社会的責任を負う立場である、ということだ。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、ファンの心を傷つけたりしない、夢を壊さない振る舞いなども含まれる。
タレント・アイドルの類は社会に人気者として君臨して世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。
一般的にアイドルの恋愛などでしばしば問題が起きて追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより正確と言えるだろう。
このように
「アイドルという一般人よりも上位に位置し特権を持つ人間が高いレベルの社会規範遵守を求められる」
という考え方は
「ノブレス・オブリージュ」
というフランス語でも説明できる。
ノブレス・オブリージュとは「高貴なる義務」である。
その昔、ヨーロッパで戦争に参加するのは貴族の子弟だけだった。平民は後方支援することはあっても戦争に参加することはなかった。
なぜか。
上位の地位にある者は、より血を流し苦労する責務が求められたからだ。それは前述のように特権を持つ者がそれを持たない人たちへの義務によってバランスが保たれるからである。
アイドルには特に高いモラルが求められる理由はここにあるのだ。
従って、アイドルの世界で暗黙のルールとして有名な「恋愛禁止」も同様に捉えられる。一部では「アイドルにも人権はある。だから恋愛も自由だ」と主張する向きもある。しかし実際には「アイドルに人権は無い」と言って過言ではない。アイドルはポピュリズム、人気に依って支えられている職業なのだから、高いレベルで社会の規範を遵守し、かつ顧客たるファン層が抱くイメージを保つ事が強く求められるのである。
ここで須藤凛々花の発言を考えてみる。
須藤は「恋愛禁止」という暗黙のルールを「破るために存在している」と自分に都合の良い解釈で規定した。そして正面突破でそのルールの足かせを破壊した事をどこか誇らしげに捉えているフシがある。自分をトリックスターのように位置づけて一種のスーパーヒロインという存在になぞらえているのだろう。自分勝手で独りよがりである。
また、総選挙時の結婚宣言で各界各層多くの人々を騒がして振り回した事も表面的には「申し訳ない」としながらもどこか「やってやったぜ」とドヤ顔をしているようにも受け取れる。須藤の大罪の一つはファンだけでなく、スタッフ等の彼女を身近で支えてくれる人たちをも巻き込んで多大な迷惑をかけているところにある。総選挙に参加していた他のメンバーに対しても同様で、あの結婚宣言のおかげで他のメンバーに関するエピソードやニュースが全て吹っ飛んでしまった。該当メンバーについては気の毒としか言いようがない。
あの時、総選挙のステージ上であのような行動・言動に出ることでその影響がどのようにどこまで広がるか須藤には全く想像できなかったのであろう。なぜか。子供だから、である。須藤は年齢こそ成人しているが、頭は相当に幼いままであることがその言動や行動から伺い知れるし、声質や喋り方からもそれは判る。しかもタチが悪いのは彼女の趣味である哲学というものが幼い精神に一種の理論武装をさせてしまったことにより根拠のない自信を彼女に植え付けたことだろう。今のところ、彼女にとっての哲学は極めて表面的な武器であり自分の保身(と演出)、つまり自分の身勝手な考えを正当化するための道具にしかなっていない。
余談だが、そもそも哲学というものが厄介なのだ。往々にして哲学者の議論というのはしばしば「議論の為の議論」に陥ることが多く、何か深いものがありそうで実際は抽象的な概念の海で溺れているだけ、といった場合が少なくない。実際の体験や厳然たる事実だけをその学問の基礎として研究を重ねて輝かしい功績を成し遂げた深層心理学者のC.G.ユングは「哲学者に語らせてはいけない」とまで言っている。
須藤はしばしば「人生を危険にさらせ」とも発言している。しかし、そもそもアイドルとして守られた環境下でそんな事を言っても何の説得力もないのは明白である。情けないしみっともないことこの上ない。正に子供の戯言だ。
ファンの多くは「結婚が判っていたのに総選挙で投票させた須藤の罪は大きい」という趣旨で怒り批判するのだが、これは上述のモラルエコノミーの考え方で見る限り完全に正しい。ファンは須藤に自分の夢や理想を投影し、総選挙での須藤の順位を上げるために相当な額面の私財をはたいているのである。結婚宣言を突きつけられたファンは自分が投じた大金がドブに捨てられたような気持ちになっただろう。
須藤自身はこの部分について「ビジネスだから」という趣旨の言い訳をしているが、これは論理のすり替えであり、責任から逃れるための口実に過ぎない。モラルエコノミーの観点から見れば完全にアイドルとして不成立でありアウトである。何よりファンに対して無責任かつ無神経過ぎる発言と言えよう。彼女が自分の事しか考えてない極めて利己的な人物であることが伺える。
また、須藤は学校での勉学の成績は良いそうである。偏差値は高いということだが、この手の人間にありがちな「頭は良いが心は育ってない(=子供)」の一種の典型なのかもしれない。
この他にも須藤発言は数多あるが、一貫して須藤自身にだけ都合の良い身勝手な理屈ばかりで呆れるばかり…というのが総合的な印象である。
こうして見る限り、須藤の思想は前半部で述べたモラルエコノミーやノブレス・オブリージュの考え方とは根本から反しているものであることが判る。ここから「プロ意識の欠如」という評価もできる。(*1)
須藤凛々花に夢を投影したファンの皆さんにとっては非常に大きな失敗事例となったことは残念であり気の毒なことである。
-----
(*1)
須藤凛々花とは全く逆で、プロ意識をきちんと持ち、アイドルとしての責務をしっかり自覚して日々、前進し続けていると思われるのがNMB48のリーダーである山本彩である。その振る舞いや発言から見る限り、さや姉は真に責任ある大人として生きている、と太鼓判を押せる存在であろう。
そもそもアイドルというのは本人が何かの分野で秀でた才能を持っているということではなく、存在そのものに価値があるから成立する分野でありビジネスである。往々にしてその存在は憧れの対象となると共に疑似恋愛の対象にもなる。従ってアイドルは誰のものでもない誰の恋人でもない純粋無垢な立ち位置を確立し維持する必要がある。
この[アイドルとファンの関係]は
モラルエコノミー(経済道徳論)
の考え方で捉えることができる。アイドルは往々にしてファンよりも上位の立場に位置し、一種の特権的な存在である。
モラルエコノミーでは
「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」
と考える。アイドル(有名人)は社会の規範となるように振る舞うべき、つまり社会的責任を負う立場である、ということだ。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、ファンの心を傷つけたりしない、夢を壊さない振る舞いなども含まれる。
タレント・アイドルの類は社会に人気者として君臨して世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。
一般的にアイドルの恋愛などでしばしば問題が起きて追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより正確と言えるだろう。
このように
「アイドルという一般人よりも上位に位置し特権を持つ人間が高いレベルの社会規範遵守を求められる」
という考え方は
「ノブレス・オブリージュ」
というフランス語でも説明できる。
ノブレス・オブリージュとは「高貴なる義務」である。
その昔、ヨーロッパで戦争に参加するのは貴族の子弟だけだった。平民は後方支援することはあっても戦争に参加することはなかった。
なぜか。
上位の地位にある者は、より血を流し苦労する責務が求められたからだ。それは前述のように特権を持つ者がそれを持たない人たちへの義務によってバランスが保たれるからである。
アイドルには特に高いモラルが求められる理由はここにあるのだ。
従って、アイドルの世界で暗黙のルールとして有名な「恋愛禁止」も同様に捉えられる。一部では「アイドルにも人権はある。だから恋愛も自由だ」と主張する向きもある。しかし実際には「アイドルに人権は無い」と言って過言ではない。アイドルはポピュリズム、人気に依って支えられている職業なのだから、高いレベルで社会の規範を遵守し、かつ顧客たるファン層が抱くイメージを保つ事が強く求められるのである。
ここで須藤凛々花の発言を考えてみる。
須藤は「恋愛禁止」という暗黙のルールを「破るために存在している」と自分に都合の良い解釈で規定した。そして正面突破でそのルールの足かせを破壊した事をどこか誇らしげに捉えているフシがある。自分をトリックスターのように位置づけて一種のスーパーヒロインという存在になぞらえているのだろう。自分勝手で独りよがりである。
また、総選挙時の結婚宣言で各界各層多くの人々を騒がして振り回した事も表面的には「申し訳ない」としながらもどこか「やってやったぜ」とドヤ顔をしているようにも受け取れる。須藤の大罪の一つはファンだけでなく、スタッフ等の彼女を身近で支えてくれる人たちをも巻き込んで多大な迷惑をかけているところにある。総選挙に参加していた他のメンバーに対しても同様で、あの結婚宣言のおかげで他のメンバーに関するエピソードやニュースが全て吹っ飛んでしまった。該当メンバーについては気の毒としか言いようがない。
あの時、総選挙のステージ上であのような行動・言動に出ることでその影響がどのようにどこまで広がるか須藤には全く想像できなかったのであろう。なぜか。子供だから、である。須藤は年齢こそ成人しているが、頭は相当に幼いままであることがその言動や行動から伺い知れるし、声質や喋り方からもそれは判る。しかもタチが悪いのは彼女の趣味である哲学というものが幼い精神に一種の理論武装をさせてしまったことにより根拠のない自信を彼女に植え付けたことだろう。今のところ、彼女にとっての哲学は極めて表面的な武器であり自分の保身(と演出)、つまり自分の身勝手な考えを正当化するための道具にしかなっていない。
余談だが、そもそも哲学というものが厄介なのだ。往々にして哲学者の議論というのはしばしば「議論の為の議論」に陥ることが多く、何か深いものがありそうで実際は抽象的な概念の海で溺れているだけ、といった場合が少なくない。実際の体験や厳然たる事実だけをその学問の基礎として研究を重ねて輝かしい功績を成し遂げた深層心理学者のC.G.ユングは「哲学者に語らせてはいけない」とまで言っている。
須藤はしばしば「人生を危険にさらせ」とも発言している。しかし、そもそもアイドルとして守られた環境下でそんな事を言っても何の説得力もないのは明白である。情けないしみっともないことこの上ない。正に子供の戯言だ。
ファンの多くは「結婚が判っていたのに総選挙で投票させた須藤の罪は大きい」という趣旨で怒り批判するのだが、これは上述のモラルエコノミーの考え方で見る限り完全に正しい。ファンは須藤に自分の夢や理想を投影し、総選挙での須藤の順位を上げるために相当な額面の私財をはたいているのである。結婚宣言を突きつけられたファンは自分が投じた大金がドブに捨てられたような気持ちになっただろう。
須藤自身はこの部分について「ビジネスだから」という趣旨の言い訳をしているが、これは論理のすり替えであり、責任から逃れるための口実に過ぎない。モラルエコノミーの観点から見れば完全にアイドルとして不成立でありアウトである。何よりファンに対して無責任かつ無神経過ぎる発言と言えよう。彼女が自分の事しか考えてない極めて利己的な人物であることが伺える。
また、須藤は学校での勉学の成績は良いそうである。偏差値は高いということだが、この手の人間にありがちな「頭は良いが心は育ってない(=子供)」の一種の典型なのかもしれない。
この他にも須藤発言は数多あるが、一貫して須藤自身にだけ都合の良い身勝手な理屈ばかりで呆れるばかり…というのが総合的な印象である。
こうして見る限り、須藤の思想は前半部で述べたモラルエコノミーやノブレス・オブリージュの考え方とは根本から反しているものであることが判る。ここから「プロ意識の欠如」という評価もできる。(*1)
須藤凛々花に夢を投影したファンの皆さんにとっては非常に大きな失敗事例となったことは残念であり気の毒なことである。
-----
(*1)
須藤凛々花とは全く逆で、プロ意識をきちんと持ち、アイドルとしての責務をしっかり自覚して日々、前進し続けていると思われるのがNMB48のリーダーである山本彩である。その振る舞いや発言から見る限り、さや姉は真に責任ある大人として生きている、と太鼓判を押せる存在であろう。