Altered Notes

Something New.

官僚という特殊な人種

2013-09-27 08:44:59 | 社会・政治
「頭は良いが、心のない人間である」


↑こう定義して間違いない。

最近の「東北被災地復興は不要」とする暴言をSNSに投稿して恥じない経産省官僚の例を挙げるまでもなく、昔から官僚がやることは全て「心」がない事ばかりであり、己の保身と利権確保の為”だけ”全力で頑張る・・・そんな厚顔無恥で腐りきった連中なのである。利権と保身の為なら彼らは政治家をも手足のように使いこなすし、非常事態の場合には”最終手段”をも使う。官僚には法律も憲法もへったくれもないのだ。やりたい放題である。「復興不要」と言って恥じない官僚君は己の鬼畜外道な最低の人間性を自ら暴露している事に気が付かない大馬鹿者である。

官僚になるような腐った連中は、幼少時から”試験を乗り切る為の技術”と”他人を蹴落とす歪んだ精神性”しか培ってこなかった極度な精神的偏りが一様に見られる。

なぜそうなるのか?

「中二病」という言葉がある。人間誰しも中学生の頃には一種の全能感というか、「自分は何でもできるんだ」という根拠不明な自信を持つ時代がある。ただ、普通の人はその後の人生で様々な挫折を経験することで根拠不明な全能感が少しずつ修正されていき適正な(身の丈に合った)自信というものに置き換わってゆくのだが、官僚になるような連中は家庭内でも学校でも「いい子」で通して試験でも優秀な成績を獲得し続けて大した挫折を経験しないのだ。それはつまり最初の意味不明な「全能感」がほぼそのまんま残り続ける、ということだ。「中二病」そのまんまの状態で大人になってしまうのである。これは恐怖である。

その恐怖の通り、彼らは根拠不明な全能感をしっかり保持しているので、官僚になる前から自分が一般国民の上に君臨している、という自覚を持っている。以前、テレビのニュース番組で国家公務員試験に合格して官僚になることが確定した学生のインタビューが放送されたことがあるが、その学生から発せられる言葉を聞いて心底喫驚したことがある。学生はこう言った。
「これから国民の皆さんと共に頑張っていきたいと思います」
冗談ではない。学生は真顔でこう言い放ったのだ。これこそ中二病の全能感を保持したまま育ってしまった子供の実態である。ぞっとする。

そんな彼らがやることは「規制すること」である。彼らは「官僚の仕事」というのはすなわち国民や企業に対して何かしらの「規制」を押し付ける事だと信じて疑わない。しかも反日姿勢がベースにあるので、日本の利益を考えた施策ではなく諸外国の利益を優先した施策を取る。国民や企業を規制し日本を貶める事に生きがいを持つ連中・・・それが官僚である。

少なくとも一般企業での勤務経験などを積んでいればもう少しマシな発想や思考ができたはずだろうが、ろくな社会経験も経ずに官僚という身分になり国民を見下す視点しか持ち得ない未熟で偏った人間に誠実な「心」や清廉な「志」を求めるほうがおよそ無理というものである。それでもこんな連中が実質的に日本を動かしているのだ。

こう書いてくると全ての日本国民にとってはがん細胞としか思えないほど有害無益な連中なのである。





知っておくべきこと

2013-09-19 04:39:02 | 社会・政治
いつの時代も

戦争をしたがる奴というのは

自分が鉄砲持って最前線に行かなくていい立場の人間 である。










音楽的フロー状態

2013-09-16 14:10:09 | 音楽
心理学や脳科学方面において
「フロー状態」
という」言葉を聞くことがある。

ある特定の物事に対して精神的に極度に集中していて緊張感にあふれているのに、同時にリラックスできている不思議な状態のことを言う。

ある学者は、例えばウサイン・ボルト選手の走りがそれに該当する、と指摘する。
ボルト選手が100メートル走で世界記録を出した時の走りを見た時に誰もが思うこと。それはボルト選手は最高に力を出しているにも関わらず、その姿からなぜか”必死さ”が感じられないのだ。余裕で世界記録を出した、ように見えるのである。
これがフロー状態だ、と言うのだ。

「最高に集中していて極度の緊張を保持している状態でありながら同時にリラックスしていて精神的な余裕をも保持できている状態」
この相反する二つが同時に成立している状態…それがフロー状態なのである。


実はこれと全く同じ状態のことを音楽(特にジャズ)では既に昔から指し示す言葉がある。
「スウィング(Swing)」
または
「グルーヴ(Groove)」
である。

音楽演奏時において、非常に緊張感を持って集中して演奏しているのに同時にとてもリラックスしていて今演奏している事に対してその全体を俯瞰して眺められる余裕をもっている・・・そんな相反する要素が同時に成立している状態なのである。
ざっくり言うならば
「緊張とリラックスが同時にできている状態」
と言えようか。

緊張(集中)とリラックス(余裕・弛緩)という相反する状態は普段の生活においては同時に成立することはまず無い。
しかし何か特定の分野の作業に集中していて、なおかつ精神的に充実を感じられる時にこの特殊な状態が訪れることがある。
それが「フロー状態」なのである。これが音楽(ジャズ)演奏においては「スウィング」「グルーヴ」とも呼ばれる状態なのだ。

この状態が訪れた時には、例えばジャズ演奏時なら最高の演奏が可能になる。
”最高”というのは演奏している自分も聴衆も同時に特に感激・感動し得る内容、全身全霊で納得できる演奏が達成できる事を言う。

ジャズ演奏家ならこうしたスウィング(グルーヴ)状態を体験すると同時に「精神・魂の浄化」を感じるであろう。
それは「ハレ」であり、日常の生活においては絶対に体験し得ない領域の精神状態であり、得難い体験をした強い実感を得ることができる。それは正にプライスレスな体験である。

数多の音楽家(ジャズ演奏家)はこのような最高の瞬間を求めて演奏に挑んでいる。
そしてその最高の瞬間が訪れた時、演奏家も聴衆も 魂の浄化 を実感することができるのである。




アイドルという信仰、そして祭り

2013-09-12 05:40:48 | 社会・政治
アイドルに熱狂する人間が老若男女を問わず少なくない。彼らの姿は極めて熱狂的であり、それは趣を同じくしない人間には到底理解できないほど先鋭化している、と言える。一般の人がアイドルに熱狂するオタクの姿を見て、その異様な有り様につい笑ってしまうことがあるが、それは日常世界にない異様な何かを目撃したある種の驚きと違和感のせいである。

その違和感とは何か?
それは現象の表面的なある種の滑稽さと言えるかもしれない。
しかしその滑稽さも違和感も、突然宗教儀式を目の当たりにした時の感覚と実は大して変わらないのである。

どういうことか?


アイドルのコンサートの現場は非日常性の時空間であり異様な熱気に包まれている。アイドルを追いかけるファンの目線は常に真剣で真っすぐで熱情に溢れており、あたかも神や信仰対象に対する純朴な帰依の思いを表現するかのようである。必死なのだ。そうした様相を俯瞰するならば、自ずと見えてくるものがある。
それはアイドルのコンサートは古来からの「宗教的祭事」に相当する、ということだ。コンサートとは祭りでありミサ(ミサは典礼儀式だが)であり、会場に集うファンたちは敬虔な信者たち、ということになる。

古来の宗教の祭りはそこに集う人々にとっての魂の浄化の場であった。そこは祝祭空間であり、その場に居合わすことと信仰対象に魂を捧げることがすなわち彼らにとっての原初的な愉悦なのであり、同時に魂が浄化されるのだ。そうした浄化作用があるからこそ、人々はまた退屈な日常生活に戻ることができるのである。この魂の浄化というのは狭義の意味で”ストレス発散”も含まれる。実質はそれよりももっと深い体験であり、精神・深層心理の根源に関わる作用となる。それが伝統的な儀式としての祭りの(本来的な)存在意義なのである。

現代のアイドルコンサートの様相を見るならば、明らかにそこは祝祭空間であり、アイドル自身が信仰の対象として君臨している(位置している)のは明白である。信仰対象だからこそ、ファンたちはアイドルに帰依する意志を示し、いわゆるヲタ芸と称する踊りを奉納(*1)して己の魂を浄化するのだ。また、ドームコンサート等でファンたちが進んで座席エリア毎にペンライトの色を指定してコンサート中に客席に虹を現出させてアイドルに喜んでもらうなど、信仰対象であるアイドルを神の如く崇める積極的行動は枚挙に暇がない。さらにCD・DVDや握手券などを多数購入することで神たるアイドルに献身的な献金を欠かさない。

アイドルのコンサートは決して「音楽の鑑賞」の場ではないし「舞踊の鑑賞」の場でもない。その意味で欧米で言う「シンガー」でもないし「ダンサー」でもない。その証拠に観客は大声での掛け声やヲタ芸を打つ事に必死で舞台上のパフォーマンスをほとんど見ていないし聴いていない。(*2)
それはすなわち祭りという祝祭空間へ能動的に参加する信者の姿なのであり、単なる観客ではないのだ。あるアイドルグループが彼女らのファンを”武士(もののふ)”と呼称しているのもその現れであろう。受け手一方の観客ではなく、極めて能動的に祝祭に身を投じる者と位置づけているのだ。

また、アイドルのファンたちがアイドルを指してしばしば
「神」「女神」「巫女」「天使」
などという単語を使って呼び、位置付けているのは決して偶然ではない。アイドルはファンたちにとってそのまま信仰対象であり自然な宗教的存在なのである。


伝統的な既成宗教のほとんどが形骸化の憂き目に遭遇している一方で、本来的な宗教や信仰の姿が(現代では)こうしたアイドルの世界に息づいているのだとしたら、それは宗教学的にも社会学的にも興味深い現象といえるのではなかろうか。




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(*1)
ある東大教授も「身体的な一体化」という表現を用いてこれを説明した。



(*2)
加えて言えば、アイドル自体の音楽的な才能も舞踊的な才能も特筆するものは無い場合がほとんどであり、アイドルという存在が決して音楽や舞踊を売りにしているものではない事はいわずもがなの事実である。本質的に信仰対象としての存在を鑑みるならば当然と言えよう。
・・・アイドルの歌唱における口パク騒動がそれほど致命的なダメージとならないのはこうした実態があるからである。












現代を生きる男性の苦悩

2013-09-05 10:33:17 | 社会・政治
近年、「男性が弱くなった」という声を聞く事が多くなった。テレビや雑誌等でも元気の良い女性タレント等が「最近の男は弱くて駄目だ」などと批判・揶揄するケースが頻繁に見られる。一般女性も概ねこの意見に同調しているようで、いわゆる「草食化」した男性たちに失望しているようである。

現状では女性一般がそのように男性に対する失望の感情を持つのは仕方がない事と言えるが、しかし不思議なのは女性が「なぜ男性は弱体化しているのか?」という疑問を持たず、その原因を考えようともしない点である。殆どの場合、女性はただ単純に男性を批判・非難するだけだ。物事には必ず理由があるのだ。その理由を探ろうともせず、一方的に「男は駄目」と非難しても何も変わらないどころか、事態は益々悪化してゆくだけであろう。

これは雑誌やテレビ番組等の影響が考えられる。マスコミは女性からの支持が欲しいので、男性を貶めて辱める内容の番組を流す。とにかく男性に対しては徹底的に叩きまくって女性の拍手喝采を獲得し、その一方で女性に対してはもっと自由に生きていいいんだよ、と耳あたりの良い言葉で肉食化を焚きつけ煽りまくる。その結果、男女をめぐる状況はさらに混沌として悪化してゆく。少子化云々以前に未婚・非婚が増加するのは理の当然なのだ。実は少子化をせっせと推進し煽っているのは雑誌・テレビ等のマスコミだ、というのが実態である。



ここからが本題である。

世は少子化・人口減の時代である。
以前、[無意識を意識する[1]:非婚化・少子化の真実] でも書いたが、生涯のパートナーとして誰でも自分の”理想の異性”を追い求めることが普通になったが故に男女のマッチングが非常に困難になり、従って 未婚・非婚・晩婚 が飛躍的に増加しているのだ。その原因として「男性の不甲斐なさ」「男性の頼りなさ」等の非難と共に、とにかく「原因は男性であり、全て男性が悪い」とする風潮が世の中全般を覆う空気となっている。


一般に男性が不甲斐なく弱くなったのだとしたら、「なぜ」そうなったのか、理由を考えなくてはならない。
総論的結論から言えば、男性の草食化・弱体化は「時代の必然からそうなった」のだ。現代が「男性が生きにくい時代」であることは厳然たる事実であり、それはアニメ映画監督の宮崎駿氏や解剖学の養老孟司氏もそのような趣旨で発言している。
女性は時代の変遷に一切左右されず、いつの時代も女性として輝き続けられるのだが、その一方で、男性は時代の流れに翻弄され続けている。特に戦後になって「男の子が育たなくなってきている」と宮崎・養老の両氏は口を揃えて訴える。男性がアイデンティティーを確立することが非常に困難な時代になっている、というのだ。「男が生きにくい時代」なのである。

宮崎駿氏はインタビューの中で
「今は大義名分の時代ではない。力で切り開いていくとか、それほどシンプルな世の中ではなく、やはり男の方が生きにくい時代ってことに間違いはない。自分の周りを見ても、元気がいいのは皆女。男共は皆オロオロしながら自分の行く末を探しているって感じ。」
(ロッキング・オン『黒澤明、宮崎駿、北野武』より)


これは深層心理学的な観点からも指摘されている。
詳細な理屈は省略するが、男性がひたすら「男らしく生きる」事を求められているのに対して、女性は「女性らしく生きる」だけでなく「男性的な生き方」をも取り込んで生きることが可能である。女性の自立・独立の風潮と共に社会が既にそれを許容している。

女性の人生は、女性自身の元々の輝きに加えて精神的にも社会的にも振り幅の広さを獲得しており、自由度が高いと言える。
それに対して男性はとにかく「男らしく生きること」「雄々しい生き様」だけを求められて、社会的・心理的に振り幅の狭い人生を迫られるのだ。

それに加えて、男性というものはその人生において宿命的に「何かになる」事を求められている。男性に自ずと求められる使命といっても過言ではない。この「何かになる」使命を抱かされる上に時代の変遷・激流に翻弄され続ける厳しさである。その中で「男らしく雄々しく生きる」ことは現代では非常に困難になってきているのだ。こうした「使命」は女性にはなく、男性だけに求められるものである。
男性が「草食化・弱体化」して情けない姿になっているのだとしたら、男性がこうした普遍的に求められる使命や時代の激流の中で疲弊しきってしまったその結果の姿、なのかもしれないのだ。
こうした悲劇的な状況の中でいたずらに男性を罵倒してもどうしようもないのである。


女性の皆さんにおいては単純に「男は駄目だ」と否定するのではなく、こうした男性の背後にある宿命的なものに思いを馳せる余裕を持つ必要があるだろう。表面的な男性批判は何も生み出さないし何の解決も与えないのである。



[参考資料]
男の自殺の最大の理由は「男だから」。