Altered Notes

Something New.

コルトレーンに捧げるコンサート(1987)に思う

2021-07-30 15:51:00 | 音楽
ジョン・コルトレーンはサックス奏者だが、とりわけテナーサックスの奏法については独自のスタイルを確立したことで、彼以後の(モダンジャズを目指す)テナーサックス奏者は多かれ少なかれ影響を受けている。偉大なサックス奏者であったマイケル・ブレッカーもまたコルトレーンの影響を深く受けた一人である。

また、サックスの奏法だけでなく、音楽としてのジャズを本質的に深化させていった功績は非常に大きなものがある。音楽の創作という面でもコルトレーンの影響は大きく広い。

コルトレーンは1967年7月17日に病気で亡くなったが、その20年後の1987年に日本のジャズフェスである LIVE UNDER THE SKY で没後20周年を期してトリビュート・コンサートが行われた。


「Tribute to John Coltrane (Live 1987 Full)」


メンバーは

Wayne Shorter(ss)
Dave Liebman(ss)
Richie Beirach(p)
Eddie Gomez(b)
Jack DeJohnette(ds)

曲目は

Mr.PC
AFTER THE RAIN
NAIMA
INDIA
IMPRESSIONS

である。

デイブ・リーブマンはコルトレーン・スタイルを色濃く受け継ぐ演奏者であり、コルトレーンの研究家でもある。
ウェイン・ショーターは演奏スタイルはやや異なるが、コルトレーンのジャズ・スピリッツをしっかり受け継いだインプロバイザーと言える。
ウェインとデイブは共にマイルスのバンド出身者でもある。

ベースのエディー・ゴメスとドラムのジャック・ディジョネットは共に数多くのバンドやセッションに参加してきた優秀な音楽家であり、あのビル・エヴァンス・トリオのメンバーであった。その時代に名盤「モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス」を残している仲でもある。ピアノのリッチー・バイラークはデイブ・リーブマンの盟友であり、モダンジャズの革新者の一人である。

このコンサート。東京の よみうりランド・オープンシアター East で開催されたのだが、筆者もこの会場で聴いていた一人である。現場の熱気は凄かった。

普段は一緒に演奏する機会がほとんど無い顔ぶれのセッションでもあり、その意味でも貴重な記録と言えよう。

コンサートには実はこのメンバー以外にもWSQ(ワールド・サクソフォン・カルテット)が加わって「MY FAVORITE THINGS」が演奏されたのだが、なぜか発売されたビデオソフトには収録されていない。極めて残念である。裏にいわゆる大人の事情があったとしても、音楽的・歴史的意義を考えるとノーカットでリリースすべきであった事は間違いない。


1曲目の「Mr.PC」が始まってすぐにデイブ・リーブマンのソロが始まる。ジャズ界でも特にコルトレーンの影響が濃いプレーヤーなので、そのフレージングはコルトレーン・スタイルが極めて濃厚である。ひとつ残念だったのは、特に高音域(サックスのスプーンキーを使用する音域)がほとんど音にならず(リードが振動してない)、かすれた音になってしまっているのは残念なところだ。意気込み(熱情)が先行するあまり、リードのコントロールがうまくいかなかったのかもしれない。デイブのソロ全体としては熱気あふれる内容であったが、前述の音のかすれもあってか、デイブ自身はやや不完全燃焼だったかもしれない。

続いてウェイン・ショーターのソロである。こちらはウェイン独自のスタイルを貫いていて白熱化した。ジャック・ディジョネットのドラムがバンド全体を鼓舞するようにグルーブしていたのもウェインのソロが焚き付けた炎に依るものだったと言えよう。

その後の曲目ではコルトレーンに造詣の深いデイブ・リーブマンの演奏を中心に展開されていくが、全体として豊かな音楽を鑑賞できた充実感に溢れる一夜であった。


このコンサートについては「もっとコルトレーンにゆかりの深い人選の方が良かった」、という趣旨の意見も少なからずあった。それは評論家や一般リスナーに共通して見られる傾向であった。しかし、ここに集結したミュージシャン達は「コルトレーン音楽保存会」ではないのだ。そこは認識しておいた方が良い。

よく、「○○民謡保存会」というのがあるが、そうした団体のほとんどは「○○民謡」の「形」を残す事に特化しており、「○○民謡」を「今の」「現代の」生きた音楽として捉えて創作し活動している訳ではない。「形式」だけ残されても実はあまり意味はないのだ。言っちゃ悪いが「仏作って魂入れず」のようなもので、それが「保存会」なのである。真の意味で残したいのなら、往時の音楽を今の生きた音楽として改めて創作し直すクリエイティブな作業が必要になるのだ。

その意味で、このトリビュート・コンサートもまたコルトレーン・ジャズの「形式」だけを再現するのでは何の意味も無い。当夜のメンバーはコルトレーンのジャズ・スピリッツを受け継いで見事に「現代」のジャズとして提示したのである。

当夜の演奏が始まる前にウェイン・ショーターが語っている内容は象徴的で本質を言い表している。ニューヨークの老舗ライブハウスであるバードランドでコルトレーンに会ったウェインに対して、コルトレーンは「多少の相違はあっても、僕らは同じ道に沿って演奏している」「音楽理論の研究や技術なんてどうでもいいことだ。真理を求める感性だけがあればいい」と語っている。ウェインがコルトレーンに感じていた大きなサムシングは「コルトレーンが音楽を演奏する以上の何かを感じていたこと」であり、コルトレーンは「生きることの本質、その崇高さを”知って”いた」のであり、優れた音楽の核になる部分が言語化・理論化できない人間の”魂の領域”にこそ存在していることを述べているのである。


そうしたスピリチュアルで大切な何かを内包した演奏だったから、だからこの1987年の演奏は今の時代でも色褪せず、人間の核心に迫る音楽として生き続けているのであろう。




六義園 夜景

2021-07-27 15:51:51 | 写真・映像
「六義園」は東京都文京区本駒込にある都立の日本庭園である。毎年晩秋の頃に夜間のライトアップが行われて美しい夜景を鑑賞することができる。

撮影:2004年11月

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吹上茶屋












芸人が理解できてないブラックユーモア

2021-07-26 16:16:36 | 社会・政治
7月22日に、過去にユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を扱ったコントをしたとして東京オリンピック・パラリンピック開閉会式でのショーディレクターを解任された小林賢太郎氏の一件に関連して芸人の土田晃之氏が下記のような発言をしている。


「土田晃之 小林賢太郎氏のネタ否定も「若手の時のネタなんて出されたら」と恐怖感」


土田氏の発言要旨は次の2つ。

1.過去の発言やネタ内容の評価をされたら自分たちも安閑としていられない。

2.現在は問題となるネタも昔は看過されていた。それは教育が追いついていなかったせい。


1.の件は、そもそも芸人の人間としての質の問題にも関係する。上岡龍太郎氏が言う「基本的に芸人はクズである」という認識に立つならば、倫理的にも道義的にも問題となるようなテーマを彼らはそれと認識できずに軽率に扱ってしまう。その理由は人間的な未熟さと思い上がりにある。テーマが内包する重い事実や思想的な価値を認識すらできずに面白半分にふざけて取り扱ってしまうのが彼らである。

2.の件は、土田氏だけでなく芸人達の聞き苦しい言い訳にも聞こえる。「当時の教育が追いついていなかった」というのは「時代のせいだ」と責任を丸投げしているのと同じだ。この土田氏というのは、彼ら芸人にとって都合が悪い事実を突きつけられるとすぐに言い訳して逃げようとする傾向が強いような印象があって見苦しいし不愉快でもある。(*1)


実は、2.の問題は難しい本質が絡むものなのでもう少し掘り下げて記しておく。


「笑い」「ユーモア」、特に「ブラック・ユーモア」の類は、それを発信する側と受信する側が共通の価値観を持っていることが重要であり、その場合に限って「笑い」として成立するのである。

どういうことか。

前提として、そのネタの発信側と受信側が共にきちんとした常識を備えていて礼儀も弁えている成熟した人間であることが必要である。そのブラックユーモアの”ブラック”な部分について適切な価値判断ができる事が必要なのだ。(*2)

そうした前提が存在した上で、その人々だけの閉じた空間で供される(演じられる/発信される)事が必須なのである。その理由は前述の前提条件が満たされない人が見聞きしてしまった場合に、そのネタを発信側の意図通りに受け取れないが故に”社会問題化”してしまうからである。

ブラックユーモアが計算通りに成立するには発信者側と受信者側双方が成熟した人間であり、ブラックな部分についての正しい価値判断ができることが必要なのである。従って、それは決して一般社会に向けて発信されてはならないのである。ネタを正しく受け取れない人々が問題化して騒ぎ立てる流れは本来的な意味でナンセンスだからだ。

ブラックユーモアにはネタとしての普遍性は「無い」。そもそも「無い」。無いから受け取る人を選んでいるのだ。普遍性が無いが故に広く世間一般に向けて発信することは適切とは言えないのである。



昨今の芸人たちはしきりに「最近は(周囲から色々言われるので)やりにくい」とボヤくのだが、当たり前だ。普遍性の無いネタを世間一般広範囲にバラ撒くから、だから必然的に問題が起きるのだ。芸人がクズである理由の一つは、「自分が仕事や生活の中で見出した経験や価値観が世の中一般全体に通用する(共通する)」と無意識的に思い込んでいるところである。ここが阿呆である。世間一般には色々なレベル、様々なタイプの人間が存在する。しかも昔の日本(少なくとも昭和の時代)とは違って価値観は多様化しているので、一つのネタに普遍性(普遍的価値)を持たせられると考える事が難しい。


ちなみに「価値観の多様化」は左翼勢力が好んで推し進めてきたムーブメント(*3)に依る一つの結果でもある。左派系の人間が多い芸人の世界だが、正に彼らの先達が彼ら自身の首を絞めるようなムーブメントを推し進めてきたのであって、皮肉なものと言えよう。残念!(蔑笑)



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(*1)
他分野には厳しいが、芸人には甘い。正に「芸人はクズ」を地で行く実態である。この程度の人物が番組でコメンテーターとして偉そうに宣っているのである。(蔑笑)テレビの”程度”とはこんなものなのだ。

(*2)
例えば、ホロコーストが「絶対的な悪」であることをきちんと認識できている人同士でなければ、それをブラックユーモアとして成立させ笑う事は不可能である。逆に日本人ならば、西洋人が面白半分に「原爆」を扱ったブラックユーモアを演じたりすると不愉快に思う人がほとんどであるが、この場合の西洋人が「原爆」についてきちんとした認識を持っていないが故に、発信側の西洋人と受信側の日本人の間に一緒の価値観が共有されていないから、だから不愉快に感じるのだ。ブラックユーモアがブラックユーモアとして成立しない典型的なケースである。

(*3)
日本人社会を分断させる目的を持つ左派勢力は常にこのような社会的価値観の統一性を破壊する動きを見せている。それは現代でも変わっていない。



左翼が「芸術」を隠れ蓑に使う理由

2021-07-21 21:07:07 | 社会・政治
前回の記事(「左翼の道具としての”芸術” 不気味な巨大顔に思う」)にも関係する内容を記す。

左翼勢力がそのプロパガンダを一般国民に広めようとする時に「芸術」という衣(ころも)をまとうケースが目立ってきている。あいちトリエンナーレ・表現の不自由展で昭和天皇の写真を燃やして足で踏みつけるという極めて無礼で気色悪い展示をしたり、大東亜戦争の英霊達を侮辱するオブジェを展示する凶悪なマインドに見られるように、その展示物は言うまでもなく「芸術」ではない。主催者達は極左勢力のプロパガンダをやっているのである。左翼思想や左翼的な価値観を一般人にアピールするべく「芸術」を隠れ蓑にしているのである。

前回記事で扱った代々木公園上の巨大顔の気球も同様のケースであろう。プロパガンダそのものではないにしても、人々に不安と恐怖を与えるその無神経で悪趣味な展示はあいちトリエンナーレ・表現の不自由展の悪趣味に通底するものがある。巨大顔のモチーフが若き日の毛沢東主席(中華人民共和国の建国者)を思わせるのも左翼ならではのモチーフ、と考えれば納得いくものがあるのだ。

そして、あいちトリエンナーレも先日の巨大顔もどちらも見る者に「生理的な不快感」「根源的な恐怖」「不安感」「憤り」などを喚起させるところが共通しているのである。このあたりは深層心理学的に探ると左派系の人々に通底する普遍的無意識層のパターンが見つかりそうな話である。


左翼思想を持つ人が芸術の衣をまとって一般人にアピールしているのは、上述のように左翼のプロパガンダであることをストレートに出さずに一般国民の懐に忍び込もうとしているからであろう。一種の騙しである。ストレートにアピールできない理由は「左翼のいかがわしさ」を内包しているから、という理由の他に、「現代に於いては左翼思想が理論的な支柱を失っているので論理で訴求することができない」という事情も関係していると推測される。

この辺の事情を経済学者で大学教授の高橋洋一氏に依る解説をひとつの参考にしつつ記していきたい。


そもそも芸術家や文化系の人は人の感性に訴求する手法を用いる事が多い…というか、それがほとんどである。左翼思想のアピールにはロジカルな手段よりも感性に訴える手法が採用される場合が多い。

遠い昔ならカール・マルクスに依る左翼思想の理論的な基礎と呼べるものが存在したのだが、1991年にソビエト連邦が崩壊したことで、左翼理論も完璧に崩れてしまったのである。それまでは体制間競争として資本主義と共産主義がしのぎを削る競争をしていたのだ。資本主義も決して完全ではなく、まぁまぁ酷い制度ではあるが、それでも「共産主義よりは遥かにマシだよね」、という認識が支配的だったのだ。結果として、ソ連崩壊によって共産主義は全て駄目、ということになって左翼の理論的な部分が崩壊してしまったのである。


それで、共産主義は事実上、感性でしか理解できないものとなってしまった。前述のように理論が崩れてしまったので、ロジカルに訴求することができなくなったのである。それで感性の分野でしか訴求できなくなった、ということだ。

ソ連の崩壊によって共産主義を信奉する人々は目先の目標目的を見失った。理論も失われた。それでどうしたかといえば、感性の分野で少し残ったのが、環境系・LGBT・人権系といった分野である。

感性の世界に関心が無い人々からすれば、「左翼の人はどうして現実世界で既に否定された話を未だに信じているのか?」という至極真っ当な疑問を持つだろう。だが、感性の人々は「べき論」的な考えを持つことが多いので、実はこの思想だけで生き残れるのである。従って左翼は感性を中心に据える芸術家や文化系に共感を呼ぶ事が多いのではないか、と推測されるのだ。言っちゃ悪いが、現実を見ずに空理空論を並べ立てるような人々のこと、なのである。


そして、これは現実をしっかり見て把握してロジカルな考え方をする人々の立ち位置とは完全に異なる事は言うまでもない。例えば、高橋氏のように理科系から来ている人間にとっては、

「理論が正しいか否か」

というのは、

「現実が説明できるか否か」

で決まってしまうものである。

そう考えると、左翼には現実がないので理論もない、ということになる。全て否定されてしまっているからである。

こうして理論を失った左翼勢力は、芸術や文化系の人々によって思想や感性の分野で生き延びることになる。そうした人々に残されたのは「環境」「LGBT」「人権」くらいなのである。

冒頭に述べたあいちトリエンナーレ・表現の不自由展のような極端な表現に走るのも感性の奥、袋小路の突き当りまで行ってしまうとそうなってしまうのだろう。敢えて極端にやらないと自分たちの存在意義も見失ってしまう恐怖感があるのではないだろうか。

LGBTで騒いでいる人々も徐々に極端化の方向にあるようだ。オリンピックで元男性の女性が「いや、トランスジェンダーだから」と言って重量挙げに出場してくると、もう訳がわからない領域に入ってくる。元男性が普通に女性として扱われたら、筋力勝負においては元々女性の人は勝負にならないのは言うまでもない。やることが極端化・先鋭化しているのだ。

環境系の過激派で有名なシーシェパードもそうである。共産主義崩壊の後、左翼系の人々は生き場所を見失って大変だった。そうした人々が環境系に流れて暴力的な活動に身を投じているのである。そもそも左翼系の人々は暴れるのが好きである。これは世界中の左翼活動を見れば一目瞭然だ。昨年の米大統領選挙の時も左翼勢力の暴力は凄まじかった。そして昔から左翼の中では内ゲバ(内部ゲバルト)が凄いのだ。いつも最後には暴力をふるう事になって最終的に殺人まで行ってしまう…それが左翼、極左活動家の習性なのである。

ロジカルな世界ではなく、感性の領域だけで生きていると価値観の異なる人間の存在が許せないと感じてくるようで、それが左翼勢力の特徴となっている。
そうした精神的な傾向は筆者の以前の記事にも記している。参照されたい。↓

「左派系の人々に共通する人格」

そもそも左翼勢力を構成する人々は自分たちと異なる意見が存在すること自体が許せないのだ。今の中国と同じである。ひたすら共産党と習近平主席を崇め奉る人間だけが生き延びられる。そうでない奴は一切許さない…そういう硬直化した姿勢であり、その原点は「異論は認めない」という態度だ。その姿勢が高じて最終的には内ゲバで相手を殺すところまで行ってしまうのである。存在の全否定だ。共産主義国でしばしば大量虐殺が起きる現象には左翼人のこうした傾向が源流として存在しているのではないだろうか。


筆者も昔は左翼的なスタンスを持っていた。だが、今思うと、それは無知故に夢を見ているような幼稚なものであったと考えている。一種のドリーマーだった、ということ。だが、幼い頃からマスメディアが常に日本を悪者にして報道する自虐的な姿勢に薄々疑問を感じていた事や、左派系がおしなべて日本を貶めようとする姿勢への疑問は、知識・情報を学ぶことで確信に変わっていったのであった。どう考えても左翼勢力が主張する内容では日本という国は良くならず、逆にやがて崩壊する方向に向かうであろうことが容易に想像できるようになる。それは必然の帰結であった。


最近になってあいちトリエンナーレ・表現の不自由展は大阪で展示会を実施した。政治活動家でアメリカなど海外での取材経験も豊富な我那覇真子氏がこの表現の不自由展を訪れたところ、なんと入場を拒否されたという事である。表現の不自由展公式ページには『「観客の知る自由」も表現の自由の中に入る』と記されている。(*1)それにも関わらず、特定の人間には入場させないという客の選別・差別を平然と行う表現の不自由展。正に”表現の不自由”を自ら体現することで大きな矛盾を露呈させたのであった。

これが左翼の実態であり実情だ。都合の悪いことは理屈もすっ飛ばして否定に走る。そして異論反論は認めない…まるで中国共産党のやり方と同じである。このように左翼勢力は非論理的で独善的かつ感情的で一方的である。そうした理の通らない滅茶苦茶な実態を隠すために「崇高な芸術」という隠れ蓑が必要だったのであろう。これはすこぶる都合の良い隠れ蓑であり、一種のアンタッチャブルな扱いをされる為のイージーなツールと言えよう。「芸術だ」「表現の自由だ」と言えば無理を突き通すことができると思っているのだろう。このような人々・勢力に日本を好き勝手にいじられたら、たちまち国家が瓦解に向かうであろうことは想像に難くない。(*2) 実にとんでもないことなのである。




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(*1)
表現の不自由展の公式ページには次のような文章が掲載されている。
『つまり、「表現の自由」とは、表現する者の自由、観客の知る自由、そして、作品と観客、観客と観客、作家と観客の「表現の伝達と交流の場」の実現を含むということである』
こうして堂々たる大見得を切っておきながら実態は「彼らにとって都合が悪い人には見せない」という子供のような狭量な態度を露呈したのである。自ら宣言した「観客の知る自由」とは相容れない矛盾した態度を彼らは示すのだ。全然筋が通っていない。これが左翼の”実態であり程度”なのだ。

(*2)
現実に2009-2012年の民主党政権は正に悪夢の時代であった。現在の立憲民主党などを見ていると、あの時に民主党政権が続かなくて本当に良かったと思うところである。




左翼の道具としての”芸術” 不気味な巨大顔に思う

2021-07-18 17:30:30 | 社会・政治
東京都渋谷区。原宿の西隣にある代々木公園の上に巨大な男性の顔が出現して一般の人々に恐怖感を与えている。主催しているのは東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京であり、企画は現代アートチーム「目」ということだ。

『都民騒然...「巨大な顔」代々木公園に出現 「進撃の巨人?」「首吊り気球を思い出しました」』

これについては既に各方面で議論されているのだが、圧倒的に否定的な意見が多いようである。それはそうだろう。企画した”芸術家”たちはその企画意図等を述べているのだが、その内容を聞いても普遍性が欠如していて全然共感できず、”芸術家”たちが一般的な感覚・価値観から大きく乖離したところで自己満足的に展示を行っているようにしか見えないのである。それは何も知らない一般人に対して自分たちの美的感覚を一方的に押し付けるだけのマスターベーションに過ぎないからである。

この展示(イベント)には「美」が無い。美しくなく、ただ一般人に対して悪い意味での驚愕と恐怖感・不快感を押し付けるだけの悪趣味な展示であり、作者の身勝手な思い込みと思い上がりしか感じられないものである。ジャーナリストの有本香氏も「普段はアートに対しては自分の意見は控えるようにしているが、(今回の)これは”ない”よね」という趣旨の発言をされている。それほど醜悪で不快な印象しか感じられず、人々の心理に悪影響しか与えないものになっている。

”芸術家”が自らの価値観や感性を形にして展示することで一般の人々に見てもらおうとする事自体は否定されるものではないが、一般人の五感に有無を言わさず直接訴求されるものであるならば、誰にでも通じる「普遍性」は持ち得ているべきであろう。それは芸術家として最低限の礼儀でもある。だが、この作品にはその「普遍性」は微塵も感じられない。だから「”芸術家”たちのマスターベーションに過ぎない」、と断定されるのである。

例えばあのバンクシーの絵とアクションは市井の一般人の目に止まる領域で展開されるのだが、誰にも通じる「普遍性」と「良い意味でのインパクト」が存在している事はどなたも納得されるところであろう。バンクシーの絵を見て「醜悪さ」や「恐怖感」から生理的嫌悪感をもって否定的な態度になる人はいない。

確かに芸術には、その深さ故に「誰にでも通じるものではない領域」というのは存在する。音楽でもそうだ。優れたクラシック音楽やジャズ音楽の演奏が必ずしも普段ヒットチャートの音楽しか聴いていない全ての人々全員に通じるものでもないのは事実である。だが、そうした音楽は音楽ホールやライブハウス等の閉じられた空間で、それの価値が判る人々が集って鑑賞するものである。今回のように、誰にでも通じる表現ではないのにも関わらず、不特定多数の一般人の眼前に突然無理やり押し付けるように出現させるそのやり方は極めて乱暴である。(*1) 暴力的で不自然で無神経が過ぎるというものだろう。こうした「人に不快感・嫌悪感を与えておきながら、自分は良いことをしている」と悦に入っている有り様が、あたかも共産主義独裁国家に見られる独善的で残酷な圧政の有り様とオーバーラップして見えてくる。


共産主義独裁国家と言えば…この巨大な顔が中華人民共和国初代国家主席である毛沢東氏の若き日の顔に似ている、とする議論が各所でなされている。

毛沢東:顔の比較

毛沢東氏の顔を意図的に採用したのかどうかは不明だが、企画演出したチームが左翼的な立場を持つ人々なら可能性としてあり得るだろう…とは言える。

そして…。

やっぱり関係があったのである。下記の記事を参照されたい。

坂東忠信氏のツイート

今回の「顔」を企画制作したチームの主要メンバーの一人である南川憲二氏は、あの「あいちトリエンナーレ/表現の不自由展」芸術監督で昭和天皇の写真を燃やして土足で踏みつける展示や大東亜戦争で日本の為に戦った英霊の皆さんを侮辱する展示など極左のプロパガンダに過ぎないものを”芸術”と称して展示強行した津田大介氏(*2) の仲間だったのである。

こうなってくると、あの代々木公園上に浮かんで人々に恐怖を与えた「顔」の正体が若き日の毛沢東氏であっても納得できる、というものだ。しかも、中華人民共和国建国以降の毛沢東氏の顔を使えば一発でバレてしまうだろうが、若き日の毛沢東氏なら判る人にしか判らないだろうという読みがあったのではないか、という推測は容易である。

あいちトリエンナーレ・表現の不自由展に於けるあの醜悪で嫌悪感しか与えない酷い展示といい、今回の悪趣味な巨大顔展示といい、そこに左翼の人たちの一方的で身勝手な価値観と感性の押し付けがあるところは共通しており、それは彼らの根底にある左翼思想が正に通底しているからにほかならない、と言えよう。

坂東忠信氏が言うように、「この違和感は現代美術作家に特有のもの?それとも彼ら特有のもの?」という疑問が浮かぶのは自然な流れである。同じ現代美術でしかも極めてアナーキーな存在であるバンクシーに対しては決して抱かないタイプの嫌悪感を左翼芸術家には感じてしまう。それは確かである。


左翼・極左の活動家たちは彼らのプロパガンダをそのまま発信するだけでは世の中に伝わらないが故に「芸術」という衣(ころも)をまとって一般の人々にアピールしようとしているのかもしれない。芸術(アート)という衣をまとうことで(一般人に対しては)左翼のいかがわしさを隠すことができるからである。津田大介氏の表現の不自由展がどう見ても芸術ではなく単なる極左のプロパガンダでしかないのと同様に、今回代々木公園上に浮かんだ巨大な顔もまた、彼らの大好きな共産主義独裁国家である中国へのオマージュなのかもしれない。



冒頭に記したように、今回の「顔の気球」イベントがオリンピック・パラリンピックが開催される東京を文化の面から盛り上げる「Tokyo Tokyo FESTIVAL」の中核事業として実施したのは東京都である。都の役人の感性が致命的に貧弱であることはこの一件でよく判る。或いは、都の役人もまた中国にシンパシーを抱く左翼思想の持ち主であるが故にこうした展開になった可能性もあるだろう。中国の侵食は東京都の内部にまで及んでいる、ということになる。そして、このような極左活動家の為に公金を投入したのならどんでもない事である。



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(*1)
精神的に幼い人間が欲望のままに己のエゴを押し付けている・・・そのような図式で捉えられるだろう。

(*2)
そもそも津田大介氏に対して芸術監督という肩書を与えるところが既にいかがわしいと言えよう。彼の何処が芸術家なのか?という疑問は多くの人が持たれるところであろう。彼は左翼の活動家であって芸術家ではない…それが多くの人の認識であると思う。