Altered Notes

Something New.

米朝首脳会談中止について

2018-05-27 11:10:00 | 国際
2018年5月25日時点の情報を元に記述する。

トランプ米大統領が米朝首脳会談の中止を発表したが、事態の推移に可笑しなポイントがあるのでいくつか述べる。

韓国の文在寅大統領がアメリカを訪問したが、一体何をしに行ったのかと思っていたら案の定な展開となった。
米韓首脳会談の際の文在寅大統領を見つめるトランプ大統領とペンス副大統領の目つきは非常に怖いものがあった。明らかに怒りを内包した目つきであり怒っていたのだ。それは文在寅が仲人気分で「平和だ平和だ」とヌルい事を言っているので最初からこいつは信用できない、と韓国からわざわざ来たことなど無視して憤りを感じていたのだ。おかげで文在寅大統領はメンツ丸つぶれである。

今回の米朝首脳会談中止の件はトランプ自身が日韓両首脳にも説明してある、と言っている。文在寅大統領は訪米時にそれを聞いたのかもしれないが、しかし自分の平和路線に都合の良いところだけチョイスして変な声明を言ったのかもしれない。

北朝鮮の金正恩党委員長も慌てているようで、早速北朝鮮からも声明が出されたが、その内容は平易に意訳すると「え?中止なの?」と驚いたような内容であり、「戻る用意はありますけど」とも付け加えられている。突然の豹変、低姿勢である。

結局、事態の推移全体を俯瞰して見た時に、今回「蚊帳の外」だったのは韓国ではないのか?・・・と思える展開になっている。

金正恩党委員長も喫驚したことだろう。

事態の詳細を説明するとトランプ大統領が「リビア方式ではない」と発言した直後にペンス副大統領が北朝鮮に対して「完全かつ不可逆的で検証可能な廃棄を求める」「甘いこと言ってたら厳しい軍事オプションもあるよ」「完全廃棄するまで制裁は続ける」と 原理原則を繰り返したら北朝鮮はペンス副大統領に対する悪口・罵詈雑言を繰り出してきたのだ。

この件で、トランプ大統領の手紙には「ホスタイル」という言葉が使われたのが一つの注目ポイントである。「ホスタイル」とは直訳で「敵意がある」とか「好ましくない」という意味で、日本語で意訳すると「イキっている」ような状態を表す単語である。例えば非常に尖ったラッパーが使いそうな言葉であり、どちらかと言えば下品な言葉である。それほど北朝鮮の態度がよろしくない、という事を言っているのだろう。

それで会談も準備作業は進行していたがドタキャンされた。北朝鮮の態度の硬化は、アメリカとしては単なる会談への揺さぶりを超えて、そもそもこれは会談を成功させる気がないのだろう、と判断したものと思われる。

北朝鮮の態度の豹変にトランプ大統領が激怒してグワーっと喋ったのを丁寧な言葉でリライトしたのがあの手紙であり、慇懃無礼な内容となっている。

トランプ大統領の手紙の最後には次のような事が記されている。
「この機会を逃したことは歴史的に非常に悲しい瞬間だったね。残念!」「で、気が向いたら電話か手紙してね」と記されている。「いつでも待ってるよ」と。
また、手紙には「ちなみに核兵器はあなた方が持ってるものより私達が持ってる物の方が格段にパワフルですよ」「ただ、神がこの核兵器を使わせることはないと思いますけどね」とも書かれていてアメリカの憤りが伝わる内容になっている。

また、こうした展開を見ているとどこの国が蚊帳の外に置かれたかが非常によくわかるのである。

これを受けて韓国から主に情報を受け取っている北朝鮮問題専門家などは非常に動揺しているそうである。「まさかやるとは思わなかった」ということらしい。

アメリカのメディアなどは、トランプ大統領がノーベル平和賞を意識していて席を蹴ることは難しいのではないかと書いていた。あのウォール・ストリート・ジャーナルですらそう書いていたのだ。

リビア方式を放棄するのは意外でもあったが、よく読むと全然違うことがわかる。「カダフィは死んだが、金正恩は死なないよう努力しますよ」と言ってるのだ。だから「リビア方式じゃない」と言うことらしい。

この辺、あまり意味がわからない感じである。
どういうことか。

トランプ大統領は2003年のリビアの核放棄と2010年にカダフィが排除された政変をどうも混同しているようである。リビアに於いて核廃棄が完了してからカダフィ政権は7年持ったのだ。その後、カダフィ政権は最後は内部崩壊して、カダフィ大佐自身は国民によって殴り殺された、というのが歴史的事実である。

「リビア方式放棄」といってこれは芳しくないと思っていたら、同じ会見の中で厳しいことをずっと言っていたのである。核放棄は完全かつ検証可能で不可逆的なものでなければ駄目である、と。そのあとペンス副大統領からフォロー発言があったのだが、そうしたら北朝鮮はペンス発言をつかまえて態度を悪化させて罵詈雑言のオンパレードになったのだ。
北朝鮮が「こんなのいつでもやめてやる」と言ったら、アメリカは「あ、そう、じゃ、やめましょ」となって、北朝鮮が「えーー?!!」と喫驚した、と。

どうもノーベル平和賞云々はトランプ大統領にとっては関係ないようである。その面では多くの人がトランプ大統領を読み違えていたようだ。

トランプ大統領の読みでは「これ(北朝鮮の豹変)には黒幕がいる」としている。これは「リビア方式をやめる」と言った同じ会見で言っている事だ。「北朝鮮の態度が突然変わった」と。それは金正恩が大連で習近平国家主席と二回目の会談をして、そこから態度が変わった、と語っている。

背後には中国がいる、ということで米朝対立から米中対立へと図式が変わってきたのが実態だ。米中は貿易戦争をやっている。これにどのような影響が出るか注目である。市場も荒れている(24~25日現在)。地政学リスクによる荒れは持っても1~2日くらいと言われているが、アメリカのこの先の通商問題に関する方針が変わってくる可能性があるので要注目である。

なお、中国はこの米朝首脳会談中止の発表には驚いてないらしい。事前に情報をとっていた模様である。


今後の推移に注目してゆきたい。



藤田ニコルの印象

2018-05-23 08:40:31 | 人物
にこるんが注目されている。

にこるんの存在は彼女が十代の頃から知ってはいたが、当時は特に関心を持てなかった。十代のノリや軽薄でケバケバしいファッション感覚には当然ながら1%も興味が持てなかったからだ。しかしそんな中でも、どんなに浮かれた空気の中でもにこるんはどこか冷めた部分を持っている事が画面を通しても見て取れた。はしゃいでいるように見えてもどこか冷静な部分は決して失わなず、客観性を維持し続けられる落ち着きが感じられたのだ。彼女に対して特に大きな関心を持つことも無い一方で他の女の子達とは何か違うものを持っていることだけは認識できていた。

そのまま年月は流れる。

しばらくすると、にこるんがティーンエイジャーのファッション誌であるポップティーンの専属モデルを卒業し女性ファッション誌ViViの専属モデルになるという。この頃にTVで見かけたにこるんは以前のポップで派手なイメージからは大きく変貌を遂げていた。年月の経過に比例して相応に歳を重ねて可愛らしさの中に大人の風格が垣間見えるようになり、藤田ニコルらしい独特の個性がいい形で醸成され、そして以前から感じられた冷静さがより思慮深い人間性として印象付けられるようになった。

にこるんを見続けていると、冷静さや思慮深さと共に彼女が「自然体であること」「普通であること」を大切にしているのが判ってくる。人間は「普通でいること」が思いのほか難しい。無理せず、着飾ることなく、ありのままに自然で普通にいられるのは実は凄いことなのである。

人間は社会生活においては必ず何かしら取り繕う心理が芽生えるものだ。他者に対して「良く見せよう」という無意識的な動機が必ず発動して変に頑張ってしまうのである。それが人を不自然にしたり普通でなくさせたりする原因になる。特に衆人環視の状況下では益々その傾向が強くなるものだ。

にこるんはそうした心の中の不純物にとらわれることなく常に自然体で普通でいられるところが彼女の人間性を際立たせている。落ち着いている時もはしゃいでいる時も常に にこるん流 の自然体かつ常に自覚的でいられるところ、つまり普通で居られるところが非凡なのである。それは長い年月をかけて自分を磨いてきた人だけが獲得できる品格であり人間性の有り様なのだ。実際、にこるんは幼少の頃から母親との関係や大人社会の中で揉まれる内に極めて自覚的な意識を持ち自分を常に客観視できるマインドを自ら育んできた。

そんなにこるんのナチュラルで奥行きの深さと思いやりのある豊かな人間性は分かる人にはちゃんと伝わっている。だから「大人にこちゅう」(大人のにこるんファン)が激増している現象も必然と言えるのだ。






男性の生涯未婚・彼女諦め その理由

2018-05-15 03:09:31 | 社会・政治

従前より話題になっている生涯未婚率は上昇の一途である。現在のデータでは男性の4人に1人が生涯未婚ということだが、実感するところではもっと多い気がしている。そして、一方で結婚以前に恋愛すらままならない男性の比率も20代~30代男性人口の過半数に達している。

こうした傾向(”大きな潮流”とも言える)が顕著になった原因は既に分析されていて浅い原因・深い原因共々諸説が挙げられている。世の中の潮流が変わる時というのはいくつもの要因が偶然に多重的に重なり合わさることで生じるものであるが、こと男女の恋愛や結婚については「最大の」と言っても過言ではない要因が存在している。

それは
「女性が(悪い意味で)強くなったこと」
或いは
「女性が(男性に対して)凶悪化したこと」
と言っても過言ではないだろう。

これらをまとめると、

「女尊男卑が一般化したこと」

とも言えよう。

どういうことか。

そもそも男性と女性という性差は非常に大きなものがあり、各々の性には他方をもって置換不可能な特質がある。それを誤解を恐れず平易かつ象徴的な言葉で表すならば・・・「男性は女性を守り助ける存在」であって、「女性はそんな男性に癒やしを与える存在」である。この表現だけで特質を全部表すことはできないが、しかし本質を構成する主たるものであることは間違いない。それは人類始まって以来連綿と継続されてきた生物的に自ずと備わった性質、或いは役割である。「そんなの気に入らない」と言われても生き物として本能的にそういう形にできているのであり、そこは否定のしようがない。(*0)

日本で言えば元号が昭和の時代まではそうした伝統的で普遍的かつ必然的な性別役割は顕在化していたと考えられるが、しかし時代が平成に入ったあたりからそうしたバランスが崩れてきた。

何が起きたのか。

国や社会が女性の地位向上や権利拡大等々を目指してあらゆる分野で女性のための動きが始まったのだ。誤解しないでいただきたいが、性別に関係なく男女は同権であるべきであり、女性だからというだけで不当に差別されることがあってはならない。これは人間として当然のことである。男女が同権であることと性別に自ずと備わった役割は全く別の問題である。

ここで潮流は思わぬ方向に動いてゆく。

当の女性たちはこうした女性の為の諸運動を誤解して悪い意味で調子に乗ってしまったきらいがある。すなわちだんだん気が大きくなってきて「男性を見下す(馬鹿にする)」ようなマインドを持つようになってしまったのである。「自分たち女性は男性の上に君臨する」「男など足蹴にして構わない」という一種の思い込みをするようになってしまったようなのだ。当時流行した「アッシーくん」「メッシーくん」「ミツグくん」などはこうした女性の気質の変化が具体的な形として現れたものである。

これはテレビをはじめとするマスコミの影響も少なくない。マスコミの女尊男卑が常態化し、さらに異常なレベルでイケメンで強い男性を礼賛する一方でそうではない男性を見下してよい馬鹿にしてよいという風潮を広めた事で女性たちは男性に対して上から目線で蔑視するようになった。(*1)(*5)

その一方で男性たちの意識は昔と変わっていない。基本的に昔のままである。男性は強くあるべきという伝統的な規範を強制されつつも、実は男性はこと恋愛や女性に関しては超が付くほど繊細である。だから少しのことで女性に対する自信を失ってしまうことも少なくない。

こうした変化が抗いがたい大きな潮流となってきたその結果、何が起こったか?

女性は常に上から目線で男性を値踏みして少しでも気に入らなければ当然のように排斥する。なにしろ女性には元から性的優位性がある上にこの社会の風潮である。はじめから男性よりも上の立場であるが故に言いたい放題、やりたい放題である。しかしこれをされる側の男性にとっては恋愛や結婚はただただ辛くきついものでしかなくなってしまったのだ。女性に奉仕することが当然という伝統的な慣習がそのまま残る一方で女性から見下されて足蹴にされる。さらに、仮に艱難辛苦を乗り越えて結婚に至っても、いざ離婚の際には男性には一方的に不利な数々の条件が突きつけられる。今や男性にとって結婚はハイリスク・ローリターン(ひたすら高リスクでリターンのほとんど無いチャレンジ)となっており、男性の元々のナイーブさも合わせて考えるならば、これでは男性にとって恋愛や結婚に憧れを抱く事は無理難題でしかなく、従って恋愛や結婚を忌避したくなるのは至極当然の成り行きと言えるであろう。(*9)

基本的にこうしたメンタリティーのベースが出来上がったところに、社会的に女性が生きやすく男性が生きにくい時代となっていることや、政府が進めている社会格差の推進(*2)が追い打ちをかけてくることで多くの男性たちは結婚しなくなったのだし、結婚したかったとしても経済面で厳しい立場に立たされている上に女性からの精神的な圧力に押し潰されて諦めざるを得なくなっている。(*7)

恋愛も同様であり、現代の女性はそもそも男性が「守ってあげたい存在」ではなくなってしまった(*8)のだし、男性が普遍的に抱く永遠の女性像(ユングが言うアニマ)とは程遠い存在になっている。集合的無意識におけるアニマという元型が賦活されないほど男性が理想とする女性像とはかけ離れた存在になってしまっているのが現代の現実の女性たちなのである。(*3)(*4)(*6)

さらに加えると、現代は”男性である”というだけで”嫌われる”時代である。若い女性は”男性”というだけで拒否反応を示し(※但しイケメンは別)、嫌悪感を躊躇なくぶつけてくる。

また、女性の多くは男性が「性的な目で見てくるのが嫌だ」と言う。しかし現実は「男性が女性を性的な目で見るから人類はここまで生き延びてきた」というのが真相であり真実である。男性が性的な目で女性を見なくなったら、そもそも結婚自体が成立しないし、世の中に恋愛というものが存在しなくなるだろう。その行く末は人口減少→人類滅亡である。若い女性はそうした根本的認識が無い。無知であり無教養だからである。精神的な幼さ故、と言ってもいいだろう。要するに、この事案の本質(女性側が言わんとする事)は「性的な目で見る意識をむき出しにされることが嫌だ」というところだろう。異性を性的な目で見るのは女性も同じであるし、そうした態度を顕にする事にも女性は躊躇がない。ところが女性は自らの「性的に見る目」は不問にして男性のそれだけを糾弾する。この不等化な評価基準もまた女性の本質を表している。(*10)

こうした様々な状況を鑑みて、男性から見れば「これだったらもう恋愛も結婚もいらない」と判断するのはごく自然な流れである。生涯未婚率の爆発的な増加や草食系男子・絶食系男子の増加はこうした実状をきちんと反映した結果の必然的な状態である、と言える。

女性が自立できて男性と同じ権利を持って社会で活躍できる事は大切な基礎条件である。しかしそうした動きを押し進めた結果として生涯未婚率は増加し男性は恋愛市場から去っていった、というのは男女の理想的なあり方を模索する上で重要なファクトであると言えよう。

このような男女を取り巻く実態が全社会的に正しく認知される日は恐らく来ないであろうことは想像に難くない。当事者たる男女も押し寄せる不安・困惑、そして混乱の中で疲弊しており、国家・政府も事態の深刻さに全く気がついていない上に本気で対策を取る意欲も見られないので、日本はいきつくところまで行ってしまうことになるだろう。それがどんな形になるのか誰にも判らない。

将来的には「恋愛」や「結婚」というものは美男&美女…つまりモテ上流階級だけに許される贅沢になるのかもしれない。いや、実は昔からそうだったのだ。昭和の一時代(国民皆婚時代)を除いて、恋愛→結婚に至る幸せを享受できる人々は限られていたのである。

出会いを求めて「ティンダー」などのマッチングアプリを利用する人々もいるが、あれは恋愛強者だけに有効なシステムであって、そもそも恋愛弱者には全く不向きである。マッチングアプリが流行したことで世の中の婚姻数が増えたというデータはどこにもない。独身研究家の荒川和久氏に依れば『マッチングアプリの構造とは、完全な「勝者総どり」の仕組みだし、いってみれば、モテる男の快楽のセックスのためにモテない男が金を払っているという世界です。』ということだ。身も蓋もないが全くその通りである。(*11)


最後に書いておきたいのは、当該記事は女性をディスる為のものではなく、本来生き物としての主役が女性であるからこそ両性本来のあり方をもう一度捉え直して関係性を再構築できれば良い、という趣旨で書いていることをお知りおきいただきたい。行き過ぎた女尊男卑は相互に不幸でしかない。男性にしかできない役割、女性にしかできない役割、各々の役割と個性を把握した上で互恵の精神を持って関係性を築く事が今ほど必要とされる時代はないのではないか、と切に思うのである。







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(*0)
例えば、結婚できない(しない)人の傾向として非モテの男性だけでなく、ハイブロウな世界に生きている高収入な女性や、女性らしさよりも男まさりな特質を持つ女性等の未婚率が高い傾向にあるのはこの原則を考えれば理の当然であろう。

(*1)
こうした影響は結婚・恋愛だけにとどまらず、一般社会の有り様にも歪みをもたらしている。女性の異常な男性蔑視の感情と思い込みは一般男性の普通の生活すら破壊しようとしている。街を普通に歩いている男性が全く見知らぬ女性から不審者扱いを受けることが多くなったのだ。実際に全く何のやましさもない善良な男性が歩いているのを見て女性はその男性に対して一方的に不審者として決めつけてわざとらしい回避行動を取る。見知らぬ女性からいきなりこのような嫌がらせにも似た行動をされたら誰だって傷つくのが当然だ。だが、女性たちはこんな心的暴力をそこら中で当然の権利のように振りまいて恥じることがない。これは女性の男性蔑視の感情、男性を見下す意識が常態化している事を雄弁に物語るものであり決して看過できない。
さらにこの状況をむしろ悪化させている事象がある。社会では毎日のように親が子供を虐待する事件や幼い子を巻き込む事件、女性が襲われる事件、無差別殺人事件等々の社会不安を巻き起こすような現象が次々に発生している。こうした事件を起こす犯人が尽く成人男性であり、それが罪のない一般男性に対する疑惑の眼を助長させる大きな原因となっている。一握りの犯罪者たちによって多くの無実の男性たちが大きなとばっちりを受けているのだ。そして一般女性は無実の男性を最初から「不審者」と決めつけてそれを行動で現すことで罪のない男性たちを傷つけているのであり、女性たちはそれを当然と考えている。このような人権問題に相当するような事象が社会のあちこちで生じているのだが、政治や行政も含めて誰もこれを取り上げようとはしない。それどころか、そうした問題が実際に発生している事実すら把握していないようである。この国は本当に人の心に対して無神経な国になってしまった。それと共に「恐ろしい監視社会になった」とも言えるだろう。まるで全体主義の中国のように他人の一挙一投足を監視する社会である。日本は既にそうなっている。そんな状況下で無実の男性が不審者扱いされて疲弊しているのだ。

(*2)
現政権は雇用の流動化(首を切りやすくする)や給与の低水準化を常態化することで大企業の内部留保の増大を実現させるための政策を推進している。

(*3)
余談だが、こうした状況を背景にお金を払うことで現代の男性に女性の優しさや癒やしを与えてくれるのがアイドルというビジネスであろう。秋元康のような商売人がつけ込む隙がここにある。

(*4)
現代の女性を表す言葉として「女性の男性化」と言われる事が多いのも一つの証左であろう。これは正に女性が生物的に本来的な「女性らしさ」を捨て去ってしまった事実を物語る言葉として重要である。また、男性が「自己肯定感」「自尊感情」を非常に持ちにくい時代であり社会になっているにも関わらず「男性が情けない」として安直に男性を叱咤激励するウェブサイトも存在するが、的はずれな内容と無責任な煽りばかりで到底容認できないものが多いことも付言しておく。また、それらの無責任サイトの多くが婚活ビジネス・出会い系ビジネスへのポータルサイトとなっている事は留意すべき点であろう。それは恋愛弱者からさらにお金を巻き上げる一方で何らのリターンもない世界である。

(*5)
やや余談になるが、意外なところでは例えばペットの譲渡会という民間が運営する組織に於いても同様に酷い男性差別が行われている。こうした組織ではペットの譲渡先として想定しているのはほぼ女性のみで、男性、それも一人暮らしの男性や熟年男性などは完全にお断りなのである。つまり最初から 男性=ペット虐待必須 として決めつけられている訳で、これはとんでもない男性差別と言える。女性が男性に対して極端に凶悪化している現象の一つの典型的ケースであろう。

(*6)
昨今は経済的に自立して正社員でしっかり働く女性も増えてきている。だが、そんな女性たちの未婚率は極めて高くなっているそうだ。それも高収入であればあるほど未婚率は高い。それは当然のことである。男性が求める理想のアニマ元型(永遠の女性像)から遠く離れたイメージを体現しているのだから。経済的にエスタブリッシュしている女性は深層心理学的には「女性らしさ」よりも「男性らしさ」が前面に出ている形を成している。女性が経済的に自立して生活できている事自体はもちろん素晴らしいことである。だが、その傾向を強めれば強めるほど男性が(本能的に・無意識的に)求める理想の女性像との乖離は激しくなるばかりで、その結果として生涯未婚率と離婚率は著しく上昇しているのだ。今の日本人社会がどこか悠久から続く自然の摂理に離反している傾向にあるのかもしれない。そして、そのことにほとんどの人は恐らく気がついていないのだ。

(*7)
2012年の秋、お台場でのイベントにおいてトヨタ自動車の豊田章男社長は
「車を持てば、女性にもてると思う。ただ、どんな車で迎えに行っても笑顔で乗ってくれる彼女がいいですね」
と発言した。豊田社長にとっては「男性は車をもってさえいれば女性にモテる」ということらしい。発想が昭和の自動車普及期のそれであり、しかもお花畑のようなあまりに単純で幼稚な発想には笑うしかないが、ならば、現代の未婚男性や恋人がいない男性の急増ぶりをどう説明するのだろうか。世の中の多くの男性はたいてい車を所有している。しかし独身男性や恋人がいない男性は凄い勢いで増加しているのが実情だ。
さらに問題なのが、これから活躍が期待される若い男性たちである。次世代を担う若い男性たちの多くは所得が低く経済的にきつい状況下に置かれているので車を所有していない場合が多い。豊田社長はこの厳しい実情をご存知ないのだろうか。確かに何不自由のないお坊ちゃま育ちできているので、それを理解する機会はなかったかもしれない。ならば軽率に「車を買えばモテる」などと冗談でも発言すべきではない。そもそも若い男性に「女性にモテたければ車を買え」と言うのなら、自社の工場で働いてくれている若く貧乏な男性達に車が買える程度の給与を支払ってから言うべきであろう。現代の若い男性が女性との結婚はおろか、恋人にすらなれないのは経済力の決定的な不足も大きな一因なのだ。豊田社長は若い労働者に自社がどの程度の給料を支払っているのかすら知らないのだろう。そうでなければあんな発言はできない。実態はとても車を持つことなど考えられないほど低い水準の給与しか得ていないのが実態であり、車以前に”生きることで精一杯”なのである。

(*8)
性差別の撤廃や男女同権を叫ぶ一方で男性依存の姿勢を顕にして己の名誉欲、虚栄心そして金欲などを満たす為の道具としてオスを追い求めるメスとしてのあさましく無意識的な習性、本能のままにターゲットであるオスに向けて突進する姿は男性たちを心の底からドン引きさせるに充分なものであった。さらに言うなら、そうした女性たちはマスコミが作り上げた憧れの女性像に違和感を持たずに同一化しようとしている。こうした女性の動きは実は古来から続く生物本来の役割分担に則ったものでもある。

(*9)
こうして女性たちによって抑圧された状況に追い詰められた男性が神経症的な、或いは鬱に近い状態になり、女性に対する強い恐怖心を抱くようになる事例はそこかしこにある。最も危惧されているのは恐怖心のさらに先にある「敵愾心」「憎悪の感情」である。強い憎悪感情を持つようになると気持ち的に追い詰められた挙げ句に犯罪行為に走ってしまうケースもあり得る。もちろん犯罪行為は絶対的に否定されるべきことであるが、何より無神経で凶悪な女性たちが無自覚に彼らを追い詰めている事はもっと認識されていい事実であろう。抑圧する側というのは往々にして無自覚かつ無神経であり、凶悪な女性たちの態度・姿勢が男性たちを追い詰めて心を折れさせている事実に全く気づかないのである。

(*10)
「男性が性的な眼で見てくるのが嫌だ」という女性も、実は自分が好きな男性だったらそれを許す事がほとんどである。好きな男性とはすなわちイケメンである場合が多い。なので、厳密に「嫌だ」に該当するのはモテない非イケメンの男性、ということになる。女性たちはこの非モテ男性に対しては嫌悪感だけでなく怒り・憎しみなどの悪感情を思い切りぶつけてくる。それはもう容赦なしにぶつけてくるのだ。

(*11)
イケメンのYouTuber、例えば ぷろたん などは男女の出会いについて「普通に日常で女性に出会う機会があるでしょう」と述べるが、それはイケメンでモテ属性に満ちた男性の場合だけである。自分に出来ている事は誰にでもできると思いこんでいるのだ。彼は知らないのである。いわゆるブサメンなどの非モテ属性を持つ男性たちには日常生活において女性に出会う機会すら無いのが普通であり、出会ったとしても非モテ故に即行で排除されてしまう。こうした実態が ぷろたん などモテ属性の男たちには全く判らないのだ。



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<参考記事>
30代女性に向けたウェブマガジンに男性の彼女諦めについての記事が掲載されているので紹介したい。

『彼女諦め男子は情けない、と言い切れるだろうか?いろいろウラの事情も考えた!』



<2024年7月26日:追記>

YouTube動画の新R25チャンネルでの鼎談で、統計の専門家であるサトマイさんが「自分は女性で良かった」としみじみ語っている。現代は男性として生きることは何一つ良いことはない、という趣旨の事を発言している。女尊男卑の価値観が社会の隅々まで拡散・定着している事を実感できる意見である。現代は男性に生まれること自体がリスクであり、まして中高年になろうものなら見下され・排斥され・貶められて社会の端に追いやられる存在でしかなくなってしまう・・・これが紛うかた無き現実なのである。こんな社会で結婚が「良いこと」として受け止められる筈はないのである。もちろん、男性全体の上位2割である恋愛強者達は別である。恋愛弱者たるほとんどの男性にとっては結婚はおろか、彼女を作る事も避けるようになって当然なのである。男性にとって何一つメリットは無く、マイナスでしかないからである。

 

 




絶対音感は必要じゃない

2018-05-12 00:23:12 | 音楽
テレビ番組で音楽家を紹介する時などによく「彼(彼女)は絶対音感を持ってるんですよ。凄いですねー」として紹介されることがある。
テレビ番組の制作者などはほとんどが音楽の素人であり、絶対音感があることが「凄い」ことで、だからその人の音楽は「素晴らしい」という賛美になるらしい。

実にありがちで安直なパターンである。

音楽をやる上で絶対音感を持っていることはそんなに大きなメリットがあるのだろうか。
TV番組の制作者は絶対音感を持つことが具体的にどのように素晴らしいのか、そこは言わない。いや、言えないのである。なぜなら何がどうメリットなのか全然判ってないからである。馬鹿ですね。

番組制作者たちが無知で馬鹿である証拠に「絶対音感を持つメリット」として必ずやらせるのが「何かの音を鳴らしてそれが何の音程なのかを当てさせる」または「街中の偶然聞こえてきた音が何の音なのかを音名で言わせる」という茶番。子供だましのお遊びのようなことだけやらせて、絶対音感が音楽の創造においてどのように役立つのかは一切説明できないのである。これがテレビ屋の”程度”なのだ。

絶対音感の「要不要」について、結論から言えば、音楽を創造(作曲、演奏)する上で絶対音感は必要ではない。
むしろ邪魔になる時さえある。

なぜか。

音楽を作ったり演奏したりする時に最低限必要な感覚は「相対音感」である。ひとつの基準の音に対して目的の音が何度離れているのか、或いは現在の調性と別の調性が何度差の関係にあるのか、といった音程の相対的な位置関係が把握できていれば何の問題もない。実際、優れた音楽家で絶対音感を持たない人などごまんと居るのだ。(*1)
だがしかし、テレビ屋はそうした事を何一つ知らないので絶対音感を持っていると聞いただけで「へへー」と平伏してしまうのだ。阿呆である。

そして、絶対音感が「邪魔になる事がある」とはどういうことなのか?

世界には様々な音楽が存在し、それぞれの民族毎に独特の音程・音階が存在する。日本の伝統音楽もまたその一つだ。中には音程が定まっていず、音程が動く事を認める場合も多々ある。この辺は民族音楽学者の小泉文夫先生の研究を是非お読みいただきたいのだが、核音とそれ以外の音の関係が流動的で西洋音楽の平均律では捉えられないものがたくさんある。

世界に数多存在する様々な音楽の中で西洋音楽というのは決してマジョリティーとは言えない。グローバルに音楽を捉えようとする時、ピアノの鍵盤に示されるような西洋平均律の音程が絶対音感として身体に染み付いているのはマイナスでしかない。その平均律の絶対音感が邪魔をして他民族の音楽における微妙なピッチの差が「判らない」かまたは「間違った音(不快な音)に聴こえる」といった受け取り方になってしまう恐れが多分にあるのだ。

また、日本の伝統楽器(三味線や琴、尺八等々)を演奏する若手音楽家には日本音楽が本来持っている微妙な音程(西洋音楽には無い音程)が「判らない」人が多くなってきている。これについては拙稿の「日本人と西洋音楽・邦楽」で書いているので参照されたい。

日本において音楽ビジネスの中心は西洋音楽であるが、だからといって全ての音楽を無理矢理西洋音楽に寄せて捉えようとするのは乱暴としか言いようがない。グローバルな視野で見るならば西洋音楽もまた一つの民族音楽でしかないのであり、地球規模で見るかぎり、そのシェアは決して高くないのが実態だからだ。


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(*1)
音楽家ならば永く演奏している内に、例えば「このピッチ(音程)はG(ソ)だな」といった絶対音感的な感覚は自然に身についてくるものである。それで充分なのだ。


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<2018年12月9日:追記>

日本の音楽学生は絶対音感が優れているが相対音感が弱い、という研究結果が発表された。
下記リンク先を参照されたい。

日本の音楽学生は絶対音感が優れているが 相対音感が弱いことが国際比較から明らかに 〜日本の音楽教育の見直しを示唆する結果〜



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<2022年12月15日:追記>

ピアノのベテラン調律師が当記事内容と全く同一の意見を述べている。参照されたい。↓

「調律師に絶対音感は必要か?」









「セシル・マクビー」それはジャズ・ベース奏者の名前

2018-05-09 20:42:40 | 音楽
日本で「セシルマクビー(CECIL McBEE)」と言えば有名なファッションブランドを思い浮かべる人が多いかもしれないが、音楽の世界では「セシル・マクビー」と言えば有名なジャズのベテランベーシストの名前である。
1935年生まれのセシル・マクビーはジャズベーシストとして多くのビッグネームたちのセッションに参加した経歴があり、卓越した技量とセンスでバンド演奏を支える重厚なプレーヤーである。モダンジャズの最先端を切り開くミュージシャンの一人として多くのジャズファンから認知されている。近年は日本絡みの活動としては山下洋輔ニューヨークトリオ(1988年~)での演奏が知られている。

冒頭で述べたファッションブランドとの関係で言えば、このベーシスト、セシル・マクビー氏がジャズ界で広く名が知られるようになった遥か後になってファッションブランドのセシルマクビーが登場した時にはジャズ界から多くの「?」が生じた。セシル・マクビー氏はジャズの世界で1960年代からニューヨークを拠点に活躍しており、日本でもその名前が知られるようになった。

一方でファッションブランドのセシルマクビーのスタートは1986年であり、1987年頃から旗艦店であるSHIBUYA109店の隆盛と共にその名が知られるようになった。

このファッションブランドが流行し始めて以降、セシル・マクビー氏は来日した時に自分の名前が大きく書かれたポスターやら女性が手に下げているバッグ等を見て喫驚し疑問に思ったに違いない。彼はファッションブランドのセシルマクビーを商標権の無効を求めて裁判を起こしたが裁判所は「ジャズ界では有名でも一般社会ではそうでもない」という理由で敗訴した。裁判は往々にして大企業に有利な判決が出ることが多い、という意見があることも記しておく。結局敗訴はしたが、しかし米国においてはセシルマクビーの商標での商品の流通・販売は困難な状態になっているそうである。