Altered Notes

Something New.

「韓国・ホワイト国除外措置問題」の真実

2019-08-28 17:00:00 | 国際
当ブログでは7月にこの問題を記事にしているのだが、韓国の度し難い民度の低さに辟易しているので、再度説明させていただく。

政府が輸出優遇国から韓国を除外する措置を決定した件について、日本のマスコミ(新聞・テレビ等)においてその内容の説明や評価の報道が行われているが、それを見聞きした国民の多くが「何か韓国に配慮し過ぎ」な印象を持たれている事と思う。

この「韓国をホワイト国から除外する措置」とはそもそもどういうことなのか?
どのような意味があるのか?
これについて平易に説明する。

この措置は韓国への差別でもなければヘイトでもない。

今まで半導体の材料を韓国へ輸出していたのだが、それは戦略物資でもあり、それを韓国が第三国に横流ししていた疑惑があるのだ。

ざっくり言えば・・・

「輸出した量」
「韓国で使用した量」
「残量」

の計算が合わないのだ。

書類上も不整合な数字が認められ、どうにもおかしいぞ、という状態があったのである。

で、本当ならばこの程度の事は双方の国の役所の課長級同士が「この数字がおかしい」などとやりとりして調査した結果、管理のどこが不備だったかを明らかにして改善方法を明示することで最終的に解決をはかるような小さな問題…そもそもはこの程度の話だったのである。

ところが…。

韓国は改善策を出さず(出せず?)にひたすら政治問題化して「日本が報復している!」と騒ぎ立てているのである。「報復」ということでは日本は未だ一切報復措置は講じていない。報復はこれから始まるのである。その意味で韓国の言い分はトンチンカンである。

本当の「報復」は、「応募工問題(いわゆる徴用工問題)」で韓国が差し押さえした日本企業の資産を現金化した時に初めて制裁を加えることになる。

今回のホワイト国除外の措置は、あくまで戦略物資を横流ししている事…毒ガスの原料や核兵器開発に使える戦略物資の在庫管理がいい加減だからである。調べてみると、中東のアラブ首長国連邦などのテロリストが集まるような中東諸国に流れているようなのでこれはまずい、と判断されたのである。中東諸国のような国を経由して例えば北朝鮮に流れる可能性は非常に大きいのだ。だとしたら大問題である。

これではいけないので、ホワイト国指定をはずして通常の輸出管理に切り替えますよ、ということなのである。しかしこれでも台湾向けの輸出管理よりも甘いのである。ホワイト国指定をはずしても、それよりも台湾向けの方が厳しい輸出管理をしているのだ。それほど優遇してあげているのにこの言い草、である。韓国とはこんな国なのだ。

日本のマスメディアはこのような客観的な事実を全く伝えないばかりか、逆に「WTOで韓国をいじめている。韓国がかわいそうだ」などとこれまた的外れでトンチンカンな報道をしているのが実態である。これは流石に左側に傾いたマスメディアもいささかやりすぎなのではないか。朝日新聞流に言うなら「角度つけ過ぎ」(*1)である。(蔑笑)


元日本経済新聞の鈴置高史氏(朝鮮半島ウォッチャー)の最新記事によると、米国は韓国がGSOMIA(軍事情報包括保護協定)を破棄する問題については全く怒っていないとのことである。それ以前から米韓関係は悪化していたからである。日本の「韓国をホワイト国指定解除」の件も事前に米国とのすり合わせは十分に行われていたようである。


ざっくりと平易に説明したが、こうした概要が「ホワイト国指定解除」にまつわる真相なのである。





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(*1)
朝日新聞の記者は先輩から記事の書き方を教わる時に「角度をつけろ」と言われる。角度とは朝日新聞の主張に合わせるという意味であり、そのために事実を捻じ曲げたり、ひどい場合には事実の捏造も行われる。大変な思い上がりである。慰安婦報道や靖国報道等々で朝日新聞が捏造記事を掲載し国際問題を作り上げて韓国や中国にご注進したのは有名な実話である。こうした実態を見る限り、朝日新聞は報道組織ではなく政治運動組織でありその社員は活動家と呼んだ方が妥当であろう。




「煽り運転」を生み出す深層心理

2019-08-20 14:36:36 | 社会・政治
煽り運転が原因に依る事故・事件が相次いでいる。なぜ煽り運転がなくならないのか。なくならないどころか、増えている印象すらあるのはなぜか。

煽り運転はいじめの構図と全く同じである。「煽り運転をしてしまう心理」と「いじめ加害者の心理」は同じということ。ヒントは深層心理・無意識の中に存在している。

社会には色々なタイプの人が居るし、同じタイプでも個人によって異なる性質を持っているのが普通である。その中を見渡した時に、好感が持てる人物とそうではない人物を人は無意識的に仕分けしている。この「好感が持てない」には「自分とは違う(皆と同じではない)」という異質さの感覚も含まれる。

好感が持てない人物、それは嫌いな人物とも言えるが、なぜそう感じるのだろうか。それは人間の無意識の中に存在する種々の心的要素の動きに関係している。

どういうことか。

これについてスイスの深層心理学者であるC.G.ユングが説明しているのだが、ユングの解説をそのまま記すと非常に難解になるので、ここはざっくりと平易に説明する。

人を見て「なんか嫌だな」と思う時、それは自分が認めていない生き方を相手がしている時などにそうした感情が生じる。平たく言うなら、自分が好ましく思う言動・行動をする人には好感を持つのだし、逆に自分が嫌だなと思う言動・行動をする人には嫌悪感を持つのである。また、日本人の場合は皆とは異なる人(皆と同じではない人)に対しても嫌悪感を持ちやすい。

この時、人はその(嫌だなと思う)相手に対して自分の中にある「影(シャドウ)」を投影(プロジェクション)しているのである。

「影」とは何か?

無意識の中にある「自分が否定しているもの」「嫌なもの」と思う感情の元になる心的要素である。

煽り運転でもいじめにおいても加害者自身の無意識の中にある「影」を相手に投影しているのだ。投影された相手は自分からみて「嫌な奴」「否定されるべき人間」「存在を抹消したい人物」として意識化される。

この時に相手に対して感情的になり、同時に攻撃的になる。そしてその攻撃が煽り運転でありいじめ行為なのである。

この「影」という心的要素は誰の心の中にも等しく存在している。「影」のない人はいない。人が人として存在できるのは光と影があるからである。それは物体が塑像として見えるには光と影が必要であるのと同じである。

普通の「成熟した人間」ならば、上述の「影」を己の心の中でうまく消化して統合する事ができる。「影」を相手への攻撃エネルギーとしてではなく、自分自身の中で消化することで自分という人間を成長させる原資にすることが可能なのだ。

もうお判りと思うが、煽り運転をする人物、いじめの加害者といった人々は、上述の「影」を己の心の中に統合することができない人間なのだ。ざっくり言えばそれだけ人間的に幼く心の成長が未熟な段階にある、と言えるだろう。

2019年8月19日のCX「ワイドナショー」において、武田鉄矢氏は「煽り運転をする犯人は何かが憑依している」ので「普通に話しちゃだめ」という趣旨の発言をしている。これは当記事での説明と矛盾しないものだ。

前述のように、煽り運転をする犯人は己の無意識中の「影」が暴走するその勢いに耐えることができない未熟な人間なのである。いわば本人に「影」が憑依した、とも言えるだろう。

まともな大人ならば無意識の中で「影」が暴れだしていてもそれを意識化して自制することができる。「影」の憑依を振り払う事ができる、ということだ。

煽り運転してしまうのは自制ができないどころか、自分の心の中で「影」が暴れだしている事実にすら気が付かない、意識化できない人だから・・・ということであり、「影」が暴走している間はまともな話(論理的な話)は受け付けられない。無意識内の動きが優先された心理状態にあるからである。だから武田鉄矢氏も「普通に話しちゃだめ」(憑依中はまともな話は不可能)と言っているのである。

そしてさらに言うなら、己の心が「影」に乗っ取られた人がその攻撃の対象とするのは往々にして「※但し自分よりも弱そうな人間に限る」のである。考えてみれば判るが、いじめの加害者は加害者本人よりも強そうな人間は絶対に攻撃しないのだし、それは煽り運転でも基本的に同様である。攻撃する人間は下劣な卑しさも併せ持つ事が認められるのだ。

また、加害者は無意識的に「影」を対象相手に投影してしまう一方で、まともで常識的な社会人を装うという小賢しい事も可能である。これは人間の無意識の中には様々な心的要素が存在し、「影」はその一部分に過ぎないからである。前述のように人間の中には光と影の両方が存在するので、「影」が暴走する時に極度の異常性を発揮する人物でも一方で極めてまともな社会人像を装うことも可能なのである。

こうした人間の無意識の動きについて社会はもっと関心を持ち認識する必要があるだろう。(*1)
また、これらを生み出す背景となる社会の有り様にも関心が向けられるべきである。恐らく社会の有り様に一切のマージンが無く、型に嵌った生き方を強制されて非常に息苦しい状態にある事も関係しているのではないか、という気がしている。



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[2019/10/14付記]
スティーブン・スピルバーグ監督の出世作となった「激突!(Duel)」という映画作品がある。ご覧になった方も多いと思うが、あの映画は正に煽り運転の被害に遭うというモチーフであり、主人公の男性を執拗に追いかけてくる正体不明の大型トレーラーは正に得体のしれない「影」である。「影」という元型は自分でもはっきりと意識化できない正体不明の暗い何か、なのである。この映画で描かれたのは煽り運転がもたらす恐怖と、もう一つは現代社会が抱える得体のしれない暗い影を象徴的に描いた、と言えるだろう。誰もが主人公の男性のような危機的状況に陥る可能性はそこかしこにあり、その原因ははっきりとは判らない”何か”(=「影」)なのである。



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(*1)
事件後の報道でよくあるパターンに「あんなに良い子だったのに」とか「とても真面目な人だと思ったのに」という証言がある。犯人が普段は真面目で誠実な人柄が周囲に認識されていたにも関わらず、ある日突然凶悪な犯行に及ぶ、という事がある。人間が光の面だけでなく影の面も持ち合わせている事を知識として持ち合わせていたらこのような単純なコメントはできない筈だ。逆に普段は良すぎるくらいの性格を持つ人(光の面ばかりが目立つ人)こそ己の中の「影」を圧迫している分、いざ「影」が暴走し始めた時にはとんでもない規模の事件を引き起こしてしまう可能性があるのだ。




いわゆる「徴用工問題」:知っておくべき真実

2019-08-16 11:33:33 | 国際
韓国が主張する、いわゆる「徴用工問題」がある。

これはそもそも命名の段階から間違っており、「徴用工」ではなく「応募工」である。
 
真実はこうだ。

「日本が普通に労働者を募集したところに普通に応募してきた朝鮮の人々が普通に仕事して賃金をもらい、労働期間の終了後は普通に朝鮮半島に帰っていった」

ただこれだけのことなのだが、韓国は”強制的に徴用されて連れて行かれた”と虚偽の事実を捏造して騒いでいるのである。

「徴用」ではなく普通に「応募して(自らの意思で)来日した」のが事実であることは多くの資料・証拠によって証明されているし、韓国側においても学者に依る調査研究の結果として「徴用ではなかった」と発表されているのである。

韓国において、日本で言えば国立の東京大学に相当する学問の府にソウル大学がある。ここの経済学部教授だったイ・ヨンフン氏という学者が居る。

彼は自ら歴史の調査研究をして、その結果として20年ほど前に「慰安婦は強制連行ではない」と本当の事を言った途端に韓国の市民からボコボコにされてしまった。暴行を受けた上に土下座させられて水をかけられたのである。酷い話だ。韓国で一番の大学の教授がそんな目に遭ったのである。

この体験の後、イ・ヨンフン氏はしばらくの期間沈黙することになる。

しかし、彼は現在のこの時期に再び立ち上がって「文在寅政権はおかしい」と声を上げ始めたのだ。「徴用工の問題」「朝鮮人の戦時労働者の問題」も全て「日本の主張が正しい」、と。

徴用の事実がないにも関わらず、日本は韓国の激しい主張に配慮して(忖度か)充分に支払いもしている。1965年の段階で全部が解決した、と国家間の協定で確定もしている。従って現在この問題が再燃している責任は全て韓国政府にある、と発言し始めたのである。

これには韓国社会において激しい反発・批判も起きているが、しかしイ・ヨンフン氏はかつて約20年前に一度屈服した事を悔やんでおり、「今度は屈服しない。命がけでやる」と言っているのだ。彼は結構な高齢なのだが、真実の為に奮闘しているのである。

韓国にはこのような発言をする学者が現実に存在しており、かつその人が書いた歴史書がベストセラーにもなっているのだ。

このイ・ヨンフン氏のお弟子さんであるイ・ウヨン氏もこの徴用工問題では「日本人も朝鮮人も全く差別されていなかった」「賃金差別もなかった」、と発言している。

ただ、実際に支払われた賃金の平均値を見ると差が存在した。しかしそれは仕事に対するキャリアやスキルの度合いの問題で、スキルが低ければ賃金も安く、高ければ賃金も高い、というそれだけのことである。出自や民族の問題ではないのだ。同じ仕事でも日本人労働者は10年~20年というベテランが多かったのに対して朝鮮人労働者の場合はキャリアが2年~3年程度だった、という事情があった。そういうことである。

しかも、例えば怪我をした時でも日本人と朝鮮人の差別は無く全く同じに手当てがなされた。病気になった場合も同様である。

仕事をやめて朝鮮に帰る時にも退職金を渡して釜山まで船で送っている・・・という記録がちゃんと残っているのだ。

また、朝鮮人労働者が実際に住んでいた地域の日本人住民の証言でも民族差別など皆無で、むしろ仲良しであり厚意で良くしてあげていた事例が多く報告されている。

そういった諸々の事実をイ・ウヨン氏という韓国の学者が日本の企業の色々な資料を調査した中から発見して、だからこそ当時において「差別は全く無かったことが判る」と言っているのである。

しかも、最初に書いたように基本的に「徴用工」ではなく普通に「応募工」なのである。募集に対して自らの意思で働きに来た人々であって国が強制的につれてきた訳ではないのだ。

こうしたまっとうな正論を命がけで訴える学者が韓国に居る事を日本ももっと認識すべきなのである。

その一方で、正論を訴えた韓国の国会議員が不審死した事例もあるのだ。自殺ということで片付けられているが、当事者は生前「俺が死んだら殺されたと思ってくれ」と言った記録が残っている。むしろ現代の韓国に漂う空気感にそこはかとない恐ろしさを感じるのである。

韓国という国は日本を見下す姿勢がデフォルトとなっており、「徴用工騒ぎ」もそうした土壌の中から生じたものである。歴史を歪曲し捏造してでも日本に難癖をつけて謝罪させ、最後には「誠意を見せろ」と要求してくる。「誠意」とは「お金」の事である。なんのことはない、ヤクザ・チンピラと同じ手法なのである。

今回の「応募工」問題でこれだけ虚偽の話を捏造し歴史を歪曲する韓国であり、そもそも約束を守るという観念が存在しない国民性を考えると、現代においてIT畑などで日本企業に就職している韓国の若者たちについても、あと数十年したら「無理やり日本に徴用された!」と言って騒ぎ出す可能性もある。冗談ではない。現在韓国側が騒いでいる事案は正にそういうことなのだから。







非常識化・無礼化が進行する現代の若年層

2019-08-08 13:50:00 | 社会・政治
8月4日(日)にテレビ東京の番組「モヤモヤさまぁ~ず2」が放送され、しばらく空白だったレギュラーアシスタントが決定した。

4代目のアシスタントはテレビ東京新人アナウンサーの田中瞳アナである。田中アナは声質や滑舌も良く、新人としては秘めた可能性を感じさせる有望株として評価されているようだが、しかし番組中では若干引っかかる場面も見受けられた。

その場面は偽の番組ロケでハワイに来ていた田中アナにモヤさま4代目アシスタントのサプライズ発表がされた直後、早速街ブラを開始した時に訪れた。

街なかをさまぁ~ずと田中アナの3人で歩いていた時の会話である。

三村「(田中アナは)最初に会った時より、意外と背は大きいんだな」
田中「三村さん、テレビで見るよりちょっと小っちゃいなって思いました」
三村「俺、166(cm)しかないからね」
田中「(私と)一緒じゃないですか(笑)」

画面上にはテロップで「正直にズバズバ言う。」と表示された。

思ったことを臆せずに言うこと自体は決して悪いことではないが、しかしこの場合は(先ほど会ったばかりの)三村氏に対しては失礼なのではないか、と筆者は感じた。実際、これを言われたさまぁ~ず三村氏の顔は全く笑っていなかったのである。

いくらテロップを表示することでこの場面の微妙な空気を強引に笑いに転化させようとしても無理があるのは明らかだ。

筆者のこの心的な引っかかりは翌々日の山田五郎氏の発言でも裏付けられた。

8月6日(火)の「5時に夢中!」(MX)において3面記事ランキング「夕刊ベスト8」中の7位の記事として、テレビ東京の新人・田中瞳アナが「モヤさま」4代目アシスタントに就任したことが紹介された。

大橋未歩アナが読み上げた新聞記事にはこう書かれていた。

「お披露目となった一昨日の放送では三村マサカズさんに『テレビで見るより小さい』と語るなど、物怖じしない大物ぶりを発揮。早くもネット上では初代アシスタントを務めた大江麻理子アナウンサーに匹敵する人気が出るかも」といった声もあるそうです」

こうした評価に対して、この日のコメンテーターとして出演していた評論家・山田五郎氏は

「テレビで見るより小さいって失礼じゃないですか。で、この失礼なことを『物怖じしない』とか『大物』とかって言うのはやめた方がいいと思いますよ」
「(そういうことを)なんか言いがちじゃない?」

と、憤りの感情を含みつつ発言。
続けて山田氏は

「なんか変なことさえ言ってりゃ大物だ、みたいな・・・」
「(そういう風潮は)良くないと思いますね」


と、現代の若者にありがちな無神経で無礼な発言、及びそれを無批判に受け止めてしまう情けない大人達の対応と風潮を批判した。

「無礼は無礼」であり、「大物」などと褒めそやす前にそれが”失礼な言動”であることをきちんと認識・理解させるべきだ、と山田五郎氏は言っているのである。

あの場面を「現代の若者にありがちな無神経さの発露」と見たのは筆者だけではなかったようだ。

何より当事者であるさまぁ~ず三村氏も当該場面の少し後で訪れた食事シーンで田中アナに対して

「ちょっと下に見てる?俺のこと」

と発言し、田中アナの人としての基本スタンスに対する疑問をそれとなく呈している。30年も歳の離れた若い新人アナから「小さい」と不躾に言われ、その後の会話でも三村氏への態度の中に”見下した感”が見え隠れすることで三村氏が機嫌を悪くしているサインを出しているのである。三村氏はこれがテレビ番組であり大人のタレントであるが故に波風を立てることはないが、しかし明らかに不愉快な心持ちになっているのは明らかで、それを感じ取れない田中アナの「若さゆえの過ち」に複雑な思いを抱いた事と推察する。

また、田中アナはハワイロケ後に行われたスタッフからのインタビューで さまぁ~ず の印象について聞かれ、

「三村さんは思ったより小柄な人という印象。大竹さんは凄いやさしい。立ち位置も教えてくれるし、やさしくしてくれたのは大竹さん」

と答えている。あくまで三村氏に対しては外見をディスするだけという低い評価であり失礼な感情を持っていることを隠そうともしなかった。

こうしたあからさまに無礼な態度を出してしまう無神経さというのはもちろん田中アナだけの問題ではなく、現代の若年層に普遍的に見られる傾向でもある。

どうしてこのような傾向が表れてきたのであろうか。

これは間違いなくテレビ番組とお笑い芸人達による悪影響が大きな要因として考えられる。

どういうことか。

前述の田中アナが引き起こした問題は、実は社会のあちこちで普遍的に見られる現象でもあるのだ。お笑い芸人たちが発する言葉や立ち居振る舞いを見聞きした若年層が影響を受けて、その言動・行動・態度を真似ることで問題が生じているのだ。

芸人たちが番組内で演じることはたいてい無分別で無神経(図々しさ)、そして無責任と言えるものがほとんどだ。これはきちんとした常識を知っていて礼儀もわきまえている人間が見れば面白い言動やパフォーマンスとして受け止められるものである。

しかし一般社会の常識も知らず礼儀もわきまえていない若者(*1)がそれを見た場合はどうだろうか。モラル上の是非の区別もつかないので「これが面白い」「これでいいんだ」と勘違いしてしまい、無頓着に芸人の言動行動、さらにマインドのあり方までを真似てしまうことになる。そうなれば社会のあちこちで摩擦・軋轢を生むのは必定であろう。

常識というのは英語でコモンセンスと言うが、これは共通認識とか共通の了解事項といった意味合いだ。見知らぬ者同士が上手くやっていく為に社会が生み出した知恵であり暗黙の了解事項である。これが欠落している人間(若者)が芸人達の図々しい態度だけを真似すると(社会に於いては)当然うまくいかない事になるのは当たり前だ。集った人間の間で常識が存在しなければ普通のコミュニケーションすら成立しなくなるし、知らない内に相手を傷つけることにもなりかねない。

そしてこうした風潮は始まってから既にかなりの年月が経過していて、若者たちのメンタリティーの奥にまで浸透してしまった結果として社会のあちこちで軋轢と摩擦を生み続けている。若年層の非常識かつ無礼な言動・行動が当たり前になってきて世代間の基本的なコミュニケーションすら難しくなりつつある、ということだ。(*2)

現在、この問題がそれほど大きくクローズアップされていないのは大人たちが未熟な若者に配慮して譲歩しているからにほかならない。また、対応の仕方によっては「××ハラスメント」と認定されて(*3)芳しくない状況に陥ってしまうからである。しかし若者はそんな事とはつゆ知らず、傍若無人に振る舞うばかりだが。

こうした若年層への影響力が現在最も大きいのが(改めて書くが)お笑い芸人であり、彼らの言動・行動を発信しているテレビに代表されるマスメディアである。芸人やマスメディアの悪影響で社会の空気がどんどん悪い方向に変化している事に大きな危機感を持つものである。

特にテレビ番組の悪影響は大きく、常識&モラル破壊・いじめの日常化・言葉の破壊&誤用といったあらゆる「悪」の方向に持っていきたがる傾向がテレビ番組の演出には感じられる。常識を破壊した方がテレビ的にインパクトを与えられるからであり、番組制作者は常に常識をいかに破壊するかを考え続けていると言っても過言ではない。

テレビ屋が好む演出の傾向は「おとなしいよりも騒々しい」「利口よりも馬鹿」「正しいよりも間違い」「美よりも醜悪」「常識よりも非常識」にある。バラエティ番組においてしばしばインモラルが過ぎるとかルール逸脱が激しすぎて時おり警察沙汰にもなる、といった問題が生じるのはこの為である。

番組を制作し送り出す側の人間が「この程度」なので、そこで起用される芸人達もそれに同調するしかない。従って番組内容が非常識で無礼な傾向になるのは必然である。そしてそんな醜悪な番組ばかりを見て育った若年層は「(この世は)これでいいんだ」と思い込み、常識も礼儀も醸成されないまま育ってしまう。家庭での躾がほぼ無い状況であることもこの傾向に加担しているのは言うまでもない。


この問題は社会のあり方の根幹に関わるものだけに、このテーマが現代社会に於いてもっと認知され考察されることを願っている。


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<追記>
なお、田中瞳アナは普通の新人に比較すると確かに番組でパフォーマンスするに際してさしたる緊張を持たないようで、良い意味で腹がすわっている頼もしさはある。(*4)これは田中アナが全くの新人ということではなく、大学在学中に日テレのNEWS ZEROで気象キャスターを担当していた経験があるからだろう。
また、さまぁ~ずのボケに対するツッコミに見せたセンスもなかなかのものがあり、この辺は逆に今のバラエティ番組や芸人のパフォーマンスを日常的に取り込んでいる若者らしい一面かもしれない。



<2020年4月14日:追記>
非常識と無礼で思い出すのが、例えば「ブラタモリ」である。いや、タモリ氏ではなく同行する女性アナウンサーの事だ。同行者たる女性アナは1~2年程度で交代するのだが、ここ最近の二代のアナウンサーの初回の挨拶が気になっている。2018年4月21日に初登場した林田理沙アナは画面に登場して最初の挨拶を視聴者にではなくタモリ氏に行った。テレビ番組である。常識的に考えれば番組に初登場して最初にするべきことは視聴者に対する挨拶であろう。しかし林田アナはタモリ氏にだけ挨拶し、視聴者に対しては挨拶しなかったのだ。常識的に考えれば、出演者同士はとっくに挨拶を済ませている訳であり、画面に登場した時にはユーザーである視聴者に初対面の挨拶をするのが当然であり必然であろう。しかしそうではなかった。これは林田アナだけの問題かとも思っていたが、2020年4月11日にデビューした6代目の浅野里香アナウンサーも初登場時に林田アナと同じくタモリ氏にだけ挨拶し、視聴者に対してはしなかったのだ。これが彼女たち若年層に共通した特質なのか、それとも番組の演出側から要請されてそうなっていたのかは不明だが、その場合は番組制作に携わる若いスタッフに常識や礼儀が欠けている事になる。演出ではなく彼女たちの自主的な判断で視聴者を無視しているのなら、そこに彼女達の価値観が無意識的に現れている、ということになる。これを一種の集団的無意識の発露と捉えるならば、現代に於ける若年層の非常識化と無礼化を象徴的に現した現象の一つとして記録しておきたいと思う。たかが挨拶されど挨拶、である。




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(*1)
これは家庭における躾の問題が大きい。こうした領域ではしばしば学校教育の不備が話題になるのだが、今回のような問題は家庭の躾に不備がある、または躾がなされていない事が大きな原因として存在している。現代の若者が礼儀を知らないとしたら、それは彼らの親が躾をしていない事に原因があるのだ。



(*2)
以前、ビートたけしが子供にインタビューして「何やってるんだ?」と聞いたところ、子供は「息してる」と返答。その冷めきった感覚と人を小馬鹿にした態度にビートたけしは呆れていたのだが、こちらに言わせれば「おまえら(芸人ら)がそういう風潮を作ったんだろうが!」ということだ。彼らお笑い芸人がテレビという大きな影響力のあるメディアでそうした態度を見せ続けた結果として人々のマインドを悪しき方向へ変えてしまった…いわば調教してしまったのである。


(*3)
何でも無分別にハラスメント認定してしまうことで本当に必要な事案に対して叱ることもできず矯正することもできなくなっている現代の風潮は明らかに病的でおかしい。


(*4)
緊張しないということは始めから周囲や社会に対して「見切っている」心理の現れかもしれない(*4a)し、それはそのまま「上から目線」の姿勢の現れである可能性もある。三村氏への一連の失礼な態度が自然に表出してしまう事実を考慮するならばあり得る話である。そうだとすれば、それは「大物」とかいう問題ではなく単に「無神経で無礼な人」ということだ。
また、緊張しないということは人としての成長の伸びシロがあまりないとも取れる。コメディアンの萩本欽一は「緊張しない奴は嫌い」と言って、緊張を持つことが人として成長の可能性につながるという趣旨の見解を述べている。それは同時に人としての誠実さにもつながる話であろう。


(*4a)
一般的に言って、抜群の美貌を持ち周囲からチヤホヤされて育ってきた女性にありがちな心理形態である。何をやっても許されて持ち上げられてしまうので、自然と周囲や社会のあり方を上から目線で見るようになってしまう傾向である。ある種の自意識過剰なあり方かもしれない。しかしこのタイプはそれをそのまま表には出さない計算はできるのである。