Altered Notes

Something New.

言葉に対する無意識

2010-02-10 22:49:52 | 放送
現代社会の各場面における言葉の変調・乱調についてタモリ氏も折に触れて語っている。

店のレジで一万円札で支払いをする時に店員が言う台詞。
「一万円からお預かりします」
これについてタモリ氏はこう言う。
「俺は一万円札じゃない」

「~から」という言い回しを店員は
「一万円の中から支払金額をいただく」
という意味で言っているのだが、これは同時に
「一万円という人物からお金をいただく」
ようにも受け取れるのである。
そこをタモリ氏は指摘している。

別のケース。
レストランでオーダーした食べ物がテーブルに届いた時のウェイトレス(ウェイター)の台詞。
「こちら生姜焼き定食になります」
これについてタモリ氏はこう言う。
「これから生姜焼き定食に"なる"のなら、今は何なのだ?」

「~になります」という言い回しは確かに奇妙である。
運んできた食べ物が生姜焼き定食ならば
「こちら、生姜焼き定食です」
とか、または
「生姜焼き定食をお持ちしました」
と言えば済むはずだ。

「~になります」
と言えば
「今は生姜焼き定食ではないが、やがてこの食べ物は生姜焼き定食になるのだ」
といった意味に解釈できる。

「~になります」という言い回しは奇妙だが、想像するに店員は客に対してこれが生姜焼き定食であることを丁寧に伝えたつもりなのではないだろうか。しかし言葉として奇妙な印象は拭えないが。

もう一つ、「~になります」と同様にタモリ氏が指摘する奇妙な言葉は、やはり飲食店等で使われる
「~の方、お持ちしました」
というやつ。
例えばウェイターが注文の品を持ってきて
「牛ステーキの方、お持ちしました」
これは確かに変であり、言ってる人間がどのような意図で言っているのかも想像できない。単に「牛ステーキをお持ちしました」で用は足りるのになぜゆえ?
牛ステーキの方って…そんな方角があるのか、と。

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以前の記事で書いた「VTRという言葉」「アナウンサーの言葉知らず」にも通じるが、自分が発する言葉について現代人はあまりに知らなすぎるのではないだろうか。言葉に無意識過ぎるのである。

私だって偉そうに言えるほど言葉を正確に捉えている訳ではないが、しかしできるだけ正確であろうとする意志・気持ちは持っている。市井の人々ならまだしも、職業で使う言葉はきちんと把握してから使うべきだと思う。それはあらゆるレベルでの混乱・トラブル・行き違いを避ける意味でも重要なことなのである。

特に放送に携わる人間はそうあるべきだ。放送の影響力は非常に強く、テレビで間違った言葉、間違った用法を使ってしまうと、あまねく影響が広がるのである。

「VTR」という言葉もテレビ番組で盛んに使用された影響で一般人までビデオ映像のことを「VTR」と呼び出す始末。ビデオ映像=ビデオテープレコーダー…ではないのである。これを使う人々はこの言葉の意味など考えていない。知らないまま「テレビ番組で言っていたから」ということで意識せずに格好付けて使っているのである。これはテレビが間違いを普及させている典型例の一つである。

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テレビが間違った言葉を広めているもう一つの例は「号泣」である。「号泣」とは本来声を上げて激しく泣きじゃくる様子の事である。しかしテレビ番組では単に目から涙が流れるだけでそれを「号泣」と呼んでしまう。完全に間違いである。

出演者の目から涙が一筋流れる…そんな情景をテレビカメラが映すことがある。しかし涙が流れただけで特に激しく泣く訳でもない。それでもテレビ屋はそれを「号泣」と呼び、ご丁寧に
テロップまで表示してこれが「号泣」だと決めつけてしまうのである。

本来号泣というのは人間が泣く態様の一つのあり方を示す言葉だ。しかし無神経なテレビ屋は「泣く事=号泣」と決めつけている。テレビ屋にとって「泣く事」はすべて「号泣」ということになる。あまりに単純な決め付けであり完全に間違いである。

ここまで来るとテレビ屋の無知とか無教養というよりも、ある種の暴力的な悪意を感じるのである。番組を制作している若いスタッフの非常識・無知が「標準」として世の中にばらまかれているのである。

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さらに「CCDカメラ」という言葉。
テレビ番組ではタレントやキャスターが小型カメラを指して「CCDカメラ」とか、または略して単に「CCD」などと言っている。CCDとは撮像素子の名称(名前の意味は電荷結合素子)であり、カメラの種類の名前ではない。

撮像素子とは撮影した風景や人物といった光学的な情報を電気信号に置き換えるという重要な役割を持ったパーツである。

TVカメラで映像を撮影する為に、昔なら撮像管という真空管の一種が使われていた。1980年代頃からこれが固体撮像素子に置換されるようになってきた。最初に実用化されたのがCCDである。その後CMOS等の別種の固体撮像素子も実用化されて、今では全てのビデオカメラ・TVカメラがこの固体撮像素子を使うようになった。

初めの頃は家庭用ビデオカメラから実用化が進んだCCDも現在ではニュース取材などで使われる業務用ビデオカメラやテレビ局の高価なスタジオカメラにも普通に搭載されている。

何のことはない。小型から大型まで全部が「CCDカメラ」なのである。初期の頃には家庭用の小型ビデオカメラだけにCCDが搭載される一方でスタジオ等の大型テレビカメラには従来の撮像管が使われていた。当時はCCDがまだ撮像管のクォリティに達していなかったからである。

こんな背景があって、大型の撮像管テレビカメラと区別する意味で小型ビデオカメラの事を「CCDカメラ」と呼称していたのである。しかしこれも変な呼称であり、なにも「CCD」と呼ばなくても単に「小型カメラ」とか「ハンディーカメラ」でよかったのである。そこは何に付けても格好を付けたがるテレビの世界である。

タレントたちがいかにも専門用語を知ってますといった態度で小型カメラを指して得意げに「CCDカメラ」などと言っているのが哀れに見えるし、そんな場面に出くわすとチャンネルを換えるかTVの電源を切る。言葉に対して無頓着で無意識過ぎる人々が語る言葉など聞きたくもないからである。

言葉を知らず知識を持たない人ほど根拠のない情報を得意げに振り回す傾向があり、その姿は本当にみっともない。テレビの世界というのは概ねそんな人々の巣窟なのである。

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昨今頻繁に使われる「お願いします」もおかしい。「お願いします」自体が変なのではなく、使われ方が変なのである。

例えば次のようなシチュエーション。
番組内の一コーナーが今から始まるという時、そのコーナーをを担当するキャストAに向かってMCが
「ではAさん、お願いします」
と言うと、お願いされた方のキャストがこう返す。
「お願いします」

「お願いされている」のはAさんなのに、そのAさんが「お願いします」と返すのはどう考えても変である。「お願い」されているAさんは誰に何を「お願い」しているのか?意味不明である。

これは元々相互に「よろしくお願いします」と言っていたところ、やがて「よろしく」が省略されて「お願いします」だけが残った結果と考えられる。

このやりとり(挨拶)で肝心なポイントは「よろしく」である。「コーナーを”よろしく”進行させてください」とMCは頼んでいるのである。
従ってキャストAさんは「承知しました」「かしこまりました」或いは「お任せください」などの「依頼を承った」旨を伝える言葉を発するべきである。百歩譲っても「(こちらこそ)よろしくお願いします」とすべきであって、決して「お願いします」だけで済ますのは言葉の意味と流れから考えて間違いであることは明白である。
それにしてもこれを「変」と思わない出演者たちの言葉に対する無神経ぶりには喫驚するばかりである。

こうした珍妙なやりとりは今ではあちこちの番組で普通に見られる(聞かれる)。その原因は結局出演者たちが言葉の意味や目的を全く考えないで使っていることにある。

出演者が言葉に無頓着で無神経だとすれば、それは演出をはじめとする制作陣も同様である。むしろ製作者が言葉に無神経・無責任だからこそこのような間違った用法が野放し状態になるのである。

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雑誌・新聞やWEBニュースの映画を紹介する記事においても時折変な表現・的外れな単語が使われることがある。

一般に映画を監督することを「メガホンをとる」とか「メガホンをとった」などの表現が使われることがある。これは実写映画においては問題無いのだが、アニメーション映画の場合は途端におかしな表現となる。

新作アニメーション映画の紹介記事の中で

「○○監督がメガホンをとった」

と書かれると非常に大きな違和感に襲われる。

そもそもアニメーション映画の監督はメガホンなど振り回すことはないのだ。
記事を書いた記者の脳内では

「映画を監督する」=「メガホンをとる」

という無条件単純変換がなされているのであろう。何も考えていない証拠である。

このような明らかに間違った言葉を平然と使う思考停止の記者とそれを全くチェックできない責任者および会社。既に「馬鹿」というレベルを超えた恐怖の愚鈍社会に我々は突入しているのかもしれない。言葉に対する無頓着・無神経・無責任も既に極まってしまった感がある。


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いかがであろうか。上に挙げたのは僅かな実例に過ぎない。しかしこの惨状が普通のあたりまえの現実となっているのだ。こんなことでは益々テレビ離れマスコミ離れが加速するのは必然であろう。少なくとも良識の有る人々は離れていくのが普通であるし、既に離れている。後に残る視聴者はメディアリテラシー皆無で無知・無学・無教養な大衆だけだ。

テレビを中心としたマスコミは既に終わっている。
残念。






現代のアナウンサーに志はあるか?

2010-02-02 14:53:18 | 放送
アナウンサーといえば、放送業界においては「言葉を語る事についてのプロフェッショナル」という認識があった。しかし、現代のテレビ放送において真にプロフェッショナルと呼べるアナウンサーがいったいどれだけ居るのだろうか。

まず女子アナ。これは今やテレビ局専属のアイドルタレントと化しているので対象外。彼女たちにスキルアップを目指す志は毛頭無い。完全に論外である。

では男性アナウンサーはどうか?
以前、TBSのバラエティー番組を見ていたところ、アナウンス部長が出てきてこう言った。

「××さんをフューチャーして番組を作りましょう…」

もちろん「フューチャー」は完全に間違いで「フィーチャー」が正しいのである。彼は「ある人を前面に押し出して」と言う意味でこの言葉を発したのだろうが、これでは「ある人を未来/将来して」となりさっぱり意味が判らない。
TBSのアナウンス部長という要職にありながら、実は全く言葉を知らず、言葉に無頓着で無神経な人物であった、ということ。

言葉のプロであるアナウンサーを束ねる重職にありながら、実態はこの程度なのである。これで「部長」なのである。呆れたものだ。これが現代のアナウンサーのレベルなのであろう。

昔のアナウンサーはもっとしっかりしていたのは確かだが、例外も存在する。

例えばタクシー殴打事件でおなじみの松平定知氏である。彼が司会を務める番組で特に顕著に認められる現象であるが、しゃべっている最中の息継ぎの音が耳障りに響くのである。

フレーズが一段落して次のフレーズに移るまでの短い間に彼は息継ぎをするのだが、この「すー」とか「しゅー」とか聞こえる息継ぎの音が極めて耳障りにうるさく響く。

松平氏がどんなにベテラン・アナウンサーであろうが、この一点において「駄目」なのである。しゃべりが耳障りなアナウンサーなどまるで価値はない。事実、彼の番組は息継ぎの音がうるさくて3分と聴いてられない。本当に上手いアナウンサーのしゃべりにおいては息継ぎの音など絶対に聞こえないものである。

他にも例を挙げれば枚挙に暇がないほど現代のアナウンサーは言葉を知らないし、使い方も間違うことが多い。

「シミュレーション」を「シュミレーション」と間違ったり、「コミュニケーション」を「コミニュケーション」と間違ったりこんな基本的な単語をきちんと認識せずにしゃべっている彼らはいったい何を訓練して職についているのか、と疑いたくなる。それ以前に常識をどれだけ知っているのか、というレベルだろう。

若いアナウンサーは言葉を語るスキルよりも容姿容貌で選ばれているケースが多いように思える。アナウンスのスキルよりも視聴者受けするルックスやキャラクターの方が大切らしい。だから局専属のアイドルタレントなのである。そんな彼ら彼女らはアナウンスのスキルは低く、無教養で非常識な人物も少なくない。一流大卒であるにも関わらず、である。呆れたものだ。

トレンドとしては本来的な意味のアナウンサーからはかけ離れる一方であり、テレビ番組自体の無意味化・幼稚化・陳腐化と併せてもはや絶望的と言える状況を呈している。

アナウンサーは言葉を語るプロならプロとしてのスキルを普通に提示してほしいものである。言葉を語るプロとしての志を見せてほしいのである。そうでなければ、単に電波という権力の上にあぐらをかく怠惰な連中に過ぎない、ということになる。
しっかりしてほしいものである。