京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

最終 京の歴史をつなぐ(5)近代ー古都・京都への再生ーの続き

2019-09-08 17:51:36 | 美術・博物館


台風15号が深夜関東を直撃しそうです。
関東の皆様どうぞ御注意くださいますように。
台風の影響もあるのでしょうか、連日残暑が厳しいです。
今日の京都市の最高気温は35.7度の猛暑日です。新潟県は38度、大阪堺市は36.8度と各地で猛暑日のようです。


本日二回目の投稿は、京の歴史をつなぐ(5)近代ー古都・京都への再生ーの続きです。今回で終わります。

平安神宮及び第四回内国勧業博覧会場模型  昭和63年(1988) 京都文化博物館

明治28年(1895)に京都の岡崎で開催された第四回内国勧業博覧会場の模型(1/400)です。
展覧会北側には平安京を象徴する大極殿が復元されています。現在の平安神宮です。














「建設中の第四回内国勧業博覧会場」(石井行昌撮影写真資料) 明治時代 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーァイブ」より









「四条寺町付近を走る京都市電(石井行昌撮影写真資料) 明治45年(1912) 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーァイブ」より

京都市電は日本初の市街路面電車として、明治28(1895)年2月1日から、昭和53(1978)年9月30日までの83年間、京都市内を縦横に走っていました。
市電は私もよく利用しました。
Motorizationの流れで廃止されましたが、惜しいものをなくしたものだと今でも思います。










昭和30年代の市電路線図





西川栄之助像(アンプロタイプ) 明治28年(1895) 京都府(京都文化博物館管理)










参考展示 少女像(アンプロタイプ) 明治時代 京都府(京都文化博物館管理)











「巨椋池でのデンチ漁」(黒川翠山撮影写真資料) 大正時代 京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーァイブ」より

巨椋池(おぐらいけ)
京都市伏見区と宇治市、久御山町にまたがって大きな池が存在していました。
周囲約16キロ、水域面積約8平方キロで池というより湖です。
水産資源が豊富な淡水湖で、1877年2月には治天皇、皇后、皇太后様が観漁をされた記録も残っています。
蓮見の名所でもありました。
豊かな池でしたが、度々水害を引き起こし、干拓農地とされ1941年に干拓は完了しました。
残念ながら巨椋池は地名に残らなかったため、知らない人が多くなりました。
巨椋は蓮の品種名にその名前を留めるだけです。










菊水鉾巡行模型  昭和46年(1971) 京都府(京都文化博物館管理)






















京都文化博物館周辺で発掘された遺跡
平安時代以前の物もあります。





















京都文化博物館
明治39(1906)年に竣工した旧日本銀行京都支店の建物です。
設計は日本の近代建築家を代表する辰野金吾とその弟子・長野宇平治です。
辰野金吾は東京駅を設計した人でも有名です。
旧日本銀行京都支店の建物は現在も保されています。





























別館




































京の歴史をつなぐ(4)近代ー古都・京都への再生ー

2019-09-08 05:36:53 | 美術・博物館


平安時代からはじまった京の歴史をつなぐもやっと最終回(2回)の近代です。
長い展示会紹介になりましたが、京都の歩みを知っていただく機会になると思います。

5章 近代ー古都・京都への再生ー

江戸時代後期から明治、大正、昭和の京都の断面です。

南座周辺復元模型  平成3年(1991) 京都文化博物館

江戸時代の南座周辺です。四条河原んl鴨川沿いに芝居小屋や茶店が並び遊興の場所として賑わいました。
北は大和橋、南は南側の芝居小屋まで、東はめやみ地蔵(今もあります)、西は高瀬川までです。

















賑わいが伝わってきます。





鴨川の橋





四条鉄橋(矢野家写真資料) 明治時代  京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーァイブ」より

四条大橋は明治7年(1874)に鉄橋になり、四条通りの拡幅は明治26年(1893)です。
写真はその間となります。
鴨川の中州に納涼床があります。中州を行き来する舟も見えます。










島原太夫の図 三畠上龍画 江戸時代後期  京都府(京都文化博物館管理)

島原は下京区に位置する花街です。
室町時代に公許された日本で最初の郭が三度の移転を経て島原と呼ばれるようになりなした。
昭和時代後期に衰退し、現在は京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれていません。
太夫とは能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号です。
後に教養を持つ最高位の遊女の名として定着しました。
島原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出されました。
かつての島原では毎年10月に吉野太夫・大橋太夫・八千代太夫の追善供養を行った。
戦後も夕霧太夫(女優・中村芳子)、高砂太夫、九重太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいました。













伏見人形「布袋」  明治時代後期   京都府(京都文化博物館管理)

伏見人形と呼ばれる土製の人形を、最初は小さなものから始め、1年無事に過ごすことができれば、翌年は少し大きいものを買っていき、7年かけて揃えるというのが基本です。
現在の京町屋にも残っているところがあります。









姫鏡台  明治9年(1934) 京都府(京都文化博物館管理)













「化粧をする婦人」(黒川翠山写真資料) 昭和10年(1935)
京都府立京都学・歴彩館「京の記憶アーァイブ」より










甲子兵燹図  江戸時代末~明治時代  京都文化博物館
禁門の変による火災で京都の町は焼き尽くされました。
どんどん焼けです。京都の町屋の多くはこの火災の後に建て替えられました。





















拡大
東は鴨川、西は堀川、北は丸太町少し上(京都御所は免れた)、南は七条まで、京の町を焼き尽くしました。










蛤御門の変使用銃弾  江戸時代 元治元年(1864.)京都府(京都文化博物館管理)










焼瓦(現京都文化博物館周辺出土) 江戸時代元治元年(1864.)京都府(京都文化博物館管理)

禁門の変による火災(どんどん焼け)で京都の町は焼き尽くされました。
多くの寺院も焼失、曇華院も同様で焼け跡から大量の焼けた瓦が出土しました。









京都新名所図屏風  森寛斎画  明治6年(1873年) 京都府(京都文化博物館管理)

近代京都を代表する建造物が描かれています。
右隻は吉水温泉と四条大橋、左隻は集書院と京都府中学校が描かれています。


















次回で最後です。