京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

嵯峨野古墳を歩く 最終 甲塚古墳

2021-01-07 09:06:34 | 京都歴史散策


  嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。
 嵯峨野古墳を歩く、第7回をは甲塚古墳です。
 撮影は2020年の初夏です。

 この古墳は右京区嵯峨甲塚町の台地上にあります。
ケーヨーデイツーの川を挟んで南側に山下植樹園があり、その敷地内で保存されています。
嵯峨野一帯の古墳時代後期の円墳では、圓山古墳に次ぐ規模です。
この地域の秦氏や首長の墓に関連した古墳と言われています。
蛇塚古墳(前方後円墳)より規模は小さいですが、石室も立派です。

直径 38mの円墳
高さ 5.5m
大型の横穴式石室が完存しています。
石室全長14.4m、玄室長5.2m、幅2.6m、高さ3.2m。


私有地につき、許可を得て古墳のある敷地内に入ります。





石室の入口に赤い鳥居があります。









鉄柵内(石室)に入ります。
中は真っ暗です。









玄室には後の人がつくった祠が安置されています。





玄室の上









石室の巨石





石室室羨の巨石





引き返した入口鉄柵





外周
崩れ防止のためでしょうか、石で囲われています。





















私有地のなかにこんな立派な古墳が大切に保存されていることに驚きです。




嵯峨野古墳を歩く 大覚寺古墳群 4号墳

2021-01-06 06:48:34 | 京都歴史散策

 
  東京を中心とした1都3県に、昨年春以来の緊急事態宣言が発令されそうです。
 詳細は不明ですが、飲食制限、外出自粛が基本になりそうとのことです。
 飲食による感染拡大が圧倒的に多いとの情報があります。
  感染者数の増加は、関西でも同様で昨日も多く、京都はまた100人を超えました。
 関西での発令も今後視野に入れざるを得ないのかも知れないです。
  一方、ワクチンは2月末接種可能なように準備を進めるそうですが、肝心のワクチンの国内認可が遅いように思えてならないです。

  嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。
 嵯峨野古墳を歩く、第6回は大覚寺古墳群4号墳です。
 
 今日もまったり、古墳散策報告です。

 北嵯峨高校周辺に分布する4基からなる古墳群の一つです。
以前NHK『ブラタモリ』でも紹介された古墳です。
 撮影は2020年の初夏です。

4号墳(狐塚古墳)
 北嵯峨高校の南200mの私有地の竹林の中にあります。
秦氏の古墳です。
径28mの円墳、墳丘、横穴式石室とも、ほぼ完存しています。
石室は玄室長3.8m、幅2.3m、高さ2m、羨道長1.5m以上、幅1.3mの両袖式、奥壁は巨石二段、全体的にも大きめの石材を使用しています。

















2020年12月24日撮影

4号墳(狐塚古墳)
 古墳周囲の竹やぶが伐採されて整地されていました。
この古墳は私有地にあり、どうやら売却してしまったようです。
住宅地になるようです。

古墳北側より




古墳西側より





古墳南側、石室入口









消失しないことを祈るばかりです。















嵯峨野古墳を歩く 大覚寺古墳群 1号墳〜3号墳

2021-01-05 08:00:08 | 京都歴史散策


  嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。
 嵯峨野古墳を歩く、第5回をは大覚寺古墳群1号墳〜3号墳です。
 
 北嵯峨高校周辺に分布する4基からなる古墳群です。
 撮影は2020年の初夏です。

1号墳(圓山古墳)

 北嵯峨高校の北隣にあり、現在宮内庁が管理しています。
周濠をめぐらした径50mの大型円墳で、京都でも有数の大型横穴式石室が完存しています。
全長15.5m、玄室長5.5m、幅3.2m、高さ4.2m、羨道長10m、幅2m、高さ2.2mの両袖式、奥壁は巨石を上下二段に積み、側壁も巨石をやや持ち送って高い空間を創り出しています。
玄室には大型の家形石棺二基が破壊されて残っていました。
石室の見学はできません。

















2号墳(入道塚古墳)
 北嵯峨高校の校舎の南、ほとんど校庭内にありますが、ここも入道塚陵墓参考地として宮内庁が管理しています。
30m×25mの方墳で、封土が流失して、横穴式石室の天井石が露出しています。
内部は埋まっていますが全長12m、玄室長約4.6m、幅2.5m、羨道長7.4m、幅1.6mの両袖式で、家形石棺の蓋石の破片が見つかっています。

























3号墳(南天塚古墳)は北嵯峨高校グラウンドの地下に埋められてしまいました。








嵯峨野古墳を歩く 広沢古墳群、遍照寺古墳、稲荷古墳

2021-01-04 06:58:46 | 京都歴史散策


  嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。
 嵯峨野古墳を歩く、第4回をは広沢古墳群、遍照寺古墳、稲荷古墳です。

広沢古墳群

 右京区嵯峨広沢池下町、広沢池の南側に4基の後期古墳がありましたが、2基が現存しています。
2号墳は堀川高校グラウンドの北東隅に巨石を使用した横穴式石室が移築され、広沢池南岸の道路からも見えています。
また消滅した1号墳では、平安時代前期の再利用の際に、家形石棺が砕かれて、その一辺に奇怪な人物像を彫刻したものが、2号墳の隣りの祠に安置されています。





祠とその背後に巨石があります。





木々の葉で巨石が隠れています。





東100mの広沢公園内に3号墳がありますが、低い墳丘が残る程度です。
公園トイレの下にも古墳があるそうです。





公園内の低い古墳




 遍照寺古墳

 
 右京区嵯峨広沢北下馬野町、広沢公園の東100mの住宅地の中にあります。
古墳の周囲が家に囲まれ、南側から一部見える程度です。
この古墳は径30mの円墳ですが、かなり小さくなり、石材が露出しているようです。
この辺りと推測




稲荷古墳


 右京区嵯峨広沢西裏町、堀川高校グラウンドの南西にあり、稲荷社となっています。
径20mの円墳で、主体部は横穴式石室と思われます。
遍照寺の北門横にある古墳。約20mの円墳に冨岡大明神の朱い鳥居と頂部に稲荷が祀られています。














嵯峨野古墳を歩く 山越古墳群、印空寺古墳

2021-01-03 08:32:50 | 京都歴史散策


 新年明けましたが、初詣、初散策とも暫し休憩中です。
昨年の散策でまだ投稿できずにいた『嵯峨野の古墳』シリーズです。

  嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。

 嵯峨野古墳を歩く、第3回になる山越古墳群3基(13~15号墳)と印空寺 古墳です。
 
 山越古墳群3基

 広沢池の東に隣接した一帯は、平安郷と呼ばれる宗教団体の広大な庭園になっています。
その庭園内に山越古墳群17基のうち、3基(13~15号墳)が保存されています。
毎年春、秋に庭園が公開(無料)され、その時に古墳も見学できます。
3基は三角形に並び、三角形の頂点の位置にある13号墳は径13mの円墳、左下の14号墳は径21mの円墳、右下の15号墳は径15mの円墳で、いずれも墳頂に陥没が見られます。
 残りの古墳は、背後の山(東山と呼ばれる)の中にありますが、立ち入りできません。
 画像は2019年秋に訪れたときの撮影です。









東山展望台に登ると、海抜120mから嵯峨野の景色が見えます。






 印空寺古墳(山越17号墳)

撮影は2020年初夏です。

 広沢池から平安郷の入口を過ぎて県道を東へ300m、印空寺境内にあり、県道からも見えています。
京都府遺跡地図では山越17号墳とされています。
径25m、高さ4mの円墳で、主体部は横穴式石室と思われます。
















古墳を歩く 第2回 嵯峨七ツ塚古墳、後宇多天皇陵と長刀坂古墳群

2020-12-18 06:11:43 | 京都歴史散策


 嵯峨野には多くの古墳が集まっています。
 平安京より前、嵯峨野は土地の支配者・豪族を葬る聖域とされ、多くの古墳がつくられました。
 嵯峨七ッ塚古墳群も古墳時代後期(6世紀から7世紀、1400から1500年前)のものです。
 平安京以前よりこの地域を支配していたのは秦氏という豪族の一族です。
高度な技術を持っていた渡来集団の一族で、5世紀後半に渡来してきたといわれています。
しかし平安時代以降、嵯峨天皇が離宮をつくり(後に大覚寺)、平安中期十世紀末には遍照寺が建立されます。
その後、秦氏一族は未開拓地であった嵯峨野の地で灌漑を造り農業をひろめました。
 撮影は初夏です。

 田園が広がる初夏の北嵯峨野









 この北嵯峨野の田園の中にこんもりした盛土が何カ所かあります。
これが嵯峨七ツ塚古墳群と呼ばれるものです。
七ツ塚とあるように本来7つあったのですが、現在は6つ確認できます。

1号墳
地図上の場所は田んぼになっていて、すでに消失してしまっています。


2号墳 直径15m
市道沿いの小屋(ガレージ)北に隣接しています。





石材が一部露出しています。





3号墳 直径13mの円墳
十字路を東に入って南にあります。





4号墳













5号墳
平地のようになっていて、井戸のようなものがあります。
木々が伐採された後です。





6号墳





7号墳





長刀坂古墳群

嵯峨野七ツ塚古墳群の北東の山麓にある古墳群で、すべて横穴式石室を主体部とする円墳31基からなります。
七ツ塚古墳の北200mの山麓に後宇多天皇陵があり、そこから山麓の道を東へ行くと、右の林の中にいくつか円墳が見えます。
保存状態は良さそうですが、このエリアは宮内庁管理区域のため立ち入ることができません。
住所は右京区北嵯峨長刀坂町です。

後宇多天皇陵
第91代天皇(在位:1274年3月6日ー1287年11月27日)
























長刀坂古墳群は宮内庁説明板の前の通りを東に入っていきます。





林の木々の間に盛り上がった古墳が二つ見えます。









ここは宮内庁管理です。











織田信長の京の宿舎 二条新造御所

2020-12-17 06:08:21 | 京都歴史散策


 久しぶりに織田信長歴史散策(第4回)です。
旧本能寺跡、南蛮寺跡、旧二条城跡に続き、今回は二条新造御所です。
現在NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が放送中ですが、織田信長が1577年から1579年の間、京の宿舎としていたのが二条新造御所です。
1571年比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年足利義昭を京より追放、1575年長篠の戦いで武田軍に圧勝、1576年天王寺砦の戦いで本願寺勢を撃破、1577年紀州攻めで雑賀衆を討伐して、二条新造御所に入ります。2年後の1579年には本能寺に京の宿舎を移します。そしてその3年後に本能寺の変です。


 二条新造御所 

 元は摂政や関白をつとめた公家の二条家の邸宅で、押小路通と烏丸通交差点の南西側にありました。
その庭園は名園として知られ、『洛中洛外図屏風』にも池を眺める貴族の姿が描かれています。
 二条家が別の邸宅に移った後、信長は天正5年(1577)から京都で滞在するときの宿舎として利用しました。
二条新造御所はその後の天正7年(1579)、正親町天皇の皇太子であった誠仁親王に献上したため、織田信長が入京の際は、本能寺を宿舎としたのです。
 天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀は本能寺を襲撃する本能寺の変で、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てました。享年49才でした。
 明智光秀の軍勢はその後、嫡男の信忠が宿泊していた妙覚寺へ向かいます。
信忠は一旦妙覚寺を出て本能寺へ向かいますが、すでに手遅れと知り、村井貞勝の提案により防御力の高い二条新御所へ移ります。
信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰しました。

 織田信長の京都の遺跡はことごとく破壊され、跡地に石碑が立っているだけです。
二条新造御所跡も例外ではなく、烏丸御池の西側に二カ所の石碑が立っています。

 二条新造御所があった場所
東は烏丸通、西は室町通、北は押小路、南は御池通りに囲まれた範囲です。





 烏丸御池を少し北へ行ったところに漫画ミュージアムがあります。
同施設の西は両替通りに面しています。
その両替通りの施設の前に石碑があります。

漫画ミュージアム










 石碑ではないのですが、ミュージアムの南隣りは「二条城交番」です。現役の交番です。










 両替通りです。
京都国際マンガミュージアム、マンガ研究センター、京都市立龍池小学校、龍池自治連合会、龍池教育財団が表示されています。
ここは元龍池小学校の跡地でした。











ちなみに、この付近は江戸時代に金座、銀座があった場所でもあります。










室町通りの民家前にも石碑があります。






 旧本能寺、南蛮寺、旧二条城、二条新造御所の位置関係
それぞれが非常に近いところにあります。
旧本能寺から二条新造御所は直線で700mほどです。
旧本能寺を急襲したあと、数分で二条新造御所に行ける距離です。



参考資料より
一番上にあるのが、旧二条城跡です。足利義昭のために建てた城ですが、後に追い出し、ことごとく破壊してしまいます。




参考資料

213回京都市考古資料館文化財講座 2010年1月30日
『織田信長と京都』財)京都市埋蔵文化財研究所  山本 雅和氏
市民向けに開催されている講座で、私も興味のある回は参加しています。





古墳を歩く 第1回 蛇塚古墳

2020-07-08 05:53:58 | 京都歴史散策


 古墳を歩く、第1回は蛇塚古墳です。

 京都盆地の西部、嵯峨野台地の南縁に築造された古墳です。
所在地は右京区太秦面影町の住宅街の中にあります。
7世紀頃(現存する京都府の前方後円墳としては最後期)につくられた前方後円墳で、京都府下最大の石室を持っています。
名称の「蛇塚」は、石室内に蛇が棲息していたことに由来するそうです。
1920年(大正9年)頃までは墳丘の一部を残していたようですが、現在は墳丘封土のほぼ全てが失われています。
被葬者は太秦一帯で権勢をふるっていた秦氏一族の首長クラスの墓と言われています。

もとは全長75mの前方後円墳でしたが、現在残っているのは石室部分だけです。
横穴式石室は全長17.8m、石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)に匹敵する規模です。
石室内には家形石棺があったと伝わっています。
棺が置かれていた「玄室」と呼ばれる石室内は広く、床面積の大きさは全国第4位です。

1977年(昭和52年)に国の史跡に指定されています。
現在は崩落の危険があるため、石室内部が鉄骨で補強され、石室の周囲はフェンスで囲われて施錠されています。






説明板





石室正面





石室の上には巨石があります。









石室に入ります。
内部は鉄骨で補強されています。





石室上部

玄室 



棺が置かれていた「玄室」内から正面入口方向
玄室内は想像以上に広く、高さもあります。
長さ:6.8m 幅:3.8m 高さ:5.2m 床面積:25.8平方米(約15畳)





「玄室」の上部は開いています。





「玄室」内の巨石













戻ります。





石室を出て、外から撮影









蛇塚古墳は近所の保存会が管理しています。
訪れた日は保存会の方が古墳周りの雑草を刈っておられ、お願いして石室内に入らせていただきました。

古墳時代中期から奈良時代の遺跡 (1:50,000)  京都市埋蔵文化財研究所調査報告第 14 冊



1 西ノ京遺跡 2 和泉式部町遺跡 3 松室遺跡 4 段ノ山古墳
5 史跡天塚古墳 6 清水山古墳 7 史跡蛇塚古墳 8 仲野親王墓古墳
9 太秦馬塚古墳 10 常盤御池古墳 11 巽古墳 12 常盤東ノ町古墳群
13 甲塚古墳 14 印空寺古墳 15 遍照寺古墳 16 稲荷古墳 17 広沢古墳
18 一本木古墳 19 南野古墳群 20 大覚寺古墳群 21 嵯峨七ツ塚
22 鳥居本古墳群 23 観空寺谷古墳群 24 朝原山古墳群 25 長刀坂古墳群
26 遍照寺山古墳群 27 山越古墳群 28 御堂ヶ池古墳群 29 音戸山古墳群
30 朱山古墳群 31 住吉山古墳群 32 三瓦山古墳群 33 双ヶ岡一ノ丘古墳
34 双ヶ岡古墳群 35 五位山古墳 36 常盤仲之町遺跡 37 上ノ段町遺跡
38 西野町遺跡 39 多藪町遺跡 40 嵯峨野高田町遺跡 41 花園遺跡
42 史跡妙心寺境内下層 43 嵯峨遺跡 44 広隆寺旧境内下層 45 徳願寺跡











明智光秀の天寧寺と織田信長の阿弥陀寺

2020-01-29 05:40:08 | 京都歴史散策


今年1月19日にNHK大河ドラマは『麒麟がくる』がスタートしました。
明智光秀は京都にゆかりがあり、そういう場所ではさまざまな取組が計画されているようです。
私の家では、妻がNHKの朝ドラと大河ファンで欠かさず視聴しています。
私は朝ドラの時間は散策に出かけており、大河の時間帯は入浴時間です。
そんな大河ドラマに不熱心な私でも、本能寺で織田信長を討った、明智光秀には興味があり、今回どんな描かれ方をするのか気にはなります。
私のblogカテゴリー「京都歴史散策」で昨年、「明智光秀の首塚」(6/25)、「旧本能寺跡と織田信長」(8/29)、「織田信長と旧二条城」(9/23)などを投稿してきました。
今から20年ほど前に寺の屋根裏から明智光秀の位牌が出てきた天寧寺と、織田信長の供養塔がある阿弥陀を訪れました。

天寧寺
北区寺町通りの曹洞宗の寺院で、『額縁門』が有名で何度か私も訪れています。
山門から見える比叡山が美しいです。








駒札





本堂、書院、唐門





ツツジが咲いています。









本堂、庫裏入口





近くに『明智光秀公報恩塔』が建っています。





石碑にはこの云われが彫られています。





『平成十一年本堂修復工事の際須弥壇の屋根裏から明智光秀公の位牌が発見された。天正年間と伝えられる会津天寧寺の上洛に係わる報恩のためか。』とあります。

発見された当時の新聞に面白い記事が出ています。
『天寧寺の本堂の天井裏から明智光秀の位牌が出てきたことが話題になった。光秀の死後数百年経た江戸時代に作られたものらしい。
「謀反人」という世評もあるため天井裏に置かれたのだろうが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたというから、寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われる。
なぜこの寺に置かれていたか定説はない。天寧寺はもともと会津藩にかかわる寺で光秀との関係は考えられない。
だがこの寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったという。延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようで、今も境内から比叡山が美しく望める。特に門から見る山は絶景で、「額縁の門」の名を持つ。
光秀の位牌は松陰坊、ひいては延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、それを寺が変わった今も守っている-ということである。
光秀と比叡山で思い出されるのは、元亀2(1571)年9月の比叡山の焼き打ちだろう。実行部隊として信長に従ったものの、教養が高く、信心深い光秀にとっては耐え難い行為だったかもしれない。
このためだろうか、神仏の嫌いな信長は焼き打ちの戦後処理を光秀に任せたうえで比叡山の麓に領地を与え、光秀は延暦寺のおひざ元・坂本に城を構えることになる。
このころから、光秀は信長の中に「鬼」を見ていたのではないか。
その後、かつて仕えていた朝倉義景と浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔を張って酒宴を催し、一向一揆では信者を大量虐殺するなど、光秀にとって非情な出来事が次々起こる。
そして、本能寺の1カ月前。武田家を滅ぼした徳川家康と酒宴を催した際、接待役を任された光秀が因縁をつけられた揚げ句、中国で毛利軍と戦闘中だった格下の羽柴秀吉の援軍を命じられる始末…。
どこまでが事実かは不明な点はあるが、信長が光秀に仕打ちを行ったエピソードは数限りない。
天正10(1582)年5月27日、光秀は丹波(現在の京都府亀岡市)の亀山城から「明智越え」を経由して愛宕山を参拝する。愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵のため、戦勝祈願に出向いた光秀は何度もくじを引いたという。
翌日の連歌会で光秀が詠んだ句は「時は今 あめが下しる 五月かな」。
「時」は光秀の出身の土岐氏。「あめが下しる」は「天が下知る」に置き換えることができ、天下取りを意識した句だいうのが大方の見方だ。
6月1日夕刻、秀吉の援軍に向かうとして、1万3千の兵を率いて亀山城を出た光秀は重臣に謀反の意志を伝え、桂川を渡ったところで全軍にあの名文句「敵は本能寺にあり」と伝えたという。
山陰街道から七条通に入った明智軍の先鋒は斎藤利三が務め、暗がりの中で町内ごとにある柵を開かせながらスムーズに本能寺に近づいた。さらに嫡男・信忠のいる妙覚寺へと軍を進めていく。
わずかな手勢しか率いていなかった信長・信忠親子を夜明け間近に襲った計画は信長の虚を突く、いくさ巧者の光秀らしい作戦だった。』とあります。

上記記事はなかなか興味がそそられる内容です。
その天寧寺のある場所から寺町通りを数百メートル南下するところに、織田信長の菩提寺の阿弥陀寺があります。

阿弥陀寺










駒札





本堂





以下wikipediaより
『阿弥陀寺は京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町にある浄土宗の寺院である。山号は蓮台山。院号は総見院。本尊は阿弥陀如来。
創建年 天文24年(1555年) 開基 玉誉清玉
天文24年(1555年)玉誉清玉が近江国坂本に創建したのがこの寺の始まりとされ、その後清玉が織田信長の帰依を得、上京今出川大宮に移転。
天正10年(1582年)、信長が本能寺で討たれると、清玉上人が自ら現地に赴いて信長の遺灰を持ち帰って、墓を築いたとされる。後に信忠の遺骨も、二条御新造より拾い集めて、その横に墓をなした。さらに本能寺の変の名の分からぬ犠牲者大勢も、阿弥陀寺に葬って供養したという。
天正13年(1585年)、現在地に移転した。延宝3年(1675年)11月25日に大火あって、信長公の木像、武具・道具類などの遺物が焼失した。焼け残ったものは大雲院に移されたが、同院でも再び火災にあってほとんど現存しない。
美作国津山藩の4代藩主森長成は毎年6月2日に法要をし、信長公百年忌も執り行ったと云うが、森家の改易後は御茶湯料の寄進はなくなったとする。
織田信長廟
織田信長(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士)
織田信忠(大雲院三品羽林仙巖大居士)
供養墓 森成利(蘭丸)・森長隆(坊丸)・森長氏(力丸)の兄弟、福富秀勝、津田権之佐信貞[3]、津田九郎次郎、赤座七郎右衛門、団平八郎、湯浅甚介、櫻木傳七郎、青柳勘太郎、桑原吉三

また別の京都観光案内書では
『浄土宗寺院・百万遍知恩寺末。信長の帰依を受けた清玉上人開山、当時蓮臺野芝薬師に塔頭十三ケ院、八町四方の伽藍を構えていた織田家の菩提寺。信長公本廟たる由縁は、天正十年六月二日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。その後明智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠・森蘭丸等、当日本能寺、二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移る。信長公本廟とは、大正六年位階追陞(信長公に正一位を追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があった。六月二日のみ「信長忌」勤修の為堂内拝観可。併せて各種寺宝公開。6月2日「信長忌」勤修』とあります。

玉誉清玉について

清玉上人の母親が妊娠中に道端で倒れたところを、信長の兄が助けました。
母親は清玉上人を産み落としてすぐに亡くなったので、清玉上人は織田家の中で育てられ、援助を受けて阿弥陀寺の住職になったと言われています。織田信長ら織田家は清玉上人にとっては恩人の存在だったのです。
清玉上人はその恩に報いるように本能寺の変の直後に駆けつけたのではないでしょうか。
そうでなければ、変の直後に織田信長の遺品などを集めることは不可能だったと思います。

以上明智光秀にゆかりがある天寧寺と織田信長ゆかりの阿弥陀寺の散策記録でした。






織田信長と旧二条城跡

2019-09-23 05:36:15 | 京都歴史散策


台風15号では千葉県などで大きな被害がでましたが、17号は九州北部などで被害が出ていないでしょうか。心配です。

ところで、今回は織田信長歴史散策の第3回です。
旧本能寺跡、南蛮寺跡に続き、今回は旧二条城跡です。
念のためですが、現在の国宝・世界遺産の二条城ではありません。

旧二条城(①)は室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって築かれた城です。
第13代将軍・足利義輝の居城(二条御所武衛陣の御構え)があった場所(②)を中心に、信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとり、約70日という短期間で築城したといわれています。
その後、信長と義昭との関係が悪化、義昭が畿内から追放され、旧二条城に残った天主や門は解体され、築城中の安土城に転用されました。
そのため遺構はほとんど残っていませんが、1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)に行われた、地下鉄烏丸線工事に先立つ発掘調査で石垣が発見され、その一部が京都御苑内と現在の二条城内に復元されています。
また平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板が立っています。

平安女学院前の石碑ー①





この石碑を中心に、約390m四方の敷地に二重の堀や三重「天王」を備えた堅固城です。
四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと言われています。
広い敷地です。現在の京都御苑の一部も入っています。





近くにもう一つの石碑ー②
此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址の石碑と説明板です。
旧二条城は斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡に築城されました。














京都御苑内の旧二条城第復元遺跡










説明板が見えにくいので、活字にします。
推定旧二条第復元石垣
京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。
それは永禄十二年(1569)織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居住の跡と推定される。
当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスは、度々工事場を訪れて築城の様子を見聞し。その記録を残している。
この築城工事には、日々一万五千人から、二万五千人の人役が従順なるし、居館とする建築物に、法華宗本山であった「本国寺」の荘厳・華麗なるものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込んだのである。
ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に発見されたもので、もとは南面していたのを、ここに復元したのである。
これと同様なものが烏丸椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市


旧二条城跡から発掘された石仏が京都文化博物館にあります。





説明板

信長は工事を短期間に終わらせるために、配下の武将に命じ、付近の寺院から石仏などを徴発し石垣や石段を築造するのに利用させました。
ルイス=フロイスは書簡に「これを用ふる石なきを以って多数の石像を倒し、頸に縄を付けて工事場に引かしめ(中略)石の祭壇及びフォトケス(仏)則ち偶像を地上に倒してこれを破壊して車に積みて運搬し」と書かれており、出土した石仏のなかに頸や胴体の部分で割られたものがあることと一致しています。
これらは人為的に埋められた桃山時代の大きな堀の中から出土されました。










博物館内3階の石仏
旧二条城の石垣や石段になり、解体後は打ち捨てられた石仏
織田信長(だけではないと思いますが)の生きた戦国の世は、かなり残酷な時代だったようです。

































旧二条城跡に明治28年に建てられた聖アグネス教会









旧本能寺跡と織田信長

2019-08-29 05:39:00 | 京都歴史散策


今回の散策は「旧本能寺跡」です。
本能寺といえば「本能寺の変」を思い浮かべる方が多いと思います。
1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀により本能寺を襲撃された織田信長は本能寺で自刃、本能寺は炎上した事件です。
信長の死により豊臣秀吉の政権になっていきます。
現在の本能寺は寺町通御池交差点の南東側にありますが、これは天正19年(1591)に秀吉の命令で移転したものです。





旧本能寺跡へ行くため、四条通の油小路を北へ上がり、錦小路を過ぎると京都市立堀川高等学校本能学舎と本能特養老人ホームなどの建物が見えてきます。





ここは以前は京都市立本能小学校があった場所です。
その建物の油小路沿いの一角に「本能校跡」と「本能寺跡」の石碑が建っています。





本能寺跡










石碑には「本能寺跡記」があります。





応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失。天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。 
因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「䏻」と書くのが慣わしである。大本山 本能寺

それで今でも本能寺の能は「『ヒ』(火)が『去』る」という「䏻」というわけです。

特養老人ホームの北東角にも石碑があります。





ここは京都市本能特別養護老人ホーム、京都市本能老人デイサービスセンター、京都市本能在宅介護支援センターの複合施設です。





石碑が立っています。





目的の旧本能寺跡ですが、この2つの石碑の北側にあるのです。
本能寺の変の時には、北は六角通、東は西洞院通、南は蛸薬師通、西は油小路通に囲まれた「1町」120m四方にありました。
青い線で囲った範囲です。





以前は石碑のあった旧本能小学校付近が旧本能寺の跡と考えられていたのです。
その後の2007 年に行われた3回の発掘調査で、赤い線で囲まれたエリアで、周囲が堀で囲まれ、内部も石垣を備えた堀で区画されていることがわかりました。
また境内中央部分には礎石をもつ建物があり、瓦葺きの建物で火災で焼失したことも明らかになりました。
出土遺物には輪宝を額に戴いた鬼面や龍が巻き付く意匠の鬼瓦、本能寺の寺号「能」の異体字である「 」の文字を刻んだ軒丸瓦、掛け軸の琥珀製の軸端、火災の激しさを物語る熱を受けて赤く変色した瓦や焼けた壁土などが発掘されました。
青い線の南側(石碑のある場所)はすでに寺とは関係ない遺構が出土しています。

民間調査会社「国際文化財」(東京)による発掘調査

従来より旧本能寺の場は北は三条通りまでとする「2町説」がありました。
マンション建設に伴い平成28年8月から3カ月間、赤い線エリアの北隣を発掘調査しています。
その結果、寺の建物の存在を裏付けるような跡は出ず、当時の土器を含む耕作土や水だめ用とみられる長径2m前後の穴が2カ所出土。
検討した結果、本能寺の変当時は畑だったことが判明しました。
同社は「今回畑の跡が出たことで、さらに本能寺に関係する建物跡が出る可能性は極めて低い」と結論づけています。
ということで旧本能寺跡は最初で触れた北は六角通、東は西洞院通、南は蛸薬師通、西は油小路通に囲まれたエリアとなります。

信長が足利義昭を擁立して入京したのは1568(永禄11)年です。
本能寺の変の1582年までの14年間、京都には居館を構えず、政治拠点としませんでした。
信長が京都に居館、城を構えていたら、本能寺に泊まることもなく、歴史は変わっていたかも知れません。

現在の本能寺












信長公廟
ここはいつも観光客がいます。
最近は来日観光客も増えています。










本堂


















明智光秀の首塚

2019-06-25 07:06:34 | 京都歴史散策


東山にある明智光秀の首塚を訪れました。
来年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公になるそうで、来年は訪れる人が増えそうです。
明智光秀役は長谷川博己さんが演ずるとのことです。

首塚は東山白川一本橋を少し上流に行ったところにあります。





和菓子屋「餅寅」の前に石碑と案内板があります。






「明智光秀首塚」と彫られています。










車の通れない細い通りがあります。
最近石畳が敷かれました。20m先に駒札が見えます。






駒札










画像では電柱に隠れて見えないですが、五輪塔墓があります。
これが光秀の塚の本体といえます。
天正年間の公家の日記に、明智光秀の遺骸がこの辺りの地にて曝され、その後首塚を築き埋葬したと記されています。

明智家の家紋の桔梗が咲いています。





「光秀公」の扁額がかかった小さなお堂があり、厨子の奥には明智光秀の木造が鎮座しています。











明智光秀首塚を江戸時代から250年もの間、代々守ってきた家があります。
表通りに面している和菓子屋「餅寅」です。名物は桔梗紋の焼き印が入った「光秀饅頭」です。













京都歴史散策 湯たく山茶くれん寺、釘抜き地蔵、千本ゑんま堂、紫式部と小野篁の墓

2019-01-16 05:41:06 | 京都歴史散策


千本通りの歴史散策です。
スタートは千本通り今出川西の『湯ゆたく山茶くれん寺』です。

一度聞いたら忘れられない寺名です。
京都市上京区千本今出川に位置する淨土宗の寺で、近くにある般舟院の隠居所として平安時代に創建されました。
豊臣秀吉公とのゆかりに因んだ「湯たく山茶くれん寺」を通称として知られています。
先代まで代々続く尼寺でした。











天正十五(一五八七)年十月一日、秀吉が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮境内の松原で「北野大茶湯」を催しました。
その折秀吉が北野に向う途中、この寺に立ち寄り、茶を所望しました。
住職は一杯目のお茶を出した後、秀吉が二杯目を所望しました。世に知られた茶人でもあるお方に自分の未熟なお茶を出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香しい銀水をそのまま味わっていただこうと、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
秀吉公はお茶のおかわりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりで、「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言ったそうです。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。
なお、姫路にも『湯ゆたく山茶くれん寺』があるそうです。


石像寺(釘抜地蔵)
空海の開基、「釘抜地蔵」として知られています。
「苦抜き」の云われから病気平癒の祈願者が多く、墓地には藤原定家、家隆の供養塔があります。
私が行ったときもお参りする方が絶え間無かったです。


正面入口





説明板





参道に大きな釘と釘抜きがあります。






中門





本堂










絵馬ならぬ釘抜き奉納








































引接寺(千本ゑんま堂)
釘抜き地蔵さんを少し北に上がったとことにあります。

開基は小野篁、本尊は閻魔王像で「千本ゑんま堂」と呼ばれ、古来より精霊迎えの霊場として参詣者で賑います。
紫式部の供養塔・多重石塔(重要文化財)や普賢桜、京都三大念仏狂言の一つ、「ゑんま堂狂言(市登録無形民俗文化財)」などが有名です。

小野篁(802年〜852年)は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られています。
文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともあります。
小野妹子の子孫です。
また、閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説は有名です。






















紫式部の供養塔、重要文化財の多層石塔です。
至徳三年(1388)8月22日に僧円阿の勧進によって建立された銘があります。





白梅が咲いていました。










鐘楼





面白い行事がありました。





千本ゑんま堂から鞍馬口通りを東に歩き、堀川通りに出ます。
その少し北に紫式部と小野篁の墓があります。
紫式部は平安時代中期に活躍した女流作家・歌人で、紫式部の代表作として有名なのが『源氏物語』です。











紫式部の墓
室町時代の古文献に載る紫式部の墓が小野篁の墓の隣にあります。墓石は新しいものです。
紫式部のお墓は「紫式部墓所」と呼ばれています。
この場所はかつては蓮台野と呼ばれ、紫式部が生きた時代にはすでに貴族のための墓地が設けられていました。
さらに、墓所の近くには、紫式部が晩年に住んでいたという大徳寺所属の建物である雲林院がありました。
紫式部の晩年の居住地に近かったこともこの墓地にお墓が建てられた理由の1つですが、小野篁の関係が挙げられています。
愛欲を描いた咎で地獄に落とされた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものす。
紫式部が死後に地獄に落ちたという風聞を聞いた『源氏物語』の愛読者たちが、閻魔大王の補佐をしていたという小野篁の仲介で紫式部を地獄から解放してもらおうと祈るために紫式部のお墓を移転したことによります。
紫式部の墓所の中には、紫式部のお墓や石塔のほかにも、紫式部の功績をたたえる顕彰碑や、紫式部の生涯や功績について解説するための小屋があります。

現在は島津製作所の紫野工場の敷地内に位置していますが、同社の工場とは区切られた区画となっていることから普通にお参りすることは可能です。墓所の管理は地元の顕彰会が行っています。

所在地日本、京都府京都市北区紫野西御所田町
京都市バス「堀川北大路」停留所下車、徒歩1分






































小野篁のお墓
紫式部のお墓の隣には平安時代前期の貴族・歌人の小野篁のお墓が建てられています。













千本ゑんま堂縁起 同寺のホームページより

開基小野篁卿尊像
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕 えたとの伝説を残しています。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂 蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かりました。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿 を刻み建立した祠が当ゑんま堂の開基です。
また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土 します。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれていま す。篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓 喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。「引接」とは「引導」と同義語です。「引接寺」という正式名称より、「通称の千本ゑんま堂」としてよ り親しまれているのは、この地が開山以前から、人々にそう呼ばれ、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからにほかなりません。




京都歴史散策 きぬかけの路ぶらり 

2019-01-14 07:17:19 | 京都歴史散策


衣笠山山麓の金閣寺、龍安寺、仁和寺の三つの世界遺産をつなぐ観光道路は「きぬかけの路」と呼ばれています。
御室仁和寺を開山した宇多天皇が「夏に雪を見たい」と請われ、「衣笠山に白衣を懸けてお慰めした」という伝承からきています。
風光明媚な地で、多くの観光寺社があり、また、歴史に名を残す人々が祀られる墓所もあり、散策に適しています。
金閣寺から龍安寺までは約18分、龍安寺から仁和寺までは約11分。路沿いに走る嵐電に乗れば、嵐山まで20分です。



金閣寺と龍安寺の間に立命館大学、堂本印象美術館、褶曲地層があります。

堂本印象美術館
1966年(昭和41年)、日本画家堂本印象が自らの作品を展示するために設立した美術館です。
斬新な外観は堂本印象自らのデザインによるものです。
きぬかけの路沿道の立命館大学衣笠キャンパス正門前に位置し、豊かな自然と多くの名刹に囲まれています。
美術館と所蔵作品は1991年(平成3年)に京都府に寄贈され、京都府立堂本印象美術館となっています。





立命館大学の前から見える衣笠山





褶曲地層
海底のチャートにより形成された地層の、何枚もの平行な縞模様が見られます。
約2億年以上も前の地殻変動で波状に隆起した、褶曲地層の断面です。










龍安寺
妙心寺の境外塔頭になる禅宗寺院です。1450年に細川勝元が創建し、江戸時代後期に現在の姿となっています。山門から中門までの区域と、境内に広がる衣笠山を背にする鏡容池は国指定名勝で、「虎の子渡し」と呼ばれる枯山水式石庭の代表作である「龍安寺方丈庭園」が国の特別名勝・史跡に指定されています。庭の龍安寺垣、方丈(重要文化財)の北庭にある蹲踞や秀吉が賞賛したと伝わる侘助椿なども見所です。大珠院の境内には真田幸村と正妻の利世(竹林院)の墓と伝える石塔があります。





龍安寺から仁和寺までの道中に石碑があります。





住吉大伴神社
平安京遷都の際に、大伴氏の氏神を祀る伴氏神社として建てられました。
平安時代末期に航海の神と和歌の神である住吉大神を合祀したと伝わる神社です。






仁和寺
888年の創建。宇多天皇が住まわれたことで御室御所とも呼ばれました。江戸時代初期に建築された御所の紫宸殿を移築した金堂(国宝)や、再建された五重塔(重要文化財)などが建築美を見せ、雅で美しい御殿の宸殿や庭園、境内には名勝御室桜があります。





衣笠等持院付近を歩きます。


六請神社
創建は古く、衣笠山に葬られた人々の御霊を祀り、衣笠岳御霊社と呼ばれていました。天照大神にはじまり六柱の神を祀っています。












旧本野精吾邸
本野精吾は日本のモダニズム建築の先駆者といわれ、ヨーロッパ留学後には、旧西陣織会館(現・京都市考古資料館)を設計しました。大正13年建築の自邸です。





臨済宗相国寺派真如寺





等持院
室町時代前期、足利尊氏により創建された寺院です。
足利将軍歴代の菩提寺で、尊氏の墓と伝えられる宝筺印塔があります。
霊光殿には足利歴代将軍と徳川家康の木像が安置されています。
庭園は夢窓疎石作と伝えられる三名園の一つです。










マキノ省三銅像
等持院境内には「日本映画の父」と呼ばれる、マキノ省三の銅像があります。
大正時代、等持院境内にはマキノ省三が建設した撮影所がありました。





櫻谷文庫
大正時代初期に建築された、日本画家・木島櫻谷(このしまおうこく)の住居兼アトリエです。曲線の造形が特徴の洋館、和館と80畳の大画室の三棟からなっています。櫻谷の作品や資料が収蔵されています。









衣笠絵描き村大正時代初め、櫻谷が衣笠に転居してから、土田麦僊、金島桂華、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田萩邨、福田平八郎、徳岡神泉などの多くの画家が移り住みました。


白梅町
西大路通りと今出川通りの交差点

嵐電白梅町駅の出発点です。




北野白梅町付近にあった飛鳥時代から平安時代の寺院跡とみられています。文献には寺院名がなく、地名を取って北野廃寺と呼んでいます。






















牛若丸伝説の地を歩く

2018-12-16 05:43:06 | 京都歴史散策


源義経は1159年、河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれます。
平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、合戦で大活躍します。
平家が滅び頼朝が鎌倉幕府を樹立するが、頼朝の怒りを買い、最後は奥州で1189年に亡くなるというのはほとんどの方が知っています。
悲劇のヒーローとして世の中の同情を引き、多くの伝説や物語が生まれました。
義経・牛若丸伝説は、真偽のほどはいまだ不明なのが多いようです。
『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』などがありますが、かなり脚色されたようです。

真偽はともかく、牛若丸生誕の地と言われるところを歩いてきました。
場所は京都市北区紫竹で、大徳寺より北で北山通りより南の地域です。
ここには古くから牛若丸伝説が多く残っていて、町名も牛若町となっています。

牛若丸生誕の地
畑のなかに石碑と説明板があります。











牛若丸胞衣塚の石碑
室町時代に彫られた石碑で、京都で最も古い可能性があります。










牛若丸産湯井の石碑











こに近くにも牛若丸産湯井の遺跡の石碑があります。












義経の父義朝ゆかりの神社 祭神の一人です。
紫竹に義朝の別邸があったそうです。
















牛若丸と弁慶の出会い

牛若丸と弁慶の出会いは一般的に五条の橋と言われ、現在の五条大橋にも牛若丸と弁慶の御所人形風の石像が置かれています。
しかし現在の五条通りはずっと後に造られたもので、当時の五条は現在の松原通りです。
今日では弁慶との出会いは、清水観音(清水寺)の境内とする説や、松原あたりとする説、五条天神社との説といろいろあります。

弁慶との最初の出会いは1176年頃のようですが、この時代は平氏政権(1167-1185)で、その拠点は平清盛の邸宅があった六波羅です。
当時の五条の橋のあった鴨川のすぐ近くです。
平家から逃れていた牛若丸がわざわざ六波羅に近い場所に出向くかという疑問があります。

今回の散策で、もう一つの伝説に出会いました。


牛若丸(御浄の橋)伝説

紫竹に近い紫野築山町に「常盤井」の石碑があります。
牛若丸の母、常盤御前の住まいという伝説があります。










またこの付近には「御浄の橋」が有栖川にかかっていたそうです。

弁慶腰掛石での出会い

「常盤井」のすぐ近所に「弁慶腰掛石」もあり、「ここで牛若丸と弁慶が出会った」との伝説が残っています。
米穀店の敷地内にあり、中に入らせていただき撮影しました。
















江戸時代の地図に有栖川や五常橋が記載されています。





首途八幡宮
「常盤井」「御浄の橋」から南に下るとこの神宮があります。

平安宮の北東にあたり、王城鎮護の神とされ、内野八幡宮とも呼ばれました。
「首途」は出発を意味します。
牛若丸がここで安全祈願し、共に奥州へ旅立ったとされる金売吉次の屋敷跡とも言われています。













































以上、牛若丸伝説の地を歩いて見ました。3km以内です。