京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

織田信長と旧二条城跡

2019-09-23 05:36:15 | 京都歴史散策


台風15号では千葉県などで大きな被害がでましたが、17号は九州北部などで被害が出ていないでしょうか。心配です。

ところで、今回は織田信長歴史散策の第3回です。
旧本能寺跡、南蛮寺跡に続き、今回は旧二条城跡です。
念のためですが、現在の国宝・世界遺産の二条城ではありません。

旧二条城(①)は室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって築かれた城です。
第13代将軍・足利義輝の居城(二条御所武衛陣の御構え)があった場所(②)を中心に、信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとり、約70日という短期間で築城したといわれています。
その後、信長と義昭との関係が悪化、義昭が畿内から追放され、旧二条城に残った天主や門は解体され、築城中の安土城に転用されました。
そのため遺構はほとんど残っていませんが、1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)に行われた、地下鉄烏丸線工事に先立つ発掘調査で石垣が発見され、その一部が京都御苑内と現在の二条城内に復元されています。
また平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板が立っています。

平安女学院前の石碑ー①





この石碑を中心に、約390m四方の敷地に二重の堀や三重「天王」を備えた堅固城です。
四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと言われています。
広い敷地です。現在の京都御苑の一部も入っています。





近くにもう一つの石碑ー②
此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址の石碑と説明板です。
旧二条城は斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡に築城されました。














京都御苑内の旧二条城第復元遺跡










説明板が見えにくいので、活字にします。
推定旧二条第復元石垣
京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。
それは永禄十二年(1569)織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居住の跡と推定される。
当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスは、度々工事場を訪れて築城の様子を見聞し。その記録を残している。
この築城工事には、日々一万五千人から、二万五千人の人役が従順なるし、居館とする建築物に、法華宗本山であった「本国寺」の荘厳・華麗なるものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込んだのである。
ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に発見されたもので、もとは南面していたのを、ここに復元したのである。
これと同様なものが烏丸椹木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市


旧二条城跡から発掘された石仏が京都文化博物館にあります。





説明板

信長は工事を短期間に終わらせるために、配下の武将に命じ、付近の寺院から石仏などを徴発し石垣や石段を築造するのに利用させました。
ルイス=フロイスは書簡に「これを用ふる石なきを以って多数の石像を倒し、頸に縄を付けて工事場に引かしめ(中略)石の祭壇及びフォトケス(仏)則ち偶像を地上に倒してこれを破壊して車に積みて運搬し」と書かれており、出土した石仏のなかに頸や胴体の部分で割られたものがあることと一致しています。
これらは人為的に埋められた桃山時代の大きな堀の中から出土されました。










博物館内3階の石仏
旧二条城の石垣や石段になり、解体後は打ち捨てられた石仏
織田信長(だけではないと思いますが)の生きた戦国の世は、かなり残酷な時代だったようです。

































旧二条城跡に明治28年に建てられた聖アグネス教会








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旧本能寺跡と織田信長

2019-08-29 05:39:00 | 京都歴史散策


今回の散策は「旧本能寺跡」です。
本能寺といえば「本能寺の変」を思い浮かべる方が多いと思います。
1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀により本能寺を襲撃された織田信長は本能寺で自刃、本能寺は炎上した事件です。
信長の死により豊臣秀吉の政権になっていきます。
現在の本能寺は寺町通御池交差点の南東側にありますが、これは天正19年(1591)に秀吉の命令で移転したものです。





旧本能寺跡へ行くため、四条通の油小路を北へ上がり、錦小路を過ぎると京都市立堀川高等学校本能学舎と本能特養老人ホームなどの建物が見えてきます。





ここは以前は京都市立本能小学校があった場所です。
その建物の油小路沿いの一角に「本能校跡」と「本能寺跡」の石碑が建っています。





本能寺跡










石碑には「本能寺跡記」があります。





応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失。天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。 
因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「䏻」と書くのが慣わしである。大本山 本能寺

それで今でも本能寺の能は「『ヒ』(火)が『去』る」という「䏻」というわけです。

特養老人ホームの北東角にも石碑があります。





ここは京都市本能特別養護老人ホーム、京都市本能老人デイサービスセンター、京都市本能在宅介護支援センターの複合施設です。





石碑が立っています。





目的の旧本能寺跡ですが、この2つの石碑の北側にあるのです。
本能寺の変の時には、北は六角通、東は西洞院通、南は蛸薬師通、西は油小路通に囲まれた「1町」120m四方にありました。
青い線で囲った範囲です。





以前は石碑のあった旧本能小学校付近が旧本能寺の跡と考えられていたのです。
その後の2007 年に行われた3回の発掘調査で、赤い線で囲まれたエリアで、周囲が堀で囲まれ、内部も石垣を備えた堀で区画されていることがわかりました。
また境内中央部分には礎石をもつ建物があり、瓦葺きの建物で火災で焼失したことも明らかになりました。
出土遺物には輪宝を額に戴いた鬼面や龍が巻き付く意匠の鬼瓦、本能寺の寺号「能」の異体字である「 」の文字を刻んだ軒丸瓦、掛け軸の琥珀製の軸端、火災の激しさを物語る熱を受けて赤く変色した瓦や焼けた壁土などが発掘されました。
青い線の南側(石碑のある場所)はすでに寺とは関係ない遺構が出土しています。

民間調査会社「国際文化財」(東京)による発掘調査

従来より旧本能寺の場は北は三条通りまでとする「2町説」がありました。
マンション建設に伴い平成28年8月から3カ月間、赤い線エリアの北隣を発掘調査しています。
その結果、寺の建物の存在を裏付けるような跡は出ず、当時の土器を含む耕作土や水だめ用とみられる長径2m前後の穴が2カ所出土。
検討した結果、本能寺の変当時は畑だったことが判明しました。
同社は「今回畑の跡が出たことで、さらに本能寺に関係する建物跡が出る可能性は極めて低い」と結論づけています。
ということで旧本能寺跡は最初で触れた北は六角通、東は西洞院通、南は蛸薬師通、西は油小路通に囲まれたエリアとなります。

信長が足利義昭を擁立して入京したのは1568(永禄11)年です。
本能寺の変の1582年までの14年間、京都には居館を構えず、政治拠点としませんでした。
信長が京都に居館、城を構えていたら、本能寺に泊まることもなく、歴史は変わっていたかも知れません。

現在の本能寺












信長公廟
ここはいつも観光客がいます。
最近は来日観光客も増えています。










本堂

















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明智光秀の首塚

2019-06-25 07:06:34 | 京都歴史散策


東山にある明智光秀の首塚を訪れました。
来年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公になるそうで、来年は訪れる人が増えそうです。
明智光秀役は長谷川博己さんが演ずるとのことです。

首塚は東山白川一本橋を少し上流に行ったところにあります。





和菓子屋「餅寅」の前に石碑と案内板があります。






「明智光秀首塚」と彫られています。










車の通れない細い通りがあります。
最近石畳が敷かれました。20m先に駒札が見えます。






駒札










画像では電柱に隠れて見えないですが、五輪塔墓があります。
これが光秀の塚の本体といえます。
天正年間の公家の日記に、明智光秀の遺骸がこの辺りの地にて曝され、その後首塚を築き埋葬したと記されています。

明智家の家紋の桔梗が咲いています。





「光秀公」の扁額がかかった小さなお堂があり、厨子の奥には明智光秀の木造が鎮座しています。











明智光秀首塚を江戸時代から250年もの間、代々守ってきた家があります。
表通りに面している和菓子屋「餅寅」です。名物は桔梗紋の焼き印が入った「光秀饅頭」です。












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京都歴史散策 湯たく山茶くれん寺、釘抜き地蔵、千本ゑんま堂、紫式部と小野篁の墓

2019-01-16 05:41:06 | 京都歴史散策


千本通りの歴史散策です。
スタートは千本通り今出川西の『湯ゆたく山茶くれん寺』です。

一度聞いたら忘れられない寺名です。
京都市上京区千本今出川に位置する淨土宗の寺で、近くにある般舟院の隠居所として平安時代に創建されました。
豊臣秀吉公とのゆかりに因んだ「湯たく山茶くれん寺」を通称として知られています。
先代まで代々続く尼寺でした。











天正十五(一五八七)年十月一日、秀吉が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮境内の松原で「北野大茶湯」を催しました。
その折秀吉が北野に向う途中、この寺に立ち寄り、茶を所望しました。
住職は一杯目のお茶を出した後、秀吉が二杯目を所望しました。世に知られた茶人でもあるお方に自分の未熟なお茶を出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香しい銀水をそのまま味わっていただこうと、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
秀吉公はお茶のおかわりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりで、「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言ったそうです。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。
なお、姫路にも『湯ゆたく山茶くれん寺』があるそうです。


石像寺(釘抜地蔵)
空海の開基、「釘抜地蔵」として知られています。
「苦抜き」の云われから病気平癒の祈願者が多く、墓地には藤原定家、家隆の供養塔があります。
私が行ったときもお参りする方が絶え間無かったです。


正面入口





説明板





参道に大きな釘と釘抜きがあります。






中門





本堂










絵馬ならぬ釘抜き奉納








































引接寺(千本ゑんま堂)
釘抜き地蔵さんを少し北に上がったとことにあります。

開基は小野篁、本尊は閻魔王像で「千本ゑんま堂」と呼ばれ、古来より精霊迎えの霊場として参詣者で賑います。
紫式部の供養塔・多重石塔(重要文化財)や普賢桜、京都三大念仏狂言の一つ、「ゑんま堂狂言(市登録無形民俗文化財)」などが有名です。

小野篁(802年〜852年)は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られています。
文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともあります。
小野妹子の子孫です。
また、閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説は有名です。






















紫式部の供養塔、重要文化財の多層石塔です。
至徳三年(1388)8月22日に僧円阿の勧進によって建立された銘があります。





白梅が咲いていました。










鐘楼





面白い行事がありました。





千本ゑんま堂から鞍馬口通りを東に歩き、堀川通りに出ます。
その少し北に紫式部と小野篁の墓があります。
紫式部は平安時代中期に活躍した女流作家・歌人で、紫式部の代表作として有名なのが『源氏物語』です。











紫式部の墓
室町時代の古文献に載る紫式部の墓が小野篁の墓の隣にあります。墓石は新しいものです。
紫式部のお墓は「紫式部墓所」と呼ばれています。
この場所はかつては蓮台野と呼ばれ、紫式部が生きた時代にはすでに貴族のための墓地が設けられていました。
さらに、墓所の近くには、紫式部が晩年に住んでいたという大徳寺所属の建物である雲林院がありました。
紫式部の晩年の居住地に近かったこともこの墓地にお墓が建てられた理由の1つですが、小野篁の関係が挙げられています。
愛欲を描いた咎で地獄に落とされた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものす。
紫式部が死後に地獄に落ちたという風聞を聞いた『源氏物語』の愛読者たちが、閻魔大王の補佐をしていたという小野篁の仲介で紫式部を地獄から解放してもらおうと祈るために紫式部のお墓を移転したことによります。
紫式部の墓所の中には、紫式部のお墓や石塔のほかにも、紫式部の功績をたたえる顕彰碑や、紫式部の生涯や功績について解説するための小屋があります。

現在は島津製作所の紫野工場の敷地内に位置していますが、同社の工場とは区切られた区画となっていることから普通にお参りすることは可能です。墓所の管理は地元の顕彰会が行っています。

所在地日本、京都府京都市北区紫野西御所田町
京都市バス「堀川北大路」停留所下車、徒歩1分






































小野篁のお墓
紫式部のお墓の隣には平安時代前期の貴族・歌人の小野篁のお墓が建てられています。













千本ゑんま堂縁起 同寺のホームページより

開基小野篁卿尊像
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕 えたとの伝説を残しています。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂 蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かりました。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿 を刻み建立した祠が当ゑんま堂の開基です。
また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土 します。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれていま す。篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓 喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。「引接」とは「引導」と同義語です。「引接寺」という正式名称より、「通称の千本ゑんま堂」としてよ り親しまれているのは、この地が開山以前から、人々にそう呼ばれ、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからにほかなりません。



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京都歴史散策 きぬかけの路ぶらり 

2019-01-14 07:17:19 | 京都歴史散策


衣笠山山麓の金閣寺、龍安寺、仁和寺の三つの世界遺産をつなぐ観光道路は「きぬかけの路」と呼ばれています。
御室仁和寺を開山した宇多天皇が「夏に雪を見たい」と請われ、「衣笠山に白衣を懸けてお慰めした」という伝承からきています。
風光明媚な地で、多くの観光寺社があり、また、歴史に名を残す人々が祀られる墓所もあり、散策に適しています。
金閣寺から龍安寺までは約18分、龍安寺から仁和寺までは約11分。路沿いに走る嵐電に乗れば、嵐山まで20分です。



金閣寺と龍安寺の間に立命館大学、堂本印象美術館、褶曲地層があります。

堂本印象美術館
1966年(昭和41年)、日本画家堂本印象が自らの作品を展示するために設立した美術館です。
斬新な外観は堂本印象自らのデザインによるものです。
きぬかけの路沿道の立命館大学衣笠キャンパス正門前に位置し、豊かな自然と多くの名刹に囲まれています。
美術館と所蔵作品は1991年(平成3年)に京都府に寄贈され、京都府立堂本印象美術館となっています。





立命館大学の前から見える衣笠山





褶曲地層
海底のチャートにより形成された地層の、何枚もの平行な縞模様が見られます。
約2億年以上も前の地殻変動で波状に隆起した、褶曲地層の断面です。










龍安寺
妙心寺の境外塔頭になる禅宗寺院です。1450年に細川勝元が創建し、江戸時代後期に現在の姿となっています。山門から中門までの区域と、境内に広がる衣笠山を背にする鏡容池は国指定名勝で、「虎の子渡し」と呼ばれる枯山水式石庭の代表作である「龍安寺方丈庭園」が国の特別名勝・史跡に指定されています。庭の龍安寺垣、方丈(重要文化財)の北庭にある蹲踞や秀吉が賞賛したと伝わる侘助椿なども見所です。大珠院の境内には真田幸村と正妻の利世(竹林院)の墓と伝える石塔があります。





龍安寺から仁和寺までの道中に石碑があります。





住吉大伴神社
平安京遷都の際に、大伴氏の氏神を祀る伴氏神社として建てられました。
平安時代末期に航海の神と和歌の神である住吉大神を合祀したと伝わる神社です。






仁和寺
888年の創建。宇多天皇が住まわれたことで御室御所とも呼ばれました。江戸時代初期に建築された御所の紫宸殿を移築した金堂(国宝)や、再建された五重塔(重要文化財)などが建築美を見せ、雅で美しい御殿の宸殿や庭園、境内には名勝御室桜があります。





衣笠等持院付近を歩きます。


六請神社
創建は古く、衣笠山に葬られた人々の御霊を祀り、衣笠岳御霊社と呼ばれていました。天照大神にはじまり六柱の神を祀っています。












旧本野精吾邸
本野精吾は日本のモダニズム建築の先駆者といわれ、ヨーロッパ留学後には、旧西陣織会館(現・京都市考古資料館)を設計しました。大正13年建築の自邸です。





臨済宗相国寺派真如寺





等持院
室町時代前期、足利尊氏により創建された寺院です。
足利将軍歴代の菩提寺で、尊氏の墓と伝えられる宝筺印塔があります。
霊光殿には足利歴代将軍と徳川家康の木像が安置されています。
庭園は夢窓疎石作と伝えられる三名園の一つです。










マキノ省三銅像
等持院境内には「日本映画の父」と呼ばれる、マキノ省三の銅像があります。
大正時代、等持院境内にはマキノ省三が建設した撮影所がありました。





櫻谷文庫
大正時代初期に建築された、日本画家・木島櫻谷(このしまおうこく)の住居兼アトリエです。曲線の造形が特徴の洋館、和館と80畳の大画室の三棟からなっています。櫻谷の作品や資料が収蔵されています。









衣笠絵描き村大正時代初め、櫻谷が衣笠に転居してから、土田麦僊、金島桂華、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田萩邨、福田平八郎、徳岡神泉などの多くの画家が移り住みました。


白梅町
西大路通りと今出川通りの交差点

嵐電白梅町駅の出発点です。




北野白梅町付近にあった飛鳥時代から平安時代の寺院跡とみられています。文献には寺院名がなく、地名を取って北野廃寺と呼んでいます。





















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平安京大内裏を歩く 4.5km

2018-12-15 05:40:19 | 京都歴史散策


平安宮(大内裏)は平安京の北部中央に位置し、東西1.2キロ、南北1.4キロに囲まれたエリアです。
その南部中央に朝堂院、その北東に内裏があり、それらを囲むように諸司百官の庁舎が建ち並んでいます。
内裏は天皇の居所。紫宸殿が公的行事の場で、清涼殿が日常居所の場です。
平安宮(大内裏)は現在の千本丸太町あたりになります。




今の京都御所は平安宮内裏よりも1.7km東にあります。
もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地でした。
南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続しました。

今回も京都市埋蔵文化研究所の「京都歴史散策マップ」のコースを歩きます。
このあたりは数多くの石碑や説明板が集中しています。見落としそうになることしばしばです。










スタートは朱雀第二小学校前です。
①平安宮西限・藻壁門跡











②史跡平安宮豊楽院跡(豊楽殿跡)
豊楽院は国家的な饗宴が行われた場所で、その正殿が豊楽殿です。
発掘調査で豊楽殿北西部と北側の清暑堂の建物や両堂をつなぐ豊楽殿北廊が見つかっています。

豊楽殿復元模型(京都アスニー)











































③平安京大内裏朱雀門跡
平安宮南面中央にあった正門です。
内裏の門のうち、朝堂院の応天門と並んで最重要視されました。










現在の千本通





千本通りを北へ上がったところに平安宮朝堂院昌福堂跡の説明板があります。





④二条児童公園(ヌエ池碑)
頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という妖怪「ヌエ」
退治の時源頼政が鏃(やじり)を洗ったと言われる「ぬえ池田跡」の碑があります。



















⑤パス

⑥平安宮中務省東面築地跡
中務省は天皇の秘書官としての職務と内廷の諸雑務を担当した重要な役所の一つです。










⑦平安宮内裏宜陽殿跡
納殿ともいわれ、累代の御物を納める所で枕草子や源氏物語にも記載があります。










⑧平安宮綾綺殿跡
天皇の住まいである内裏十七殿の一つで、宮中に舞等が行われていました。










平安宮内裏淑景舎(桐壷)跡



⑨平安宮内裏蘭林坊跡
内裏の北西に位置し、儀式の際の用具を腹はじめとする御物・御書等が納められていた場所です。










⑩平安宮内裏弘微殿跡
















⑪平安宮内裏承香殿跡










⑫平安宮内裏昭陽舎跡
後宮五舎の一つで、庭に植えたことから梨壷とも呼ばれました。
後撰和歌集の編纂もここでされました。










平安宮内裏東限と建春門跡





⑬平安宮内酒殿跡発見の井戸と木簡
内裏に納める酒を醸造した役所があった場所です。





⑭平安宮一本御書所跡
世間に流布した書籍を各一本ずつ書き写して保管していた場所です。









⑮平安宮内裏承明門跡
















⑯史跡 平安宮跡内裏内郭回廊跡
内裏を囲む内外二重の郭の内側部分、内郭回廊の西側にあたります。
発掘調査で基壇や雨落溝などが見つかり、史跡指定され大切に保存されています。

























⑰北回廊跡(縁石)





⑱小安殿跡(縁石)





⑲大極殿跡(縁石)





⑳大極殿跡(タイル)

22大極殿跡(タイル)


現在の千本丸太町






23大極殿跡(説明板)










28大極遺跡










29平安宮朝堂院跡









30京都アスニー ゴール





史跡 平安宮造酒司倉庫跡
造酒司は内裏に納める酒・甘酒・酢などを醸造していた役所です。
タイルの模様は発掘調査で見つかった倉庫の柱の穴の跡で、遺構がそのまま地下に保存されています。(市指定史跡)















石碑や説明板ばかりで、地理感が不明な方にはちんぷんかんぷんかも知れないです。
応仁の乱で焦土になり、秀吉の京都改造、さらには徳川家康による二条城建設などで、平安京の遺跡はほとんど残っていないのです。
それでも長年の発掘調査で詳細な建物跡が解明されてきました。
かつての都の中心を石碑や説明板をもとにブラブラ散策も良いものです。






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平安京貴族邸宅跡の散策 5.7km

2018-12-13 05:42:42 | 京都歴史散策


平安京にはさまざまな貴族の邸宅がありました。
特に堀川に面した京の北部には歴史上有名な貴族の邸宅が集中しています。
これは邸宅の庭園内に池を造るのに適した場所であったと言われています。
有力貴族の邸宅は約4,300坪~約19,000坪という広大な面積で、庭園内の池で優雅に舟遊びを行っていました。
その様子は「駒競行幸絵巻」等に描かれています。
また内裏が焼失したときは、天皇の里内裏として利用されました。

今回の散策は平安京貴族跡の散策です。
京都市埋蔵文化研究所発行の「京都歴史散策マップ」でまわります。





貴族邸配置図





出発は二条駅です。
駅前に「文化財情報板」があります。

























千本通り(平安京の朱雀大路)を下がり、三条通りの一角に奨学院址があります。
奨学院は在原業平の兄(行平)が創業した一族のための教育施設です。





三条会商店街を歩きます。
坊条通り近くに勧学院址の石碑があります。












三条商店街を少し南に下がると武信稲荷神社があります。
平安初期藤原良相が創設した、勧学院と延命院の守護神社です。
後に藤原武信が厚く信仰して発展に努めたことからその名が付いたと言われています。
平安末期、平重盛が宮島厳島神社から苗木を移したとされる樹齢約850年の樟があり、坂本龍馬とその妻おりょうの再会の逸話から、縁結びの木としても有名だそうです。





三条通りに戻り、北上すると史跡神泉苑に着きます。
平安京造営の際の禁苑で、当日は今の10倍の広さがありました。
824年に祈雨祈願で空海と守敏の法力比べの場となり、869年に開かれた御霊会が祇園祭の端緒となるなど、伝承の多い場所で、現在は真言宗の寺となっています。













恵方社が台風21号で倒壊していました。これには驚きました。










神泉苑を東に行くと「不思議な礎石」があります。
藤原道長の六男、長家邸の礎石と伝えられる石です。















堀川御池に京都堀川音楽学校があります。
その敷地内の中庭に堀河院跡復元庭園があります。
発掘調査で出土した景色や州浜の石を用いて堀河院の園池が復元されています。
ここは中に入れません。


御池通りの小川通りを上がります。
以前紹介した御金持ち神社があります。
今回も訪れる人は多いです。





押小路通りに出ると閑院内裏址の石碑があります。
藤原冬嗣邸を藤原公季が伝領してから「閑院」と称されました。
大内裏荒廃後は里内裏として利用されました。





現在このあたりには西福寺になっていますが、豊臣秀吉妙顕寺城跡でした。










東堀川通りを北上すると旧京都国際ホテル前にでます。
現在新たなホテルが建築中です。
ホテル前に堀河天皇里内裏址の石碑があるのですが、工事シートに覆われています。


堀川丸太町を東に歩くとビルの前に「高陽院跡」の案内板があります。
摂政 関白・藤原頼通の邸宅です。





とにかく広大な敷地面積です。
現在の地図ではこんなになります。赤線内。





邸宅の様子





南下し夷川通りに児童公園があります。
二条院候補地(陽成院跡)です。
平安時代、陽成院と呼ばれた邸宅跡。源氏物語の主人公光源氏の邸宅である二条院のモデルとする説があります。











釜座通りを下がると東三条殿址です。
平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸宅跡です。
後醍醐天皇皇子から藤原良房、藤原兼家(東三条殿)の姉、そして藤原道長へと引き継がれた場所です。












二条殿址
和歌連歌で著名な二条良基の邸宅です。
後に織田信長の所有となり、本能寺の変では長男の信忠が自害した場所です。





このあたりは江戸時代、金座、銀座の跡でもあります。









室町通りに二条殿御池跡の石碑があります。
二条殿の邸内にあった「龍躍池」の跡。現在の龍池町、御池之町、二条殿町等の地名の由来となっています。







高松殿址、高松神明神社
醍醐天皇の息子源高明の邸宅跡です。娘の明子(高松殿)が伝領の後、後白河天皇がこの地で即位しました。保元の乱では後白河陣営の本拠地となり、源義朝や平清盛らがこの地に参集、平治の乱で全焼しましたが、鎮守社の高松神社だけは今も残っています。
















三条通り三井ガーデンホテル前に「三条烏丸御所跡」の石碑があります。
堀河、鳥羽両天皇の乳母である藤原光子の住居で、子の実能に受け継がれた後、鳥羽法皇の御所となりました。







烏丸通り旧新風館前には「三条東殿跡」の石碑がありますが、現在工事中でシートに覆われています。白河天皇をはじめ歴代天皇が里内裏としてしばしば用いました。
平治の乱勃発地でもあり、その様子が『平治物語絵巻』にも描かれています。



在原業平邸址 御池通り間之町南角
平安初期の代表的歌人で六歌仙の一人です。





三条通りには京都の歴史と文化を紹介する京都文化博物館があります。
京都文化博物館別館(1906,明治39年)
旧日本銀行京都支店、赤レンガに白い石の辰野式です。
中に入ると当時の銀行の内部がそのまま残っています。
設計は辰野金吾、長野宇平治 中京区三条高倉










中京郵便局(1902,明治35年) 私の好きな近代建築
中京郵便局旧庁舎、レンガ造りの現役の郵便局です。
設計は吉井茂則、三橋四郎 中京区三条通り東洞院東入ル





以上の散策距離は約5.7kmです。












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平安京復元模型、豊楽殿・鳥羽離宮・法勝寺の復元模型

2018-12-12 05:39:33 | 京都歴史散策


京都市平安京創生館に行ってきました。
ここは平安京を体感する展示施設で、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)内に開設されています。





平安京の姿が一目でわかる「平安京復元模型」(1/1000)、国の重要な建物を再現した「豊楽殿復元模型」(1/20)の他、「鳥羽離宮復元模型」(1/1000)、「法勝寺復元模型」(1/100)などを常設展示しています。
また発掘調査によって出土した遺物や復元品などを展示した平安京のくらしと文化のコーナー、平安装束などの体験コーナーもあり、都に暮らす人々の生活や文化を垣間見ることができます。
ボランティアによる解説もあり、平安京時代を学ぶには最適スポットです。
しかも全てすべて無料です。
平安京に興味のある方には必見です。

京都市平安京創生館





平安京の歴史と暮らし、平安京復元模型、豊楽殿復元模型、鳥羽離宮復元模型展示室

1.平安京復元模型(1/1000)

全体模型























平安京内





大内裏付近





今回新たに郊外のエリアも追加展示されました。


大覚寺





仁和寺





松尾大社





広隆寺





2.平安京の歴史と概要





















白河と鳥羽





3.住居、服装、食事、役所の配置





















平安京と東寺、西寺















豊楽殿模型















鳥羽離宮





















別エリア





法勝寺模型

















上杉洛中洛外図屏風










体験コーナー











源氏物語車争図屏風










パネルの内容は不鮮明ですが、平安京の概要を知る上では必要かと思いあえて投稿しました。
京都旅行の合間にいかがでしょうか。







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東寺と西寺跡、羅生門、西八条第跡を歩く 4.4km

2018-12-11 05:48:47 | 京都歴史散策


紅葉シーズン前の11月初旬の散策です。

平安京初期の西寺跡と東寺、羅生門、平安後期に平清盛が権勢をふるった史跡を歩いてきました。
コースは今回も京都市埋蔵文化財研究所発行の「今日歴史散策マップ」を参考にしました。





平安京ができたとき、メインストリートである朱雀大路(道幅84m)の南端には、平安京の表玄関である羅生門があり、その両脇には国家鎮護のために二大官寺である東寺と西寺がありました。現在はご存知のとおり、東寺しか残っていません。

平安京模型図
平安京が造られた当初は、朱雀大路を挟んで東寺と西寺が配置されています。
朱雀大路に隣接した空地は現在まだ解明されていません。





東寺





西寺跡





史跡 西寺跡
平安京建都に羅生門を挟んで東西に建立された二大官寺の一つで、823年東寺は空海に、西寺は守敏に下賜されました。
東寺が真言密教の道場として発展したのに対し、西寺は鎮護国家の官寺となり、その後の度重なる火災で1233年以降完全に姿を消してしまいました。

公園内に史跡 西寺跡があります。





公園中央に盛り上がった丘があります。
このあたりは、西寺の講堂跡のようです。
工事用フェンスに囲われているのは、発掘調査中の表示がありました。









当時の西寺はこのようだったそうです。
東寺と同じ五重塔もあります。






フェンスの所に「史跡 西寺跡」説明板があります。






現在まだ発掘中のようです。





丘の上に上ると石碑と礎石があります。












石碑







礎石





次に向かったのは平安京の表玄関、羅生門です。
平安京の中央を走る朱雀大路の南端に造られた幅35.7m、奥行き約10.2mの二階建ての大門。
暴風雨によって二度も倒壊し、980年を最後に再建されませんでした。
羅生門上に安置されていたとされる兜跋毘沙門天像(国宝)は、現在東寺に所蔵されています。

京都駅前に展示してある羅生門1/10模型





遺跡

















東寺(教王護国寺)
廃寺になった西寺とは対照的に度々兵火に遭いながらもその都度再建されました。
境内の徳川家光によって再建された五重塔は、現存する木造塔としてはわが国最高の55mで、京都のシンボル的存在です。
境内は史跡指定され、1994年には世界文化遺産に登録されています。











五重塔






西八丈第
東寺を少し北へ上がったところにある梅小路公園内にあります。
平安時代後期、このあたりには平清盛が造営した広大な一門の邸宅群がありました。
1181年に清盛が亡くなると、その2日後に火災が発生し、その後再建された建物も、平家都落ちの際に自ら火をかけて焼失させたといわれています。


梅小路公園芝生





説明板があります。











近くに水族館ができました。





若一神社
西大路八条にある神社で、平清盛の別邸であった西八条第内に、紀州熊野の若一王子の御神体を祀ったことがはじまりです。
その後、清盛が太政大臣に任命されたことから、開運出世の神社として信仰されています。
















歩いた距離は約4.4kmです。


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聚楽第の散策 4.3km

2018-10-25 05:26:58 | 京都歴史散策


今回の散策は聚楽第です。
かつての平安宮北東部に豊臣秀吉が天正14年(1586)に聚楽第の造営を開始、翌年に完成しました。
掘と石垣に囲まれていた城郭ですが、分禄4年(1595)に秀次失脚の後、秀吉の命により完全に破壊されつくされました。
十年に満たない聚楽第の位置や規模などは長い間不明でしたが、近年の発掘調査でつぎつぎに掘跡や石垣、軒瓦などが明らかになってきました。
それらの調査結果や町名などでかつての聚楽第の位置がほぼ特定されるようになりました。
また聚楽第周辺でも武家屋敷門跡も発見されています。


聚楽第の歴史





今回の聚楽第周辺の散策コース
京都市埋蔵文化研究所発行の京都歴史散策マップ





散策のスタートは晴明神社です。





現在の橋になる前の橋










千利休居士の聚楽第屋敷跡 晴明神社の一角に石碑があります。










聚楽第周辺には当時の武家屋敷があった場所や遺構に由来する町名が残されています。

黒田如水邸跡(如水町)










上杉景勝屋敷跡(弾正町)










児童公園あたりは平安京の一条院跡です。










町屋建築の医院





大内裏及び聚楽第東濠跡石碑





北ノ丸北堀石垣跡は私有地でした。


正親小学校前は本丸掘跡です。












こういう説明板もありました。





またこのあたりは、平安宮大蔵省跡です。











郵便局に近くで東西方向の掘跡が発見されています。
またこのあたりは鍋島加賀守直茂の屋敷跡です。町名は加賀屋町です。





道路に残る2m以上の落差は、聚楽第西外掘によるものと考えられています。





聚楽城武家地、豊臣秀勝邸跡伝承地
そして平安宮内裏蘭林坊跡地




















京町屋ゲストハウス





このあたりは平安宮内裏承香殿跡です。











平安宮内裏梨壺跡












松林寺
聚楽第南外濠跡です。















平安宮内裏東限と建春門跡





稲荷社の祠横に聚楽第南掘跡の石碑が立っています。










町内











山崎闇斎邸跡





桂昌院殿御生家菩提寺










堀川通りを渡り東堀川通りを北上します。


伊藤仁斎宅跡
江戸時代前期に活躍した儒学者の邸宅と書庫跡です。非公開。










ルビノ堀川には朝ドラで有名になった広岡浅子の生誕地






堀川





終着の一条戻橋











散策距離は4.3kmです。





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平安時代 千代の古道を歩く 4.3km

2018-10-23 05:36:08 | 京都歴史散策


紅葉めぐりがはじまる前に、京都の歴史散策をしようと思っています。

嵯峨野方面を散策していると「千代の古道」と書かれた道標石碑をいくつか目にします。
この「千代の古道」というのは、平安時代に天皇や貴族が北嵯峨野(大覚寺)に通った道を呼ぶということが分かりました。
平安時代前期の歌人在原業平(818ー893)が嵯峨天皇(在位809ー823)を偲ぶ和歌に詠まれた「千代の古道」からきているそうです。
後世にいくつかの道がそれと見なされ、道標石碑が建てられました。

先日古代の道の一つとされる石碑に沿って歩いてきました。

京都市埋蔵文化財研究所が出している「京都歴史散策マップ」の「千代の古道」の散策ルートです。
梅宮大社から大覚寺に向かう道です。





梅宮大社からスタートです。
松尾大社とともに酒造の神として信仰される奈良時代創建の古社です。
嵯峨天皇の皇后が祈願したとされる「またげ石」があり、子授、安産のご利益も有名です。





東の鳥居を出て、神社のコンクリートブロックのところに石碑があります。
















民家の建ち並ぶ道路を歩きます。





分岐路にイラストの道標があり、矢印に従い右折します。





古民家のある道です。






民家の前に石碑があります。





突き当たり、畑のなかに石碑があります。











右折し、高田橋を通ります。
愛宕山付近の景色












少し歩くとまた石碑があります。










三条通りの角にスーパーがあリ、店先にも道標があります。









三条通りを左折してすぐ、斎宮神社があります。
伊勢神宮に奉仕する斎宮のために有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡と伝わります。嵯峨野の野宮神社と斎明神社、西院の西院野々宮神社と並んで市内に残る四つの野宮跡の一つです。















三条通りをもう少し歩くと有栖川橋です。





右折し有栖川沿いに北上します。






嵐電の遮断機を超え、山陰本線の遮断機も超えます。










甲塚橋を左折






広沢橋の手前の一角に安堵の塔(ルルゲさん)があります。
甲塚古墳に隠れて難を逃れた日像上人が題目を刻んだと言われる古墳の石窟。
災難避けの功徳あるとされ親しまれています。ルルゲとは龍華(りゅうげ)が訛ったものと言われています。





丸太町通り広沢南野町の信号を真っすぐ北上します。






遍照寺
宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が山荘を改めて創建した寺院で、かつては広沢池を中心に広大な寺域を有していました。
かつては広沢池の近くにありました。





堀川高校グランドのブロック塀沿いに歩くと、左に小山と鳥居が見えます。





稲荷古墳です。
遍照寺の北門横にある古墳。約20mの円墳に冨岡大明神の朱い鳥居と頂部に稲荷が祀られています。






堀川高校グランド沿いを北上して府道29号(広沢池)にでます。





広沢池
遍照寺が建立されたときに造られたとされ、当時は遍照池と呼ばれていました。
古代から観月の名所として知られ、王朝人の遊猟の地でもあったこの池は、あまりの風景の美しさから西行や藤原定家らの和歌にも登場しました。






児(ちご)神社
998年に没した遍照寺開祖寛朝僧正の死を嘆き、後を追って広沢池に身を投げた侍児の霊を祀ったと言われる神社です。










神社の境内のなかに、草に覆われた道標があります。





北嵯峨野の田園が広がる一帯です。
稲刈りは終わりました。





農道の一角にある石碑を左折します。










北嵯峨野高校が左に見えます。





大澤橋を渡り、突き当たりを右折すると大沢池の前に出ます。





大覚寺です。
大覚寺は嵯峨天皇が建立した嵯峨院を改めた寺院です。歴代天皇や皇族が院政を行った門跡寺院であるために嵯峨御所とも呼ばれました。御所跡は史跡指定されています。
現在戊戌開封法会期間中で大混雑しています。





散策距離は4.3kmです。
三条通りの有栖川を北上しましたが、そのまま三条通りを進むこと1.3kmほどで渡月橋に着きます。


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天寧寺の額縁門、足利将軍ゆかりの相国寺

2018-10-21 05:40:31 | 京都歴史散策


応仁の乱の地を歩いたとき、天寧寺と足利将軍ゆかりの相国寺に寄りました。
天寧寺は曹洞宗の寺院で、天正年間(1573ー92)に、会津城下から移転されたと伝わり、金森宗和、剣道示限流善吉和尚らの墓があります。
山門の「額縁門」は東方の比叡山を借景としています。


天寧寺
きれいな額縁門です。















境内に入ります。





観音堂





本堂、書院、表門
芙蓉とススキが咲いています。



















庫裏





芙蓉










シュウメイギク





ホトトギス










鐘楼





稲荷神社が境内にあります。




















帰り道、足利将軍ゆかりの相国寺に寄りました。
相国寺は臨済宗相国寺派大本山です。
第三代足利善満が開基(1392)、開山は夢窓疎石です。京都五山の第二位に列し、足利将軍や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺です。
金閣寺、銀閣寺など山内外に多くの塔頭をもち、法堂(重要文化財)の龍図は鳴龍として知られています。
境内には承天閣美術館があり、伊藤若冲の絵画などを展示しています。










法堂










庫裏





承天閣美術館










後水尾院天皇御歯髪塚








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応仁の乱を歩く

2018-10-20 05:29:20 | 京都歴史散策


少し京都の歴史散策をしようと思い、応仁の乱の地を歩きます。
応仁の乱(1467ー77)は御霊神社付近の森での合戦が発端となります。
室町幕府将軍足利義正の世継ぎ問題や、管領畠山・斯波両家の家督紛争などが背景にありました。
幕府の権威失墜もあり、守護大名細川と山名の勢力が対立し、京の町は約11年に及ぶ内乱の地になりました。

コースは京都市考古学協会発行の「京の歴史散策マップ」です。





歴史のおさらい










スタートは京都市考古資料館です。





資料館前に「西陣」の石碑があります。





山名宗全邸宅跡
守護大名山名持豊(宗全)が日野富子やその子(義尚)を擁立して、西に陣を張ったことから、このあたりを「西陣」と呼ぶようになりました。この石標は山名邸跡を示すものです。なお、山名町はその邸宅に因みます。















もう一カ所石碑が近くにあります。





次に向かったのは「百々橋の礎石」です。
百々橋を隔てて東軍と西軍が幾度も合戦を行いました。
昭和38年まであった石橋は洛西ニュータウンの竹林公園内に移され復元されました。
四石の礎石のうち一石は室町小学校の校庭に、一石は小川通り沿い百々橋跡地に残されています。












茶道、表千家、裏千家が百々橋跡の近くにあります。
















本法寺










百々橋跡を下ると本阿弥光悦京屋敷跡の石碑があります。











今出川室町の角に「足利将軍室町幕府跡碑」があります。
烏丸通りをはさんで同志社大学の西向かいになります。
1378年に室町幕府第三代将軍足利吉満が造営した広大な邸宅です。四季折々の花木が植えられた庭園の美しさから「花の御所」とも呼ばれました。室町通りにあったことから「室町殿」「室町御所」とも呼ばれ第八代将軍義政までは将軍邸として、また応仁の乱では東軍の拠点となりました。






大聖寺門跡(御寺御所)
大聖寺は御寺御所とも呼ばれる臨済宗相国寺の門跡尼院です。
境内は室町時代の花の御所跡の一画と言われ、「花乃御所」の石碑があります。
1697年に明正天皇御所の材料を移して作られた庭園(非公開)は京都市指定名勝です。










境内の御車寄せ
京都御所の御車寄せに似て立派です。















室町殿石敷き遺構
同志社大学寒梅館建設に伴う発掘調査(2002)で発見された室町時代後期の石敷き遺構が、調査された同じ場所(校地の北東角)に保存されています。

























応仁の乱勃発の地
御霊神社の前に「応仁の乱勃発地碑」が立っています。
早良親王ほか七柱を祀る神社です。平安遷都以前からこの地一帯に勢力を持った出雲氏の氏寺です。
御霊の森の広がるこの地で、管領畠山氏の内紛が応仁の乱の発端となりました






















御霊神社近くに尾形光琳邸宅のがあります。
江戸時代中期の画家、琳派と称される装飾的画派で有名です。





コース順に歩くと約6.7kmですが、下鴨神社はカットして約5.4kmです。


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散策ー双ケ丘、蛇塚古墳

2015-01-20 05:27:32 | 京都歴史散策

昨日の散策は双ヶ丘登りです。
双ケ丘は東に妙心寺、法金剛院、少し北に歩けば仁和寺があります。
徒然草を書いた吉田兼好が晩年庵を結んだ地としても知られています。

単なる丘ではなく、24基の古墳がある 双ケ丘古墳群がある丘なのです。
この古墳群は、古代の豪族、秦氏の首長の墓と考えられています。

丘は、北から一の丘(119m)、二の丘 (102m)、三の丘(78m)で構成され、
国の名勝に指定されています。
それほど高くはないので、ハイキングにもってこいです。
地域の方々は勿論、保育園児も日常的に登っています。

古い地図ですが、双ケ丘の全体像です。(京都市画像より)





私が登るのは今回で二度目です。
前回も妻と登りましたが、その時は直接一の丘を目指しました。
今回は、三の丘→二の丘→一の丘のルートです。
ひとりで登るより、会話をしながらの方がやはり楽しいです。

法金剛院を少し歩くと登り口があります。





お花のきれいなところです。説明板もつけておきます。





落葉の絨毯を踏みしめて登ります。





一の丘頂上付近





頂上付近(78m)からの眺望





二の丘を通り一の丘です。





一の丘頂上(119m)からの市内眺望です。





北には仁和寺が見えます。





少しアップします。





頂上に基本(国土地理院)が埋められています。





付近に大きな古墳跡があります。
古墳の入口は塞がれています。





保育園の園児たちも先生に引率されて登ってきました。
年齢を聞くと2歳児とのこと、驚きです。





一の丘の登り口にある説明板です。










休憩所になっています。
また丘裾は桜の木が植えてあり、春は散策に良さそうです。





お地蔵様もあります。





次に向かったのは、右京区太秦にある蛇塚古墳です。
京都府下最大の横穴式石室を持つ、前方後円墳です。
古墳時代末期のもので、秦氏一族の首長の墓と言われています。
これも国の史跡に指定されています。

住宅地の中に、鉄柵に囲まれています。





以前、石室の中に入ったことがありますが、今は何もありません。





角度を変えて撮影してみました。
















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平安京遺跡 羅生門、東寺、西寺を訪ねて

2015-01-16 05:39:05 | 京都歴史散策


昨日は朝から強い雨が降り続き、日課の散策にでられませんでした。
それで今日は、一昨日の散策の続きを投稿します。

私はかなり前から平安京に興味を持っていました。
一昨日早朝に嵐山にでかけ、家で休憩後に向かったのは安京遺跡です。
平安京の入口だった羅生門と当時の官寺だった東寺と西寺跡地です。

都が京都に移ったのが794年、以来1,200年以上という膨大な時が流れ、
今は当時の遺跡をほとんど街中で見かけることはありません。
特に応仁の乱で京都の街が荒廃しきったことや、火災、権力者による京都改造などで、
失われたものも多いと思います。

平安遷都1,200年事業で精密な平安京の模型が作成されました。
その模型は現在、京都アスニーの1階の「京都市平安京創生館」に展示されています。





平安京模型以外に、鳥羽離宮復元模型、豊楽殿復元模型、法勝寺復元模型、
源氏物語屏風平安京のくらしと文化なども展示されています。
平安京好きにはたまらない場所です。
ちなみに入館は無料です。
素晴らしい模型図を撮影して紹介したいのですが、あいにく撮影禁止です。
仕方がないので、印刷物の写真を利用させてもらいました。

模型図です。
一番下に都への入口、羅生門があります。
羅生門を通ると、都のメインストリート朱雀大路が大内裏まで伸びています。
朱雀大路の広さはなんと84mもあります。





羅生門跡地
朱雀大路は現在の狭くなった千本通りです。
千本通り九条近くに標識が出ています。






児童公園のなかに石碑が立っています。





説明板です。





羅生門の再現模型です。
奈良平城京の朱雀門を思い浮かべてもらえればいいと思います。





模型図で羅生門をくぐりぬけると、朱雀大路の両側に巨大な伽藍があります。
それが東寺と西寺です。
東寺だけは今も当時の様子を残しています。
東寺と西寺は官寺でしたが、東寺は弘法大師弟空海に与えられ、
真言宗の総本山になり、現在も当時の同じ場所に残っています。










朱雀大路挟み東寺と西寺が作られました。
作りは東寺の完全な左右対称です。
東寺は弘法大師に対する庶民信仰の高まりで生き残りましたが、
西寺は律令体制が衰退するなかで衰亡します。
今西寺は跡地だけ残されています。





石碑が立っています。
















再現図










大内裏跡も今は往時の遺構はほとんどありません。
そこには遺跡跡の標識が立っているだけですが、
1,200年前の様子に想いを馳せるのは楽しいものです。



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