京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

近代美術館コレクション展 『模様の美』 

2021-02-21 17:31:46 | 美術・博物館


 『模様の美』

 京都国立近代美術館 コレクション・ギャラリー 
 
寺本美茂 1916 - 1992 切嵌象嵌 「華象」 1979 銅・彫金




帖佐美行 1915 - 2002 花心の譜(迎雅香燈) 1977 銅・彫金









北村昭斎 1938 - 華文玳琩螺鈿飾箱 1997 漆、螺鈿





黒田辰秋 1904 - 1982 朱螺鈿大名縞手筥 1970年代 木、漆、螺鈿





川上澄生 1895 - 1972 ろまんちっく手摺千代紙 1935 木版、紙













鈴田照次 1916 - 1981 木版摺更紗着物「芹花文」 1977 絹紬、木版





羽田登喜男 1911 - 2008 上代紬地友禅染着物「白夜」 1976 紬・友禅染






森口華弘 1909 - 2008 友禅訪問着「秋草文」





芹沢銈介 1895 - 1984 型染竹牡丹文着物 1968





藤平 伸 1922 - 2012 鳥たちの壺 1978





河本五郎 1919 - 1986 白い陶筥 1966 陶器





栗木達介 1943 - 2013 銀緑彩文陶 壺態II 1988





加守田章二 1933 - 1983 彩陶角扁壺 1972 陶器





富本憲吉 1886 - 1963 色絵更紗模様瓢形飾壺 1944 磁器





北大路魯山人 1883 - 1959 織部俎板盤 1949 陶器





フェリーツェ・"リチ"・上野=リックス 1893 - 1967 マッチ箱カバー「紳士」 1950頃 七宝
フェリーツェ・"リチ"・上野=リックス 1893 - 1967 マッチ箱カバー「淑女Ⅰ」 1950頃 七宝





並河靖之 1845 - 1927 蝶に花丸唐草文飾り壺 明治時代 有線七宝





河合卯之助 1889 - 1969 アクセサリー 制作年不詳 陶器








































樂直入(十五代吉左衛門)『シリーズ盌 大地に眠る精霊たち』

2021-02-21 07:18:14 | 美術・博物館


樂直入(十五代吉左衛門)『シリーズ盌 大地に眠る精霊たち』

 2020年度 第2回コレクション展 2020.07.2.2. - 10.04

 樂家十五代 直入(じきにゅう)(昭和24年(1949年)ー)
 十四代長男、京都市生まれ。
 京都府立朱雀高等学校、東京芸術大学彫刻科卒。
 イタリアローマ・アカデミア留学。
 十四代の没後、昭和56年(1981年)11月襲名。
 日本国内外で数々の賞を受賞し、陶工としてだけではなく「陶芸作家」としての評価も高い。
 1997年に織部賞を受賞。平成19年(2007年)、佐川美術館(守山市)に新設された樂吉左衛門館、茶室を設計。
 令和元年(2019年)、隠居し直入を名乗る。
 黒樂、赤樂を中心としたその作風は代々受け継がれる一方で、時代の中で常に更新されてきた。
 特に直入は樂家を歴史化する視点を持つ。
 茶碗に内在する精神性、思想性、美意識などを現代の造形として創造行為を行ってきた。

樂直入(十五代吉左衞門)の『シリーズ盌 大地に眠る精霊たち』

 シリーズ盌は、2009年に大阪の国立民族学博物館で開催された、特別展「「茶の湯のものづくりと世界のわざ」~千家十職×みんぱく~」で同館所蔵のアフリカの民具や仮面等に刺激を受けて制作された作品群。
 当初この作品群は、「アフリカンドリーム」と名付けられていたが、その後、制作の内容をより明確に反映させ、「シリーズ盌 大地に眠る精霊たち」と変更された。


大地に眠る精霊たち 大地夕





大地に眠る精霊たち 大地の朝





大地に眠る精霊たち 大地の夜明








大地に眠る精霊たち 精霊の夜





大地に眠る精霊たち 大地の雨





大地に眠る精霊たち 司祭の冠





大地に眠る精霊たち 精霊の炎





大地に眠る精霊たち 精霊の眠り





大地に眠る精霊たち 草原の雨上がり





大地に眠る精霊たち 森のいとなみ 昆虫たちの刻





大地に眠る精霊たち 大地の風





大地に眠る精霊たち 真夜の星祭




大地に眠る精霊たち 牧神の午後




大地に眠る精霊たち 火炎の雨




大地に眠る精霊たち 精霊のデイスクール







大地に眠る精霊たち 精霊たちの乱舞





大地に眠る精霊たち 水藻の憩





大地に眠る精霊たち 大地の舞





大地に眠る精霊たち    精霊祭の宵





大地に眠る精霊たち  真夜中の降臨









大地に眠る精霊たち  真夜中の金環





大地に眠る精霊たち  大地の環





 滋賀県守山市の佐川美術館に15代吉左衞門館があり、何度か訪れたことがあります。
その時も思ったのですが、いままでの楽家歴代の作品と比較すると、15代作品は大きいのです。
初代、三代の手に馴染むような茶碗とは異質に感じました。
実用性より芸術性に重きを置いた作風のようです。





近代美術館コレクション展 『須田国太郎の周辺』 

2021-02-19 18:28:48 | 美術・博物館


『須田国太郎の周辺』 

 京都国立近代美術館 コレクション・ギャラリー 
 令和2年度 第3回コレクション展 10月8日(木)~ 12月20日(日)

『須田国太郎の周辺』

 『画家であると同時に、生前は美術史家としても知られていた須田国太郎。彼は美学や美術史については、京都帝国大学教授の深田康算という当時の日本では最高の美学者だった師に学びましたが、絵については、関西美術院で都鳥英喜や沢部清五郎にデッサンを学んだのを除けば、ほとんど独学でした。
 しかしヨーロッパ留学中には、同時期に滞欧していた児島虎次郎や中沢弘光、黒田重太郎、川端弥之助、里見勝蔵、川口軌外等と親しく交わり、学ぶところがあったようです。
 帰国後しばらくは生活のため学者として活動していた須田を、画家の道へ誘ったのは、京都在住の画家仲間である田中善之助、太田喜二郎、向井潤吉、神阪松濤等でした。特に神阪松濤の紹介を受け、向井潤吉の協力を得て1932(昭和7)年、東京の銀座にある資生堂ギャラリーで最初の個展を開催したことは、画家としての須田の活動を一気に本格化させました。
 この個展を見た里見勝蔵、川口軌外の紹介で、須田は独立美術協会の会員に迎えられたのです。
 以後の彼は、同会会員の小林和作や曽宮一念と一緒に展覧会を開催したり、同会の研究所に学んでいた北脇昇や小牧源太郎、今井憲一、安田謙等の若者たちに絵画の理論と技術を教えたり等、画風を異にする多彩な仲間たちとの交友の中で画業を展開することとなりました。
 ここでは、須田の画業をさまざまな形で支えた画家仲間たちの作品を、当館コレクションによりご覧いただきます。』

都鳥英喜 1873 - 1943 セイヌ河 1919








黒田重太郎 1887 - 1970 スカール・オブセルヴァトアル 1917





川端弥之助 1893 - 1981 雪の朝 1922





里見勝蔵 1895 - 1981 静物 1924頃





川口軌外 1892 - 1966 スヴニール 1932





神阪松涛 1882 - 1954 裸体写生(男) 明治末





小林和作 1888 - 1974 春の山 1967





北脇 昇 1901 - 1951 秋の驚異 1945頃





小牧源太郎 1906 - 1989 作品 1939





今井憲一 1907 - 1988 ターミナル 1954





安田 謙 1911 - 1997 人と馬(鉄を打つ) 1956






美術館四階より








西洋近代美術作品選
ヨハネス・イッテン 1888 - 1967 ヨハネス・イッテン版画集 1919




ヨハネス・イッテン 1888 - 1967 幸福な島の町 1965






なぜ芸術家はフランスを目指すのか?

パブロ・ピカソ 1881 - 1973 静物-パレット、燭台、ミノタウロスの頭部 1938





マン・レイ 1890 - 1976 糊の時代 1935 [1970再制作]





ピエト・モンドリアン 1872 - 1944 コンポジション No.1 1929





田淵安一 1921 - 2009 三相万華Ⅳ 1972





堂本尚郎 1928 - 2013 連続の溶解 1962





樂 直入(十五代吉左衞門) 1949 - 茶碗 France Loubignacに於いて造る(フランスRAKU茶碗) 2010 陶器








菅井 汲 1919 - 1996 時速280キロ 1965





笠原恵実子 1963 - Untitled Slit #1 1995 大理石






『須田国太郎特集』 第3回コレクション展 

2021-02-17 17:10:19 | 美術・博物館


  『須田国太郎特集』 

  京都国立近代美術館 コレクション・ギャラリー 
 令和2年度 第3回コレクション展 

キュレトリアル・スタディズ14:須田国太郎 写実と真理の思索

須田国太郎 1891 - 1961 モラーレス作《聖母子》模写 1922





須田国太郎 1891 - 1961 エル・グレコ作《十字架》(部分)模写 1921





須田国太郎 1891 - 1961 ティントレット作《ヘラクレス悪魔をオンフェルスの床より追う》模写 1921





須田国太郎 1891 - 1961 ティントレット作《耶蘇洗礼図》模写 1919





須田国太郎 1891 - 1961 ミゲール寺院にて 1922





須田国太郎 1891 - 1961 アーヴィラ 1920





須田国太郎 1891 - 1961 校舎 1914





須田国太郎 1891 - 1961 自画像 1929





須田国太郎 1891 - 1961 自画像 1938頃





須田国太郎 1891 - 1961 グレコ・イベリヤの首 1931





須田国太郎 1891 - 1961 人体習作(裸女立像習作) 1925





須田国太郎 1891 - 1961 少女 1934





須田国太郎 1891 - 1961 夏の夕 1933 前期





須田国太郎 1891 - 1961 連山 1933 前期





須田国太郎 1891 - 1961 唐招提寺礼堂 1933





須田国太郎 1891 - 1961 校倉(乙) 1943




須田国太郎 1891 - 1961 校倉(甲) 1943





須田国太郎 1891 - 1961 河内金剛山 1944





須田国太郎 1891 - 1961 卓上 1950





須田国太郎 1891 - 1961 静物 1952 前期





須田国太郎 1891 - 1961 ある建築家の肖像 1956 前期





須田国太郎 1891 - 1961 バラとアザミ 1951
須田国太郎 1891 - 1961 夏の花 1954
須田国太郎 1891 - 1961 海亀 1940





須田国太郎 1891 - 1961 鵜 1952





須田国太郎 1891 - 1961 動物園 1953





須田国太郎 1891 - 1961 鶴 1941





須田国太郎 1891 - 1961 イヌワシ 1953













沢部清五郎、太田喜二郎、石井柏亭、小出楢重、小出楢重、有馬さとえ、松村綾子、大久保作次郎、伊谷賢蔵、水木伸一、十亀広太郎、牧野克次

2021-02-06 17:49:39 | 美術・博物館


 京都近代美術館コレクション展示の続きです。

沢部清五郎、太田喜二郎、石井柏亭、小出楢重、小出楢重、有馬さとえ、
松村綾子、大久保作次郎、伊谷賢蔵、水木伸一、十亀広太郎、牧野克次

沢部清五郎 1884‒1964 『少女像』 1912Y
 大正・昭和期の画家,装飾織物デザイナー 元・川島織物取締役。
 出生地京都市上京区西陣
 学歴〔年〕聖護院洋画研究所(現・関西美術院)
 経歴13歳で日本画を学ぶ一方、装飾織物の川島甚兵衛に画才を認められ織物関係の仕事にも携わる。
 20歳の時聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入り、梅原龍三郎らと洋画の研さんを積む傍ら、宇治の平等院や金閣寺の壁画の模写に取り組み古典美にも開眼。
 明治43年から3年間米国やパリに滞在し西欧の装飾芸術にも理解を深め、大正2年帰国後は皇居を飾る壁掛けの大作や国会議事堂の室内装飾を手がけるなど、主に装飾織物デザイナーとして活躍。川島織物取締役を務めた。





太田喜二郎 1883‒1951 『薪』 1915
 明治16年 京都市に生る。日展参事。
 京都の山水や田園風物を多く描いた。





石井柏亭 1882‒1958 『画室』  1930
 洋画家。東京生。初め父に日本画を、のち浅井忠・中村不折について洋画を学ぶ。
 日本水彩画会・二科会・一水会等を主宰。二科会・一水会創立会員。
 帝国芸術院会員。日本芸術院会員。昭和33年(1958)歿、76才。





小出楢重 1887‒1931 『横たわる裸女(B)』 1928
 洋画家。大阪に生まれる。1914年東京美術学校西洋画科卒業。
 はじめ日本美術院洋画部に出品したが,19年第6回二科展で《Nの家族》が樗牛賞,翌年《少女お梅の像》が二科賞を受ける。
 21‐22年滞仏。23年二科会会員となり,翌年鍋井克之,黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を創立。
 27年には全関西洋画展を興し,関西洋画壇の指導者として活躍,初期の写実的な作風から,要約した形体と流麗な色調によって独自の様式化した画風を作り,大正から昭和初期にかけての日本洋画の水準を示したが,特に裸婦像に秀作が多い。





有馬さとえ(三斗枝) 1893‒1978 『「むすめ」の像』 1939
 明治26年5月20日生まれ。岡田三郎助に師事し,本郷洋画研究所にかよう。
 大正3年文展に初入選,15年帝展で女性洋画家としてはじめて特選となる。
 光風会会員,日展審査員。昭和53年2月25日死去。84歳。
 鹿児島県出身。鹿児島第一高女中退。本名はサト。





松村綾子 1906‒1983 『影』 1937





大久保作次郎 1890‒1973 『木陰の憩い』 1952
 大正-昭和時代の洋画家。
 明治23年11月24日生まれ。大正5-7年「庭の木陰」などで文展3年連続特選。
 12年フランスに留学。昭和14年創元会の結成に参加。旺玄会の会員をへて,30年新 世紀美術協会の結成に参加。35年芸術院賞。38年芸術院会員。昭和48年2月28日死 去。82歳。
 大阪出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。





伊谷賢蔵 1902‒1970 饗宴の卓 1955
 大正-昭和時代の洋画家。
 明治35年2月23日生まれ。関西美術院にまなぶ。昭和16年二科会会員となる。
 20年行動美術協会の創立に参加し,以後中心画家として活動。
 京都学芸大,京都精華短大教授。昭和45年3月27日死去。68歳。鳥取県出身。
 京都高等工芸(現京都工芸繊維大)卒。作品に「ピサックの日曜日」「阿蘇」など。





伊谷賢蔵 1902‒1970 『裸婦とアネモネ』 1958





水木伸一 1892‒1988 『姉弟』 c. 1920
 洋画家。明治25年(1892)愛媛県生。
 太平洋画会研究所で中村不折に師事。院展に出品、二科会入選。





水木伸一 1892‒1988 『サーカスの女』 1914





水木伸一 1892‒1988 『葉子三歳の像』 c. 1920





水木伸一 1892‒1988 茶摘み 1935




 
十亀広太郎 1889‒1951 『自画像』 1912





牧野克次 1864‒1942 『茶屋』 c. 1904
 経歴小学校の教員を務める傍ら、守住貫魚に日本画を、守住勇魚に洋画を学ぶ。
 次いで明治21年に上京し、小山正太郎の不同舎に入って画技を研鑽した。
 のち静岡師範学校や大阪高等工芸学校で教鞭を執り、35年には京都高等工芸学校助教授に就任。
 この間にも、関西画壇の一員として画作を続け、明治34年には松原三五郎や山内愚仙らと関西美術会を創立。
 同会の第1回批評会では「山村秋興」で一等賞を受けた。
 36年の第5回内国勧業博覧会では、審査官を務めるとともに「落ち葉」を出品。
 39年洋画家の霜鳥之彦とともに渡米し、大正2年に帰国した。浅井忠の画風を私淑し、特に水彩画ですぐれた作品を残した。








富岡鉄斎、冨田溪仙、人見少華、福田平八郎、橋本関雪、近藤浩一路、小川芋銭、平福百穂、水越松南、榊原苔山

2021-02-05 17:11:37 | 美術・博物館


 京都近代美術館2020年度 第1回コレクション展です。

 富岡鉄斎、冨田溪仙、人見少華、福田平八郎、橋本関雪、近藤浩一路、小川芋銭、平福百穂、水越松南、榊原苔山
 

富岡鉄斎 1836‒1924 『東山図扇面』 1919

 南画家。京都生。
 幼少より国学・漢学・詩学等を学び、また歌人大田垣蓮月の学僕となって多大な人格的影響を受ける。
 幕末期には勤王志士らと盛んに交流し、国事に奔走した。
 維新後は大和石上神社・和泉大鳥神宮等の宮司となるが、のち辞し隠棲。
 田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足、学者としての姿勢を貫きながら自由な作画活動を展開し、その学識と画技により文人画壇の重鎮となった。
 帝室技芸員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、89才。





冨田溪仙 1879‒1936 『空也瀧』 1921

 明治から昭和初期に活躍した日本画家(1879年 - 1936年)
 狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。










人見少華 1887‒1968 『南瓜図』 不詳

 日本画家。京都生。
 田中一華に入門し、また上田聴秋の書僕となる。京美工・京絵専卒
 第三回文展で初入選、褒状受賞。
 日本南画院同人として同会に出品を続け、大東南宗院・平安書道会等にも参加。
 花鳥画を得意とし、また早くより池大雅研究を続けた。昭和43年(1968)歿、81才。





福田平八郎 1892‒1974 『山村冬』 c. 1917

 大分県出身の日本画家(1892年 - 1974年)。
 鋭い観察眼を基にした、対象がもつ雰囲気、美しさを抽出した表現が特徴とされる。
 生涯「水」の動き、感覚を追究していたとされ、「漣」は池面に映る水面の模様を描写した作品。
 1961年(昭和36年) - 文化勲章受章、文化功労者。









橋本関雪 1883‒1945 『番船図』 1923

 日本画家。兵庫県生。明石藩儒橋本海関の長子。 竹内栖鳳に師事。
 四条派に南画を加味した新南画を大成する。詩書歌にも秀でる。
 朝日賞受賞。帝展審査員・帝室技芸員・帝国美術院会員。
 フランス政府よりシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される。
 昭和20年(1945)歿、61才。





近藤浩一路 1884‒1962 『三条大橋』 1925

 日本画家。山梨県生。名は浩。別号に柿腸。東美校卒。
 和田英作に師事する。読売新聞社で漫画の筆をとり、のち水墨画に転じる。
 日本美術院同人となり、脱退後日展会員となる。昭和37年(1962)歿、78才。





小川芋銭 1868‒1938 『怒濤』 1929

 日本画家。東京生。
 洋画を本多錦吉郎に学び、新聞・雑誌に挿絵・漫画を描くが、平福百穂・川端龍子らの珊瑚会に招かれたのを転機に日本画を製作。
 のち認められて日本美術院同人となる。
 作品は水墨淡彩で俳味のある独自の画風を持つ。昭和13年(1938)歿、71才。





平福百穂 1877‒1933 『清江捕魚』 1931

 日本画家。秋田県生。幼少より父穂庵に画技を学び、のち川端玉章に師事する。
 東美校卒。
 結城素明ら同志と无声会・金鈴社を創立、のちには帝展審査員を務めた。
「アララギ」派の歌人としても知られる。昭和8年(1933)歿、57才。





水越松南 1888‒1985 『村の老天使』 1927

 大正-昭和時代の日本画家。
 明治21年8月13日生まれ。
 山元春挙,竹内栖鳳(せいほう)らにまなび,富岡鉄斎に私淑。
 フランス後期印象派の影響をうける。
 日本南画院展に大正10年「一瓶秋色」を出品,12年同人。
 昭和60年3月4日死去。96歳。兵庫県出身。
 京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。本名は達也。
 作品は他に「化粧」など。





榊原苔山 1890‒1963 『残雪』 1934

  日本画家。京都生。榊原紫峰の弟。
 竹内栖鳳に師事し、竹杖会に入る。昭和38年(1963)歿、73才。






美術館4階から









美術館1階









疏水
















無位無冠の陶工 河井寬次郎作品選 

2021-01-30 17:16:06 | 美術・博物館


  京都国立近代美術館コレクション展です。

 近代日本を代表する陶芸家の一人、河井寬次郎は明治23年(1890)に現在の島根県安来市に生まれました。
 東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技手として勤務し、膨大な数の青磁や辰砂などの釉薬の研究に没頭します。
 大正6年(1917)に試験場を辞した後、大正9年(1920)に自身の登り窯(鐘溪窯)を手に入れます。
 大正10年(1921)には、最初の個展を開催し、中国や朝鮮陶磁を手本とした作風で高い評価を得ます。
 その後創作の方向を大きく変え、民藝運動を推進する中で、「暮らし」と創作の密接な関係において作陶を展開していきます。
 作品の造形性は、晩年に向かうほど意欲的となり、「生命」の喜びに溢れたものとなりました。

 1955年文化勲章を辞退。人間国宝、芸術院会員などへの推挙も辞退。
無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没しました。

 河井寬次郎作品

釉裏紅葡萄文盂 c. 1921 陶器、釉薬、轆轤成形





鉄薬盂 c. 1921 陶器、釉薬、轆轤成形





青華花下翔鳳文壺 1922 陶器、釉薬、轆轤成形





黒釉劃花花文茶盌 c. 1923





紅彩瓜形壺 c. 1931 陶器、釉薬、轆轤成形陶器、釉薬、轆轤成形、掻き落し





色絵草花文壺 c. 1932 陶器、釉薬、轆轤成形、上絵付





黒釉扁壺 1934 陶器、釉薬、型成形





象嵌双手文鉢 1935 陶器、釉薬、轆轤成形、象嵌





櫛目碗 1938 陶器、釉薬、轆轤成形、櫛目





白地草絵扁壺 c. 1937 陶器、釉薬、型成形





辰砂丸紋四方壺  c. 1938 陶器、釉薬、型成形





練上鉢 c. 1938 陶器、釉薬、型成形





辰砂菱花文食籠 1941 陶器、釉薬、轆轤成形





河井寬次郎 1890 ‐ 1966 黄釉花文扁壺 1952 陶器、釉薬、型成形





辰砂鉄薬扁壺 c. 1940 陶器、釉薬、型成形





呉州鉄薬食籠 c. 1940 陶器、釉薬、型成形









他陶芸家作品

六角紫水 1867 - 1950 蝶菊花文香合 制作年不詳 漆、蒔絵





迎田秋悦 1881 - 1933 稲穂蒔絵六角香合 1928 木、漆





板谷波山 1872 - 1963 彩磁香炉三生果 1953 磁器





五代清水六兵衞 1875 - 1959 大礼磁花鳥文香炉 1917 磁器





富本憲吉 1886 - 1963 色絵羊歯金銀彩香炉 1960 磁器、色絵











生誕130年記念 山口八九子展 

2021-01-25 17:22:47 | 美術・博物館


 『生誕130年記念 山口八九子展』

 京都近代美術館2020年度 第1回コレクション展

 山口八九子
 明治23(1890)年京都市に生まれの大正-昭和時代前期の日本画家。
 京都市立美術工芸学校(美工)絵画科を卒業し、京都市立絵画専門学校本科に進学、45年卒業。
 両校で学んだ円山・四条派風の作画を続ける一方で、美学教師であった子規派の俳人・中川四明(重麗)の影響で句作を始めて俳誌『懸葵』に句と共に挿絵を投稿、大正9(1920)年には『ホトトギス』の表紙絵を担当するなど俳画家として知られるようになる。
 恋人を追って長崎に行き、初めて目にする自然風景に感銘を受け、自然の真実相を把握したいと願い、各地を旅し描くようになる。
 第3回帝展に《浜木綿》が、同年設立されたばかりの日本南画院展に《雲仙湯煙》が初入選。
 昭和8(1933)年結核のため、42歳の若さで亡くなる。

 
『浜木綿』 1921





『暮秋繁農図』 c. 1912





『雲雀を揚ぐる夕』 1924





『浦』 c. 1915





『山村逐牛図』 c. 1916-17









『急雨』 1917









『天草ノ畑』 c. 1917-18





『温泉岳より』 c. 1918




『魚見』 1919-20









『山村閑日』 1921-22





『牡丹』 1922









『牡丹図』 c. 1922





『冬池独釣図』 c. 1922









『閑庭』 c. 1923-24





『山中首夏』 c. 1927





『川漁』 c. 1927-28





『山 (夏意七趣の内)』 1930





『聴秋』 c. 1930









『月夜』 1931





『山の湯』 1931









『冬山入佁』 1929











横山大観と菱田春草(5) 木村武山、今村紫紅、下村観山、小林 古、速水御舟、小杉放庵、西郷孤月

2021-01-24 17:00:39 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』の最後(5)です。

横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。


菱田春草
明治7年(1874)~ 明治44年(1911)
長野県に生まれる。東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。
明治31年、日本美術院の創立に参加。大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、44年、惜しまれつつ早世した。


木村武山『雪中白鷺』 1912年頃
竹内栖鳳が嫉妬した色彩感覚

1876-1942 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治9年7月3日生まれ。川端玉章に師事。東京美術学校(現東京芸大)卒業後,岡倉天心の新美術運動に参加,明治31年の日本美術院の結成,大正3年の再興につくす。明治40年第1回文展で「阿房劫火(あぼうごうか)」が3等賞。晩年は仏画をおおくかいた。昭和17年11月29日死去。67歳。茨城県出身。













今村紫紅『羽衣』 1900年頃
有名な伝説を新しい表現で描く

[1880~1916]日本画家。神奈川の生まれ。
1901年安田靫彦らと紅児会を組織して新しい歴史画の開拓に努め,07年には安田靫彦の仲介で五浦の日本美術院研究所に参加。岡倉天心の指導を受け,横山大観,菱田春草,下村観山らの制作ぶりを見て啓発される。紅児会に出品した《政宗》,巽画会の《説法》あたりからおおらかな独特の画風を示したが,第6回文展に南画の技法に印象派の色彩表現をとりいれた新解釈の《近江八景》を発表し,世の注目をひいた。









下村観山『降魔図』 1919年
美しい童子

明治6年(1873)〜昭和5年(1930)
幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦師事して狩野派の描法を身につける。
明治22年(1889)に東京美術学校に第1期生として入学、同期の横山大観や1年後輩の菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受ける。
天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画。
日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くす。










横山大観他『雲錦帖』 1931年
東西のオールスターが集結










































横山大観『〇〇居』三字横 1931年頃
後輩が切願した大観の書






横山大観『霊峰春色』 1948年頃
意図的に描かれた火口跡










小林 古径『秋彩』 1950年頃
冴え渡る古径の造形力

[1883~1957]日本画家。新潟の生まれ。
日本美術院の中心作家。大和絵の伝統を現代に生かして新古典主義といわれる画風を確立した。
文化勲章受章。









速水御舟『春雪』 1923年
温かさを感じる雪の朝

明治27年(1894)~ 昭和10年(1935)
東京に生まれる。松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門し、日本や東洋古典の粉本模写を通じて技量を磨く。その後、今村紫紅に認められ紅児会に参加。紫紅を生涯の師と仰いだ。大正3年には紫紅や小茂田青樹らと赤曜会を結成。同会解散後は院展に作品を発表。絶えず新しい表現を追求し続け、画壇に大きな足跡を遺した。









速水御舟『海蟹図』 1928年
速水御舟が描く蟹のすがた









小杉放庵『山童嬉遊図』 1929年
楽しげな日本画風油絵

1881-1964、栃木県日光町(現・日光市)生まれ。
フランスに留学中に池大雅の《十便図》を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒し、翌年の帰国後は墨絵も描くようになる。
横山大観に誘われ、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。










横山大観『曙色』 1940
「四海波静」を願う






西郷孤月『蘇李訣別』 1898年
画題に込められた想い

1873-1912 明治時代の日本画家。
明治6年9月23日生まれ。29年母校東京美術学校(現東京芸大)の助教授となる。31年師の橋本雅邦とともに辞職し,日本美術院の創立に参加。雅邦の娘と結婚,将来を期待されたが,のち離婚し,放浪生活をおくった。大正元年8月31日死去。40歳。










横山大観『月明』 1897ー1901年
朦朧体の見本













横山大観と菱田春草(4) 下村観山、小川芋銭、小茂田青樹、富田渓仙、河合玉堂、竹内栖鳳

2021-01-23 16:56:02 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』(4)です。

 日本画の巨匠横山大観の作品と36歳の若さで亡くなった菱田春草の作品を中心に、二人とゆかりある下村観山、河合玉堂、橋本雅邦、小林古径、富田渓仙、小茂田青樹、竹内栖鳳、木村武山、今村紫紅、速水御舟、西郷孤月らの画家などの作品が展示されました。


横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。


菱田春草
明治7年(1874)~ 明治44年(1911)
長野県に生まれる。東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。
明治31年、日本美術院の創立に参加。大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、44年、惜しまれつつ早世した。


下村観山『海浜乃曙』 1898年 秘めた若い日の苦い思い

明治6年(1873)〜昭和5年(1930)
幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦師事して狩野派の描法を身につける。
明治22年(1889)に東京美術学校に第1期生として入学、同期の横山大観や1年後輩の菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受ける。
天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画。
日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くす。























小川芋銭『早夏清朝』  1926年
農民画家ならではの視点

[1868~1938]日本画家。東京の生まれ。
洋画を本多錦吉郎に学び、新聞・雑誌に挿絵・漫画を描くが、平福百穂・川端龍子らの珊瑚会に招かれたのを転機に日本画を製作。
のち認められて日本美術院同人となる。作品は水墨淡彩で俳味のある独自の画風を持つ。昭和13年(1938)歿、71才。









小茂田青樹『紫陽花』 1916年頃
病身に沁みる花の美しさ

1891-1933 大正-昭和時代前期の日本画家。
大正3年今村紫紅らと赤曜会を結成。
10年日本美術院同人。昭和4年杉立社を組織した。









富田渓仙『嵐峡晴朗図』 1930年
嵐山を愛した画家が描く景色

[1879~1936]日本画家。福岡の生まれ。
狩野派・四条派を学び、のち富岡鉄斎に私淑。
南画の雅趣を根底に自由闊達な画風を示した。作「雷神風神」など。















小茂田青樹『氷下鯉魚』 1927年頃
氷の下に差し込む初春の光













下村観山『雨の春日』 1930年
雨宿りをする神の使い









横山大観『嵐山図』 1945年
大観の心の目で見た嵐山









河合玉堂『鵜飼図』 1955年
富士山といえば大観、鵜飼といえば玉堂

明治6年(1873)~ 昭和32年(1957)
愛知県に生まれる。はじめ京都の幸野楳嶺などに学ぶが、上京して橋本雅邦に師事し、狩野派の技法を修得。四条派と狩野派の穏やかな調和を試みた作風で高い評価を得る。文展開設時には審査員に任命され、以後官展を舞台に作品を発表。日本の自然とその中で暮らす人々の素朴な生活に着目し、情趣豊かな作品を遺した。










河合玉堂・横山大観・竹内 栖鳳『雪月花』 1932年
近代日本画の三巨匠が描いた作品

竹内栖鳳
元治元年(1864)~ 昭和17年(1942)
京都に生まれる。幼少期より絵に興味を持ち、土田英林、幸野楳嶺に師事。円山四条派の伝統的写生を基本としながら、その中に西洋画の写実性を取り入れた新画法を生み出した。文展開設に際し審査員を務め、以後官展を中心に意欲作を発表。画塾竹杖会を主宰するなど後進の育成にも熱心に取り組み、多くの逸材を輩出した。




















横山大観と菱田春草(3) 橋本雅邦、下村観山、小林古径 

2021-01-22 16:36:20 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』の(3)です。

 日本画の巨匠横山大観の作品と36歳の若さで亡くなった菱田春草の作品を中心に、二人とゆかりある下村観山、河合玉堂、橋本雅邦、小林古径、富田渓仙、小茂田青樹、竹内栖鳳、木村武山、今村紫紅、速水御舟、西郷孤月らの画家などの作品が展示されました。


横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。


菱田春草
明治7年(1874)~ 明治44年(1911)
長野県に生まれる。東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。
明治31年、日本美術院の創立に参加。大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、44年、惜しまれつつ早世した。



横山大観『漁郎』 1947年 
五浦での暮らし









菱田春草『月下群鹿』 1897-1901年 
鹿の姿に友情を映す









横山大観『嵐之行へ』 1921ー1930年 
代表作「生々流転」に通じる作品









横山大観『牧童』 1910年
禅の教えを表現









菱田春草『秋林牧童之図』 1902年
牛と子供の距離で表現する春草の苦悩














横山大観・菱田春草『竹林図・波濤図』 1905年、1907年
旧来の画壇に対する抵抗の合作













橋本雅邦『寒山拾得図』 1885年
雅邦が魅せられた画題


1835―1908 日本画家。江戸生。
フェノロサ・岡倉天心と協力、東美校初代教授となる。
日本美術院を創立、菱田春草・横山大観・下村観山・西郷孤月・川合玉堂らの俊秀を育てる。のち玉堂らと二葉会を結成、画宝会を組織した。狩野芳崖と共に明治画壇の巨擘。帝室技芸員。明治41年(1908)歿、74才。











横山大観『寒山拾得』 1924年
いつでも二人は一緒









横山大観『霊峰不二』 1936年
敢えて太陽を描かず









菱田春草『月下富岳』 1905年頃
前途に立ち込める暗雲









橋本雅邦『渓間富嶽図』 19世紀後半
大観と春草の師匠、探究心は二人にに受け継がれる。








下村観山『暁山雲』 1914年頃 
観山の描く富士山

1873-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治6年4月10日生まれ。狩野芳崖(かのう-ほうがい),橋本雅邦(がほう)にまなぶ。明治27年母校東京美術学校(現東京芸大)助教授。31年辞任し,日本美術院創立に参加。36年ヨーロッパに留学。40年文展の審査員をつとめ,「木の間の秋」を出品。大正3年横山大観らと日本美術院を再興した。昭和5年5月10日死去。58歳。和歌山県出身。









横山大観『桃』 1933年
琳派の技術を踏襲









小林古径『桃実』 1935年頃
濁りのない色で新鮮さを表現

[1883~1957]日本画家。新潟の生まれ。
日本美術院の中心作家。大和絵の伝統を現代に生かして新古典主義といわれる画風を確立した。
文化勲章受章。















横山大観と菱田春草(2)

2021-01-21 17:12:58 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』の展示会(2)です。

 日本画の巨匠横山大観の作品と36歳の若さで亡くなった菱田春草の作品を中心に、二人とゆかりある下村観山、河合玉堂、橋本雅邦、小林古径、富田渓仙、小茂田青樹、竹内栖鳳、木村武山、今村紫紅、速水御舟、西郷孤月らの画家などの作品が展示されました。

横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。

横山大観『樹下苦行』 1902年頃
大観の仏教に対する造詣の深さ










横山大観『水国之夜』 1911年頃
若い時代の大観の作品
















横山大観『緑陰高士』 1909年
伝統画題に新しい技法で挑戦













横山大観『紅梅』 1917年
墨絵に光る春の気配









横山大観『ほふじろ』 1929年頃
葉の描き方で木漏れ日を表現









横山大観『霊峰四題』 1951年
大観が描きつづけた富士山






















横山大観『前赤壁』 1907年
酒好きの大観が好んだ画題


















横山大観と菱田春草(1) 福田美術館

2021-01-20 17:11:58 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』です。
 日本画の巨匠横山大観の作品と36歳の若さで亡くなった菱田春草の作品を中心に、二人とゆかりある下村観山、河合玉堂、橋本雅邦、小林古径、富田渓仙、小茂田青樹、竹内栖鳳、木村武山、今村紫紅、速水御舟、西郷孤月らの画家などの作品が展示されました。





横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。

横山大観『龍虎』 1912年 
春草の死を乗り越える作品

























横山大観『前赤壁』 1907年
酒好きの大観が特に好んだ画題

















菱田春草
明治7年(1874)~ 明治44年(1911)
長野県に生まれる。東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。
明治31年、日本美術院の創立に参加。大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、44年、惜しまれつつ早世した。

菱田春草『春庭』 明治30年代(1897ー1906) 
幸せな春の息吹













菱田春草『梅下白猫』 明治36年頃(1903) 
明け方の光を再現









菱田春草『青波舟行』 明治40年頃(1907) 
朦朧体の作品













菱田春草『海濱之夜』 1908年 
仲間に想いを馳せる










菱田春草『柿に烏』 1910年 
この作品の3年後に亡くなる。













菱田春草『楊柳観音』 1911年頃 
視力が衰え、救いを求める









菱田春草『夏の朝・冬の夕』 1904年
対照的な季節を描く













菱田春草『雁之図』 1902年
墨と彩色による奥行きと透明感

















続く


京の暮らし(12)清明、穀雨 二十四節気シリーズ最終

2021-01-18 17:12:54 | 美術・博物館


 『立夏』、『小満』からスタートした『京(みやこ)のくらし―二十四節気を愉しむ(京都国立近代美術館 2020.07.23 thu. - 09.22 tue)』も今回の『清明』、『穀雨』で終わりです。

 日本はくらしを彩る芸術の中に、巧みに自然を取り入れてきました。
京都もくらしと自然、芸術が密接な関係を築いてきた街として、人々を魅了してきました。
 美術館所蔵作品で綴る二十四節気の京都のくらしです。

清明 SEIMEI 
4月4日〜4月19日ごろ
清浄明潔を略して清明と呼ぶ。
字を見るだに清々しい。
生きとし生けるものすべてが、清らかに、明るく生命を謳歌する候。
京の街のあちこちで、桜の花が咲きほこり、都大路は桜色に染まる。


霜鳥之彦 『北野の春』 明治39
洋画家。東京生。本名は小西正三郎。浅井忠門下。京都高等工芸学校図案科卒。
牧野克次と渡米、ニューヨーク美術工芸学校に学び、アメリカ自然史博物館に勤務し写生作業に従事する。
また渡仏しシャルル=ゲランに師事した。京都高等工芸学校・京都学芸大学教授。
関西美術院理事長。昭和57年(1982)歿、98才。





[不詳] 清水寺図額 明治時代





昨年夏、現在も変わらぬ子安の塔からの景色です。





一昨年初秋




冨田渓仙 『醍醐之華』 大正15
明治から昭和初期に活躍した日本画家(1879年 - 1936年)
狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。





藤田喬平 飾筥「醍醐」 平成7頃





竹内栖鳳 『おぼろ月』 昭和3
京都出身(1864年 - 1942年)の戦前の日本画家。
近代日本画の先駆者で画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家。
帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。
動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。









西村五雲 『鮮魚』 昭和6頃
京都出身の日本画家(1877年 - 1938年)
動物画を得意とし、動物の生態を生き生きと捉えるその描写は、師の竹内栖鳳を凌ぐとも評された。





甲斐庄楠音 『春宵(花びら)』 大正10頃
京都市生まれ1894年〈明治27年〉 - 1978年〈昭和53年〉、大正時代の日本画家、昭和20年代 - 30年代の風俗考証家。
画題は人物、それも女性が多く、風景画は非常に少ない。
土田麦僊に「きたない絵」と言われ、岸田劉生には「デロリとした絵」と評された。
それまでの日本画とは異なる暗い色調でグロテスクであり、ややもすればリアルを通り越してモデルの欠点を強調する傾向は、確かに人によって好きずきの分かれる画風。大正時代末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表。






輝山 花蝶尽し鉢 明治~大正時代





七代 錦光山宗兵衛 花蝶図大鉢 明治~大正時代





富本憲吉 鉄描銅彩薊皿 昭和29





藤井達吉 七宝あざみ小皿 大正5-12





坂本繁二郎 『母仔馬』 昭和35
福岡県生まれ(1882年 - 1969年)の明治後期~昭和期の洋画家。
第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。
1954年毎日美術賞、1956年文化勲章を受章。
坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地を開いた。





長谷川 潔 アネモネ 昭和5
長谷川 潔 二つのアネモネ 昭和9
神奈川県横浜市出身の版画家(1891年 - 1980年)
日本およびフランスの両国で活動した。
1918年(大正7年)にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。
特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。
渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。





穀雨 KOKUU 
4月20日〜5月4日ごろ
春雨降りて百穀を生化すればなり。そんな言葉がある。
穀雨の穀は穀物を意味し、このころに農作物の種を蒔くことで、雨の助けを借りての生育を願う。
春の華やぎも終わり、京の街も桜色から緑色に変わる。


牛島憲之 晩春 昭和29
1900―1997、洋画家。熊本県生。岡田三郎助に師事。
東美校卒業後、猪熊弦一郎、荻須高徳らと上杜会を結成。主線美術協会を創立、創元会会員となり、のち立軌会を結成。
日本国際美術展、現代日本美術展等に出品、受賞を重ねる。日展特選、芸術選奨文部大臣賞受賞。
日本芸術院会員、国際形象展同人。文化功労者。文化勲章受章。東京芸大教授。平成9年(1997)歿、97才。





金田和郎 『雨中牡丹図』 大正9頃









北村武資 経錦着物「笹の春」 平成23





玉村方久斗 『休日』 昭和6
京都生まれ1893年 - 1951年)、大正から昭和初期に日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家。
本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった。





デイヴィッド・ホックニー Kyoto 24 April 1993 平成5





三代 清風与平 瑍白磁牡丹文花瓶 明治後期~大正初期





五代 清水六兵衞 音羽焼牡丹唐草花瓶 昭和2
4代の長男、のち清水六和。清水の読みを「きよみず」に改めた。







河合卯之助 蚕豆嫩葉彩画合子 [不詳]





池田泰真 豆蒔絵手箱 明治時代















京の暮らし(11)啓蟄、春分

2021-01-17 17:23:09 | 美術・博物館


  昨日まで春のような陽射しがありましたが、今日からはまた寒さが戻ってきました。
 気温も上がらず、ときどき時雨れる一日でした。
 早春の便りをお届けしたいと思うのですが、もうしばらく散策自粛を続けます。







 美術館シリーズ『京(みやこ)のくらし―二十四節気を愉しむ』は啓蟄、春分に入ります。

 日本はくらしを彩る芸術の中に、巧みに自然を取り入れてきました。
京都もくらしと自然、芸術が密接な関係を築いてきた街として、人々を魅了してきました。
 美術館所蔵作品で綴る二十四節気の京都のくらしです。

啓蟄 KEICHITSU 
3月5日〜3月19日ごろ
蟄は、虫たちが土の中に籠もり隠れることをいい、啓は開くこと。
つまりは虫たちが地中から這い出る時期。
人でいうなら、寝起きに布団から出る勢いがつく時候。
虫も人も、春の暖かさを実感し、京の街も動きだす。


村上華岳 『観音之図(聖蓮華)』 昭和5
1888―1939。日本画家。大阪生。京都絵専卒。
文展に入選をかさね、大正5年には特選となるが、やがて文展の理想主義に対する不満から、大正7年自ら土田麦僊・小野竹喬・榊原紫峰らと国画創作協会を結成する。
のち健康を害し、芦屋・神戸に居を移して、画壇から離れた作画生活を送り、仏教や六甲の山を題材に宗教的・瞑想的な雰囲気を湛えた精神性の高い絵画世界を形象した。昭和14年(1939)歿、51才。









[不詳] 龍 自在置物 江戸末~明治時代




SP-18加藤土師萌 黄地紅彩龍雲文角皿 昭和28





長谷川良雄 『桃林』 大正15頃
京都の地主の家に三男として生まれる。明治36年京都高等工芸学校図案科に入学、浅井忠に師事。
一時私学校で教鞭を執るが、40年退職。家督相続後は家業の傍ら、関西美術会展、京都市美術展覧会のみに出品。
水彩の風景画を得意とし、作品に「桃林」「安楽寿院」「陶化橋」「芽出し前」などがある。





長谷川三郎 蝶の軌跡 昭和12





足立源一郎 『チューリップ』 大正6 / 9
日本の画家、作家、登山家。
山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。
作風は現場主義として知られる。また、『山に描く』『ヴァン・ゴッホ』など、文筆家としても知られ、近代美術の発展に多大な貢献を遺した。1919年に自身の設計により建築した奈良市高畑町の旧足立邸は国の登録有形文化財に登録されており、現在は喫茶店になっている。





野島康三 『チューリップ』 昭和15
埼玉県出身(1889年 - 1964年)、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。
特にポートレイトやヌード写真に長け、初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行。





長谷川 潔 『チューリップと三蝶』 昭和35
神奈川県横浜市出身の版画家(1891年 - 1980年)
日本およびフランスの両国で活動した。
1918年(大正7年)にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。
特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。
渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。





楠部彌弌 『彩埏春花瓶』 昭和55





久保田米僊 『水中落花蝶図』 明治中期
京都出身(嘉永5年2月25日(1852年) - 明治39年(1906年)、明治時代の日本画家、画報記者。
明治22年(1889年)私費でフランスに渡り、パリ万国博覧会に「水中遊漁」で金賞を受賞、ギメ東洋美術館に「年中行事絵巻」を寄贈してローヤル・アカデミー賞を贈与される。









野長瀬晩花 遅日 大正9頃
1889-1964 大正-昭和時代の日本画家。
明治22年8月17日生まれ。中川蘆月、谷口香嶠に師事。
大正7年土田麦僊らと国画創作協会を結成した。
昭和39年3月31日死去。74歳。和歌山県出身。
作品に「初夏の流れ」「水汲(く)みに行く女」など。









山脇洋二 蜥蜴文硯箱 昭和22





二十代 堆朱楊成 乾漆木蓮図硯箱 大正6





岡田章人 彫漆木瓜之図筥 昭和38






木村雨山 変織縮緬訪問着「花」 昭和40





春分 SHUNBUN 
3月20日〜4月3日ごろ
お日さまが真東から昇り、真西に沈む。
三途の川を挟んで、こちらが此岸、向うが彼岸。
ご先祖さまが居られるだろう極楽浄土は西山の方角にある。
春分の前後七日間をお彼岸と呼ぶのはそれゆえのこと。


並河靖之 『桜蝶図平皿』 明治時代
弘化2年(1845年) - 昭和2年(1927年)、日本の七宝家。
明治期の日本を代表する七宝家の一人で、京都を中心に活躍。
近代七宝の原点である有線七宝にこだわり続けてこれを極め、東京で活動した無線七宝を得意とするライバルの濤川惣助と共に、二人のナミカワと評された。





村上華岳 『鰈』 大正11
1888―1939。日本画家。大阪生。京都絵専卒。
文展に入選をかさね、大正5年には特選となるが、やがて文展の理想主義に対する不満から、大正7年自ら土田麦僊・小野竹喬・榊原紫峰らと国画創作協会を結成する。
のち健康を害し、芦屋・神戸に居を移して、画壇から離れた作画生活を送り、仏教や六甲の山を題材に宗教的・瞑想的な雰囲気を湛えた精神性の高い絵画世界を形象した。昭和14年(1939)歿、51才。









安藤緑山 『貝尽くし 牙彫置物』 大正~昭和初
大正から昭和初期の彫刻家(1885年- 1959年)
『竹の子と梅』は安藤緑山の最高傑作とされる、本物の竹の子とほぼ同じ大きさの、“牙彫”と呼ばれる象牙彫刻です。
本物と見紛うばかりのその造形のリアルさ、根元から生えた根の生き生きとした艶、隙間まで再現した極めて薄い皮の作りは圧巻です。
安藤緑山の作品における最大の特徴が「色付け」です。





村上華岳 『夜桜之図』 大正2
1888―1939。日本画家。大阪生。京都絵専卒。
文展に入選をかさね、大正5年には特選となるが、やがて文展の理想主義に対する不満から、大正7年自ら土田麦僊・小野竹喬・榊原紫峰らと国画創作協会を結成する。
のち健康を害し、芦屋・神戸に居を移して、画壇から離れた作画生活を送り、仏教や六甲の山を題材に宗教的・瞑想的な雰囲気を湛えた精神性の高い絵画世界を形象した。昭和14年(1939)歿、51才。












木村盛伸 鈞窯 大鉢 昭和58






精巧山 花見図花瓶 明治~大正時代





上島光波 柳桜に垣蒔絵手箱 明治時代





赤塚自得 香筥 桜花錫椽 大正時代





菊池契月 桜 昭和4





印藤真楯 『夜桜』 明治30
明治期の洋画家
生年文久1年5月15日(1861年)、没年大正3(1914)年





須田国太郎 『夜桜』 昭和16
京都出身(1891年 - 1961年)の洋画家。
京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。