京の歴史をつなぐの続きです。
3章 室町時代 町衆の活躍
室町時代は足利氏による武家政権の時代です。
尊氏が延元1=建武3(1336)年光明天皇を立てて政権を握った時期から,元亀4(1573)年7月 15代将軍足利義昭が織田信長に京都から追放された時期までをさします。
この間,初代尊氏,2代義詮の時期を含む元中9=明徳3(1392)年の南北朝合体までを南北朝時代とし,応仁の乱以降,事実上幕府の威令の行なわれなくなった時期を戦国時代とすることもあります。
室町幕府の全盛期は南北朝合一により武家政権と貴族政権の間の抗争が終わった足利義満の時代です。
鹿苑寺金閣に代表される北山文化の隆盛をみるが,守護大名の領国の強化,応仁の乱を契機とする戦国大名の領国の展開とともに,幕府の権威は衰退します。
8代将軍足利義政は慈照寺銀閣に代表される東山文化の推進者となりました。
この時代の文化は,公家文化を基調とした武家文化,日明交渉を基礎とする大陸文化の影響,文化の地方浸透と、京都では町衆と言われる庶民が活躍した時代でもあります。
七十一番職人歌合 原本室町時代(16世紀)模本江戸時代(18~19世紀)京都府(京都文化博物館管理)
紺糸威胴丸 室町時代(15~16世紀) 京都府(京都文化博物館管理)
三好政生書状(大橋家文書) 室町時代(16世紀) 京都府(京都文化博物館管理)
加藤清正書状(後藤勘兵衛家文書) 桃山時代(17世紀) 京都府(京都文化博物館管理)
江戸時代 町のいとなみ・人のいとなみ
江戸時代は徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた慶長8 (1603) 年から 15代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古が行われた慶応3 (1867) 年までの265年間,江戸が政治の中心であった時代です。
皇室はその権力を失い,将軍,大名,武士層が,支配階級として農,工,商の庶民階級の上に立ちました。
経済面では,自然経済の維持ができなくなり,商品経済への移行,工業化への傾向が現れた。
江戸時代の京都
再び政治の中心は東へ移りますが、著しく衰退することなく、江戸時代以来の街路や建物は現在にも残っています。
比較的平和な時代であり、交通が発達したことなどで市民による文化も大きく花開きました。
京都御所は14世紀から明治の直前まで現在の場所にあります。
京都御所を囲むように公家屋敷が並んでいましたが、 明治以降ほとんどの公家は東京に移り、現在は公園として開放されています。
公家の中心は御苑でしたが、武家の中心は二条城でした。
二条城は江戸時代に徳川家康によって作られ、その後面積を拡大し、現在も区画と一部の建物が残っています。
江戸幕府は大名に対しては武家諸法度一国一城令、 公家に対しては禁中並公家諸法度を出して、彼らの行動を制限しました。
さらに京都所司代を置き、公家の政治的活動に目を光らせていました。
幕府の全国支配が進むにつれて、全国の街道も整備されます。
五街道と呼ばれる東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中は幕府直轄で整備され、街道沿いには宿場町ができ、交通の発達で庶民の旅行もしやすくなりました。 京都は寺社巡りで人気の旅行先となり、土産物として京都の産物が持ち帰られます。
大荷物を効率的に運ぶために水運が発達します。
大阪は水運の拠点になり、商業の中心地として繁栄します。
大阪と京都を結ぶ水運には淀川ですが、より物流を安定させるために高瀬川が作られます。
高瀬川沿いには現在も木屋町・材木町・紙屋町・鍋屋町・米屋町など 高瀬舟で運ばれ荷揚げされた品物と関係する地名が多く残っています。
京の花街も江戸時代に生まれます。
上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町、宮川町、島原の花街があります。
現在の京町屋と呼ばれる店舗併設の都市型住宅は江戸時代中期以降に現在の様式が完成します。
年々減少し続けていますが、まだ市内には残されており、私のブログでも紹介しています。
参内図屏風 江戸時代(17世紀) 個人蔵
これを見ると御所と二条城が京都の主役だったことが分かります。
右隻
右隻眼第一扇、第二扇
右隻第三扇、第四扇
右隻第五扇、第六扇
左隻
左隻眼第一扇、第二扇
左隻第三扇、第四扇
左隻第五扇、第六扇
譲り状之事 家屋敷一カ所を甥弥へ譲渡につき(四条真町文書)
江戸時代宝暦11年(1761) 京都文化博物館
組町汁関連文書(四条真町文書) 江戸時代 天保8年1837 京都文化博物館
汁当町配膳之手控(四条真町文書) 江戸時代 天保8年(1837) 京都文化博物館
寄合当日持参物控(四条真町文書) 江戸時代 天保8年(1837) 京都文化博物館
汁当町立会勘定帳〇諸払請取共(四条真町文書) 江戸時代 天保8年(1837) 京都文化博物館