京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

無位無冠の陶工 河井寬次郎作品選 

2021-01-30 17:16:06 | 美術・博物館


  京都国立近代美術館コレクション展です。

 近代日本を代表する陶芸家の一人、河井寬次郎は明治23年(1890)に現在の島根県安来市に生まれました。
 東京高等工業学校(現、東京工業大学)を卒業後、京都市陶磁器試験場に技手として勤務し、膨大な数の青磁や辰砂などの釉薬の研究に没頭します。
 大正6年(1917)に試験場を辞した後、大正9年(1920)に自身の登り窯(鐘溪窯)を手に入れます。
 大正10年(1921)には、最初の個展を開催し、中国や朝鮮陶磁を手本とした作風で高い評価を得ます。
 その後創作の方向を大きく変え、民藝運動を推進する中で、「暮らし」と創作の密接な関係において作陶を展開していきます。
 作品の造形性は、晩年に向かうほど意欲的となり、「生命」の喜びに溢れたものとなりました。

 1955年文化勲章を辞退。人間国宝、芸術院会員などへの推挙も辞退。
無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没しました。

 河井寬次郎作品

釉裏紅葡萄文盂 c. 1921 陶器、釉薬、轆轤成形





鉄薬盂 c. 1921 陶器、釉薬、轆轤成形





青華花下翔鳳文壺 1922 陶器、釉薬、轆轤成形





黒釉劃花花文茶盌 c. 1923





紅彩瓜形壺 c. 1931 陶器、釉薬、轆轤成形陶器、釉薬、轆轤成形、掻き落し





色絵草花文壺 c. 1932 陶器、釉薬、轆轤成形、上絵付





黒釉扁壺 1934 陶器、釉薬、型成形





象嵌双手文鉢 1935 陶器、釉薬、轆轤成形、象嵌





櫛目碗 1938 陶器、釉薬、轆轤成形、櫛目





白地草絵扁壺 c. 1937 陶器、釉薬、型成形





辰砂丸紋四方壺  c. 1938 陶器、釉薬、型成形





練上鉢 c. 1938 陶器、釉薬、型成形





辰砂菱花文食籠 1941 陶器、釉薬、轆轤成形





河井寬次郎 1890 ‐ 1966 黄釉花文扁壺 1952 陶器、釉薬、型成形





辰砂鉄薬扁壺 c. 1940 陶器、釉薬、型成形





呉州鉄薬食籠 c. 1940 陶器、釉薬、型成形









他陶芸家作品

六角紫水 1867 - 1950 蝶菊花文香合 制作年不詳 漆、蒔絵





迎田秋悦 1881 - 1933 稲穂蒔絵六角香合 1928 木、漆





板谷波山 1872 - 1963 彩磁香炉三生果 1953 磁器





五代清水六兵衞 1875 - 1959 大礼磁花鳥文香炉 1917 磁器





富本憲吉 1886 - 1963 色絵羊歯金銀彩香炉 1960 磁器、色絵











春の訪れ セツブンソウ(節分草)、馬酔木開花

2021-01-30 07:13:20 | 2021 花


 もうすぐ節分ですが、早春を代表するキンポウゲ科のセツブンソウ(節分草)が開花しました。
 古くより節分のころに花が咲くのでこの名前があります。
 今年の冬は寒く、例年より開花が遅れ気味ですが、節分に間に合ってくれました。
 この花は、本州の関東地方以西に分布し、高さ10センチほどの小さな花で、枯れ葉の間から茎が伸び花をつけます。
 バイカオウレンやセリバオウレンと同じキンポウゲ科の多年草で、京都府の絶滅危惧種に指定されています。




















 あと一週間もすれば、一面にセツブンソウの小さな花が広がります。

アセビ(馬酔木)咲きはじめ
早春にスズランのような釣鐘型の小さな花を咲かせます。








 蕗の薹がでて、福寿草も咲きはじめました。
 今回は春の訪れを告げるセツブンソウ(節分草)とアセビ(馬酔木)の開花でした。
 コロナで鬱陶しい日が、そしてまだまだ寒い日も続きますが、春は間違いなく近づいています。






新春を彩る寄せ植え、ハンギングバスケット 節分会中止

2021-01-29 17:15:47 | 2021 花


 25日の植物園の撮影です。
 恒例の『新春を彩る寄せ植え、ハンギングバスケットコンクール』が行われていました。
 寒い時期で花は限られていますが、市民の方々の作品です。
 いくつか紹介します。
 







































































































 
 昨日まで暖かい陽射しの日が続いていましたが、一転して今日は気温が下がり冬に逆戻りです。
最低気温1.0度、最高気温8.5度、陽射しはありましたが寒い一日でした。

 もうすぐ二月、立春です。
立春は例年節分の翌日2月4日でしたが、今年は37年ぶりの2月3日だそうです。
京都でも2月3日の節分は、邪気(鬼)や疫病退散、福を呼び込む行事があちこちの社寺で行われます。
吉田神社の参道や境内では約800の露店が並び、鬼を追い払う追儺(ついな)式は毎年テレビで紹介されます。
壬生寺では壬生狂言「節分」を上演(無料)、ぜんざいの無料接待もあり、京都市民の楽しみ行事です。
 ところが今年はコロナで、追儺式、露店の出店も、壬生狂言も全て中止です。
私が行っていた松尾大社の岩見神楽、豆まきも中止です。
 京都は緊急事態宣言中、節分行事への参加も自粛が要請されます。
疾病悪霊払いの祇園祭に続き、節分会も残念ながらコロナウィルスには勝てないようです。

朗報はコロナワクチンです。
65歳以上のコロナワクチンの接種は、4月以降となるようです。
それまでは十分に気をつけたいと思います。

 
 












フォークミュージック(2)ガロ(GARO)、かぐや姫、風、バンバン、井上陽水、吉田拓郎

2021-01-29 07:19:30 | 音楽


  散策自粛中に、私が影響を受けた音楽を振り返ってきましたが、今回で最後です。お付き合いありがとうございます。

 一時期若者を熱狂させたグループサウンズ(1967年ー1969年)は、1970年頃にはほとんどのグループが解散し、自然消滅してしまいました。
 1970年代にはいると、五つ赤い風船、赤い鳥などのフォークミュージック系グループのガロ (GARO)、かぐや姫、風、バンバンや個人アーティストで吉田拓郎、井上陽水らがデビューします。

ガロ (GARO)
 1970年から1976年まで活動。
 1973年に「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」とヒットを飛ばし一世を風靡しました。










かぐや姫
 1970年 - 南こうせつ、森進一郎、大島三平で『南高節とかぐや姫』としてデビュー。
 1973年かぐや姫の「神田川」が大ヒット。










 風(かぜ)
 かぐや姫の伊勢正三と、猫の大久保一久が1975年に結成したフォークデュオ。
 活動期間1975年 - 1979年
 1975年4月12日のかぐや姫解散コンサート以前に発売した「22才の別れ」で、いきなり大ヒットとなった。











バンバン
 1975年『いちご白書』をもう一度」が大ヒット。
 作詞・作曲は荒井由実(現・松任谷由実)、過ぎ去った学生時代を思い出す曲。
 『いちご白書』は1970年に公開されたアメリカ映画で、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争の手記をもとに制作された映画です。
 グループ名バンバンの由来はばんばひろふみの愛称「ばんばん」。
 活動期間 1971年 - 1977年






 私はこの機会に、ガロ(GARO)、かぐや姫、風、バンバンの活躍した時代を少し振り返ってみました。

 1960年代後半は学園紛争と全共闘運動が高陽、社会全体も70年安保、71年沖縄返還協定などの政治運動も高陽しました。
 しかし運動に参加した若者のその後の挫折感ともいうべき反動は大きく、「政治」から急速に「私・個人」へとウィングが変わりました。
 急に愛だとか恋だとかが声高に叫ばれだし、私小説じみた同棲時代ブームも生まれたように思います。
 そういう時代の雰囲気を見事に表現したのが、かぐや姫の『神田川』だったように思います。
 『神田川』以降は、日本のフォークミュージックは、悪い言葉で言えば、商業フォークになってしまったように思います。
 時代の転換点だったのでしょう。


井上 陽水(1948年8月30日 - )

 1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー、1971年に本名の井上陽水として再デビュー。
 1970年代には吉田拓郎とならんでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。
 現在に至るまで第一線で活躍を続ける。
 代表曲
 1973年『夢の中へ』、『傘がない』(1972年)、『リバーサイドホテル』(1982年)、『少年時代』(1990年)












吉田 拓郎(1946年4月5日 - )

 日本のシンガーソングライターの草分け的存在。
1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた。
 大規模ワンマン野外コンサート、ラジオ、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニア。
 活動期間 1970年 -
 代表曲
 1972年「結婚しようよ」、1972年「旅の宿」、1973年「落陽」、1974年「襟裳岬」




























フォークミュージック(1)五つの赤い風船、赤い鳥、ビリー・バンバン

2021-01-28 06:22:35 | 音楽


 1960年代後半、ベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループのエレキギターに影響を受けたのが日本のグループ・サウンズです。
 一方、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどのアメリカンフォークの影響を受けたのが、日本のフォークグループ、ミュージックです。
 この二つは1960年代後半の同時期にデビューし活躍しました。同じステージだったのです。

 日本のフォークの初期は高石ともや、岡林信康、高田渡といった個人が活躍しましたが、次第にグループで活動するようになります。
 以下が先陣グループと言えます。

五つの赤い風船
 1967年結成、1972年解散
1960年代後半から70年代初頭にかけて数多くのヒット曲を発表。
初期フォーク・ブームを牽引、若者から絶大な人気を得た。
特に西岡と藤原の混声ハーモニーは高い評価を得た。














赤い鳥
 1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年解散。
民謡とコーラスものの両方をレパートリーとした。
「翼をください」
1971年「竹田の子守唄」のB面曲として発売。
合唱曲として有名となり、既に1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていた。
「竹田の子守唄」
実在の伝承曲を原曲にうたごえ運動とともに広まった楽曲のカバー。










ビリー・バンバン
ビリー・バンバン(Billy BanBan)は、日本の音楽グループ。
菅原孝、進の兄弟2人によるフォークデュオ。

ジャンルフォークソング
活動期間
1969年 - 1976年
1983年 -






 グループサウンズが大人社会に受け入れられずに、数年という短命で終えたのに対し、フォークミュージックは大人社会の中にも受け入れられます。
 グループサウンズの長髪は非行と拒絶されましたが、フォークミュージックの長髪は許容範囲だったのです。
 五つの赤い風船の西岡たかしも、赤い鳥の後藤悦治郎も長髪でした。
 当時、男性の若者の多くは長髪に憧れていたのです。
この違いは何だったのでしょう。
 多くの日本人は従来のフォークによく似た、フォークミュージックが受け入れやすかったのだと思います。
 1966年大ヒットしたのは、マイク真木の『薔薇がさいた』であり、『若者たち』というテレビドラマから大ヒットしたザ・ブロードサイド・フォーの『若者たち -空にまた陽が昇るとき』という、いずれもフォークでした。
 ロックが日本に根付くのは80年代以降です。






福寿草開花、蕗の薹、シデコブシ蕾、蝋梅満開

2021-01-27 17:52:48 | 2021 花


 一昨日訪れた植物園で見つけた早春の植物です。

フクジュソウ(福寿草)開花です。

北海道から本州の山野に多く見られる春を代表する植物です。
早春のウメの花がほころぶころから蕾をもち上げ、後を追うように咲く黄色の大輪のを咲かせます。





フキノトウ(蕗の薹)
春に咲く蕗のつぼみが「蕗の薹」で、早春を代表する山菜です。
苦みがありますが、春を感じます。













シデコブシの蕾
少しずつ膨らんできました。





ソシンロウバイ(素心蝋梅)満開です。
蝋梅は内側の花弁が茶褐色ですが、ソシンロウバイは花全体が黄色で透き通るように綺麗な花です。










蝋梅まだまだ元気でした。


















グループサウンズ(2)若者熱狂 ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス

2021-01-27 07:11:32 | 音楽


 1960年代後半、グループサウンズの絶頂期グループでしょう。

ザ・タイガース(The Tigers)
 グループサウンズの頂点だったのではないでしょうか。
 1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。
1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。

青い鳥





花の首飾り






ザ・テンプターズ、
 1967年10月にフィリップス・レコードよりシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビュー。
「神様お願い!」「エメラルドの伝説」「おかあさん」「純愛」などのTOP10ヒットを生み、ザ・タイガースとともにグループ・サウンズの最盛期を支えたバンドの一つ。1970年11月に解散を発表した。

エメラルドの伝説





神様お願い






オックス(OX)
グループ・サウンズ(以下GS)全盛期の1968年(昭和43年)にデビュー。
メンバー、ファンが失神する場面があったため、「失神バンド」と呼ばれた。
活動期間 1968年 - 1971年

スワンの涙





ガールフレンド





 上記グループ以外に人気を博したと記憶しているのが、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ゴールデンカップス、ザ・ジャガーズなどが活躍しました。

 1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行、若者を熱狂させたグループサウンズですが、その期間はあっという間でした。
 ほとんどのグループが1970年頃には解散、終焉を迎え、1971年には自然消滅してしまいました。
 あの時代の熱狂は何だったのかと思うことがあります。
 グループサウンズが短命に終わった原因の一つに、当時の社会状況を振り返ってみる必要がありそうです。
 1960年代後半の社会は、長髪やエレキギターというのは不良、非行と見られ、社会からの風当たりは非常に強かった時代でした。
 グループ・サウンズのコンサートを観に行くだけで停学もしくは退学処分を下される学校もあり、禁止する中学校・高校が続出したと思います。
 NHK紅白歌合戦の選出でさえ、長髪のタイガースではなく、短髪のブルーコメッツだった記憶があります。
若者は熱狂しましたが、当時の大人社会には受け入れられなかったのです。
 活躍する時代が少し早すぎた感があります。















早春の花 シナマンサク、ウグイスカグラ、菜の花が開花

2021-01-26 18:10:30 | 京都めぐり


 散策自粛中ですが、昨日一ヶ月ぶりに植物園に行ってきました。
数日雨が降り続き、朝の近所散歩も出来ず、少しストレスが溜まっていました。
車ででかけ、駐車場に着いたのは9時半過ぎですが、広い駐車場はガラガラ、平日ということもありますが、来園者もとても少ないです。
 広い園内をぶらぶら歩き、早春の花探しです。

シナマンサク(支那満作) 
 マンサク科マンサク属の落葉小低木
他の花より先駆けて咲くから、「まず咲く」が訛ってマンサクと言います。
シナマンサクは中国原産ですが。日本マンサクと違って葉が落ちないのです。













ウグイスカグラ(鶯神楽)
スイカズラ科スイカズラ属の落葉低木。
日本固有種で、本州の中西部、四国および九州に分布し、山地に生育します。
小さな花ですが、咲きはじめです。










三又
開花はまだ早そうです。





ネコヤナギ
花穂はまだ先になりそうです。





クロヤナギ
ネコヤナギの変種ですが、少し花穂が出てきました。





菜の花
一部咲きはじめです。













 植物園を帰るとき、駐車場は20台ほどに増えていましたが、依然少なかったです。
昨日の京都市の最高気温は14.7度、歩いていると汗ばみました。
他にも早春の草花を撮影しましたので、明日以降も投稿します。









グループサウンズ(1)ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズ

2021-01-26 07:08:51 | 音楽


 1960年代、フォークミュージックの流行の一方、ベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループのエレキギターに影響を受けたのがグループ・サウンドです。
 1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行しました。
 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダースが人気グループとなり、直後にザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスなどが大人気でした。


ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの一つ。










ザ・スパイダース(The Spiders)
ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともにGSの礎を築いたグループです。
ヒット曲に「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などがあり、1970年に解散。











ザ・ワイルドワンズ(The Wild Ones)

1966年11月に『想い出の渚』でデビュー。









次回 『若者を熱狂させた ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス』










生誕130年記念 山口八九子展 

2021-01-25 17:22:47 | 美術・博物館


 『生誕130年記念 山口八九子展』

 京都近代美術館2020年度 第1回コレクション展

 山口八九子
 明治23(1890)年京都市に生まれの大正-昭和時代前期の日本画家。
 京都市立美術工芸学校(美工)絵画科を卒業し、京都市立絵画専門学校本科に進学、45年卒業。
 両校で学んだ円山・四条派風の作画を続ける一方で、美学教師であった子規派の俳人・中川四明(重麗)の影響で句作を始めて俳誌『懸葵』に句と共に挿絵を投稿、大正9(1920)年には『ホトトギス』の表紙絵を担当するなど俳画家として知られるようになる。
 恋人を追って長崎に行き、初めて目にする自然風景に感銘を受け、自然の真実相を把握したいと願い、各地を旅し描くようになる。
 第3回帝展に《浜木綿》が、同年設立されたばかりの日本南画院展に《雲仙湯煙》が初入選。
 昭和8(1933)年結核のため、42歳の若さで亡くなる。

 
『浜木綿』 1921





『暮秋繁農図』 c. 1912





『雲雀を揚ぐる夕』 1924





『浦』 c. 1915





『山村逐牛図』 c. 1916-17









『急雨』 1917









『天草ノ畑』 c. 1917-18





『温泉岳より』 c. 1918




『魚見』 1919-20









『山村閑日』 1921-22





『牡丹』 1922









『牡丹図』 c. 1922





『冬池独釣図』 c. 1922









『閑庭』 c. 1923-24





『山中首夏』 c. 1927





『川漁』 c. 1927-28





『山 (夏意七趣の内)』 1930





『聴秋』 c. 1930









『月夜』 1931





『山の湯』 1931









『冬山入佁』 1929











日本フォーク(2)ザ・フォーク・クルセダーズ、森山良子

2021-01-25 07:18:43 | 音楽


 1960年代後半岡林信康、高田渡、高石友也らの反戦フォーク、プロテスト・フォークが全盛期を迎える一方、60年代後半から70年代初頭にかけてはフォーク・クルセダーズ、赤い鳥、五つの赤い風船ら世に出ました。

ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)

 当時ラジオから流れてきた『帰って来たヨッパライ』、『イムジン河』は衝撃的でした。
特に『帰って来たヨッパライ』(作詞フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修)
作曲:加藤和彦)ですが、早回しのテープと奇想天外な歌詞には当時度肝をぬかれました。
 飲酒運転で交通事故を起こして死亡した、東北弁を話す主人公が長い雲の階段を通って天国へ登るが、その天国でも酒と美女に浮かれてばかりだったため、関西弁を話す「怖い神様」からの「お仕置き」で天国を追い出されて生き返る顛末を、テープの高速回転による甲高い声と伴奏で語る歌です。
 日本のフォークミュージック・フォークロックの黎明期に位置づけられる作品でしょう。
そしてこの時代を先取りした北山修と加藤和彦はやはり天才です。

 ザ・フォーク・クルセダーズは京都出身の音楽制作集団 
 加藤和彦 京都市出身 龍谷大学
 北山 修 京都市出身、京都府立医科大学
 はしだのりひこ 京都市出身 同志社大学
 加藤和彦とはしだのりひこは鬼籍に入った。加藤は早すぎる死でした。
 












 ザ・フォーク・クルセダーズ解散後、加藤和彦と北山修のヒット






森山良子
 1967年「この広い野原いっぱい」でデビュー。
 彼女の美しい声がとても印象的でした。
 かまやつひろしは従兄(母の甥)にあたる。











 明日は一時期日本の若者を熱狂させたグループサウンズです。



横山大観と菱田春草(5) 木村武山、今村紫紅、下村観山、小林 古、速水御舟、小杉放庵、西郷孤月

2021-01-24 17:00:39 | 美術・博物館


 嵐山福田美術館で開催2020年8月1日(土)~ 10月11日(日)された、『大観と春草 ー東京画壇上洛ー』の最後(5)です。

横山大観
明治元年(1868)~ 昭和33年(1958)
茨城県に生まれる。東京美術学校第一期生として、岡倉天心や橋本雅邦の薫陶を受ける。
明治31年、天心指導のもと日本美術院の創立に参加。新しい日本画の創造に邁進した。
大正3年に美術院を再興すると、以後院展を中心に数々の名作を発表。
昭和12年には第1回文化勲章を受章し、明治・大正・昭和と日本画壇をリードし続けた。


菱田春草
明治7年(1874)~ 明治44年(1911)
長野県に生まれる。東京美術学校にて、岡倉天心や橋本雅邦の指導を受ける。
明治31年、日本美術院の創立に参加。大観とともに、朦朧体と呼ばれる没線彩画を試みるなど、鋭敏な感覚と清澄かつ知的な眼で、新日本画の創造に専心した。美術院衰退後は文展を舞台に名作を生み出したが、44年、惜しまれつつ早世した。


木村武山『雪中白鷺』 1912年頃
竹内栖鳳が嫉妬した色彩感覚

1876-1942 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治9年7月3日生まれ。川端玉章に師事。東京美術学校(現東京芸大)卒業後,岡倉天心の新美術運動に参加,明治31年の日本美術院の結成,大正3年の再興につくす。明治40年第1回文展で「阿房劫火(あぼうごうか)」が3等賞。晩年は仏画をおおくかいた。昭和17年11月29日死去。67歳。茨城県出身。













今村紫紅『羽衣』 1900年頃
有名な伝説を新しい表現で描く

[1880~1916]日本画家。神奈川の生まれ。
1901年安田靫彦らと紅児会を組織して新しい歴史画の開拓に努め,07年には安田靫彦の仲介で五浦の日本美術院研究所に参加。岡倉天心の指導を受け,横山大観,菱田春草,下村観山らの制作ぶりを見て啓発される。紅児会に出品した《政宗》,巽画会の《説法》あたりからおおらかな独特の画風を示したが,第6回文展に南画の技法に印象派の色彩表現をとりいれた新解釈の《近江八景》を発表し,世の注目をひいた。









下村観山『降魔図』 1919年
美しい童子

明治6年(1873)〜昭和5年(1930)
幼い頃から狩野芳崖や橋本雅邦師事して狩野派の描法を身につける。
明治22年(1889)に東京美術学校に第1期生として入学、同期の横山大観や1年後輩の菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受ける。
天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画。
日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くす。










横山大観他『雲錦帖』 1931年
東西のオールスターが集結










































横山大観『〇〇居』三字横 1931年頃
後輩が切願した大観の書






横山大観『霊峰春色』 1948年頃
意図的に描かれた火口跡










小林 古径『秋彩』 1950年頃
冴え渡る古径の造形力

[1883~1957]日本画家。新潟の生まれ。
日本美術院の中心作家。大和絵の伝統を現代に生かして新古典主義といわれる画風を確立した。
文化勲章受章。









速水御舟『春雪』 1923年
温かさを感じる雪の朝

明治27年(1894)~ 昭和10年(1935)
東京に生まれる。松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門し、日本や東洋古典の粉本模写を通じて技量を磨く。その後、今村紫紅に認められ紅児会に参加。紫紅を生涯の師と仰いだ。大正3年には紫紅や小茂田青樹らと赤曜会を結成。同会解散後は院展に作品を発表。絶えず新しい表現を追求し続け、画壇に大きな足跡を遺した。









速水御舟『海蟹図』 1928年
速水御舟が描く蟹のすがた









小杉放庵『山童嬉遊図』 1929年
楽しげな日本画風油絵

1881-1964、栃木県日光町(現・日光市)生まれ。
フランスに留学中に池大雅の《十便図》を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒し、翌年の帰国後は墨絵も描くようになる。
横山大観に誘われ、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。










横山大観『曙色』 1940
「四海波静」を願う






西郷孤月『蘇李訣別』 1898年
画題に込められた想い

1873-1912 明治時代の日本画家。
明治6年9月23日生まれ。29年母校東京美術学校(現東京芸大)の助教授となる。31年師の橋本雅邦とともに辞職し,日本美術院の創立に参加。雅邦の娘と結婚,将来を期待されたが,のち離婚し,放浪生活をおくった。大正元年8月31日死去。40歳。










横山大観『月明』 1897ー1901年
朦朧体の見本