京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

ストリートピアノ 『ハラミちゃん』

2021-02-02 17:15:49 | 音楽


 昨年のコロナ以降、私がyoutubeを視聴する時間が増えました。
さまざまなジャンルを楽しんでいますが、ストリートピアノ(street piano)動画もその一つです。
 ストリートピアノは街中などに設置された誰でも自由に弾けるピアノで、「街角ピアノ」、駅に設置されるのは「駅ピアノ」、空港は「空港ピアノ」と言われています。京都駅にも置かれています。
 私が昨年2月頃よりチャンネル登録しているストリートピアニストを紹介します。

『ハラミちゃん』〈harami_piano〉

 年齢、本名非公開の日本のピアニスト。
「ハラミちゃん」の名前は、好物である肉のハラミから。
 音大卒業後、会社員を経て、2019年6月一般企業のOLからピアニスト系YouTuberへ転身。
 総動画再生数2億5千万回突破、ストリートピアノYouTuberの中でも、破竹の勢いで人気が拡大中。最新チャンネル登録数134万人、動画数419本。
 J-POPの楽曲を中心にカバー。これまでLiSAの「紅蓮華」や初音ミク「千本桜」、X JAPAN「紅」など多岐にわたる楽曲を演奏し、大観衆と盛り上がる動画を数多く投稿。
 シンガー・ソングライターの広瀬香美とコラボが実現した「ロマンスの神様」の演奏動画は、800万回再生、大きな話題となる。
 youtubeでの人気の高まりを受け、最近ではテレビ出演が相次いでいる。
 昨秋フジテレビ系『芸能界特技王決定戦 TEPPEN』の「芸能界ピアノ女王決定戦」で見事優勝、先日放送された『TEPPEN』は連覇達成。
 以降、地上波の情報番組で立て続けに紹介、UNIQLOのCMにも出演。

 私もチャンネル登録者の一人として、活躍を期待していましたが、想像以上の人気拡大に正直驚いています。

 












外国人観光客からリクエストされたビリー・ジョエルの『ピアノ・マン』






フォークミュージック(2)ガロ(GARO)、かぐや姫、風、バンバン、井上陽水、吉田拓郎

2021-01-29 07:19:30 | 音楽


  散策自粛中に、私が影響を受けた音楽を振り返ってきましたが、今回で最後です。お付き合いありがとうございます。

 一時期若者を熱狂させたグループサウンズ(1967年ー1969年)は、1970年頃にはほとんどのグループが解散し、自然消滅してしまいました。
 1970年代にはいると、五つ赤い風船、赤い鳥などのフォークミュージック系グループのガロ (GARO)、かぐや姫、風、バンバンや個人アーティストで吉田拓郎、井上陽水らがデビューします。

ガロ (GARO)
 1970年から1976年まで活動。
 1973年に「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」とヒットを飛ばし一世を風靡しました。










かぐや姫
 1970年 - 南こうせつ、森進一郎、大島三平で『南高節とかぐや姫』としてデビュー。
 1973年かぐや姫の「神田川」が大ヒット。










 風(かぜ)
 かぐや姫の伊勢正三と、猫の大久保一久が1975年に結成したフォークデュオ。
 活動期間1975年 - 1979年
 1975年4月12日のかぐや姫解散コンサート以前に発売した「22才の別れ」で、いきなり大ヒットとなった。











バンバン
 1975年『いちご白書』をもう一度」が大ヒット。
 作詞・作曲は荒井由実(現・松任谷由実)、過ぎ去った学生時代を思い出す曲。
 『いちご白書』は1970年に公開されたアメリカ映画で、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争の手記をもとに制作された映画です。
 グループ名バンバンの由来はばんばひろふみの愛称「ばんばん」。
 活動期間 1971年 - 1977年






 私はこの機会に、ガロ(GARO)、かぐや姫、風、バンバンの活躍した時代を少し振り返ってみました。

 1960年代後半は学園紛争と全共闘運動が高陽、社会全体も70年安保、71年沖縄返還協定などの政治運動も高陽しました。
 しかし運動に参加した若者のその後の挫折感ともいうべき反動は大きく、「政治」から急速に「私・個人」へとウィングが変わりました。
 急に愛だとか恋だとかが声高に叫ばれだし、私小説じみた同棲時代ブームも生まれたように思います。
 そういう時代の雰囲気を見事に表現したのが、かぐや姫の『神田川』だったように思います。
 『神田川』以降は、日本のフォークミュージックは、悪い言葉で言えば、商業フォークになってしまったように思います。
 時代の転換点だったのでしょう。


井上 陽水(1948年8月30日 - )

 1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー、1971年に本名の井上陽水として再デビュー。
 1970年代には吉田拓郎とならんでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。
 現在に至るまで第一線で活躍を続ける。
 代表曲
 1973年『夢の中へ』、『傘がない』(1972年)、『リバーサイドホテル』(1982年)、『少年時代』(1990年)












吉田 拓郎(1946年4月5日 - )

 日本のシンガーソングライターの草分け的存在。
1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた。
 大規模ワンマン野外コンサート、ラジオ、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニア。
 活動期間 1970年 -
 代表曲
 1972年「結婚しようよ」、1972年「旅の宿」、1973年「落陽」、1974年「襟裳岬」




























フォークミュージック(1)五つの赤い風船、赤い鳥、ビリー・バンバン

2021-01-28 06:22:35 | 音楽


 1960年代後半、ベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループのエレキギターに影響を受けたのが日本のグループ・サウンズです。
 一方、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどのアメリカンフォークの影響を受けたのが、日本のフォークグループ、ミュージックです。
 この二つは1960年代後半の同時期にデビューし活躍しました。同じステージだったのです。

 日本のフォークの初期は高石ともや、岡林信康、高田渡といった個人が活躍しましたが、次第にグループで活動するようになります。
 以下が先陣グループと言えます。

五つの赤い風船
 1967年結成、1972年解散
1960年代後半から70年代初頭にかけて数多くのヒット曲を発表。
初期フォーク・ブームを牽引、若者から絶大な人気を得た。
特に西岡と藤原の混声ハーモニーは高い評価を得た。














赤い鳥
 1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年解散。
民謡とコーラスものの両方をレパートリーとした。
「翼をください」
1971年「竹田の子守唄」のB面曲として発売。
合唱曲として有名となり、既に1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていた。
「竹田の子守唄」
実在の伝承曲を原曲にうたごえ運動とともに広まった楽曲のカバー。










ビリー・バンバン
ビリー・バンバン(Billy BanBan)は、日本の音楽グループ。
菅原孝、進の兄弟2人によるフォークデュオ。

ジャンルフォークソング
活動期間
1969年 - 1976年
1983年 -






 グループサウンズが大人社会に受け入れられずに、数年という短命で終えたのに対し、フォークミュージックは大人社会の中にも受け入れられます。
 グループサウンズの長髪は非行と拒絶されましたが、フォークミュージックの長髪は許容範囲だったのです。
 五つの赤い風船の西岡たかしも、赤い鳥の後藤悦治郎も長髪でした。
 当時、男性の若者の多くは長髪に憧れていたのです。
この違いは何だったのでしょう。
 多くの日本人は従来のフォークによく似た、フォークミュージックが受け入れやすかったのだと思います。
 1966年大ヒットしたのは、マイク真木の『薔薇がさいた』であり、『若者たち』というテレビドラマから大ヒットしたザ・ブロードサイド・フォーの『若者たち -空にまた陽が昇るとき』という、いずれもフォークでした。
 ロックが日本に根付くのは80年代以降です。






グループサウンズ(2)若者熱狂 ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス

2021-01-27 07:11:32 | 音楽


 1960年代後半、グループサウンズの絶頂期グループでしょう。

ザ・タイガース(The Tigers)
 グループサウンズの頂点だったのではないでしょうか。
 1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。
1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。

青い鳥





花の首飾り






ザ・テンプターズ、
 1967年10月にフィリップス・レコードよりシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビュー。
「神様お願い!」「エメラルドの伝説」「おかあさん」「純愛」などのTOP10ヒットを生み、ザ・タイガースとともにグループ・サウンズの最盛期を支えたバンドの一つ。1970年11月に解散を発表した。

エメラルドの伝説





神様お願い






オックス(OX)
グループ・サウンズ(以下GS)全盛期の1968年(昭和43年)にデビュー。
メンバー、ファンが失神する場面があったため、「失神バンド」と呼ばれた。
活動期間 1968年 - 1971年

スワンの涙





ガールフレンド





 上記グループ以外に人気を博したと記憶しているのが、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ゴールデンカップス、ザ・ジャガーズなどが活躍しました。

 1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行、若者を熱狂させたグループサウンズですが、その期間はあっという間でした。
 ほとんどのグループが1970年頃には解散、終焉を迎え、1971年には自然消滅してしまいました。
 あの時代の熱狂は何だったのかと思うことがあります。
 グループサウンズが短命に終わった原因の一つに、当時の社会状況を振り返ってみる必要がありそうです。
 1960年代後半の社会は、長髪やエレキギターというのは不良、非行と見られ、社会からの風当たりは非常に強かった時代でした。
 グループ・サウンズのコンサートを観に行くだけで停学もしくは退学処分を下される学校もあり、禁止する中学校・高校が続出したと思います。
 NHK紅白歌合戦の選出でさえ、長髪のタイガースではなく、短髪のブルーコメッツだった記憶があります。
若者は熱狂しましたが、当時の大人社会には受け入れられなかったのです。
 活躍する時代が少し早すぎた感があります。















グループサウンズ(1)ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズ

2021-01-26 07:08:51 | 音楽


 1960年代、フォークミュージックの流行の一方、ベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループのエレキギターに影響を受けたのがグループ・サウンドです。
 1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行しました。
 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダースが人気グループとなり、直後にザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスなどが大人気でした。


ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの一つ。










ザ・スパイダース(The Spiders)
ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともにGSの礎を築いたグループです。
ヒット曲に「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などがあり、1970年に解散。











ザ・ワイルドワンズ(The Wild Ones)

1966年11月に『想い出の渚』でデビュー。









次回 『若者を熱狂させた ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックス』










日本フォーク(2)ザ・フォーク・クルセダーズ、森山良子

2021-01-25 07:18:43 | 音楽


 1960年代後半岡林信康、高田渡、高石友也らの反戦フォーク、プロテスト・フォークが全盛期を迎える一方、60年代後半から70年代初頭にかけてはフォーク・クルセダーズ、赤い鳥、五つの赤い風船ら世に出ました。

ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)

 当時ラジオから流れてきた『帰って来たヨッパライ』、『イムジン河』は衝撃的でした。
特に『帰って来たヨッパライ』(作詞フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修)
作曲:加藤和彦)ですが、早回しのテープと奇想天外な歌詞には当時度肝をぬかれました。
 飲酒運転で交通事故を起こして死亡した、東北弁を話す主人公が長い雲の階段を通って天国へ登るが、その天国でも酒と美女に浮かれてばかりだったため、関西弁を話す「怖い神様」からの「お仕置き」で天国を追い出されて生き返る顛末を、テープの高速回転による甲高い声と伴奏で語る歌です。
 日本のフォークミュージック・フォークロックの黎明期に位置づけられる作品でしょう。
そしてこの時代を先取りした北山修と加藤和彦はやはり天才です。

 ザ・フォーク・クルセダーズは京都出身の音楽制作集団 
 加藤和彦 京都市出身 龍谷大学
 北山 修 京都市出身、京都府立医科大学
 はしだのりひこ 京都市出身 同志社大学
 加藤和彦とはしだのりひこは鬼籍に入った。加藤は早すぎる死でした。
 












 ザ・フォーク・クルセダーズ解散後、加藤和彦と北山修のヒット






森山良子
 1967年「この広い野原いっぱい」でデビュー。
 彼女の美しい声がとても印象的でした。
 かまやつひろしは従兄(母の甥)にあたる。











 明日は一時期日本の若者を熱狂させたグループサウンズです。



日本フォーク(1)高石ともや、岡林信康、高田渡

2021-01-24 07:06:59 | 音楽


  日本の音楽は1966年のビートルズの来日以降は激変しました。
 1966年、マイク眞木の「バラが咲いた」がヒットしていました。
 日本のフォークミュージックがブームになるのもこの頃です。

 高石ともやがプロデビューし、翌年の1967年には五つの赤い風船が活動を開始、フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」がヒットします。
 森山良子が「この広い野原いっぱい」でデビューします。

 1968年には岡林信康が「くそくらえ節」「がいこつの唄」で登場、「山谷ブルース」は発売禁止になり、高田渡が「自衛隊に入ろう」発表。
一方では早すぎるフォーク・クルセダーズの解散もありました。

 やはり日本のフォークミュージックの先駆けとなるのは高石 ともやでしょうか。

高石 ともや(1941年12月9日 ー

 1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。
 1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。











 高石 ともやに続いたのは、岡林 信康、高田 渡でしょう。

岡林 信康(1946年7月22日 – )

 1968年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でレコードデビュー。
翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」などを発表。
その内容から多くの曲が放送禁止となる。
当時、岡林とともに高石友也、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなる。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われた。







高田 渡(1949年1月 ー2005年4月)

 1969年から興隆した関西フォークムーブメントの中心人物として活躍。
孤高のフォークシンガーと評された。
「大・ダイジェスト盤 三億円強奪事件の唄」や「自衛隊に入ろう」「東京フォークゲリラの諸君達を語る」「事だよ」など、時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた記憶がある。









ビートルズ、サイモン&ガーファンクル 古い書籍を引っ張り出す。

2021-01-23 07:13:52 | 音楽


  大寒が過ぎ、素心以外の蝋梅は終盤でしょうか。
 そろそろ、早春の節分草や福寿草が咲きはじめる頃でしょうか。
 散策したくて、少しうずうずしています。

  最近、かなり以前に読んだ本を書箱から引っ張りだし、再々読している。
 かなり色褪せたページに目を通すのは、これで何度目だろうとふりかえる。
 池波正太郎の『剣客商売』に藤沢周平の時代作品。
 四十代、五十代、六十代と年齢を重ねて読んで来た。
 時代は違えど今と変わらぬ人間が描かれている。
 最後は何故か『源氏物語』与謝野晶子訳。これは二回目、桐壺から開始する。









 私は1960年代のアメリカンフォークミュージック、フォークロックに魅了されました。
 ピート・シーガー、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォア、ボブデイラン、ジョーンバエズらです。
 その後の時代は何と言っても、THE BEATLESです。
深夜のラジオから流れる彼らの曲にワクワクしました。

 ビートルズ( The Beatles)

 1960年代から1970年にかけて活動したイギリス出身の20世紀を代表するロックグループ。 
 1962年10月にレコードデビュー。1970年4月10日に事実上解散。 
 母国イギリスだけでなく、アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミングなどの売上総数は6億枚を超え、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定。
 1965年10月26日に女王エリザベス2世からMBE勲章を授与。
 1988年にロックの殿堂入り。

 代表曲
『ラヴ・ミー・ドゥ』
『プリーズ・プリーズ・ミー』
『フロム・ミー・トゥ・ユー』
『シー・ラヴズ・ユー』
『抱きしめたい』
「ゲット・バック」
「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da)」
「サムシング(Something)」
「レット・イット・ビー(Let it Be)」
「ヘイ・ジュード(Hey Jude)」
「イエスタデイ(Yesterday)」














 サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel) 

 この人たちも1960年代に活躍したフォーク・デュオです。 
 私にはTHE BEATLESと二大巨頭です。
 1964年にデビューし、1970年に活動を停止するまで、フォーク・ロックを代表して数々のヒット曲を世に送りだした。
 1990年にロックの殿堂入りを果たした。
 私はTHE BEATLESよりサイモン&ガーファンクルのサウンドのほうが好きかも知れない。

代表曲
「サウンド・オブ・サイレンス」 - "The Sound of Silence" (1966年、1968年)
「アイ・アム・ア・ロック」 - "I Am a Rock" (1966年)
「早く家へ帰りたい」 - "Homeward Bound" (1966年)
「冬の散歩道」 - "A Hazy shade of Winter" (1967年)
「フェイキン・イット」 - "Fakin It" (1967年)「動物園にて」
「夢の動物園」"At the Zoo" (1967年)
「スカボロー・フェア」 (1968年)
「ボクサー」 - "The Boxer" (1969年)
「明日に架ける橋」 - "Bridge over Troubled Water" (1970年)
「いとしのセシリア」 - "Cecilia" (1970年)
「コンドルは飛んで行く」 - "El Condor Pasa (If I Could)" (1970年)
「バイ・バイ・ラブ」 (1970年)
「アメリカ」 (1971年)
「エミリー・エミリー」 (1972年)















雑感
 昨日は京都も朝から雨が降り続いた。
 午前中は久しぶりに車で、妻と食料品の買い出し。
 行ったのは大型モールだが、買物客の少なさに驚いた。
 いつも混みあうレジもガラガラ、明らかに自粛要請の影響だろう。
 一番気になったのは、専門店の閉店予定の貼紙の多さ。
 緊急事態宣言は明らかに負の面が多い劇薬だ。
 昨日のニュースでコロナ以降、女性の自殺者が増えたと。
 国会討論で野党やマスコミは政府の緊急事態宣言の遅れを指摘するが、、、。
 NHKを筆頭に地上波放送局の連日のコロナ報道にはもううんざりだ。
 最近は曜日で過去〇番目の多さなど、無意味に煽る一方だ。
 まるでマスコミのマッチポンプではないか。
 さらに自分から火をつけて、火を消す気がないのはもっと悪質ではないか。
 防衛策として、わが家は地上波からBS放送に切り替えた。
 
 私のyoutube生活、明日からは日本のフォークミュージックです。
青春時代に影響を受けたフォークから、グループサウンズです。




ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ

2021-01-22 07:12:47 | 音楽


 1960年代、ラジオから聞こえて来るアメリカン・フォークミュージックに夢中になりました。
 ピート・シーガー、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォアに魅了され、そしてボブ・ディラン、ジョーンバエズへと続きます。
 当時を思い出して、よく聴いていたアーティストと作品です。
 時代はこの直後、THE BEATLESの出現により、世界の音楽はフォークロックへと移っていきます。

ボブ・ディラン(1941年5月24日 ー

2016年のノーベル文学賞には驚きました。

代表曲
「風に吹かれて」
「時代は変る」
「ミスター・タンブリン・マン」
「ライク・ア・ローリング・ストーン」













ジョーン・バエズ(1941年1月9日 ー )

フォークロックの草創期から、現在も第一線で活動し続けている女性音楽アーティスト
代表曲
「ドナドナ」
「朝日のあたる家」
「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」



/div>






「朝日のあたる家」

https://youtu.be/TcbsEGBThw




ピート・シーガー、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォア

2021-01-21 07:20:45 | 音楽


 私の音楽のスタートは、1960年代のアメリカのフォークミュージック(Folk music)です。
それ以前の1950年代のアメリカ音楽は、エルヴィス・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年- 1977年)の全盛でしたが、時代と年代的に私をとらえたのは、若者によるフォークミュージックでした。
 キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」に始まり、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォアなどの音楽に魅了されました。
 バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースの楽器編成でしたが、次第にバンジョーがなくなり、アコースティックギター主流となりました。
 そして1964年には、ビートルズが登場し、エレキギターなどによるフォークロックへと時代は移っていきました。
 
 当時のアメリカフォークミュージックを代表するグループです。

ピート・シーガー( Pete Seeger、1919年 - 2014年)
 代表曲
「花はどこへ行った (Where Have All the Flowers Gone?)」
「天使のハンマー (If I Had a Hammer)、
「ターン・ターン・ターン (Turn! Turn! Turn!)」
「勝利を我等に We Shall Overcome」




ピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)

 1960年代アメリカのフォークグループで、ベトナム反戦のメッセージを全世界に送り出したことでよく知られています。
 同時代ボブ・ディランの「風に吹かれて」もヒットしました。

 代表曲
「レモン・トゥリー」
「500マイル」
「パフ」
「天使のハンマー」














ブラザーズ・フォア (The Brothers Four)

彼らも60年代のアメリカ合衆国のフォークソング・グループです。
 代表曲
「グリーンフィールズ」
「遥かなるアラモ (The Green Leaves of Summer)」
「七つの水仙」
「Where Have All the Flowers Gone」
「Try to Remember」















私のLPジャケット


>


エディット・ピアフ(Édith Piaf)、 シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour,)

2021-01-20 07:40:46 | 音楽


 若い頃にラジオやLPレコードでよく聴いていたアーティストです。

 エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月 - 1963年10月)

 フランスで最も愛されている歌手の一人です。
彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラード、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴でした。 

 有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などです。




シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour, 1924年5月 - 2018年10月)

 フランス・パリ出身のシンガーソングライター・俳優。
アルメニア系で、アズナヴールの父はグルジア(現:ジョージア)で生まれ、母はアルメニア系トルコ人の商人の家系。 
 1946年にフランスの有名な女性歌手エディット・ピアフに認められて世に知られるようになります。
アズナヴールのシャンソンはそのほとんどが愛を謳い上げています。
母国語の仏語だけでなく英語等も堪能で、5つの言語で歌い、アズナヴールは最も世界に知られたフランスのシャンソン歌手の1人です。 
 また60本以上の映画にも出演しており、特にフランソワ・トリュフォー監督の「ピアニストを撃て」(1960年)での主演が有名です。 

 代表曲
アヴェ・マリア 
Ave Maria
イザベル Isabll

/4xyDtDCzJK9kJlMzAyZjQ1MmAyYEcHBwAAD/vgiO]+qvALjIG8DJlMzAyZjQ1MmAyYEcHBwAAACMQib]


生命にかけて 
Sur ma vie想い出の瞳 
Et pourtant想い出をみつめて 

Mes emmerdes帰り来ぬ青春 
Hier encore - ロバート・アルドリッチ監督、バート・レイノルズとカトリーヌ・ドヌーヴ主演のアメリカ映画『ハッスル』(Hustle, 1975年)の挿入歌として使用された。



哀しみのヴェニス Que c'est triste Venise
希望に満ちて Je m'voyais déjà
声のない恋 Mon emouvant amour
コメディアン Les comédiens
じっとこうして Resteジュザベル 
Jezebel青春という宝 Sa jeunesse世界の果て 
Emmenez-moi遠い想い出 Non, je n'ai rien oublié
人々の言うように Comme ils disent
フォー・ミー・フォーミダーブル For me formidable
二つのギター Les deux guitares
昔かたぎの恋 Les plaisirs démodés
ラ・ボエーム La bohême
ラ・マンマ La mamma
私は旅する Je voyage
私は一人片隅で Et moi dans mon coin
酔いしれて

私のLPジャケット







これまた今更ですが 『クイーン (Queen) 』

2021-01-19 07:26:56 | 音楽


 『XJYAPAN』に続いて、これまた今更ですが、『クイーン ( Queen)』です。
コロナ以降、youtubeで夢中になって聴いているのです。
イギリス・ロンドン出身のロックバンド。
本来ならドハマリ世代なのでしょうが、半世紀遅れになってしまいました。

 2018年10月、フレディ・マーキュリーに焦点を当ててクイーンの軌跡を描いた音楽伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が全世界で公開されました。
全世界で大ヒット作し、第76回ゴールデン・グローブ賞ではドラマ部門作品賞と主演男優賞、第91回アカデミー賞では主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞をそれぞれ受賞しました。 
 日本でも大変な話題になり、私も興味を注がれましたが、映画館に足を運ぶことはありませんでした。
 
 ある日、この動画を視聴して驚くと同時に、今更ですがクイーン ( Queen)に夢中になりました。

 伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』と実際のクイーン ( Queen)ライブの同時進行動画





 クイーン ( Queen) は1970年代前半ハードロック・ブームの中でデビュー、1991年にボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、活動は断続的に続いています。
 2020年現在、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人は、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」として活動しています。 

 代表曲「Bohemian Rhapsody」(1977年)
6分間の壮大な曲「Bohemian Rhapsody」はマーキュリーの作で、アルバム『A Night At The Opera (オペラ座の夜)』に収録された。
現代音楽の傑作で今でも多くの人に愛されています。

「We Will Rock You」(1977年)
「We Are The Champions (伝説のチャンピオン)」2005年の調査では、世界一の人気曲に選ばれている。

「Killer Queen」(1974年)上流階級の娼婦を題材にした絢爛な楽曲。アルバム『Sheer Heart Attack』に収録され、綿密なハーモニーを生み出すクイーンの息を飲むような技量を見せつけた。

「Crazy Little Thing Called Love (愛という名の欲望)」(1980年)
「Under Pressure」(1981年)
「Somebody To Love (愛にすべてを)」(1976年)
「Was It All Worth It (素晴らしきロックン・ロール・ライフ)」(1989年)
「Don’t Stop Me Now」(1979)


 時代を経てもクイーンはいいですね。


 朝の近所散歩中に見つけたクリスマスローズです。
まだまだ寒い日が続いていますが、春の足音が聞こえてくるようです。









今更ですが 『X JAPAN』

2021-01-18 07:23:03 | 音楽


 ほんとうに何を今更ですが、『XJAPAN』です。
 昨年のコロナ以降、よく視聴し、感動しているのは『XJAPAN』です。
彼らが世に売れだしたのは1989年以降。世の中バブル絶頂期、私は既に結婚し、3人の父親でもあり、仕事に埋没していました。朝早くから夜は遅くまで、土日も仕事に出かけるという、現在では考えられない生活でした。 
 世代の違うXJAPANのことは当時は頭の片隅にもなかったと思います。
それがコロナ禍の昨年、彼らの作品を視聴して、正直度胆を抜かれてしまいました。
こういう素晴らしいロックミュージシャンが日本にもいたのだという驚きです。 
 私は彼らのことはほとんど知らないですが、YOSHIKIとボーカルのTOSHIを中心とした天才たちが作り出した作品は傑出し、今でも輝き続けていることは間違いないようです。 
 1997年に一度解散するも、2007年に再結成。現在までに、東京ドーム公演だけでも18回成功させ、計100万人を動員しています。
 HIDE1998年、TAIJI2011年の死、TOSHIの洗脳騒動など様々な困難がありましたが、日本のロックシーンの礎を築いたように思います。

 2007年の再結成以降は活動の軸を国外に移しているようです。
 youtubeでTOSHIさん単独の歌も良く聴きますが、現在でも素晴らしい歌声に驚き、感動しています。年齢とともに、声が劣化していく歌手が多く、聞かないほうが良かったと思うことがしばしばあります。しかしTOSHIさんは今でも素晴らしいです。

 私は年末かれこれ20年ぶりに紅白歌合戦を10時半過ぎまで視聴しました。
以前の赤組、白組の応援合戦(これが嫌いでした)とは違い、別な歌番組を聞いているようでしたが、今回のほうが曲がよくわかり良かったです。 
 初めて聞いた曲やアーティストの方が多かったですが楽しめました。 
 一番感動したのは、YOSHIKIの「ENDLESS RAIN」です。
ブライアン・メイとロジャー・テイラー(QUEEN)、サラ・ブライトマンも参加。感動的なステージでした。



彼らの代表曲
『紅』



『Forever Love』
『Endless Rain 』



『Say Anything』



『Tears』
『Rusty Nail』
『SADISTIC DESIRE』
『Dahlia』

 良い歌は世代や時を経ても伝わります。


 昨日朝の近所散歩で見つけた寒咲き菜の花





ジョルジュ・ムスタキ、ジョルジュ・ブラッサンス、ナナ・ムスクーリ

2021-01-17 07:19:32 | 音楽


 昨年のコロナ禍以降youtubeで良く聞いている、私の若い頃の懐かしい曲です。 

ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki、1934年5月3日 - 2013年5月23日)

私のもっているLPジャケット

 


 フランスのシンガーソングライター
エジプト・アレクサンドリア出身のギリシャ系セファルディムユダヤ人。
 フランス系の学校に通っていたが、民族など様々なトラブルがあり、自らを「Méditerranéen-地中海人」と見做すようになる(ヨーロッパ各国、アフリカ、アラブの文化が混在した無国籍ないし多国籍の意)。
 17歳の時にエジプトからフランス・パリに出る。パリは実存主義者の終わりの時代で、ムスタキはパリの左岸を生活の場とし、時々、友人のために曲を書いたり、カフェやキャバレーで歌ったり、エジプト新聞の特派員、本屋のセールスマンなどをしていた。
 1957年にアンリ・クローラを通してエディット・ピアフに紹介され、約一年間の恋人生活を送り、ピアフのためにたくさんの曲を書いた。中でも作詞した『Milord』(「ミロール」)は、ヒットナンバーとなり、ムスタキの名が広まる。
 その後、イヴ・モンタン、ダリダ、アンリ・サルバドールらが曲を依頼する。
また、映画やTVの音楽も担当している。 
 フランスの伝統を受け継ぐシンガーソングライターの第一人者で、イタリア、ベルギー、スイス、アメリカなどでも人気がある。
歌い上げるテーマは、愛、旅、孤独から自由、闘い、革命まで幅広い。
ギリシャ語・アラビア語・フランス語を話し、旅行・絵画・オートバイが趣味である。

 作品「私の孤独」、「傷心」、「ジョルジュの友達」、「ジョルジュの友達」、「生きる時代」、「僕の自由」、「異国の人」、「ヒロシマ」





 ジョルジュ・ブラッサンス(Georges Charles Brassens、1921年10月22日ー1981年10月29日)

 フランスの歌手、作曲家、詩人 日本では仏映画『リラの門』(1957年 ルネ・クレール監督)の準主役の楽士役を演じたことと、同じシャンソンでもイヴ・モンタンやエディット・ピアフの様なショー的なエンターテイナーではなく、ギター一本を基本とし、時折ベーシストやアコーディオン弾きを率いて少数で奏でて歌うスタイルと、反体制的な風刺の効いた歌詞の内容が持ち味のために、ごくわずかな日本版のレコードしか発売されなかったせいか、あまり、シャンソンファン以外には知られていなかった。
 だが、没後数十年を経ても存命中から国民的人気を誇る吟遊詩人として、彼の曲は歌い継がれ聴かれている。 
ジョルジュ・ムスタキやセルジュ・ゲンズブールにも影響を与えたことで知られる。

私のもっているLPジャケット



 作品「オーベルニュ人に捧げる歌」、「ゴリラ」、「悪い噂」、「幸せな愛はない」

[https://youtu.be/d1Pp8LkItWc


ナナ・ムスクーリ( Nana Mouskouri、1934年10月13日 - ) 

 世界的に有名なギリシャ人の歌手。
 全世界で300万枚以上のレコード、450枚のアルバムを発売し、15言語(ギリシア語、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ポルトガル語、日本語など)で約1500曲の歌を発表した。
 また、世界中で230以上のゴールドおよびプラチナディスクを記録している。世界で最も、レコードの売り上げが多い歌手の一人であり、その売り上げ枚数は、2億3000枚以上ともいわれる。 
 クラシックの素養に裏打ちされた歌唱力もあって、持ち歌のレパートリーは大変広く、ジャズからポップス、クラシック、ギリシャ音楽からラテン、各国の民謡・童謡まで、オールラウンドにこなす。 ヒット曲は「愛」をテーマにしたものが多く、憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出しているといわれている。
 その一方で、EU議会では過去にギリシャ代表として政治活動も行い、また現在もユニセフの親善大使を務めており、各地で平和を訴えるコンサートを行っている。

 主な作品
「花売り娘」、「桜んぼの実る頃」、「アヴェ・マリア」、「Over and Over」、「アローン」、「My friend the Sea」、「If You Love Me」、「そんなに私を愛さないで」、

「Coucouroucoucou Paloma、Weiße Rosen aus Athen」





私のもっているLPジャケット

 

 最初はラジオからでしたが、後に自分でレコードLP盤を購入してよく聴いていました。
クラシック音楽も多かったですが、レコードからCDに移る80年代からは仕事が忙しく、子供が生まれてからは音楽から距離があきました。 
 久しぶりに当時の音楽を聴くとその頃のことが蘇ります。







ビリー・ジョエル(William Martin Joel)

2021-01-16 07:29:58 | 音楽


 昨年のコロナ以降 YouTubeで音楽を聴く時間が増えました。
 
 私が最近よく視聴しているアーティストです。
 
ビリー・ジョエル(William Martin Joel、1949年5月ー )

 現在71歳、1970年代から1990年代前半にかけてヒットを連発した、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のシンガーソングライター、歌手、ピアニスト、作曲家です。
 70歳前後の方はご存知の方も多いと思いますが、私は当時はほとんど聞いたことがなく、およそ半世紀ぶりに私の生活に入ってきました。
代表曲に、「ピアノ・マン」、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。
『ピアノ・マン (Piano Man)』
 流れてくる哀愁溢れるピアノの旋律にのせて、バーに集まる人たちの人生を切なく歌い上げた名曲です。
 1970年代のビリー・ジョエルの若いときより、年齢を経たときの歌い方のほうがずっと味わい深いです。
 ビリーの実体験の歌です。







『土曜の夜9時いつもの顔ぶれが集まってくる
隣に座った老人はジントニックですっかり出来上がっている
「若いの、思い出のあの曲はできるかい?
どんなだったかよく覚えちゃいないが
悲しくて甘い曲で、よく覚えていたのさ
俺が若くてシャレた格好していた頃だったな」


カウンターにいるのは友達のジョン
ヤツは僕に酒をおごってくれる
冗談を言うのも、客のタバコに火をつけるのも手際いい
だけど、ヤツにはもっと相応しい場所がある


「ビル、もううんざりだよ」
神妙な顔をしてヤツが言う
「こんなところから抜け出せたら俺は、
ムービースターにだってなれるはずさ」


ポールは小説を書いている不動産屋
忙しくて結婚相手も見つけられなかった
彼の話し相手は海軍を抜けられないデイヴィ―
一生を捧げる事になりそうさ


ウエイトレスは酔っ払ったビジネスマンの扱い方も慣れてきた
彼らは孤独という名の酒を分け合ってる
それでも、一人で飲むよりよっぽどマシさ


土曜日にしては随分賑わっている店内
支配人は僕に微笑みかける
彼は知っているんだ、客達は少しの間、人生を忘れる為に
僕を観に来ているって


ピアノはカーニバルのような音色で
マイクはビールのような香りを漂わす
カウンターに座る客達は、チップを弾みながら僕に言う
「君はどうしてこんなところで演奏してるんだい?」


歌ってくれよ、ピアノ弾きさん
歌ってくれよ、今夜
俺達は歌に浸りたいのさ
ステキな気持ちにさせてくれよ』

二曲目
『オネスティ (Honesty)』
『Honesty』は「誠実」。
精神を病んだビリーだけでなく、相手に誠実を求めるのは大変なことです。
この曲も共感できる素晴らしい一曲になりました。






『優しさを見つけるのは難しい事じゃない
生きるのに必要な愛だって手に入る


でも、本物の誠実さを見つけるなら
目をつぶった方が早いくらいとても困難なものさ


誠実、なんて虚しい言葉だろう
誰もが誠実さを無くしている


誠実だなんて、滅多に聞かないけれど
あなたにこそ、そうであって欲しい』


 三曲目『マイライフ』


 俺は俺の道を行くことに
した。
俺のことなんてかまわずに自分の道を行けよ、俺は俺の人生を行くから。

 




『古い友人から電話があった、僕らはとても親しい仲だった。
彼が言うには、アメリカ式の生活はもうウンザリで
店を閉めて、家を売って、西海岸に向かったんだとさ。
彼は今では、ロサンゼルスで売れない芸人をしている


俺は大丈夫、心配要らないよ
そろそろ潮時だなんて言わないでくれ
お前がどう言おうが関係ない、これが俺の人生さ
お前はお前の人生を生きてくれ、俺の事は放っておいてくれ


お前の口出しは要らないよ、俺の人生だから』