豆の育種のマメな話

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追想,一枚の写真

2012-07-20 11:26:16 | 伊豆だより<里山を歩く>

一枚の写真が手元にあ3.5×5.0cmと小さなサイズで,色褪せ,しかも折れ曲がった跡が付いていて,大事に保管されたものとは到底思えない状態である。写真には,犬と一緒に1~2歳くらいの子が写っている。

季節は冬だろうか,帽子をかぶり,綿入れの着物に前掛けを掛け,フエルトの靴を履いているようだ。陽だまりに座って,大きな目を眩しげにしている。座っているのは土間に敷いた筵の上で,後方に家の板壁が写っている。横たわる犬の腰に寄り添うように子供の左手と膝が乗っている。

これは,唯一残っている幼い頃の写真である。何回か引っ越ししている間に,古い写真は殆ど散逸してしまった。この写真を眺めていると,撮影したのが昨日のような錯覚に捉われるが,1~2歳とすれば記憶に留まっている筈もない。場所は,山奥の生家(小学校時代まで暮らした)の玄関脇で,ポチ(?)を抱いて(抱かれて)日向ぼっこをしている構図である。しかし,写真機が何処の家にもあるような時代ではなかったので,誰が写したのか分からない。被写体は,撮影が何を意味するか理解できない不安な眼差しで,カメラのレンズを凝視している。

 

時代は1942年(昭和17),太平洋戦争が始まった翌年のことで,男達は戦線や開拓へと次々に駆り出されてはいたが,まだ食べるに窮するほどではなく,山奥の農家には戦線のひっ迫感も伝わって来なかった。この山奥に伊豆大島や下田市街地から疎開家族がやってくるのは,年が遷り終戦が近づいてからである。

 

脳裏に残る幼年期の映像といえば,農作業に明け暮れる祖父母と母の姿である。畑の隅で籠に入れられ眠っていたこと,漆の葉を集めて遊び「カブレたらどうする」と祖母と母が慌てたこと,夜なべ仕事に炭俵を編む祖母,藁草履を作る祖父,牛の搾乳や給餌する母,蚕の桑の葉を食む音,寝しなに祖父が話してくれるお伽噺,祖母に手を引かれて神社に武運長久を願って歩いた畦道・・・。

 

だが,平穏な暮らしの中にも,45歳になるころには迫りくる敗戦の足跡が聞こえていた。鉄や銅製品の供出に「これは出す,出せない」と揉めていた祖父母の声(後になって,小学校校門の表札が削ぎ取られているのを見て,ああこれもそうだったのかと子供心に悲しくなったこと),松脂をとる話,空襲警報が発せられ,電燈に覆いをし,防空壕に潜んだこと,疎開家族の色白の美少女を遠くから眺めたこと,頭に荷物を載せて運ぶ大島女性の風習を新鮮に感じたこと・・・など。一度だけだったが,頭上から大平山を越えて下田方面に急降下する敵機の姿に,畑の中に慌てて伏せたことが映像となって残っている。

 

このような時代であったから,小学校入学以前の父の記憶は少ない。両親に甘えた記憶もない。両親は働きずくめ,物心つくころには父が出征したので,親子の触れ合いは少なかった。どちらかと言えば,長男として祖母の庇護下にあって,家の中の立ち居振る舞いと心構えを仕付けられていたような気がする。

 

終戦後,父がガダルカナルから帰還し静岡日赤病院で療養中との一報が入り,祖母に手を引かれ会いに行った時のことが,父との記憶では最も古い。父は白衣を着て痩せ細った姿で笑っていたが,寄りつけず祖母の背に隠れていた。

 

後年,老いた母は「母ちゃんと呼ばれたことが一度もない」と語ったと伝え聞いた。父の思いはどうだったろうか? とふと思う。両親とも既にこの世にいない。

2012.7.20

 

Takehiko01cc

コメント
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