豆の育種のマメな話

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坂戸から谷津へ,河津三郎の里を歩く

2012-07-16 18:02:47 | 伊豆だより<里山を歩く>

河津町「谷津」

先に述べた集落(坂戸)の古道を上ると,尾根に近い所で山道は二つに分かれる。分岐点には道祖神が祀られ道標石が置かれ,右手に進めば「落合」「宇土金」の集落に下る小径,左手に進めば河津町の「谷津」「縄地」に下りることが出来た。左手の道は茅が生い茂る山の尾根をとおり,伊豆大島,利島,新島,敷根島,神津島が眺望できる。ここ茅の採草地は部落共有のもので,年に一回火入れをし,茅葺屋根や炭俵の材料,牛餌採草用に管理されていた(春先には蕨がよく採れた)。

 

尾根から小道を転がるように下れば,そこは直ぐ河津町「谷津」の集落で,河津の浜は目の前にある。今でも,この谷間の集落には古い寺(南禅寺)があり,谷津温泉がある(当時,温泉熱を活用した製塩工場があった)。河津川に突き当たる道路を右に折れると河津八幡神社があり,この境内には河津三郎が力試しに使ったと言われる手玉石がある(河津三郎力石の像には双葉山書の題字が刻まれている。ちなみに,相撲の決まり手の一つ「河津掛け」は河津三郎が使った決まり手に由来するという)

 

祖母に連れられ河津浜に貝拾いに来たときは,いつもこの神社に立ち寄り,力持ち河津三郎の話を聞かされた。「お前も,力持ちになれ・・・」と言うことだったのだろう。

 

さて,河津三郎祐泰とは何者か? 日本三大仇討物語の一つとして知られる「曽我物語」の主人公曽我兄弟(五郎時政,十郎祐成)の父である。バスガイドは赤沢に近づくと必ず曽我兄弟仇討の一節を語るが,ここでは詳細はやめよう。今回触れたいのは,この「谷津」は平安時代の末頃に河津氏の館があった(谷津館の内)場所と言うことである。館は河津三郎の父伊東祐親が建てたもので,北条政子の母や曽我兄弟がこの館で生まれている。

 

河津は昔から温泉場として知られる。谷津温泉のほかにも,河津川の少し上流には峰温泉(大噴湯が見られる),更に上流には湯ケ野温泉(伊豆の踊子で知られる),大滝温泉・七滝温泉(河津七滝「かわづななだる」で知られる。水が垂れるから転じて滝をダルと呼ぶ)がある。

 子供の頃の話に戻れば,河津浜や今井浜で遊んだ帰りは峰温泉から細い小路を上って,下田街道の「峰隧道」近くに出て,「逆川」集落を経て「坂戸」に戻るというコースをとることが多かった。バスが来たら途中まで乗って,来なければ歩く。

山を抜ける「古道」が懐かしいが,いま山道は「竹の侵食」に遭い,道筋をたどるのも難しい。「山の荒廃が洪水の原因にもなっている」と痛切に感じさせる状況にある。

ところで近年,河津は早咲きの「河津桜」で有名である。1月下旬から2月にかけてピンクから濃い紅色の花をつける。伊豆急「河津駅」すぐ近くの河津川両岸に桜並木が3km続いていて,多くの観光客が訪れる。河津町役場のホームページによれば,この桜は1955年河津町田中の飯田勝美氏(小峰)が原木を偶然発見したことが始まりで,その後の学術調査で新種と認め1974年に「カワヅサクラ」と命名されたという。オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑種と推定されている。原木を見つけ,苗を増やし,桜並木を育てた,多くの先人の努力とロマンは,河津花物語として将来きっと語り継がれることだろう。

さらに花と言えば,河津はカーネーション栽培が盛んな里でもある。

花を愛で,温泉に浸かり,海の幸山の幸を味わい,自然と歴史を探訪する,これこそ伊豆の歩き方古道の整備が望まれる・・・。

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