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詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ(旅の記録-バルパライソ)

2012-03-25 17:17:53 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

ネルーダの別荘(現在博物館)を訪れる

カストロとともにキューバ革命を成し遂げ,革命の時代を駆け抜けたヒューマニスト,エルネスト・ゲバラ。彼に関する著作は多い。その中の一冊,「チエ・ゲバラの遥かな旅(戸井十月著,集英社)」には,パブロ・ネルーダの詩が7か所引用されている。

最初は,アルゼンチンのロサリオで生まれたゲバラが,コルドバで中等教育を受けていた頃,スペイン内戦をテーマにしたネルーダの詩に深い感銘を受け心酔する件で。二回目は,アルベルト・グラナダスとの南米旅行の途中,チリ北部のチュキカマタ銅山でアメリカ資本による収益収奪の状況を目の当たりにしたとき。三回目は,この旅の途中マチュピチュの遺跡に立った折に。

 

四回目の引用は,革命に揺れるボリビアで民衆のエネルギーを体に感じながら。五回目は,グアテマラで「ユナイテッド・フルーツ社」が広大な土地,鉄道,港湾,船舶,電信電話を占有している状況に触れ,アメリカ資本に甘い蜜を吸い取られ枯渇してゆくガテマラをみた時。六回目は,キューバでアメリカによる国交断絶,爆撃を受けた時。七回目は,ボリビアでのゲリラ戦で捕虜になった最終場面においてである。

 

著者は,ゲバラの人生の節目にネルーダの詩を配し,ネルーダの詩が革命家ゲバラの気持ちを支えていたことを述べたかったのだろう。事実,ゲバラ自身もネルーダの影響を受けた詩を作っている。ネルーダの詩がゲバラの夢を勇気づけていたことに間違いあるまい。

 

さて,そのパブロ・ネルーダは1904年生まれ,ゲバラより24歳上である。ネルーダは,チリの国民的英雄であり詩人であり外交官であった。1934年外交官としてスペインに赴任したときスペイン内戦に遭い,人民戦線を支援。1945年上院議員。1948年共産党が非合法化されたためイタリアへ亡命。1970年アジェンデ社会主義政権の下で駐仏大使。1971年ノーベル文学賞。1972年ガンを発病しチリに帰国。1973年ピノチエットのクーデターでアジェンデ政権が滅ぶと,軍事政権により家を壊滅的に破壊されている。クーデター後危篤状態で病院に向かう途中,軍の検問で救急車から引きずり出され,病院に着いたときは死亡していたとされる(20115月になって,チリ共産党は「毒殺」の疑いありとして控訴裁判所へ告訴状を提出した)。

 

ネルーダは,ファシズムに対して,詩をもってヒューマニズムを訴え続け,身をもって抵抗した英雄詩人と称される。ノーベル文学賞の受賞理由に「一国の運命と多くの人々の夢に生気を与える源泉となった,力強い詩的作品に対して文学賞を贈る」と述べられているという。彼の詩には,比喩のうまさが卓越してみられ,自然の美しさが詠われている。

 

2007年,チリのバルパライソ,ベジャビスタの丘にあるネルーダの別荘(現在博物館,写真)を訪れた。5階建ての建物には,書斎,寝室,居間などがそのまま残されており,窓からは港が眺められる。入り口にはハカランダの花が咲いていた。詩集を抱えた旅人,老夫婦などが,しばしの時を過ごしている。映画「郵便配達人」の舞台として使われたので,その場面を大事に思い出しているのかもしれない。ゲバラの夢を支えたネルーダの詩を口ずさんでみるのも良い。

 

バルパライソはチリの首都サンチアゴから120km,バスの本数も多いので日帰り可能。もう一度訪れたい町である(写真)。

 

 

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