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南米チリに渡った最初の日本人(旅の記録-バルパライソ)

2012-04-07 10:54:40 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

チリの首都サンチアゴ・ターミナルから,68号線に沿って山並みを眺めながらバスに揺られること約2時間,バルパライソに着く。この町はサンチアゴに次ぐ第二の都市であるが,ターミナルやその周辺の店舗は南米独特の雑然さが漂よい,旅行者も自然と溶け込める雰囲気がある。

案内書によれば,バルパライソは歴史ある都で,サンチアゴの海の玄関としての役割を果たしてきた。現在も漁業と貿易が盛んである。1991年には国会議事堂がこの地に移され,2003年には街全体がユネスコ世界遺産に登録された。港周辺とセントロだけが平地で,それらを取り囲むように丘が迫っている。その中腹にも家々が張り付いている。絵になる街だ。

ターミナル前の公衆トイレで用を済ませ,同行者と相談する。

「何処へ行こうか?」

「何も計画していなかったの?」

「いや,そう言うわけでもない。じゃあ,近くの国会議事堂を見て,港までブラブラ歩こう。途中で,アセソールを使い丘に登って,「青空美術館」を見よう。港に着く頃,ちょっと遅い昼食だ」

「歩ける距離なの?」

3km位とガイドブックにある。疲れたらタクシーを拾えばいいさ」

チリ国会議事堂をオイギンス広場から眺めて,ペドロ・モン通りを進み,バルパライソ教会のあるビクトリア広場で休憩する。公園の木陰ではチエスを楽しむ老人たち,子供用のレンタル自転車屋が見える。

近くのアセソールで丘に上る。小さな年代物のゴンドラが,ガタゴトとゆっくり上がって行く。ちょうど老婦人と子供が乗り合わせた。

高台から街を見下ろす。トタンを張った屋根や壁は色とりどりに彩色されている。モルタルの壁にはペンキ画が描かれている。チリを代表する作家の習作もあるという。良い眺めだ。写真に収める。旅人を対象にした小物を売る店がいくつかあり,覗いてみる。

「帰りは,歩いて下りよう」

綴れ織りの石段を下り始める。小さな家々が小径に面している。決して裕福とは言えない町並みで,崖の中腹に張り付くように建っている。窓辺に鉢植えの植物が飾られ,洗濯物が干してある。婦人たちの話し声が聞こえる。

「スプレーの落書きが多い。何を考えているのだろう」

「何処の国の落書きも,よく似ている感じだね。同じ人が書いたわけでもないのに」

「おやおや,犬の糞が多い。気をつけて」

「ブエノス・アイレスのエビータが眠るレコレータ墓地の周りと同じだね。野良犬が多いのか,飼い主のモラルの問題か,日本は大分良くなったけど」

セントロに下りて港を目指す。コンデル通りから,エストレラーダ通り,プラト通りを進む。壁は黒ずんでいるが,彫刻で装飾された建物が歴史を感じさせる。

「排気ガスがすごいね」

「古い車が多いし,ビルの谷間だからね」

「まだ着かないの?」

「ちょっと聞いてみよう。ペルミッソ・セニョール,ドンデ・エスタ・・・パラ・イル・ア・・・」

「グラシアス・セニョール,ムイ・アマブレ・・・その先を右折した所だって・・・」

ソトマジョール広場からプラト埠頭に出て,港が眺められるレストランに入る。かなり混雑していたが席を確保できた。魚のムニエルとセルベッサを注文する。港では荷物の積み下ろし中の貨物船,観光遊覧船が停泊している。遠くに軍艦が数隻。ここは軍港でもあるのだ。

 

チリに上陸した最初の日本人を知っているかい?」

ジョン万次郎がバルパライソに立ち寄ったと聞いたことがあるわ。この港なのね」

「それは,1850年(嘉永34月のことだ。ただ,子孫の中浜博は万次郎が寄港したのはバルパライソでなく,南部のタルカウアノ港であったと訂正しているがね。これより8年前の1842年(天保13)頃,メキシコからチリへ渡った3人の漂流民がいたらしいと,熊田忠雄は書いているよ」

「どんな話なの?」

「播磨の商船栄寿丸が1841年(天保12)房総沖で難破し,100日以上漂流していたところをスペインの密貿易船エンサヨ号に救助され,船中で働かされていたが,カリフォルニア半島先端のサン・ルーカス岬に着いたのちに逃亡を図り,カリフォルニア湾に面するマサトラン(9人)とグアイマス(4人)で暮らしていたということだ。この内グアイアスにいた3人(南部出身の善蔵,明石の岩松,能登の勘次郎)が,いつのまにか姿を消したという。暫くしてからメキシコの仲間へ手紙が届き,メキシコから海路50日ほど南の「ハチバラエ」で家庭を持って暮らしていると書いてあったそうだ」

「それがバルパライソなの?」

「その後メキシコから帰国した乗組員が幕府役人の取り調べに「ワキバライン」「ワギパライソ」と答えている。多分バルパライソのことだろう・・・と書いている」(熊田忠雄「そこに日本人がいた」新潮文庫

「江戸時代のことなのね」

さらにその後日談があって,チリ政府の1875年(明治8)国勢調査に,サンチアゴ北方の町ユキンボに一人,サンチアゴ南方の町タルカに一人の日本人が住んでいるとの記録が初めて出てくる。名前も年齢も記録にないが,先のバルパライソに落ち着いたうちの二人かも知れないという」

「鎖国時代だから,祖国に帰ることも出来ず,この地で暮らすことにしたのね」

「バルパライソ(天国のような谷)というだけあって,住みやすそうな町だね」

難破→漂流→奴隷(労働者)としてメキシコにたどり着き,その後チリやペルーに移動し,南米に暮らすことになった日本人が存在しただろうことは想像に難くない。170年前,人知れずこの地バルパライソに暮らしていた日本人は何を考えていたのだろうか。太平洋に沈む赤い夕陽に望郷の思いが募ったに違いない。

その後,日本がチリと国交を樹立するのは1987年(明治30)。硝石ブームに沸くチリへ一攫千金を夢見て渡った人も多かったと思われる。ブラジル,ペルー,パラグアイなど農業移民を積極的に受け入れた国と違って,チリは個人の意思に基づく自由移民であった。そんな中で,太田長三(東洋汽船),仙田平助(千田紹介)らはチリ在住邦人の先駆けとして名前が知られている。

     

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