豆の育種のマメな話

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(3)恵庭神社遥拝所跡、イザリブト番屋/船着き場

2023-10-08 09:59:47 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭「川の玄関口」
9月30日、「えにわ学」講座で久しぶりに漁太を訪れた。遥拝所の前を通る道路が改修変更され境内を通るようになったため、遥拝所敷地は減反され石碑の場所も変わっている。本項資料の写真は改修前のもので広々としているが、現状は異なる。このように、歴史遺産は少しずつ変遷してゆくものかもしれない。

なお、このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。今回は「恵庭神社遥拝所、イザリブト番屋/船着き場址」(恵庭市林田)。

イザリブトは、江戸時代に番屋・船着き場が置かれ、明治の開拓時代にも交通の要所として賑わった、言わば恵庭「川の玄関口」。加賀・越中・能登から入植した人々は周辺の湿地・荒地を開拓し、現在の漁太・林田地区を肥沃な農耕地に換えました。彼らは此処に神社を祀り、恵庭神社遥拝所としていたのだ。

場所は、漁川が千歳川に合流する地点。恵庭から川沿大通りを下流に進み漁川の「南12号橋」の近く。河川は改修が進み直線化しているが、旧河川は大きく蛇行していた。恵庭市教育委員会は新旧の地図を重ね合わせ、松浦武四郎が再興蝦夷日誌に残した絵図の場所を推定しています(説明板が建っている)。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)松浦武四郎

松浦武四郎は江戸末期の探検家、伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残しています。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職でしたが、思うようにならず途中で職を辞しています。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在するそうです。

恵庭市内では、平成30年(2018)恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」(大町)前庭に、「松浦武四郎の歌碑」~蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや~(西蝦夷日誌1858)が建立されました。

(2)松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846から

武四郎は、第二回蝦夷地探索で千歳川を遡り、イザリブトの記録を残しています。

(解読文)・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし・・・

・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・

         

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-3恵庭の神社・仏閣・教会堂 」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した恵庭神社)、同2015.2.3(恵庭開拓期以前の神社 弁天社・稲荷神社)、同2015.4.8(イザリブト番屋・船着場と恵庭神社遥拝所跡の碑)、同2018.11.4(恵庭に建立された松浦武四郎歌碑)、同2019.1.14(恵庭と松浦武四郎)、4)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022

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