豆の育種のマメな話

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(2)中恵庭出張所 周辺

2023-10-06 18:04:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭村道路元標は朽ち果てるのか?

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「中恵庭出張所」(恵庭市中央)周辺。

明治、大正、昭和(第二次世界大戦後まで)時代、この地は恵庭行政の中心地でした。今は静かな佇まいですが、84年間にわたり恵庭村役場(町役場)があったところ。つい最近まで交番、郵便局、農協、消防署などもありました。

場所は、前項の恵庭開拓記念公園から漁川を渡り、漁川と川沿大通に挟まれた地域。ここで是非ご覧頂きたいのが「恵庭村道路元標」。恵庭市民の方も多くが存在を知らないと思いますし、恐らく見つけることも出来ないでしょう。道路脇の生垣(櫟)の陰に隠れています。

その他にも「漁共同用水記念碑」「忠魂碑」「六地蔵」など見どころがあり、川沿大通の「恵庭神社」「拓土農魂之碑」「天融寺」へも足を延ばすことが出来ます。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)戸長役場から村役場へ

恵庭市の母体となる漁村と島松村は、かつて千歳郡千歳村外五か村戸長役場に属していました(ほかに千歳村・長都村・蘭越村・ウサクマナイ村)。明治30年(1897)に千歳郡戸長役場から独立して「漁村外一か村戸長役場」となり、明治39年には恵庭村が誕生し、

「恵庭村役場」となりました。庁舎が中恵庭に置かれたのは、漁地区と島松地区の強い誘致争いの妥協案だったと言われています。

明治43年に原因不明の火災で役場が全焼して戸籍簿など全てが消失するなど恵庭の貴重な資料も消えてしまいました。火災原因は設置場所を巡る怨恨説、泥棒による放火説など囁かれたそうですが、原因不明で操作は打ち切られました。

なお、町役場(市役所)が現在の京町へ移転したのは時が流れて昭和27年(1982)のことです。

(2)道路標識

江戸時代には各街道に日本橋を起点とした「一里塚」がありました。明治政府は明治6年、各府県に「里程元標」を置くことを定めます。北海道里程元標は札幌創成橋の近くにあります(H23復元)。札幌本道(室蘭街道)では、島松沢に「六里標」、江別恵庭線が札幌本道に交わる地点に「七里標」、山崎製パンの辺りに「八里標」がありました(現在その痕跡はありませんが古地図で確認できます)。

大正6年に旧道路法が制定されると、各市町村に道路元表を置くことになります。札幌市道路元標は道庁赤レンガ庁舎正門前、「恵庭村道路元標」は中恵庭の役場前に置かれました。戦後になり現行道路法が制定され市町村道路元標は無用となりましたので処分され、残っている道路元標は多くありません。歴史遺産として保護している市町村もありますが、「恵庭村道路元標」は朽ち果てる寸前です。

札幌本道(室蘭街道)の「里程標」を復元し、「恵庭村道路元標」と併せ保全したら「恵庭まち遺産」となりませんかね・・・。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.11.16(開拓を支えた治水事業-共同用水記念碑)、同2014.12.9(日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔-忠魂碑)、同2014.12.11(朽ち果てるのか-恵庭村道路元標)、同2014.12.15(路傍に祀られるお地蔵さん-地蔵菩薩)、同2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した-恵庭神社)、同2022.8.18(室蘭街道の七里標・八里標と恵庭村道路元標)、4)恵庭昭和史研究会「百年100話」1997、5)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022

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