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恵庭の教会-2,ローマ教皇を頂点に抱く 「カトリック恵庭教会」

2015-04-17 08:58:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭市史(昭54)に掲載されているもう一つの教会は,「カトリック札幌司教恵庭教会」である。同誌の1,143ページには僅か3行,「本教会は昭和四十八年七月二十日,駒場町に岡藤広造から境内地の寄付を受け,教会聖堂,司祭館を建設,伝道に当って今日に至っている」とあるが,その後どうなっているのだろう? 何処にあるのだろう?

  

2.カトリック恵庭教会

所在地は恵庭市駒場町5丁目,JR恵庭駅の南方向1.8km,徒歩だと25~30分かかる。恵庭公園大通りから,ユカンボシ川河畔公園彫刻広場に向かう道路を進むと分かり易いかも知れない。住宅地の中にあるが,十字架と礼拝堂のレリーフが教会を印象付けている(写真は2015年3月撮影)。教会堂名は聖ヨセフ,カトリック札幌司教区に属するカトリック系の教会である。市街地であるが,教会内に駐車場スペースは確保されている。昭和48年(1973),駒場町に岡藤広造から境内地の寄付を受け,教会聖堂と司祭館を建設して伝道にあたった「カトリック札幌司教恵庭教会」が前身である。

カトリック札幌司教区のHP(2015.4.11)によれば,同教会の司祭は現在James J Mylet司祭(メリノール宗教会)とある。日曜日9時から主日のミサが行われている。なお,カトリック教会では,主の降誕(クリスマス,12月25日),復活の主日(復活祭,春分の日後の最初の満月後の主日),主の公現(1月2日~8日の間の主日),主の昇天(復活節第7主日),聖霊降誕の主日(復活の主日後50日目),聖母の被昇天(8月15日),諸聖人(11月1日)などが主な祝祭日とされる。

◇カトリック教会

なお,カトリック教会はローマ教皇を中心として,全世界に12億人以上の信徒を有すると言われるキリスト教最大の教派である。総本山は,バチカン市国のカトリック教会で,サン・ピエトロ大聖堂はよく知られている。ローマ教皇はバチカンに居住する(現在はフランシスコ教皇,先代ベネデイクト十六世,先々代ヨハネ・パウロ二世)。

カトリック教会の特徴は,ローマ教皇に使徒ペトロの後継者として絶対的な権力を集中した点であろう。教皇(使徒ペトロの後継者と位置づけ,カトリック教会の総代表者。全カトリック教会の裁治権と統治権を持つ),枢機教団(教皇の顧問団。教皇庁で働く高位聖職者や重要な司教区の司教から任命される),司教(教区の責任者として教区内の教会を統治する,キリストの代理者),司祭・助祭(司教を補助する)から成るピラミッド型組織で形成されている。更に,修道会組織があり,清貧・貞潔・従順の誓願を立て,祈りや修行に専念するほか,教育,福祉,医療など諸活動を行っている。

16世紀には,権力と手を結んだ教会体質の腐敗が進んだことから宗教改革が起き,プロテスタントが生まれた歴史を有する。その後は内部改革が進み,イエズス会のような世界宣教ミッションの活躍もあり,現在では多くの信徒を抱えている。かつて(1982年),イギリスとアルゼンチンが争った「フォークランド紛争(マルビナス戦争)」で,終戦の労をとれるのは教皇しかいないのではないかと囁かれていたことを思い出す。

◇日本におけるカトリック教会の歴史

日本における歴史を振り返ってみよう。

フランシスコ・ザビエル渡来と宣教:わが国におけるカトリックの宣教は天文18年(1549),イエズス会員聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来によって始まった。当時,イエズス会の他にもフランシスコ会,ドミニコ会,アウグスチノ会など会員が来日し布教に努めた。慶長9年(1614)には,信徒数が65万人を超えたと言われる。

禁教の時代:天正15年(1587)豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ,迫害が続いた。

再宣教開始:安政4年(1857)鎖国令が解除されると領事館付き司祭が来日,横浜に初めて教会が建てられた(1862)。また,長崎の大浦天主堂も建設された(1865)。

信教の自由と教会の発展:明治22年(1889)帝国憲法発布により信教の自由が確保され,各地に教会が建設された。同時に,修道会が招待され,学校,病院などの事業を進める傍ら宣教が行われた。

ローマ教皇庁との関係:第二次世界大戦後に,バチカンから大司教の任命派遣がなされた。

邦人機卿の誕生:昭和35年(1960)土井大司教がローマ教皇より日本人初の枢機卿に任じられた。

16教区3管区時代:現在わが国のカトリック教会は16教区に分かれ,それぞれ教区長には日本人司教が任命されている。

◇日本カトリック教会の現勢

ところで,カトリック教会の現勢はどのようなものか? カトリック中央協議会「カトリック教会現勢2013」によれば,全国信者数は447,719人(人口の0.35%,長崎が4.3%と多い),教会数(集会所を含む)は991,修道院が819,教育施設(幼稚園から大学まで)847,司祭(司教を含む)1,409人,助祭45人,聖職者1,454人,修道士177人,修道女5,303人となっている。

◇カトリック札幌司教区

カトリック札幌司教区は司教館及び教区事務所を札幌市北1条東6丁目においている。司教(札幌司教区の代表)が在籍する「北一条教会」が司教座聖堂である。現在の司教はベルナルド勝谷太治被選司教,ほか地主敏夫名誉司教及び17名の司祭を擁する。また,各地の宣教会や修道会・他教区で働く司祭は,フランシスコ会,パリ外国宣教会,メリノール宣教会,マリア会,厳律シート会,イエズス会,韓国護政府教区等から派遣されている。

例えば,トラピスト修道院(厳律シート会)や十勝カルメン修道院(カルメン修道会)は,クッキーやジャムなどを販売しているので観光客にも知られている。また,修道会・宣教会活動による北海道内教育機関は,光星中学・高校(マリア会),ラ・サール中学・高校(ラ・サール会),白百合学園(聖パウロ修道女会),藤女子大(フランシスコ修道会),聖心女子学院(聖心会),天使大学・幼稚園(フランシスコ会)等で,数が多い。

参照:恵庭市史(昭和54),日本カトリック中央協議会HP,カトリック札幌司教区HP


恵庭の教会-1,恵庭で最初に活動を始めた 「日本キリスト教団島松伝道所」

2015-04-15 09:43:20 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭のキリスト教伝道施設(教会)

恵庭市街を歩いていると,キリスト教会(伝道施設)を見掛けることがある。「キリスト教伝道は恵庭開拓史の中でどう位置づけられるのか?」「現在,どのような宣教活動が行われているのか?」と,疑問が過ぎった。当然のことながら,神道や仏教と異なる位置づけにあるはずだ。

まず,恵庭市史(昭54)を紐解く。恵庭市史によると,恵庭市にキリスト教伝道施設が出来たのは,昭和29年(1954)の「日本キリスト教団島松伝道所」が嚆矢とされる。本伝道所は昭和29年5月に開設,伝道のかたわら幼児教育を始めたとされる。さらに,市史には昭和48年(1973)開設の「カトリック札幌司教区恵庭協会」が記載されている。恵庭市史の発刊が昭和54年(1979)であるから,この頃のキリスト教伝道施設は恵庭に二つ存在した(二つしか無かった)と言えるだろう。

さて,現在はどうなっているのか? 訪ねてみよう。

1.日本キリスト教団島松伝道所

島松本通と道道600号線の交差点の角地に一つの教会がある。看板には「日本キリスト教団島松伝道所」とある。所在地は恵庭市島松東町,JR島松駅の南南東方向600m,徒歩で10分ほどの距離である。三角屋根の上に白い十字架を抱き,礼拝堂は時代を感じさせる質素な建造物である。礼拝堂につながる庭は手狭な感じがするが,建物周辺の木々は大きく繁っている。伝道所が開設された当時に植えられたものだろう(写真は2015年3月撮影)。

恵庭市史(昭54)には,「昭和29年島松伝道所を開設,昭和33年に礼拝堂が完成,昭和34年には献堂式が行われ,初代牧師は青柳剛,二代牧師は土橋修」とある。また,本伝道所HPでも,昭和29年(1954)島松伝道所開設とあることから,この年に初めて礼拝堂が島松に置かれたと考えてよいだろう。

しかし当然のことながら,恵庭におけるキリスト教伝道は,それ以前に動き出していた。北一条教会員であった信徒が牧場地区で酪農を始めたのは1930年代,1950年代に入ると同地域の酪農家が千歳栄光教会で受洗している。また,桜森地区に入植した満州開拓者の中にキリスト教徒がいて,礼拝堂設立の機運があったことが記録されている。

◇島松伝道所の概要

教派:日本キリスト教団(プロテスタント系)

歴代牧師:岸本貞治(千歳栄光教会牧師1954),青柳剛(1955就任),土橋修(1974就任),池田隆夫(代務者1986),滝口孝(1987就任),後宮敬爾(代務者1990),浅野純(1991就任),辻中徹也・明子(1996就任)

歴史

昭和29年(1954):島松伝道所開設(茅葺屋根の礼拝堂),付属ナザレ幼稚園開園

昭和35年(1960):会堂献堂

昭和55年(1980):苫小牧地区共同牧会で牧師館を建築

昭和59年(1984):ナザレ幼稚園閉園

昭和62年(1987):「障害者と共にある教会形成」スタート

平成12年(2000):浦河伝道所との共同研究開始「弱さを元手に,けじめなく」

平成17年(2005):教会建築献金開始

平成18年(2006):地元農家の野菜を通信販売する「しままつ野菜だより」開始

平成19年(2007):「木の教会コンサート」開始

平成20年(2008):礼拝堂改修

平成21年(2009):油絵教室,ゴスペルクワイア活動開始

平成23年(2011):牧師館建築のための隣接地購入

平成24年(2012):「弱さを元手に,“ひだまり”はじめます」スタート

本教会では,主日礼拝,祈祷会,うどん食堂,家庭集会,油絵教室,ゴスペルクワイア,当事者研究,当事者研究カフェひだまり等の活動が行われている。福祉,子育て,趣味などの集まりを通じて,キリストの教えを学ぼうとしているのだろう。

なお,日本キリスト教団は,昭和16年(1941)に日本国内のプロテスタント33派が教派合同して教団となった組織であるが,その後昭和26年(1951)には日本キリスト教会や日本福音ルーテル教会などが離脱し,日本組合基督協会,メソジスト協会などが残留した歴史をもつ。日本キリスト教団はプロテスタント系合同教会派に分類されると言う。

参照:恵庭市史(昭和54),日本キリスト教団島松伝道所HP

 

◆キリスト教の教派

ところで,キリスト教は信徒の数でみると世界最大の宗教と言われる(キリスト教徒は世界人口の32~33%,イスラム教徒18~19%,ヒンズー教徒13%,仏教徒6%と推定される)。因みに,わが国の宗教統計調査(文科省)ではキリスト教徒300万人とある。しかし,この調査では神道系1億700万人,仏教系8,900万人となっていて,日本総人口の2倍にも達してしまうことから鑑みるに,わが国キリスト教徒は総人口の2~3%程度と推定されようか。

また,キリスト教は教派が多いことで知られる。長い歴史と世界中に宣教が行われたため,時代や地域(国)で教派教会が設立され,合同や離脱が繰り返された経緯がある。解説書はあるが,流れは複雑で分かり難い。しかし,仏教では宗派により主経典が異なり独自な形態も生まれているが,キリスト教ではどの教派も聖書を経典にしているので根本的な差異はないとも言われる(聖書以外の経典を掲げる宗派は異端とされる)。私たちが常識的に知りうるのは,カトリック,プロテスタント,正教会という三つの大きな流れがあり,プロテスタントは西欧や北米で優勢,カトリックは東欧や南米で優勢,正教会は東欧や南東欧で優勢であるなど地理的な特徴があるということ程度だ。また,日本の歴史に登場するフランシスコ・ザビエル(イエズス会)はカトリック系の男子修道会であったこと,このイエズス会は世界中に宣教活動を行い南米に理想郷を建設した歴史があること,などを知っている人も居られるだろう。

分かり難いキリスト教派の流れであるが,以下のような体系に分類されると言う。これも,一例に過ぎないが・・・。

1東方教会

1-1正教会(ギリシャ正教,東方正教会)

1-2東方諸教会(非カルケドン派,アッシリア東方教会など)

1-3その他東方系教会

2西方教会

2-1カトリック(カトリック教会,独立カトリック教会)

2-2伝統系諸派

2-3聖公会(アングリカン・チャーチ,分離聖公会)

2-4プロテスタント

2-4-1初期プロテスタント

2-4-2ルター派(ルーテル教会)

2-4-3改革派教会・長老派教会

2-4-4メソジスト系(メソジスト教会,ホーリネス教会)

2-4-5ペンテコステ派

2-4-6バプテスト派

2-4-7プロテスタント諸派(会衆派・組合教会など)

2-4-8プロテスタント合同教会(日本キリスト教団など)

2-5その他宗教改革派(クエーカーなど)

2-6アナバプテスト(再洗礼派)

3その他の教派

3-1歴史的に異端とされた教派

3-2新宗教系


恵庭の彫像-14,大安寺山門に立つ 「金剛力士像」

2015-04-13 11:10:36 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

仏像を「恵庭の彫像」に含めるか否か,少し躊躇したが,今回紹介する金剛力士像は鑑賞に値すると思い掲載する。

◆曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺山門の金剛力士像(仁王像)

恵庭市大町町4丁目,曹洞宗永平寺派天瑞山大安寺,山門に金剛力士像(仁王像)が立っている(写真は平成24年12月5日撮影)。像容は上半身裸形で,筋骨隆々の木彫である。門に向って右の阿形像(あぎょう,開口の像)は怒りの表情を顕わにし,左の吽形像(うんぎょう,口を結んだ像)は怒りを内に秘めた表情をしている。手に持っているのは金剛杵(こんごうしょ)で,仏敵を退散させる武器だと言う。

日本の寺院では,二体が一対となって山門に安置される事例が多い。即ち,金剛杵を持って仏法を守護する金剛力士が,大力をもって悪魔を降伏させる姿で,寺院内に仏敵が入るのを防いでいる。仁王,金剛手,金剛神などの呼び方がある。

現存する大安寺山門は,当寺の開創百年を記念して建立された。山門脇の「大安寺開創百年記念山門建立特別寄進者御芳名」碑には,昭和63年6月,四世應香積大和尚(押見香積 師),総代表小玉運吉(五代),副総代中村梅吉,檜物谷清一,渡邊由次,以下寄進者の氏名が記されている。この金剛力士像も開創百年を記念して建立されたのだろう。

住職に,「何方の作ですか(仏師のお名前は?)」と尋ねたが,「分からない」との回答であった。建立当時の関係者に伺えば分かるかもしれないが,未だ情報を得ていない。ご存知の檀徒の方が居られたら,情報提供を願いたい。

写真からも作品の素晴らしさを理解できようが,抑制のきいた表情ながら逞しく,圧倒されるような作品だ。大事に保管してほしい恵庭の仏像の一つと言える。

 

恵庭には,もう一つ金剛力士像がある。それは,高野山真言宗派金毘羅山弘隆寺の門柱に置かれている。

◆弘隆寺の「金剛力士像」

高野山真言宗派金毘羅山弘隆寺の山門に「金剛力士像」が建っている(写真は平成24年12月5日撮影)。こちらは木彫ではない。前者に比べると,少し小型で大仰な姿である。門柱の裏には,平成二十一年十一月吉日,田中佑子寄贈のプレートが填め込まれている。

  


恵庭の碑-11,イザリブト番屋・船着場と 「恵庭神社遥拝所跡」の碑

2015-04-08 17:39:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

 

11. 恵庭神社遥拝所跡の碑

恵庭市林田地区,漁川の南十二号橋近くに「恵庭神社遥拝所跡」の碑がある(因みに「遥拝」とは,遠く隔たった所から拝むこと)。碑は平成8年(1996)11月に建立された新しいもので,碑の背面には「宮司本間明夫,総代表浅野重雄,副別所鉄夫,会計塚田惣松ほか,村本國治,田畑政雄,平野栄作,佐藤勇生,金田忠夫」の名前が刻まれている。

碑が置かれている境内地には,鳥居と古い一対の石灯籠が残されている。灯籠は,明治40年(1907)6月加越能開耕株式会社専務取締役林清一,取締役寿原重太郎,同大野九平,監査役林五郎平,同能嶋正次郎が献納したとある。かつて,この地区の開拓に入った加越能開耕株式会社の人々が祀っていたと推察できる。

一方,恵庭における神社の記録は,弘化3年(1846)松浦武四郎「再航蝦夷日記」の記録が初出で「イザリブトに弁天社あり」とある。また,明治元年(1868)の太政官「神仏判然令」では,この地に「稲荷の祠」があったと記録されている。

さらに,この地域に移住してきた加越能開耕社を中心とする,加賀,越中,能登の人々は,明治26年(1874)西三線南十五号の漁川堤防地に神籬を祀り,明治28年(1876)には漁村十七号の堤防地に祠を建立して郷里において尊崇していた神明,稲荷,春日の三社の祭神を奉斎し,春日神社と称している。この春日神社は,大正5年(1916)西三線南十九号に移され,大正10年(1921)には漁村612番地(現在地,恵庭中央)に社殿を改築した。そして,大正13年(1924)漁太にあった旧稲荷神社と,西三線南十四号にあった赤タモ神社(明治38年赤タモの樹を神木として祀った)を合祀し恵庭神社と改称創建を申請,昭和2年(1927)に認可されている。

この流れから推察すると,「恵庭神社遥拝所跡」は江戸時代から明治時代にかけて弁天社,稲荷神社として祀られ,大正13年(1924)に現在地の恵庭神社へ合祀された後は恵庭神社遥拝所として祀られていたのではあるまいか。そして現在,「恵庭神社遥拝所跡」の碑として姿を留めている。

ところで,この地帯は漁川が千歳川に合流する場所で,江戸時代には「番屋」が置かれ,明治期から昭和初期にかけて「船着場」があった場所である。番屋は,北方警備を重視し東蝦夷地を直轄地とした幕府が,文化4年(1807)この地に番屋を設置して官吏を置き交易を行うとともに,宿舎や漁業が行える施設として利用したものである。また,船着場は明治期から昭和初期にかけて,開拓民の移住や農産物の出荷など,恵庭の玄関口として重要な役割を果たした場所でもある。

◇イザリブト番屋と船着場

恵庭神社遥拝所跡境内に「イザリブト番屋と船着場」の説明板がある。内容は,松浦武四郎「再航蝦夷日誌」に描かれた「イザリブト番屋の図」がこの地点であることを説明したもので,平成18年9月に範囲の特定を行った旨記されている。改修される前の千歳川は蛇行し漁川と合流しているが,船着場を置くのに絶好の場所であったのだろう。恵庭から千歳にかけて低地湿地帯が広がっており,当時の交通手段が河川を利用していたことを考えれば,此処は交通・産業・文化の拠点,玄関口であったと言えよう(写真は2015.4.6,4.7撮影)。

今は,整備された堤防と河川敷が拡がるのみで,番屋と船着場の面影を残すような痕跡を見つけることは出来ない。また,周辺に目をやれば,開拓当初の湿原や曠野を想像するのも困難な拓かれた沃地となっている。訪れたのは4月の上旬,融雪後の秋播小麦は緑に映えていたが,堤防に立つと頬を打つ風はまだ冷たかった。

この場所が,恵庭開拓の歴史遺産として整備され,市民の記憶に残る場所になることを期待する。

(図は,説明板から転写)

参照:恵庭市史(昭和54),説明板「イザリブト番屋と船着場」,恵庭昭和史研究会「百年100話」(平成9)


恵庭の寺-10,どうなる? 平成の 「お寺さん」

2015-04-02 16:20:34 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

散歩がてらに訪れた恵庭市内の寺は9寺を数える。それらは,①天融寺(真宗大谷派),②大安寺(曹洞宗),③本誓寺(浄土真宗本願寺派),④敬念寺(浄土真宗本願寺派),⑤島松寺(真宗大谷派),⑥弘隆寺(高野山真言宗),⑦日勝寺(法華宗真門流),⑧妙正寺(日蓮宗),⑨紫雲台宝林寺等である(参照:本ブログ,恵庭の寺1-9)。その他にも,仏教布教のための宗教施設は数か所あるが,本ブログでは恵庭開拓と共に歩んだ寺院を対象としたので,比較的近年に成立した新宗教や新興宗教についてはここでは触れない。

ところで,恵庭市内の寺でも分かるように,日本仏教には様々な宗派が存在する。「釈迦の教え」に対する解釈の違いなどから宗派を興し,分派独立や統合を繰り返した歴史があるのだ。「十八宗」「13宗56派」などの言葉があるように,数ある宗派の統合整理が行われたが,伝統的な13宗の系譜は現代まで引き継がれている。前項までに各宗派の特徴については述べたので,ここでは系譜を概観しておこう。

◆日本仏教宗派の系譜

1.奈良仏教系(南都六宗系)

1-1華厳宗:本山は東大寺

1-2法相宗:開祖は道昭,本山は興福寺・薬師寺

1-3律宗:開祖は鑑真,本山は唐招提寺

2.平安仏教系(密教系)

 2-1真言宗(東密):開祖は空海

 2-2天台宗(台密,法華円宗):開祖は最澄,本山は比叡山延暦寺

3.鎌倉仏教法華系(法華系)

 3-1日蓮宗:開祖は日蓮,祖山は身延山久遠寺

4.鎌倉仏教浄土系(浄土系)

 4-1浄土宗:開祖は法然

 4-2浄土真宗(真宗,一向宗):開祖は親鸞

 4-3融通念仏宗(大念仏宗):開祖は良忍

 4-4時宗:開祖は一遍

5.鎌倉仏教禅系(禅宗系)

 5-1曹洞宗:開祖は道元

 5-2臨済宗:開祖は栄西ら

 5-3黄檗宗(旧臨済宗黄檗派):開祖は隠元,本山は黄檗山万福寺

宗教年鑑などの記載によると,わが国仏教徒の数は8,470万人。大半は,いわゆる鎌倉仏教(鎌倉時代に発生した宗派)に属しており,中でも浄土宗・浄土真宗系と日蓮宗系の宗派が多いと言われる。一方,北海道における寺院の数は,浄土真宗系43%,禅宗系21%,日蓮宗系15%,真言宗系12%,浄土宗系7%,天台宗系1%の割合であり,この比率は北海道開拓の歴史に関連があると言われる(参照:永幡豊2013「北海道における仏教寺院の分布について」)。

◆日本仏教の歴史的概観

仏教を理解するためには,仏教がわが国で歩んだ道を知る必要があろう。と言うことで,歴史を振り返ってみる。

1.仏教伝来(飛鳥時代)から国家鎮護のための仏教へ(奈良時代)

仏教が伝来すると(538年),信仰の可否に対する論議が沸き起こり争いが続いたが,次第に仏教を国家鎮護の手段としようとする考えが優勢になり,奈良時代に入ると天皇自らが寺を建てるまでに至った。例えば,聖武天皇は国分寺の建造を命じ東大寺に大仏を建立し,出家して上皇となり鑑真から戒を授かっている。「南都六宗」と呼ばれた宗派が大勢を極めた時代であった。

2.奈良の旧仏教に対峙するための密教(平安時代)

その後,これら寺院は政治に口を出すようになる。桓武天皇は寺院の影響力を弱めようと平安京に遷都して,空海と最澄を遣唐使と共に中国に送り密教を学ばせ,旧奈良仏教に対抗させようとした。空海と最澄は帰国後,天台宗(比叡山)と真言宗(高野山)を開き布教につとめた。これ等は,日本仏教の礎となるものである。

釈迦入滅の二千年後にあたる平安中期には末法の世が始まったと考えられ,来世の幸せを願う浄土信仰が流行する。そして平安時代末期には,社会不安が増大し,大寺院は僧兵を抱えて武力行使を行う有様であった。

3.民衆救済のための宗教へ(鎌倉時代)

鎌倉時代に入ると仏教にも変革の波が訪れる。それまで国家(鎮護国家)や貴族のための仏教であったが,次第に民衆救済のためのものに変わって行く。即ち,「専修念仏(南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで救われる)」「専修題目(南無妙法蓮華経とお題目を唱えることで救われる)」「専修禅(座禅により悟りを開く)」など易しい教えが特徴であり,主として比叡山で学んだ僧侶たちによって新しい宗派(浄土宗,臨済宗,浄土真宗,曹洞宗,日蓮宗等わが国独自の仏教宗派)が作られたのである。また,禅宗(臨済宗と曹洞宗)が栄西と道元によって中国からもたらされると,武士階級に好まれ多くの寺院が建設されることになる。

その後の室町時代には仏教文化が花開いたが,戦国時代に入ると治安の悪化と共に寺院も武力を強めた。織田信長や豊臣秀吉は,宗教勢力に対抗する手段を余儀なくされる状況に至ったのである。

4.「寺院諸法度」で統治(江戸時代)

徳川家康は寺院諸法度を制定し,寺社奉行を置いて仏教を取り締まった。さらに,民衆に寺請を強制(寺請制度)し,全ての人々は仏教徒としていずれかの寺に登録され(檀家制度),僧侶の布教活動は実質的に封じられた。即ち,檀家が寺院や僧侶に係る費用を負担し,寺が檀家の戸籍を管理するシステムが構築されたのである。このため,僧侶は経済的な安定を得た一方で,檀徒獲得など布教に努めることも出来なくなった。この制度がもたらしたものは,現在まで続く檀家制度であり,いわゆる葬式仏教と揶揄される事始めと言えなくもない。

5.神道重視から「宗教団体法」の制定へ(明治から昭和初期)

明治維新後の政府は神道重視の政策をとり,廃仏毀釈が行われ寺院数は減少した。各宗派は近代化を進め,教育活動や社会福祉活動にも進出するようになる。

昭和14年(1939)になって漸く「宗教団体法」が制定され,宗教団体は法人となり法的地位を得たが,この法律は統制色の強いものであった。

6.「宗教法人法」の制定以降(昭和中後期から現代まで)

第二次世界大戦後,昭和20年(1945)宗教法人令が制定され宗教団体への規制が撤廃され,昭和26年(1951)に認証制を導入した宗教法人法(法律126号)が施行された。信教の自由を尊重し,宗教団体に法人格を与えるものである(その後オウム真理教事件を契機に平成7年一部改正がなされている)。

この法律の目的として,第一条には「この法律は,宗教団体が,礼拝の施設その他の財産を所有し,これを維持運用し,その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため,宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする」とあり,第二項には「憲法で保障された信教の自由は,すべての国政において尊重されなければならない。従って,この法律のいかなる規定も,個人,集団又は団体が,その保障された自由に基いて,教義をひろめ,儀式行事を行い,その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない」と定められている。

認証制の宗教法人法施行は,新興宗教を生む背景ともなっている。

◆平成のお寺さん

平成の時代,檀家制度は現存するものの,時代の変化に伴い転換期を迎えているようにも思える。家族の在りようが「家」から「個」に変わり,檀家を引き継ぐはずの子供たちも故郷から遠く離れて暮らす現実がある。さらには,少子化に拍車がかかり,檀家制度の維持も難しくなっている。

一方,信仰心が淡泊になり,祖先を敬い先祖の霊を弔う日常の習慣も薄れ,親の葬儀になって初めて「家の宗派は何だっけ?」と言うような状態になっている。葬儀にしても「家族葬」や「お別れの会」で済ませ,葬式不要と考える人までいる。葬式仏教と言われたことさえ,過去の事象になりかねない。檀家制度に依存する小さな寺は経営状況が悪化し,存続させ危ぶまれている。

さて,地域に開かれ,持続可能な寺はどうあるべきだろう? 

宗教行事,法話や幼児教育は勿論大事だが(檀家制度を維持しながらも),宗派に関わらず,市民や観光客が自由に参拝できる寺,歴史や文化を発信できる寺,境内で子供らが遊べる寺,年寄りが集まれる寺,孤独な老人や若者が悩みを相談できる寺等々,地域住民に開かれた寺へと変革が必要だと考えるが,如何だろう・・・。其処では,狂信的でなく,他宗教の存在も容認するような緩やかな宗教心を拠り所にしなければならない。

宗教に寛容を求めると,課題は人々の心に跳ね返ってくる。経済優先思考に侵された平成の民は,喜捨の心(団体組織が定める強制的寄付行為を喜捨としない)を忘れてしまっているようだから。さあ,どうする? どうなる?


恵庭の寺-9,紫雲台孝子堂宝物館で知られる 「紫雲山宝林寺」

2015-03-27 13:38:37 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭市史(昭和54)には,前回までに訪れた寺院(本ブログ,恵庭の寺-1から8)の他に,「紫雲山宝林寺」が掲載されている。インターネットで検索すると,「紫雲山」ではなく「紫雲台宝林寺」と呼ばれ(宗教法人),むしろ「紫雲台孝子堂宝物館」として名前が知られているようだ。恵庭の仏教施設一覧(Wikipedia2015/3/22)にも,「宝林寺」でなく「紫雲台孝子堂宝物館」名で記載されている。

宝物館の名前は,かつてJR恵庭駅のホームで見たような記憶がある。気にはなっていたが,これまで訪れたことがなかった。思い立って,車を駆った。

 

9.紫雲山宝林寺(しうんざんほうりんじ),単立(無宗派)

所在地は恵庭市柏木。JR恵庭駅の西方向2.8km(JR恵み野駅の南西方向ほぼ同距離),恵庭市エコバスを利用すれば「セイコーマート文京店前」が最も近い停留所。茂漁川河川緑地を経て,茂漁川対岸の上流に位置する。バス停から約1km,徒歩15分程の距離にあるが,分かりにくい。訪れるには自家用車が便利だ。恵庭柏木通りの文京町3丁目信号から西側(恵庭中学校の筋向い)に入り,左手に盤尻用水記念碑を見てしばらく進むと,「紫雲山孝子堂宝物館」の案内標識がある。

山門を入ると桜並木があり,左手は茂漁川が流れる。正面には二階建ての建物(二階が本堂,一階が宝物館になっている)があり,江別産のレンガ造りが印象に残る。歴史を感じさせる建造物だ。この建物の脇を抜けて,裏の小高い山に参道が続いている(写真は2015.3.21撮影)。

この寺は,昭和33年(1958)林茂栄が円鑑不味禅師の開山命名を得て,島松村柏木611-12に紫雲台孝子堂と仮称して発足したことに始まる。昭和35年(1960)に宗教法人として登記,紫雲山宝林寺と呼んだ。資料には単立(無宗派)とあるが,宝林寺でお尋ねしたところ「曹洞宗系」だと言う。

開山にあたった林茂榮は,その頃東京日日新聞(現在の毎日新聞)に勤め横浜在住であったが,故郷に残した両親を思い孝子堂の建設をこの地に企画したという。建築に携わったのは弟の林佐一郎(恵庭在住)で,大工の棟梁や村人の協力も得て落成を見ている。建材は朱鞠内からも搬入し,煉瓦は江別産に拘ったと言う。

訪れたのは春の彼岸の頃であったが,参道には残雪があり,宝物館もまだ開館していなかった。冬季は休館し,雪解けを待って4月以降に開館するのだと言う。なお,宝物館参観には前日までの電話予約が必要とある。

境内には桜並木がある。花の咲く頃,訪れたら素晴らしいことだろう。歴史的文化遺産も是非鑑賞したいものだ。

◆紫雲山宝林寺の概要

所在地:恵庭市柏木

本尊: 阿弥陀如来

開創・開山:昭和33年,林茂栄

主管者(代表役員):林茂栄(初代),林輝栄(二代),林富子(三代)

沿革(歴史)

昭和33年(1958)8月:円鑑不味禅師の開山命名を得て,紫雲山宝林寺という。紫雲台孝子堂と仮称して発足(島松村柏木611-12)。

昭和35年(1960)7月:宗教法人として登記。私財を投じて本堂及び宝物館を建設。

なお,「孝子堂宝物館の仏像と宝物」は林茂栄が永年にわたり私財を投じて収集した品である。恵庭市史には,以下の17点の「仏像並びに宝物」が記載されている。①阿弥陀如来像(円仁慈覚大師作),②阿弥陀如来像(日蓮上人開眼快慶作),③仙台伊達陸奥守所領道中槍穂,④蜂須賀阿波守所領大鎧,⑤刀剣(貞宗,則重,則吉,同田貫,虎徹,国重,忠広,重国,信秀など)⑥鼎銅鐸,⑦天童寺青磁大皿(宗竜泉窯),⑧浮牡丹天目釉大壺(銘大黒殿),⑨絵高麗黒花大壺(銘雲上),⑩古代青磁耳付薬壺(越洲窯),⑪須恵器大壺(銘大雲),⑫漢の瓦壺(銘雲上),⑬伊満里錦平蘭紋大皿,⑭伊満里錦平大皿,⑮粟田焼大壺(仁清絵付酒井抱一),⑯呂宋茶壺(絵本蓮花王),⑰鎧具足(肥前島原城主松平主殿所用)

歴史が浅い恵庭にも文化遺産があることは嬉しい。これら仏像や宝物の管理にはご苦労が多いと推察されるが,是非,大事に維持されることを期待したい。

参照:恵庭市史(昭和54),恵庭ロケーション推進の会DVD「紫雲台宝林寺孝子堂宝物館」(平27)

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

 


恵庭の寺-8,日蓮宗の寺 「龍王山妙正寺」

2015-03-26 11:41:10 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

漁村と島松村を合せて「恵庭村」が発足した頃(明治39年),我が国は日清戦争及び日露戦争が終わり高揚した時代に入っていた。その高揚感は大正時代も続いたが(第一次世界大戦による景気浮揚もあった),大正12年には関東大震災,昭和時代に入ると一転して世界恐慌・昭和恐慌が起こり,我が国は満州事変へと突入する。そして,我が国は第二次世界大戦,太平洋戦争へと転がり始める。

このような時代背景のなか,恵庭村に日蓮宗の法務所(日蓮宗恵庭説教所,現・妙正寺)が開設された。昭和4年のことであった。

龍王山妙正寺を訪れた。

 

8.龍王山妙正寺(りゅうおうざんみょうしょうじ),日蓮宗

所在地は恵庭市桜町2丁目。地図で所在地を確認し,恵庭駅通りを南西に桜町地区まで進むのが分かりやすい。JR恵庭駅の南西1.3km,徒歩で20分弱の距離にある。近くに市営住宅桜町団地があるが,寺院はやや高台に位置するのでよく目立つ。

山門は,右に「日蓮宗」左に「妙正寺」と彫られた門柱で,その脇には「南無妙法蓮華経,龍王山妙正寺」の碑が建っている。山門を入ると駐車スペースがあり,正面に本堂が配置されているが,その寺院建築の姿は朝陽に映え荘厳でさえあった。訪れたのは春の彼岸中日(春分の日)で,彼岸会に参詣する信者で賑わっていた(写真は2015.3.21撮影)。

この寺は,昭和4年(1929)に藤岡智龍師が日蓮宗広宣寺法務所を設置したことに始まる(広宣寺は由仁町にある日蓮宗の寺)。翌年の昭和5年(1930)には日蓮宗恵庭説教所と公称し,昭和10年(1935)に日蓮宗恵庭説教所設置許可を得て布教に努めた。当時の信徒総代は,杉本熊次郎,菊澤源兵衛,島田清一郎とある。

第二次世界大戦後の昭和28年(1953)に宗教法人妙正寺の設立登記がなされ,現在に至っている。

◆龍王山「妙正寺」の概要

所在地:恵庭市桜町2丁目

祖山:身延山久遠寺(山梨県身延町)

本尊:日蓮上人尊定の大曼荼羅

開創:昭和4年

歴代住職:藤岡智龍(初代),藤岡智淨(二世),藤岡智祥(三世),藤岡智旭(四世)

沿革(歴史)

昭和4年(1929)4月:藤岡智龍師,日蓮宗広宣寺法務所を設置。

昭和5年(1930)10月:日蓮宗恵庭説教所と公称。

昭和10年(1935)2月:日蓮宗恵庭説教所設置許可を得る(昭和9年8月,恵庭村大字漁村8-30,桜町に設置許可を申請)。

昭和28年(1953)3月:宗教法人妙正寺の設立登記。

昭和50年(1975)11月:本堂,庫裏を改築完成。

参照:恵庭市史(昭和54)

 

◆日蓮宗

デジタル大辞典(小学館)によれば,日蓮宗「仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依とし,南妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ,折伏・摂受の二門を立て,現実における仏国土建設をめざす。のち,分派を形成。法華宗」とある。

宗祖(開山):日蓮聖人(1222-1282)

本尊:久遠寺には日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたものがある。

総本山(祖山):身延山久遠寺(山梨県身延町)

経典:法華経

題目:南無妙法蓮華経

教義:「法華経」(来世でなく現世の生き方を問う)こそ,混迷した世の人々を救う「お釈迦様の真の教え」であると説く。自らの幸せを願うより,まず社会の安穏を願うべきである。お題目「南無妙法蓮華経」を口に出して唱えることで,己の中の仏心を呼び現し,誰もが仏になることが出来るとする。「南無」とは一心に仏を信じる事,「妙法蓮華経」とは釈迦が説いた知恵と慈悲の功徳を意味し,法華経に帰依することを念じる行為である。日蓮宗ポータルサイトでは「合掌の心を世界へ,未来へ」と謳っている。

日蓮宗は全国に5,000の寺院があり,信徒は300万人と言われている。本仏の位置づけ,妙法蓮華経の解釈から分派(門流)・合流を繰り返した歴史がある。その流れは複雑で素人には理解できない。現在,門下連合会を結成しているのは,法華宗本門流,顕本法華宗,法華宗陣門流,本門佛立宗,法華宗真門流,国柱会,日本山妙法寺,日蓮本宗,本門法華宗,京都門下連合会である。

現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山,霊跡寺院,由緒寺院,一般寺院に分けられているが,総本山・大本山・本山の称号も用いられている。なお,教育分野では,立正大学,身延山大学などが知られる。

日蓮宗宗定法要式に定めた作法には,線香の本数1本もしくは3本,焼香の回数3回(導師や特別な役割の僧侶)または1回(前記以外の僧侶及び檀信徒),手順は「合掌・一礼」~「焼香」~「合掌・一礼」とある。

なお,日蓮宗ポータルサイトには,恵庭市にある日蓮宗寺院として妙正寺と妙輝結社(北柏木町)が掲載されている。

参照:日蓮宗ポータルサイトほか

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-7,恵庭開拓時代に役割を果たした 「日勝寺」(法華宗真門流)

2015-03-25 17:03:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭開拓の歴史の中で,神社仏閣が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。そして,時代の流れの中で新たに布教が始まる施設もあれば,諸般の事情で統合や廃寺を余儀なくされる場合もあるだろう。

今回の恵庭の寺を訪ねるシリーズで,所在が分からなかった寺がある。インターネットで「日勝寺」を検索すると,JR島松駅の西側にあることになっている。地図を頼りに2回訪れたが,寺院らしき建造物を見つけることが出来なかった。その場所は,かつて西島松(地区名)であったが,現在は寿町と呼ばれる市街地である。地元の老人に訪ねたが「知らない」と言う。

住所番地を確認すると,どうやら方向違いであったようだ。西島松はかなり広い地域に広がっている。3月下旬のある日,所在地表記の場所に行ってみると,確かにありました。寺の風情は既になく,畑の一隅に荒れ果てた空間があり,かつて本堂であったらしき祠が残っている。周辺にロープが張られ,「日勝寺」の標識と立ち入り禁止の札(連絡先も)があった。雑草が大きく伸び放題になっている。そう言えば,ここには小さな森と堂宇があったような気がする。二十年前の記憶が蘇った(写真は2015.3.25撮影)。

  

法華宗真門流.日勝寺(にっしょうじ)

所在地は恵庭市西島松。恵庭市恵み野団地(恵み野北)の西側,団地環状通が北海道々600号島松千歳線に交差する一画である。島松共同用水記念碑の道路挟んで反対側にあたる。本堂であったのか小さな祠が面影を残すのみで,畑の一隅と思える状況にある。JR島松駅から南東1.1km,徒歩16分ほどの距離にある。

恵庭市史(昭和54)によると,日勝寺は「本妙法華集日勝寺」と記載され,「大正4年(1915)10月総代坂上留五郎の発願で,同年6月11日付允許を得た教会所の創立に始まる」とある。大正6年(1917)に日勝寺の寺号公称が許可され,昭和2年(1927)に島松村西五線二十二号に移転,昭和28年(1953)に宗教法人寺号認証がなされた。

その後,当寺は札幌市中央区の日泰寺(法華宗真門流)住職,安井勝龍,勝仁師が兼務する状態が続き,現在は安井勝久師(五世)が住職となっている(栗沢町勝泉寺住職を兼ねる)。年間行事としては春彼岸会,盂蘭盆会,秋彼岸会,御会式を催行とある。ただし,日勝寺の登記住所に礼拝できる空間や庫裏等は既になく,小さな祠が残っているのみで,住職が常駐しているわけでもない。日泰寺に伺うと,本年(平成27)夏ごろまでに札幌の日泰寺に合併する計画だと言う。

この寺は,恵庭の開拓歴史の中で役割を終えた寺院と言うことになろうか。

◆日勝寺の概要

所在地:恵庭市西島松

本寺:本隆寺

本尊:日蓮上人尊定の大曼荼羅

開創:大正4年

歴代住職:林勝道(勝道院日健上人,初代),林恵正(二世),安井勝龍(勝龍院日浄上人,三世),安井勝仁(勝仁院日研上人,四世),安井勝久(五世)

沿革(歴史)

大正4年(1915)6月:認可を得て教会所を創立(同年4月,坂上留五郎の発願)。

大正6年(1917)11月:寺号公称が許可される(日勝寺)。島松村字茂漁63(西四線西二一号)に本堂,庫裏を建設。

大正11年(1922):檀信徒一同から敷地の寄進をうける。

昭和2年(1927)3月:島松村西五線二十二号(現在地)に移転,本堂,庫裏等を増築。

昭和28年(1953)4月:宗教法人寺号認証が行われた。

参照:恵庭市史(昭和54)ほか

◆法華宗真門流

日蓮を高祖とし,日真(1444-1528)を派祖とする,日蓮宗(法華宗)門下の一派。

開祖:日真大和尚(祖承は,釈尊―日蓮―日像―日真とされる)。長享2年(1488)に妙顕寺を出て,四条大宮に本隆寺を開創。

本仏:釈迦牟尼世尊

総本山:本隆寺(京都市西陣,慧光無量山本妙興隆寺と号し,略して慧光山本隆寺という)。なお,福井県下に三本山(鯖江市妙法蓮華経山平等会寺,越前市智光山本興寺,小浜市恵光山本境寺)を有する。

経典:妙法蓮華経

題目:「南無妙法蓮華経」「本果実証」

教義・目的:お題目の修業によって世界平和を目指すとある。日蓮宗の教義は,「法華経」(来世でなく現世の生き方を問う)こそ,混迷した世の人々を救う「お釈迦様の真の教え」であるとする。即ち,「現世安穏・後生善処」,「現世は穏やかに,後世は善い所に生まれる」よう,祈りの生活の日々を送ることが重要なのだと説く。自らの幸せを願うより,まず社会の安穏を願うべきであるとする。

お題目「南無妙法蓮華経」を口に出して唱えることで,己の中の仏心を呼び現し,誰もが仏になることが出来るとする。「南無」とは一心に仏を信じる事,「妙法蓮華経」とは釈迦が説いた知恵と慈悲の功徳を意味し,法華経に帰依することを念じる。

なお,法華宗真門流HPの全国寺院名簿によると,北海道には真門流寺院が28寺ある。

参照:法華宗真門流HP(2015/3/23)など

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-6,弘法大師を祀る寺 「金毘羅山弘隆寺」(高野山真言宗派)

2015-03-15 15:52:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭における開拓移住が後半に入った頃(大正から昭和の初期であるが),浄土真宗や禅宗以外の寺院(例えば,真言宗,日蓮宗,法華宗など)が次々と創建されている。移住当初は浄土真宗信仰者が多い山口や北陸地方,禅宗が優越していた東北地方出身者が多かったが,その後,全国各地からの移住が進み定住人口が増加するにつれ,2宗派以外の寺院も必要になったと言うことだろう。

高野山真言宗派の金毘羅山弘隆寺も大正時代の布教から始まる。

  

6.金毘羅山弘隆寺(こんぴらさんこうりゅうじ),高野山真言宗派

所在地は,恵庭市文京町4丁目。JR恵庭駅の西方向1.7km,徒歩で25分ほどの距離にある。恵南柏木通の美咲野2丁目と文京町4丁目の交差点(信号)から,北東方向へ向かう道路を入った所と説明した方が分かりやすいかも知れない。

この寺は,大正8年(1919)秋山宥猛師が本尊を金毘羅大権現として布教を始めたのが金毘羅寺始まりとされる。恵庭市史には「小樽市古義真言宗高野派金毘羅大本院住職秋山宥猛師が,恵庭村大字漁村453番地に千歳郡説教所設置願を提出」とあることから,小樽市金毘羅大本院と弘隆寺を兼務する形であったのだろう。なお,秋山宥猛和尚は明治41年(1908)に倶知安町にある金毘羅寺をも建立している(金毘羅寺開基和尚)。布教に熱心な僧侶だったのだろう。

その後弘隆寺は,昭和3年(1928)に説教所の認可を受け,昭和10年(1935)漁村472番地(文京町)への移転,昭和40年(1965)宗教法人千歳教会の認証認可,昭和48年(1973)弘隆寺の寺号認可を得て,現在に至っている。

山門の門柱には金剛力士像が置かれ,境内には桜の木が数本植えられている。正面には金毘羅大権現を祀る本堂があり,本堂の左手には八十八ヶ所地蔵尊,馬頭観音菩薩の碑,愛玩動物畜生道解脱の碑などが建立されている。参詣に訪れる人も多いようだ。本堂前のユルキャラ「こうやくん」が,今風に参詣者を迎えている(写真は2014.12.5撮影)。

弘隆寺のHPによると,年中行事として,元朝祈願会並びに供養会(新年を迎える零時刻),節分会,彼岸会(春秋),新四国八十八ヶ所山開き・山納め法会(年2回),愛玩動物供養・馬頭観音菩薩会(年2回),弘法大師正御影供養・降誕会・仏生会・成道会,孟蘭盆施餓鬼会・塔婆供養会,諸祈願などが施行されている。

この寺では,「葬儀・諸供養」のほか,「諸祈願」にも幅広く対応している。祈願に重きを置くのは,この寺がいわゆる密教の流れを汲む宗派だからだろう。即ち,空海の真言宗系の密教(東密)で,大日如来を本尊とする深遠秘密の教えであり,加持,祈祷を重んじることによる。「三密」と言う言葉がある。即ち,身密(手に諸尊の印相を結ぶ),口密(口に真言を読誦する),心密(心に曼荼羅を観想する)の修業により,大日如来と一体となり,即身成仏が可能となるとの教えである。

◆金毘羅山弘隆寺の概要

所在地:恵庭市文京町4丁目

本寺:高野山金剛峰寺

本尊:金毘羅大権現(弘法大師・波切不動明王)

住職:秋山宥猛(初代,小樽),山本隆親(二代),○○(三代,倶知安金毘羅寺住職兼務),秋山有洋(四代)

沿革(歴史)

大正8年(1919)5月:本尊を金毘羅大権現とし,布教を始める。

昭和3年(1928)7月:千歳郡説教所の設置が認可される(同年4月小樽市古義真言宗高野派金毘羅大本院住職秋山宥猛師が,恵庭村大字漁村453番地に設置願を提出)。建物を建設し布教につとめる。

昭和10年(1935)9月:漁村472番地(文京町)への移転認可を受け,建物を建設(なお旧建物は昭和6年火災により焼失)。

昭和16年(1941)3月:真言宗千歳教会と改称。

昭和40年(1965)3月:宗教法人千歳教会の認証許可を得る。

昭和48年(1973)9月:弘隆寺の寺号公称が許可される。

参照:恵庭市史,弘隆寺HP

  

◆2016年改築建立なった金毘羅山弘隆寺

 

◆高野山真言宗

高野山真言宗は,真言宗の宗派の一つである(高野宗,高野派ともいう)。

なお,真言宗は,平安時代(9世紀初頭)に空海(弘法大師)が開いた日本仏教の宗派で,最澄が開いた天台宗とともに「平安仏教」と呼ばれる。いわば,日本仏教の源となる仏教思想である。空海は,長安(唐)の青龍寺で恵果から密教を学び,帰国後に真言宗を開いている。即ち,弘仁7年(816)に高野山金剛峰寺を修禅の道場として開創の勅許を得た。

因みに,宗祖空海は讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の生まれで,仏教者であるほか,思想家,著述家,能書家(三筆と呼ばれた)としても名を残している。

真言宗は日本の仏教宗派の中で最も多く分裂派生していると言われ,その流れは理解できないが,大きく分けると弘法大師の直系的な古義真言宗と,真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)上人の教学を元とした新義真言宗に分けられる。更にそこから多種多様に分裂派生し,現在では主要な門派が18に大別され,「真言宗十八本山」と呼ばれるようになったと言う。

高野山真言宗派は,古義真言宗系の一派で金剛峰寺を総本山としている。属する寺院数は3,000を超え,信徒は約1,000万人と言われる。僧格を細かく定め,寺格も総本山,本山,別院,一般寺院などに分類される。真言宗系の教育機関としては,高野山大学ほか,高校,中学校も数多い。

開山:空海(弘法大師,774-835),弘仁7年(816)開創。現在の座主(管長)は413世。

本尊:大日如来

総本山:高野山金剛峰寺(高野山全体が総本山とされる)

経典:大日経,金剛頂経ほか

教義:即身成仏(この肉身のまま究極の悟りを開き仏となる),密厳国土を教義とする。中心の本尊は宇宙の本体であり,絶対の真理である大日如来である。いわゆる密教は,「大日如来を本尊とする深遠秘密の教え,加持,祈祷を重んじる。空海の真言宗系を東密,最澄の天台宗系を台密とよぶ」(小学館,デジタル大辞典)。

後に,様々な大師信仰が生まれている。例えば「入定信仰」,弘法大師が奥の院に生き続けるとする。例えば「遍路巡拝と同行二人」,八十八か所の遍路修行をすること,我は大師と二人連れなりと考える。例えば「九度山頂石道」,九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道(町石道)を信仰の道と考える,等々である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-5,六線のお寺 「恵庭山島松寺」(真宗大谷派)

2015-03-13 17:40:57 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

北海道では,開拓者たちが故郷で信仰していた宗派の寺院を建立したいとの切々なる思いから,開基された寺院が多い。恵庭市においても例外ではなく,開拓初期には山口県や北陸からの開拓移住者たちが寺院建立を主導している。

北海道への開拓移住は,明治19年(1886)から昭和11年(1936)頃までがピークで,東北6県からの移住者が最も多く289,217戸(41%),次いで北陸4県からが184,064戸(26%)とされる。東北は禅宗(特に曹洞宗)系寺院が多い地域であり,北陸は浄土真宗系が多い地域であるため,北海道における寺院も,浄土真宗系990寺(43%),禅宗系476寺(21%)が多数を占めている。因みに,日蓮宗系336寺(15%),真言宗系265寺(12%),浄土宗系155寺(7%)であると言う。

また,道内で早い時期に開拓された豊穣地域には真宗大谷派が多く,海岸地域では曹洞宗が優占するなど地域差が見られるが,これは移住者の出身地域と移住年次に影響された結果である。いずれにせよ,北海道では浄土真宗系と禅宗(曹洞宗)寺院が優位を分かち合っている(参照:永幡豊2013「北海道における仏教寺院の分布について」地理学論集88-1)。

恵庭では,浄土真宗系(大谷派と本願寺派)寺院が4寺を数え最も多い。これらの寺院は開拓初期にあたる明治20年代が開創で,恵庭の開拓が山口県と富山・福井・石川県など北陸出身者の団体移住で始まったことを如実に物語っている。

今回も,開拓民と共に歩んできた寺院を訪ねる。住民から「六線のお寺」と呼ばれた恵庭山島松寺である。

  

5.恵庭山島松寺(えにわさんとうしょうじ),真宗大谷派

所在地は恵庭市下島松。JR島松駅からは北東の方向にあたる。島松市街をはずれて六線道路に面し,周辺に畑が広がる地域だ。道道46号江別恵庭線やJR千歳線からは本田記念病院が目印になるかも知れない。道道46号江別恵庭線から入ると,本田記念病院を過ぎ,ルルマップ川を越えたところにある。JR島松駅からは1.5km,徒歩で18分の距離である。

この寺は,明治30年(1897)廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立したことに始まる。明治33年(1900)には,美濃国の西照寺から吉田了貫師を迎え,明治37年(1904)に本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与され,明治39年(1906)に寺号公称認可を得て,恵庭山島松寺と称すことになった。開基和尚了貫師は信徒からの信頼厚く,盤尻に説教場を開くなど布教に努めた。了貫師は書画にも秀でており,師の作品が多数残されている。

火災による災害もあったが,檀信徒らの尽力により再建を果たしている。また,昭和36年(1961)から本堂を解放して季節保育を開始するなど,幼児教育にも力を注いだ(保育園は平成7年閉園)。三世堂守吉田顕子,四世住職吉田法純師のご苦労は多かったことであろう。平成9年(1997)には,開教百年記念慶讃法要・式典を挙行している。

境内に入ると,正面に本堂,左手に「親鸞聖人御像」がある(写真は2014.12.4撮影)。この親鸞像は平成8年9月鷲田清が寄進したもので,標板には「鷲田清氏は明治三十二年二月十五日福井県坂井郷に生まれる。八歳の時父仁作に伴われ来道,江別を経て明治四十一年盤尻に入植,苦難の少年時代を過ごし成人を向迎う。剛健実直な人柄で衆望を荷負って村会議員に当選,以来五期二十年に渉り市政発展に尽くした。又法義相続の念厚く島松寺代表役員として寺門発展の為盡力,納骨堂や本堂の建設委員長として今日の島松寺の礎を築いた功績は大なるものがある。恵庭市名誉市民,勲六等単光旭日章をはじめ数々の表彰を受けている。島松寺四世住職釈法院記す」とある。なお,父の鷲田仁作は,かつて相撲界に身を置いた「實勇」である(盤尻に記念碑がある)。

平成九年九月中川貞男寄進による「開教百年記念本願相続,島松寺第四世釈法純書」の石碑がある。開教百年を記念して建立された。

◆恵庭山島松寺の概要

所在地:恵庭市下島松

本寺:真宗本廟(東本願寺)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治30年

開基:(金山大恵,桂樹義教)吉田了貫

歴代住職:吉田了貫(開基),吉田究(二世),吉田純正(三世),住職代務者吉田顕子(三世坊守),吉田法純(四世),吉田敦史

沿革(歴史)

明治30年(1897)5月:廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立。

明治31年(1898)9月:金山大恵師(近江国法雲寺住職に赴任)に替わり桂樹義教師となる。

明治33年(1900)10月:桂樹義教師(同年9月新十津川村に転出)に替わり,美濃国西照寺から吉田了貫師が継承。

明治37年(1904)10月:本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与される。

明治39年(1906)3月:寺号公称認可(同38年出願)を得て,恵庭山島松寺と称す。了貫師盤尻に説教場を開き,後に岐阜出身の林空真が布教のかたわら寺小屋を開く(鷲田政太郎が建物を寄進)。盤尻分教場の創設により林空真は教師に任命され,説教所は吉田俊恩師が継いだ。盤尻説教場は大正2年廃止。

明治40年(1907):山口権六から境内地の寄進を受け(西七線十八号),同年11月に本堂,向拝,庫裏等の落成を見る。

昭和5年(1930):火災によって焼失。同年8月村役場の旧議事堂の払い下げを受け再建。

昭和25年(1950):客殿新築。

昭和36年(1961)4月:本堂を解放し季節保育を開始。

昭和39年(1964):納骨堂建立。

昭和41年(1966):客殿の増築。保育園舎完成(平成7年3月,少子化が進み閉園)。

昭和46年(1971):庫裏改築。

昭和55年(1980)6月:本堂の全面改築(鉄筋コンクリート造り,福井市高木相良設計,勝村建設施工)。

平成9年(1997):開教百年記念慶讃法要・式典。

平成10年(1998):記念誌発刊。

参照:恵庭市史(昭和54),山崎英雄「六線のお寺,島松寺のあゆみ」(昭和57),島松寺開教百年記念誌(平成10)      

◆真宗大谷派(東本願寺)

それでは,真言宗大谷派とは何か? 天融寺の項(本ブログ,恵庭の寺-1,2015.2.21)で触れたように,真宗大谷派は親鸞及び覚如を宗祖とする浄土真宗の宗派の一つである。京都市の真宗本廟(東本願寺)を本山とし,所属寺院数が全国で8,900寺を数える大きな教団である。なお,浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である浄土真宗本願寺派(西本願寺)がある。後者は,龍谷山本願寺(大谷祖廟)を本山とする。信者の皆さんは,前者を「お東さん」,後者を「お西さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1262),第三代覚如(1271-1351)が本願寺の実質的開基とされる。

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:真宗本廟(東本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

各種資料によると,真言宗大谷派の作法は以下のとおりだと言う。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず,戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく布教活動も多岐に亘っている。学校法人,大谷保育協会(全国に500の保育所をもつ)などの実績は,私たちの知るところである。

恵庭市内にある真宗大谷派寺院は,千歳山天融寺(恵庭市上山口)と恵庭山島松寺(恵庭市下島松)である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。